Neetel Inside ニートノベル
表紙

あの世横丁ぎゃんぶる稀譚
09.土御門光明

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          突然だが、土御門光明はクローン人間である。




 べつに大したことではない、今の時代、いろんな理由でクローン人間は実際に産まれている。なに、SFの世界の話だと。何を言っているのか。あんなものは細胞の核から取り出したDNAを卵子にちょこっと入れてやるだけでできるのである。そしてできるとなったらやってしまうのが人間のサガである。法律で規制されていようとバレさえしなければ関係ない。できるとなったら原爆も落とすし月にも飛ぶ。できなければできると信じてなんとかする。それが人間である。
 クローン技術が確立された頃、各地で著名人の墓が暴かれた。なぜか。遺髪等からDNAを採取するためである。所詮は同じ設計図を持っただけの人間ができるだけなのに、まるでクローン技術によって過去の人間が蘇るかのごとき勘違いをした彼ら罰当たりどもは、せっせと土の下から遺髪を掘り起こして適当な母体に過去の寵児たちを出産させた。これを読んでいるあなたも、ひょっとするとものすごいいわくのある遺伝子を持った人なのかもしれない。
 土御門光明も、そういった遺伝子を持つ一人である。もはやお分かりであろう。かの有名な大陰陽師、安倍晴明の遺伝子が、彼の母体となった女性の卵子には組み込まれた。そして土御門光明は2783gの健康な赤ん坊としておぎゃあと生まれた。
 べつになんの記憶も有していない。狐と人の合いの子だったわけでもない。
 しかし、彼の生家は彼に期待し、彼にずっしりと重たい幻影を負わせた。彼はいつも自分の元となった知りもしない人物の逸話を聞かされ、彼が好んだものを喰わされ、彼の好んだ歌を聴かされ、彼の歩んだ人生を追体験させられた。
 無論、確かめるすべはないが、似ていたのだろう。女と見間違うような華奢な身体、白皙の美貌、そして優れた呪術師としての能力。彼はまさに安倍晴明の生まれ変わりとしてこの世に生を受け、それを誰にだろうと納得させうる特性を身に着けた。
 幸せだというか。
 たとえどんなに努力しても、あらかじめそれが決まっていたかのように頷き一つで済まされる彼の日々が。
 恵まれているというか。
 たとえどんな不適格を感じても、そんなはずはないおまえは彼なのだと無理やり好きでもないことをやらされる彼の日常が。
 幸福と不幸の境界線はまどろむばかりだが、それでも土御門光明は鏡を見ていつも思う。
 ――俺はこいつがうっとうしい、と。
 何もかもがこの顔をした別の誰かに横取りされているような気がする。
 どんなに頑張っても何かを得るのは一千年も前に死んだこの顔をした男のような気がする。
 なら、自分に価値はあるのか。自分がここにいるのは、この顔をした知らないやつの人生の補強でしかないのではないか。
 自分は誰かに鑑賞されるためにここにいるのではない。そう自分で思っても、周囲はそうは受け取らない。口ではなんとでも言う。おまえはおまえだとか、ちゃんと光明は光明として見ているよとか、似たようなことを平気でほざく。
 そんな薄っぺらな嘘、たとえ血統書つきでない雑種だろうと察知できる。
 相手の目が、自分を通り越して、背後にいる誰かに向けられている。光明は表面上はどう取り繕っていようとも、心の底の底ではそれが悲しかったし、空しかったし、やるせなかった。
 だから、許婚の話が舞い込んできたときも嬉しいよりも、それこそ歴史オタクみたいな女が「晴明さま! 晴明さまであらせられますか!」などと言って畳に三つ指をつき頭を下げてくるのではないかとまず思った。歴史的人物との結婚。ミーハーなやつにはたまらないステータスだろう。
 ステータス。戸籍上の名前などに意味はなく、これまでの人生をどう歩んできたのかも関係なく、遺伝子の証明書一つで、手に入る栄光と名誉と幸せ。人生の勝ち組。チートプレイヤー。
 いっそ死んでしまおうかとさえ思う。
 光明は許婚が挨拶に来るという日も、自分の部屋の二階の窓にもたれて空を見上げながら、死ぬことばかり考えていた。まだ中学三年生だった光明にとって、結婚相手が決まったというのは、なかなかボディに来るものがあった。しかもその相手は土御門家の遠縁、つまり実際にいたはずの安倍晴明の嫁の血を引いているわけである。相当薄くなっている上に、当の晴明自身の血も混じっているのに、光明の戸籍上の父も母も諸手を挙げての大喜びであった。細かいことはどうでもいいらしい。
 光明の遺伝子の視点からすれば、末裔との結婚になるわけだ。
 ベッドの下にエロ本をしこたま隠している中学三年生にはそんなのは重過ぎる話で、光明が世を儚んで窓から身を投げ出したくなるのも当然といえば当然の流れなのだった。
 窓の外では使用人が中庭の手入れをしている。ホースから巻かれる水が夏の陽光を反射して、光明は目を細める。
 そして使用人がホースを止め、光の奔流が収まり光明が目を瞬かせると、観音開きの門からちょうど正装した和服の夫婦と娘らしい少女が入ってくるところだった。
 光明は百倍の重力に襲われたような速さで床すれすれに身を伏せた。畳に沿わせた胸の奥で心臓がどっくんどっくん言っているのを、どこか冷静な自分が観察していた。
 あれが俺の嫁。
 実感が湧かない。ベッドの下のエロ本が目に入る。近くの公園に捨ててあったのを三時間かけて厳選したS/Mどっちの気分でも対応可能な十二冊。
 そんなものを未来の旦那が隠し持っていることもあの子はちっとも知らないのだ。それなのに、親の命令でいま嫁がされようとしている。結納は光明が十八になってからという段取りだったが、すぐにでもこの家に同棲するらしい。そういえばさっき窓からちらっと見たとき、着物に似合わない旅行用のキャリアケースを転がしていたような気がする。
 気の毒だった。自分が、ではなく、たかだか塩基配列の並びごときと結婚させられるあの子が。
 今からでもキチガイのフリでも一発かましてこの婚約を破談にさせようか。いやそんなことをしても無駄だ。俺には保証書がへばりついている。その保証書は未来永劫剥がれることはなく、そしてそれがある以上、たとえやつらの前で小便を撒き散らしても俺は許される。
 俺の背後にいるやつが、許させる。
 不覚にも涙が滲んだ。
 光明は人前では決して泣かない。一人のときも泣かない。
 だからそのときも一人で歯を食いしばって、浮かんだ涙をなかったことにした。それは何を言っても誰にも何も伝わらないのだと悟ったことのある人間にはよく理解できるだろう、意地だった。
 絶対になんとかしてやる、と威勢よく立ち上がったが、階下から聞こえてくる両親の歓待の声に、へなへなと気持ちが崩れた。
 それでもなんとか、打開策を考えながら、階下に向かった。階段を一歩ずつ下りるたびに心臓の鼓動が活動限界ギリギリまで速まっていく。心なしか気温まで下がっていく。
 ところが下がっていたのは気温ではなく光明の体調の方で、階段を降りる途中で急に視界が暗くなったかと思うと、足元の階段がふっと消失し、ものすごく遠くから鈍い音がして、光明はわけがわからなくなった。誰かが叫ぶ声がして、ずるずると身体が引きずられていくのを、普段の三分の一ぐらいの鮮明度で感じている。これが六分の一ぐらいになると臨死体験というやつになるのだろうとまた頭のどこかで考える。
 布団に寝かされて身体を揺すられる。それはわかるのだが目が開かない。そばで話し合う声もはっきりとしない。水の中にいるように、何もかもがくぐもっている。しばらくそんな心地いい時空を漂っていた。その間ずっとそばに誰かいる気配だけがしていた。
 潮が引くように意識が現実に急速に接近し、目が開いた。
 電灯の明かりを遮って、誰かが自分の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫?」
「ああ……」
「階段から落ちたんだよ。覚えてる?」
「う……ん」
「起きれる? お水飲む?」
「飲む……」
 背中を支えられるようにして身を起こし、グラスの水をこくこく飲んでいると、その冷水の清らかさが脳の中にまで染み込んでくるようだった。何度か強く目を瞑ると、もうすっかり妙な心地は光明の中から去っていた。そして新たにやってきたのは初対面でいきなり階段を踏み外し気絶したことに対する恐るべき羞恥心。まともに少女の顔を見られない。耳が熱い。穴があったら住みたい。
「あの……九連寺桔梗……さん……だよな?」
 少女はにこっと微笑んで、
「うん、そう。えっと……お嫁に、来ました?」
「……なんで疑問形?」
 ボッと少女――桔梗のの顔が赤くなり、グラスの乗っていたお盆で鼻から下を隠してしまった。
「あ、いや、日本語的に合ってるかなって。ほら、なんかこういうのって、もっとちゃんとした言い方があるのかなって」
「いいよそんなの……どうでも」
 言ってから、ちょっと素っ気なさすぎたか、と思ったがもう遅い。一度言った言葉は撤回できない。もっと強い言葉で上書きしない限りは。
「……親父たちは?」
 沈黙に耐え切れずに光明が聞く。桔梗はなぜか慌てて、
「い、居間にいるよ! 呼んでこよっか?」
「いい……」
「そ、そう」
「あのさ」
「は……い?」
「ありがとな。あと悪かった。格好悪いとこ見せて」
 とても目を見てなんか言えなかった。なんの面白みもない壁に向かって光明は謝罪した。しかし、桔梗が何も言わないので、おそるおそる振り向かざるを得なかった。
 桔梗は眩しそうに笑っていた。
「おもしろいね、光明って」
 なんと答えていいかわからず、光明はぷいっとそっぽを向いた。照れ隠しなどしようものなら「何がおもしろいんだよ意味わかんねえあとないきなり光明とか下の名前で呼ぶんじゃねえ馴れ馴れしいぞブス」などと本心とはまったく真逆のセリフが出てくるのがオチである。
「ねえ」
 袖を引っ張られた。
「ちょっと今後の私たちの関係について参考にするための非常に大事な質問があるんだけど……」
 意図せず光明の身体がこわばった。なにやらまじめな話のようだ。
「な、なに?」
「あのね……」
 桔梗が唇を光明の耳元に寄せてくる。吐息が耳たぶにかかる。光明は叫びだしそうになるのをこらえて、耳打ちされるのを待った。
「光明って」
「お、おう」
「――アニメとか、見る?」
 たぶんものすごい形相をしたのだと思う。光明の顔を見た桔梗が真っ青になって飛び退った。
「いや! ごめん! なんでもないから!」
「あの」
「ほんとなんでもないから! 忘れて!」
「見るけど」
「え?」
「いや、見るけど。普通に。六時からのやつとか。あんまたくさんは見てないけど、うちにだってテレビぐらいあるし」
 桔梗は下がったのと同じ速度で戻ってきて、
「深夜は?」
「し、深夜?」
 まさかそっちに話が飛ぶとは思わなかった。飛ぶとしても日曜朝八時半からの魔法少女系のやつだろうと予想していたのだが、深夜アニメ。
 それを見ていると言えばもうオタクのそしりは避けられないタイムラインである。
 正直言ってあんまり光明は興味はなかった。無論見たことなどない。
 しかし、期待と不安でこの世のものとは思えないくらい綺麗な眼になって、自分を見つめている桔梗を裏切りたくはなかった。
 だから、苦肉の策として、
「ものすごーくたまに……見る」
 とても中途半端な嘘を吐いた。
 そして桔梗は馬鹿ではなかった。光明が気を遣ったことなど一発で見抜いたのだろう、親を見失った子供のような顔になった。が、すぐに曇り一つない笑顔を見せて、
「じゃ、今度一緒に見よ?」
 と言ってくれた。
 その手の趣味のない光明相手に自分がしくじったことなどわかっていたはずなのに、そんなことおくびにも出さずに。光明はくだらない嘘を吐いた自分を恥じた。布団の中で拳を握る。強く握る。
 そして、そんなことおくびにも出さずに、そうしようぜ、と答えた。
 それから過ごした日々の中で、桔梗はことあるごとに言っていた。
「わたし、アニメの中の強くて優しくてカッコイイヒーローが好き」
「ふうん。でもそんなの現実にはいねえよ」
「いるよー? わたしが困ったらね、いつでも助けてくれるもん」
「けっ。そう上手くいくもんかよ。くだらねー夢見やがって」
「夢じゃないってばー。絶対いるよー」
 あんまりいないいない言うと「いるよーいるよーいるんだよー」とクッションで殴打されることになるので、言い合いはたいてい光明が折れて終わった。
 桔梗はいつも光明の部屋に自分の家から持ってきた茶色いクッションを抱いて、光明の14インチテレビで録画していたアニメを鑑賞した。
 ぽりぽり柿ピーを食いながらディープでコアな深夜ヒーローアニメを見ている許婚の横顔を見ていると光明はなんだか何を悩んでいても馬鹿を見るだけのような気がして、何も考える気力がなくなる。それがいいことなのか悪いのことなのかはわからない。
 ただ、思う。
 一千年前に生きていた平安時代の貴族さまは、彼女とアニメなんか見なかったろうな、と。

     


 ある日、玄関をくぐって家に帰ると、花柄のマットの上に桔梗が正座しているのに出くわして、光明は思わず声をあげるところだった。家柄の関係で幽霊やら妖怪やらには頻繁にお目にかかるが、それはほとんどあの世でのことである。許婚が罪人のように頭を垂れて玄関先で小さくなっていても動じないタフさは、このときまだ身につけていなかった。
「……光明?」
 桔梗は、なぜかモスグリーンのパジャマの裾を捲り上げていて、その両手足はしっとりと濡れていた。
「なにやってんの、おまえ……怖いんだけど」
「…………。来て」
 襲いかかるように光明の学生服の裾を掴み、桔梗は電灯の点いていない昼下がりの廊下をずんずん進んでいった。光明はわけがわからずされるがままに連れられていった。
 和洋を問わず、絵という絵がアトランダムに貼り付けられた廊下を渡っていった先にあったのは、風呂場だった。いまはガラス戸が閉まっている。どうやら桔梗は風呂掃除の途中だったらしい。
「おまえ今日風邪で学校休んだくせに何働いてんだよ。寝とけよ」
 桔梗は何も言わない。青ざめた横顔を俯けて、魅入られたように脱衣所の床を見つめている。様子がおかしい。
 光明は、
「……風呂場になんかいるのか? ゴキブリでも出たか? でもおまえ虫は平気だっ」
 閉められた戸に手をかけ、
「たじゃねえ」
 静かに、開いた。
「か…………?」
 足元に誰か倒れていた。
 モスグリーンのパジャマを着て、袖を捲り上げた、髪の長い少女が、


「え…………」


 頭から血を流して、倒れていた。
 そばには踏まれでもしたのか、割れた石鹸が石をあしらったタイル床に転がっている。少女の頭部から溢れた血が、石鹸のヒビの隙間に流れ込んで、縁がうっすらと桃色の染まっていて、
 わけがわからなくなった。
 振り返ると桔梗がいた。倒れている桔梗と同じパジャマ。同じ髪型。同じ顔。
 同じ、傷。
 どうして気づかなかったのだろう。いや、いまになって溢れたのか。
 どこか虚ろな表情で立ちすくんでいる桔梗の額からも、血がつうっと伝い、それはやがて壁を渡る雨水のように止まることなく流れ出し、彼女の顔を真っ赤に染めた。赤い赤い顔の中で、見開かれた白目だけが、吐き気がするほど白くて、
「あた、あたし」
「…………」
「お、風呂そう、じ、して、してたら……よろけちゃ……って……」
「……………………」
「そしたら……そしたら……」
「………………………………」


 いつからそこにあったのだろう。
 脱衣籠の中に、光明には見慣れた、あの白い仮面が入っていた。
 それは息が聞こえるほどすぐそばで死者が出た証。
 死者が、自分を忘れて無に帰すための仮面。
 そして、それが現れた以上。
 それが、そこにある以上。
 死者がいるのだ。
 すぐそばに。
 それは、きっと、本当に、
 ぞっとするぐらい、近くに――



 手を取った。
 桔梗がびっくりしたように身を強張らせる。もうそんな身体など、本当はありもしないのに。
 ――そうはさせない。
「助ける」
「……え?」
「死なせない。死ぬはずがない。こんな、こんなくだらないことで――」
「みつ、あき……」
 桔梗の横を通り抜け、風呂場に倒れている桔梗の膝に手を入れて抱きあげる。が、一息で持ち上がらなかった。ぐったりしたその身体は弛緩しきっていて、
 認めない。
「蔵に運ぶぞ」
「え? ……え?」
 答えも聞かずに光明は脱衣所を飛び出した。全力で駆け出したい気持ちをなんとか抑え込み、一刻も早く忌むべき場所から逃れようとした。後から足音がついてくる。
 もし、ここに誰か土御門家以外の人間がいたら、霊感というやつを備えていないものがいたら、それは本当に、ただの足音だったのだろう。
 足音が言う。
「み、光明ちょっと待ってよ。蔵に行ってどうするの?」
「身体が残っていればまだ望みはある。俺はこれから奥多摩の倉橋さんちにいってくる。あそこには古い文献が手付かずで残ってる。それを漁れば何か方法がわかるかもしれない」
「え、で、でも倉橋さんちが保管してるのって……見たりやったりしちゃいけないものなんじゃ……」
「そんなことはどうでもいい。おまえはなにも考えなくていい」
 蔵に辿り着いてから南京錠がかかっていることに気づいた。鍵を取りに母屋に戻るのももどかしく、光明は制服のポケットから式札のデッキを取り出して、一枚抜き取った。それを軽くスナップで南京錠めがけて放ると、札に封じられていた金属で出来た魚が飛び出し、

 ――キィン

 鼻面で南京錠を両断した。ぼとりと真っ二つにされた錠が落ちるのも待たずに光明は扉を開け放った。下ろしていた桔梗の身体を再び抱き上げると、地面に寝かせていたため、髪に土くれがこびりついていた。舌打ちしてそれを払う。
「あ、ありがとう」とそばで見ていた桔梗が言う。
「……。ああ。それよりおまえ、その仮面……」
 光明は桔梗が手に持っている白い仮面と彼女の顔を交互に見て、
「絶対に被るなよ。おまえが死者であることが確定するからな」
「わ、わかった」桔梗はこくんと頷く。
「それとな」光明はぷいっと顔を逸らして、
「顔の血、拭け」
「え、わっ! べっとべと……」
 光明は許婚のまだ暖かい身体を抱え直し、蔵の中に入った。桔梗が背後でわあわあ言いながら顔についた血と格闘しているのを聞いて怖くなる。気を抜くと普段通りの、日常そのままの、桔梗の間の抜けた声。

 もうすぐ、
 そんな声も、
 聞けなく

 認めない。
 蔵の中は入り口からの陽の光で薄暗いながらも視界には困らなかった。埃が分厚く積もっているが、雑然とはしていない。置いてあるのは中華風の赤い塗装がなされた箪笥が多いが、竹で編まれたもの、桐の箱などもある。なんにせよ中身がそのままぶちまけられているようなことはなかった。だが、かえって物資が散乱していてくれた方が初見で発見できたかもしれない。光明は片っ端から箪笥を空けて中を確かめていく。和綴じの本や巻物、高級そうな布、新品同然の見事な食器類。どれも光明の求めているものではない。ふと横を見ると、桔梗が手伝おうとして箪笥の取っ手を掴もうとしては失敗していた。いくらもがいても、桔梗の白い手は、取っ手を綺麗にすり抜けてしまう。まるでそんな箪笥は幻かのように。
 しかし実際のところ幻なのは


「――うるせえんだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」


 ――蔵のどこかで、壊れ物が砕ける音がした。
 光明の呪力にアてられたのだ。
 光明の怒鳴り声が静まってからも、どこかでその声が、まだわんわんと反響しているようだった。
 苦しげに顔をゆがめた光明は、
「手伝わなくて、いい」
 やっとのことで、それだけ喉から搾り出した。桔梗の顔は見れなかった。
「……あった」
 いくつめの箪笥を暴いたあとだったか、光明の手には日本酒のびんが握られていた。中には透明な液体がゆらゆらと揺れており、まだ箪笥の中には五、六本同じびんが詰まっていた。どのびんにも『反魂酒』と貼ってある。
 反魂。すなわち死者蘇生。
 名前負けもいいところだ。光明はびんの口を潰しそうなほどに強く握る。これはただの防腐剤に過ぎない。そもそも酒でさえない。嘘ばかりだ。見かけ倒しの役立たず。
 だが、そんなものでも今は必要だ。
 光明は引き出しを根こそぎ引き出して、ただの箱にした箪笥を倒し、その中になみなみと反魂酒を注いだ。桔梗の見守る前ですべてのびんを空にした。
「この中におまえの身体を入れておく。この蔵の中に置いておけば、腐らないし、発見もされないだろう」
「どうして隠すの……?」
「親父や爺たちにバレたら俺は拘束される。おまえを生きか……助けることができない」
「光明……」
「悪い、服を脱がす。全身が液体にまんべんなく触れてなくちゃいけないから……」
 初めて見る許婚の裸体にも、なんの感慨も抱かなかった。いや、意志の力で無理やりそうさせたのだ。そうしなければ、弱い自分の心がこの世で最も邪悪な醜さを発露しそうだった。
「恥ずかしい……よ」
 桔梗は頬を染めて、光明と横たわった自分の身体から目を背ける。
「悪い」
 光明はそんな彼女にフォローを入れてやることもできない。
 身体を箱に詰め、手ごろな板でフタをし、目立たない箪笥同士の隙間に引きずって隠した。
「これでいい。これで……桔梗、おまえもここにいろ」
「うん……でも、光明……」
 わかっている。
 なにもかもわかっている。
 桔梗が死んだことも。
 死者を生き返らせることが禁忌であることも。
 ぜんぶわかっている。
 それでも。
「桔梗……」
 光明はやっと、桔梗の目をまっすぐに見つめた。普段よりもどことなく青みがかった、瞳。
「俺はおまえを絶対に助けてやる。おまえは何も心配しなくていい」
「みつ――」
「――だから、何も言うな。何も」
 光明は火が点いたように蔵から駆け出した。晩秋の空の赤を暗い雨雲が喰い尽くそうとしていた。
 なんとかしなければならない。
 なんとかしなければならない。
 絶対に、諦めてはならない。
 彼女の魂の残高が尽きる七日後まで。
 彼女の肉の腐敗が始まる七日後まで。
 それまでは、ただ弾丸のように、走り続ける。


 ○


 結果は、失敗に終わった。



 ○


 倉橋家に辿り着けなかったか。あるいは父親たちに発見されたか。あるいはまだそちらの方がよかったかもしれない。時間さえあれば、光明ならその程度の苦難は軽々と対処しおおせたかもしれない。
 問題は根底にあった。
 光明は奥多摩くんだりの山奥にひっそりと建てられた倉橋家の蔵にいた。土御門家にあったものとほぼ同一規格のものだ。
 同じように<鋼魚>で南京錠を壊し、家人の出払っている昼過ぎに忍び込んだときなど、中で桔梗が待っている幻さえ見た。光明は参っていた。参りながらも突き進んだ。
 桔梗を助けなければならない。
 その一心で、光明は倉橋家の衛兵三人ほどを戦闘不能に追い込み、自身も左腕に激しい裂傷を負いながら、やっと手に入れたのだ。
 光明と同じ顔を持っていたはずの男、安倍晴明の残した生と死と魂に関する文献――魔道鏡(まどうきょう)。
 その和綴じの本、一見すると日記かと思うようなあっさりした装丁のそれを手に入れたとき、光明は心の底からこの時代に生まれたことを感謝した。もしまかり間違って六十年前、血の匂いで溢れ返っていた時代であったらこうも容易く一千年もの間保管されていた禁書を盗むことなどできなかっただろう。
 ――これは運命だ。神か仏かご先祖さまか、誰でもいいがとにかく俺に、あの哀れな桔梗を助けろと仰せのことに違いない。
 祈るように、魔道鏡の最初の一頁をめくった。
 







 ――魂とはこれ消耗品なり。そして死は、この森羅、その万象において、魂の融解なり。溶け出したものは再びおのが形を思い出すことはなく、ただ流れ、補えども補えども滑落するばかりなり。

 ――この森羅、その万象において、死者の蘇生、というものを目指し、数多の導師、無数の法師たちが夥しいまでの労を重ねてきた。して、我はここにその結論を記すものである。

 ――死者、その溶解を止めるすべを持たず、またすべきでもない。

 ――死を遡る、ということは輪廻に反する。それすなわち、木が金を切り裂き、金が火を溶かし、火が水を消し、水が土を汚し、土が木を吸い取る、五行反転の世界なり。

 ――その世界ではあらゆるものが逆転し、なにひとつとして未来へ進むことあらず。

 ――よって、死者を生者へとなさんとすことあるべからず。





 光明は震える指でページをくる。
 読み進めていく内にその内容が、思わず口をついて零れ出す。





 ――だが。

 ――死者を死者にさせ続けることはできる。

 ――ひとつ目は、魂の補填。死して有から無へと進み続けるその速度を超える速度、浄化されていく量を上回る量の魂を永遠に補填し続けること。しかしこれは日を負うごとに負担する魂の量が無尽蔵に増えていく。所詮、夢物語の術である。

 ――ふたつ目は、まだ生きている人間の肉体への死者の魂の注入。これは禁忌であり、犯したものを発見し次第、導師は必ずこれを討たねばならない。が、実際にはほぼ生きている側の人間の魂が勝つ。また死者側の魂が辛うじて勝利したとしても、記憶や人格に甚大な障害が残る。実際に行われた事例では、蘇生者はいずれも二晩もたずに狂死した。

 ――三つ目は、死体への魂の定着。まだ死者の肉体が残存していれば、その身体に死者の魂を注入する。ただしこれは蘇生ではない。あくまで肉体は死亡したまま。死体である。腐りもすれば体液も漏らす。その上、いつ鬼へと変化するか知れたものではない。手軽さからか、この禁忌に手を出すものは多く、自分も何人の術者を始末してきたか知れない。

 ――鬼について。

 ――鬼とは、死して後に強い情念に駆られ、おのが消滅を認めることができず、魂が励起状態になり、永遠の存在になったものである。しかし、本人の記憶と人格は完璧に破壊され、その行動は好戦的な昆虫に似たものとなり、陰陽師か、秩序に好意的な妖によって退治されるのが常である。鬼になれば、本人の形をした霊魂が永遠を手に入れはするが、それは決して蘇生でも不滅でもない。輪廻の環からも逸脱するため、鬼となった魂は他の妖たちの手に渡りその一部になることもなく、完全に消滅する。鬼は人の成れの果てであり、妖ではない。一説によれば、妖どもは魂の循環器であって、新たに生れ落ちてくる赤子の魂は彼らを介している、という。真偽のほどは定かではない。

 ――ある意味で魂だけの存在であり永遠に在り続ける彼ら妖は、ひょっとするとただの自然現象か、あるいは、この森羅万象の円環を支える支柱、のようなものに過ぎないのかもしれない……。

 ――いずれにせよ、死者の蘇生など試みるものではない。それは理に反する。この美しき統合された環を乱すことはしてはならない。それを壊すのは『我』に他ならない。そんなものひとつ制御できぬのなら、これを読む君よ。

 ――恥じよ。






 光明はふうっと息を吸うと、魔道鏡を力いっぱい壁に叩きつけた。和綴じの禁書はばさっと情けない音を立てて、床に落ちた。
 傷ついた左腕を、傷が開くほど強く握り締めて、光明は呟いた。
「蘇生の手段が……ない……?」
 頭の中で激情が炸裂した。そんなことあってたまるか。いったいなんのための呪い屋家業なのだ。ずるをするためだろうが。理とかいうやつを捻じ曲げるためだろうが。なんだかんだと理屈をつけて、極力ずるを避けはしても、本当に必要になったらちゃんと使える力。
 俺が求めているのはそういうもの。
 倫理も道徳も超えたもの。
 ないじゃ済まされない。いったいなんのために生きてきたのだ。学んできたのだ。一千年後の子孫にまで崇敬されておきながら、いったいどういう体たらくだ。空っぽだ。嘘っぱちだ。てめえらなんぞ偽者だ。いんちき屋ならいんちき屋らしく最後の最後まで騙し抜け。
 いくら叫んでも本は答えず、死者は語らず、桔梗を救う手段は見つからない。
 暗い蔵の中に光明の荒い呼吸だけが響く。
 和綴じの本を拾い上げ、その表紙を穴が開くほど見つめる。その先に広がる一千年前の世界とそれを見たはずの自分と同じ顔をした男のことを思う。
 そして、一つの結論に辿り着いた。一千年前の男にできず、今の光明にはできること。
 ――冷凍保存。
 いつか遠い未来で、五行の理を打ち破る呪術師か、それとも科学が不死の領域に踏み入るまでの様子見。
 それしかなかった。幸い、土御門家には金は唸るほどある。漫画家の印税のようなものだ。首都東京を建設したときの口ぞえ、そしてその後の発展の裏地主として、土御門家は国からの援助金を受けている。いまどきオカルトマニアしか知らない知識だが、東京は呪の礎の上に建設されたのだ。その効能がどれほどのものだったとしても、栄えている間はたかり続けられる。
 光明は魔道鏡を鷲づかみにして、ふらふらと倉橋家の蔵から立ち去った。


 ○


 三日ぶりに故郷の改札を通ると、晩夏のぬるい風に頬を撫でられた。それがなんだか光明の苦闘をあざ笑う、なにかとてつもない、大いなるものの掌のように思えて仕方なく、服の袖で赤くなるまで風の触れた箇所をぬぐった。参っている。それはわかっている。帰ってくる途中で魔道鏡を落として無くしたあたりから、もう心と身体がまともに機能していないことには気づいていた。一睡もせず、食事も取らず、それなのに不思議と苦しくない。死ぬことを身体が求めているようだった。
 だが、まだ死ねない。
 せめて、桔梗の身体を冷凍施設に運び入れるまでは。
 霊験あらたかな反魂酒とていつまでも桔梗の身体を保っていてはくれない。
 まずは桔梗の魂を消滅しないように肉体に定着させる。ゾンビ状態になるわけだが、この際、気味の悪さなど言ってはいられない。彼女を凍らせて、送り届けなければならない。
 無限の時間の向こう、なにもかもが報われる何万年も先の未来に。
 きっとそこは、自分なんか居心地が悪くなってしまうような、綺麗な世界。
 桔梗によく似合う、穢れも淀みもない終わらない国。
 ああ、そうだ。
 桔梗の死はそのための切符なのだ。桔梗は死ぬべくして死んだのだ。その国へいくために。一度いったらもう、戻ってこようなどとは考え付かなくなるような、いいところ。
 なんだ、なんてことはないじゃないか。わかってみれば笑ってしまうほど単純な話。
 俺も、運命に導かれた、その切符の一部だったのだ。



 ○



 戻ってみると、蔵がなかった。
 残っていたのは、何本かの柱と崩れた外壁だけ。中にあったものは根こそぎなくなっているか、黒こげになって放置されている。風が吹くたびに黒い粒子がさらさらと宙を漂った。
 光明は、かつて蔵の扉があった場所の前で、神を前にしたように立ち尽くした。何が起こったのか、すぐにわかったが、それを脳が言語化することを拒んでいた。
 そばで誰かがすすり泣く声がした。恐怖はなかった。振り返った。
 蔵を取り囲む木立の中に、仮面を被った少女が立って、その白い面を両手で覆っていた。
「み、っ、みつあ……き……」
「…………」
「みつ、光明、が、い、行ったあと、に、こ、こげ、焦げ臭いにお、いが、し、し、してき、て……」
「…………」
「ぜん、ぶ、燃え、燃えちゃ……た……」
 ――呪気だ。
 強い気を持つものは、感情が昂ぶることで、時々周囲に電撃のようなものを放つことがある。滅多にいるものではないが、稀にそういう才覚を持つものがある。光明もそうだった。気性が激しい呪術師に多いと聞く。
 あの時。
 蔵の中で、自分の内なる声に対して怒鳴った時。
 ただでさえ、封印されていた呪的な道具が集められていた場所で、自分は心を解き放った。
 あの時のあれが、何かの火種を作ったのだ。
 そして、蔵は燃えた。
 書物も、巻物も、食器も、絵画も、


 死体も。


「ああああ……」
 おそらく、両親も、祖父も、すべての事情をすでに了解しているのだろう。だから何も言ってこなかったのだ。光明の取るいかなる行動も状況を変化させうるものではなくなった以上、取るべき連絡もまたありえない。
 死体はすでに、処分されたはずだ。
 桔梗の魂を何かに定着させることは、不可能になった。
「こん、な……」
 未来へ希望を投擲することはもう叶わない。
 桔梗は一週間後、両替され、鮮やかな硬貨へと変わり果てる。赤、黒、銀、金、その魂の強さと美しさを基準にして。
 光明は、その場に膝をついた。もう二度と、立ち上がれる気がしない。
「ち……くしょ……ぉ……」
 どうしてこんな目に遭わなくてはならないのか。
 どうして桔梗なのか。
 どうして、何も知らない愚者でいられなかったのか。
 まだ希望があったかもしれない、その可能性を知った上で、それを奪われなければならなかったのか。
 持ち上げてから落とすなんて最低だ。なんてひどいやつがこの世界盤を回しているのだろう。八つ当たりとしか思えない。悪意が絶対に介在している確信が持てる。
「光明……」
 肩に優しくて冷たい手が載せられる。光明は、奪うようにその手を取った。
「絶対に許さねぇ……こんな、こんな目に……遭わせたヤツを……俺は……」
 桔梗の死が事故死だったこと、光明の呪気が無自覚に火災を起こしたこと、そんな事柄はどうでもよかった。
 それでも誰かのせいなのだ。絶対に誰かのせいなのだ。それが人でも神でも運命でも。
 許しては、おかない。
 光明の中で、どす黒い情念が溶解し、そして再び凝結しかけていた。それは恨みであり、憎しみであり、悲しみであり、怒りであり――優しさだった。一度住み着けば、二度と宿主から離れぬ魔物。
 光明の両眼に、かすかな火が点り、それがまさに燃え上がろうとしたとき――
 ひしっ、と。
 桔梗が、光明の背中に抱きついた。
 思考が根こそぎ吹っ飛んだ。
「な……ん……」
 桔梗は、光明の問いかけには答えずに、
「ねえ、もし、わたしが助かって誰かが死ぬボタンがあったら、押す?」
 押すに決まっていた。
 連打だ。
 首に回された腕が、ぎゅっと力を増す。
「きっと、どこかで別の誰かがそのボタンを押したんだよ。だからね、わたしが生きてると、その誰かが助けたかった人が助からないの」
 そんなことは関係ない。
 誰が死のうと興味ない。
 俺が助けたかったのは。
 俺が一緒にいて欲しいのは。
「きっと不可避なんだよ。いつかね、どこかで、起こらなくていいこととか、不幸って、起こっておかないと世界がおかしくなっちゃうんだよ。起こりうることが起こらないのって、たぶん、歪んでるんだ」
 やめろ。
 おまえは、そんな風に頭使って喋るタイプじゃないだろ。
「でもね、それって、同時に、びっくりするような『奇跡』もいつか『起こる』って証拠なんだと思う。だってそうでしょ。起こりうるから起こる、それで誰かが不幸になるんだったら、幸福にだってならないと、やっぱりそれも、歪んでるってことで――」
「だ、からって、」
 いつの間にか、涙声になっていたのは、
「おま、おまえが、死、んでいいことに、な、んか、なら――」
「うん。わたしもやだ。だってまだ、結婚してないもんね、わたしたち。わたし、光明の子ども産みたかったな」
 こんなときだというのに、顔が熱くなった。
「な、なに言ってんだよ、桔梗――」
「一姫二太郎がいいっていうけどさ、女の子一人じゃ男の子二人にパワー負けしちゃったら可哀想だし、二姫二太郎がいいね。六人家族。うわあ、賑やかそうだなあ。でも、その分お母さんのわたしはきっと大変で、ね、たまにはスーパーのお惣菜がおかずでもいい?」
 いいよ。
 そんなん全然いいよ。
 そんなの全部、おまえが好きにしたらいいんだよ。
「ねえ光明……わたし……いま、結構幸せだよ? だって、目を瞑って見える、あんなこんなの未来がさ、光明も、一緒に同じものを見てくれてるって、わかるから……」





 だから、それだけで、いいんだ――




 そんな風に言われたら、もう我慢できるはずもなくて。
 胸の前で組まれた許婚の腕を折ってしまいそうなくらいに強く掴んで、
 光明は、陽が沈むまで、泣いた。


 ○


 見上げれば、雨が降っている。
 常雨通りに晴れ間が覗くことはない。女の髪のような細い雨がしとしとと恨みがましく降り続け、光明はすっかり濡れ鼠になっていた。ふわふわだったおかっぱはぺったりと頭に張り付いて、水を吸った狩衣は怨霊のように身体にまとわりついてくる。
 どこをどう走ったのか覚えていない。
 ただ、逃げている。
 なんのために?
 胸に手を当て、懐に入っている持ち主のいなくなった白仮面と、袋に包まれた魂貨の形を確かめる。
 桔梗は消えた。
 つい数時間前のことだ。光明が苦心の末に桔梗が消える一週間の期限ギリギリで考案した、存在継続の術が、とうとう役目を終えたのだ。見ること、嗅ぐこと、聞くこと、味わうこと、感じること。そのどれかを機能不全に陥らせることによって、魂の消費率が低下することを光明は発見したのだ。
 だが、五感を失って存在し続けて何になるというのだろう。それは、ひょっとしたら消えることよりも、怖いことなのかもしれないというのに。
 結局、桔梗は喋ることのみを封印することを選択した。
 稼いだ時間は半年間。
 不思議なことに、桔梗が死んでから一緒に過ごした時間の方が、光明の記憶には鮮明に残っている。一緒にアトリエにこもって、なにをするでもなく、ただそばにいただけの時間。燃える暖炉と、揺り椅子に埋もれた桔梗。膝の上で組んだ手が、ゆっくり優しく、組み替えられるのを、光明はただ眺めていた。
 それも、もう終わった。
 なのに、どうして逃げているのだろう。俺の人生も、ついでに終わってしまえばいいのだ。
 桔梗が消える寸前にやってきた飛縁魔と生意気な死人の二人に貸してやったインチキ花札のことが陰陽連盟に嗅ぎつけられ、目下、土御門光明はあの世の指名手配犯なのだ。
 捕まれば、少なくとも二度と陰陽道の術を行使することは許されないだろう。指を切断されるか、記憶を奪われるか。
 どっちだろうと同じこと。
 もう桔梗はいないのだ。
「――見つけたぞ」
 目の前で火花が散った。よろめいて壁に手をついてから、殴られたことに気づいた。木造建築の路地は光明がいる場所で袋小路になっていて、振り返った唯一の逃げ道の真ん中に、群青色の狩衣を着た男が立っていた。そのキツネ目には見覚えがあった。
「天墨(あまずみ)……」
「ほう、私の名を忘れていなかったか。……竜宮道場では世話になったな」
 天墨は光明の返事を待たずに、
「ああ、同門の士と久方ぶりの再会を喜び合いたいところなのだが、悲しいかな、私はおまえの粛清を命じられていてね。残念だよ、君をこの手で始末しなければならぬとは」
「始末……?」
「ああ。おまえは十二の規約に違反し、二十七の法規を破っている。覚えがあるはずだ」
「裁判はなしか」
「無論、おまえのような人類に対する裏切り者にも司法へ身をゆだねる権利はある。だが、どうせ極刑か忘殺は避けられまい。なら、かつての友である私が処断してやろうというのだ。感謝するがいい。苦しまなくていいように一撃で終わらせてやろう」
「ははは」
 光明はぴんときた。自慢のコレクションでも披露するように腕を振り、
「天墨、おまえいまだに肥溜めに突き落としたこと根に持ってるのか? 馬鹿じゃねえのか、小学生の頃の話だぜ」
 天墨のキツネ目がぴきき、と震えた。
「……貴様は幼少の頃から社会的不適格者だった。なのに、先生方はみな、おまえがかの安倍晴明と同じ遺伝子を有しているからといって、貴様を特別扱いした。なにが生まれ変わりだ、なにが天才の復活だ。貴様のようなごろつきがそんなものであるわけがあるか!」
「つまり、この事態に乗じてツモりにツモった私怨を晴らそうっていうわけか」
 光明は濡れて額にべったり張りついた前髪をかきあげて、にいっと笑った。
「知らなかったな。おまえと気が合うなんて」
「……なんだと?」
「俺もね、俺があのなんとかっていう偉い昔の人の生まれ変わりだなんて、信じてねえんだ。俺は俺さ。そう簡単に他人にされてたまるかよ」
 光明の乾いた目が、天墨の手へと注がれる。天墨の指先が、腰に釣られた革製のカードケースにいまにも触れそうだった。やる気だ。
 その時。
 泣き続ける空の端で、稲光が起こって、二人を取り巻く世界が一瞬、閃光に眩んだ。
 白い闇の中で、指が式札を繰る気配がし、先の尖った靴が水溜りを砕き、殺意の篭もった視線が交錯する――。
 そんなさなかにあってさえ。
 光明は、己がなぜ逆らい続けるのか、答えを出せずにいる……。


     




 九回裏、満塁、残る打者はあと一人、そうここがいわゆる一つの正念場――とばかりに二人の陰陽師が同時に式札を宙に打ち放った。空中に貼りついた式札を中心にしてじわり、と周囲の光と色がねじれ、ゆがみ、そしてフィルムの逆再生のようにそれらが元と同じく収束すると、二枚の札の向こうから式神が召喚された。
 光明の札からはうねる水の筋肉で覆われたしなやかな虎が、天墨の札からはぬらぬらと光る土でできた意思を持つ蛇が現れ、式打たちが瞬きする暇もなく、二頭は真っ向から激突する。
 五行相克。
 光明の<水虎>が薄暗い路地にしぶきを撒き散らして四散し、その向こうから<土蛇>が光明めがけてその土色の口腔内を曝け出して突撃してくる。光明の手が咄嗟にデッキに伸びるが間に合わない。<土蛇>のあぎとが光明の胴体をくわえこみ、そのまま背後の土塀に叩きつけた。光明の喉から空気が漏れ、両目が限界いっぱいまで見開かれる。
 天墨が満足そうに口の端を歪ませた。<土蛇>はしっかりと光明のデッキをもその土顎の間に挟みこみ、光明が新たに式札を取り出すことは叶わない。
 式札を打てなくなれば陰陽戦は終結。あとは煮るなり焼くなり勝者の自由、
 の、
 はずだったが、
「――――」
 光明の手にはしっかりと二枚目の札が握られており、今度は天墨の目が見開かれる番だった。天墨は見たのだ。<土蛇>が土御門をそのあぎとに捉えたとき、やつの指はデッキに触れそうで触れられなかった。確かに見た。だから自分はいま勝ったと思っていられているのだ。だが、やつがいま二枚目の札を手にしているのもまた確かなこと。
 ならば、解答は逆算して一つだけだ。最初から札を二枚抜いていて、あらかじめ手の死角に保険のもう一枚目を隠していたのだ。手品用語で言うところのパームというやつ。
 これだ。これが気に喰わない。このしたたかさ、抜け目のなさが、
 気に喰わないんだ、どうしても。


 天墨が駆け出し、<土蛇>の胴体に足をかけた。動けない光明自身から二枚目を奪ってしまえば問題ない。光明はまだ式札を振りかぶった姿勢だ、振り下ろすまでにどうしても隙ができる。天墨は思い切り踏み込んで最後の距離を詰め、光明の式札に手を伸ばす。だが光明の方がこと一枚上手をいった。
 ぺっ、と。
 恥も外聞もなく光明が吐いた唾が、天墨の右目を直撃した。染みる痛みと屈辱に天墨が声にならない叫びをあげ、<土蛇>の縄文模様の浮いた鱗に膝をつく。
 その一瞬を奪って、光明が式札を自分を捕らえる<土蛇>めがけて式を打つ。瞬間、世界が切り替わったかのような違和感の後に、<土蛇>を食い破って顔を見せた樫の木が高速再生フィルムのように曇天へと主を枝に乗せたまま突き上がった。顔を覆いつつ見上げる天墨と枝から見下ろす光明の視線が再び交錯する。
 今度は光明が早かった。
 五メートルほどに成長した木から飛び降りた光明が空中で式札を抜き放ち、金属のツバメが天墨の脳天めがけて落下する。
 防げたのは、本当に日頃の鍛錬のおかげだけだった。
 光明は二枚目の式を打つことになる状況が、相克される土行の式であることを予測していた。つまり光明が追い詰められたとき、そこには土行があることになる。
 ならばそれを生かさない手はないのだ。
 土から掘り起こされるは金、そしてそれを相克するは炎の気。
 天墨が考える前に打った式札から炎のたてがみ翻す<炎狼>が躍り出て、迫り繰る<金燕>へと喰らいかかった。<金燕>は甲高く鳴きもだえ、どろどろに溶解してついには消え去った。天墨はしてやったりとほくそ笑む。これで、<金燕>を打ち破った<炎狼>はそのまま落下してくるいけ好かない土御門光明を火達磨に
 <金燕>の向こうに、光明はいなかった。
 <炎狼>はそのまま泣きやまない黒い空へと飛んでいく。炎狼が飛び去っていく間際、その熱風に梢がそよいだ。そして樫の木に、一度使われて白紙になった式札がへばりついているのを天墨は見た。
 背後。
 首がねじ切れそうな勢いで振り返る。デッキの縁に指が触れ、四十八枚になった式札のすべてが走馬灯のように頭の中を駆け巡る。ぐーちょきぱーが五つあるじゃんけんの必勝法を考える。絶対に土御門光明を上回れるとっておきの戦法は、


 ない――――。


 読みも糞もない。また馬鹿のひとつ覚えで土に相生される金を打ってくるか、それとも土から生えた木に相生される火か、あるいはこの降り続ける常雨を利用しての木の式か。
 どれを選んでも裏目がある。どれに決めても勝ち目がある。
 だから、どれでも一緒だ。
 何も考えず、天墨は手持ちの中で一番デキのいい式神を選んだ。金の気であしらった<蜂>の式神だ。ここ数年で最高の出来栄え。こいつの鋭い鉄針で土御門光明はその白い首に大穴を開けることになる。天墨にはそれが見える。見えなければ勝負ではない。
 押し切る。
 完全に振り返った。式札を抜き放った。視界に土御門光明が現れた。




 視界いっぱいに、式札がばら撒かれていた。
 時間は、とっくのとうに粘性を帯びていた。
 宙を舞う四十七枚の式札の中心に、光明がいた。
 両手を蛇のように構え、天墨へ突進してくる途中。もはやそれを止める手段はない。それを見る天墨は天墨であって天墨ではない。本物の天墨は、なにも考えずに、<金蜂>を打つその瞬間をゆっくりと進んでいる。そしてそれを俯瞰しているのは、アドレナリンが作り出した一瞬後には消える天墨の無意識でしかない。その無意識は思う。
 俺の負けだ、と。




 光明は、天墨が打つ瞬間に垣間見えた式札、それを相克できる五行を持つ札をばら撒いた四十七枚の中から死神の鎌のように正確無比に選び取って式を打った。五行相関に大きく左右される陰陽戦闘において究極の必勝法。
 あと出しである。
 ほとんど触れ合うほどの距離で二人が打った二枚の式から魔獣が呼び出された。
 <金蜂>が鋼の鉄板を重ね合わせて造られた尻から鉄針を出したときにはもう、<炎狐>がその身の熱で金属製の蜂を溶解させていた。<金蜂>を打ち破った<炎狐>は、まだ負けたことを意識しきっていない天墨の胴体に直撃し、その身体を火達磨にした。一瞬遅れて、灼熱に襲われた天墨が女のような悲鳴をあげてその場をごろごろと転がりまわり、最終的には路地の脇の下水流れる側溝へと転がり落ちた。そしてそれきり静かになった。
 決着は着いた。
 光明の勝ちだった。
 だが、
「うぅ……」
 不運だった。<炎狐>を打つときに、常雨通りの止まない霧雨でぬかるんだ地面を光明の履く乗馬ブーツがわずかに滑ったのだ。そして<金蜂>を構成していた金属は完全に溶解することなく、わずかに残った断片が光明の左顔面を直撃した。
 一瞬の冷たさの後に、猛烈な激痛が襲ってきた。寝ぼけていた神経細胞が無限の小ささまで感覚を拡大させてしまったような鋭く精緻な痛み。脳が起こってしまった事故を受け入れることを拒否して時間を遡行したがっている。だがそんなことはできない。
 触覚が痛覚で暴走していてよくわからないが、幸いなことに溶けた鉄自体はすでに燃え尽きたようだ。顔の脂が燃えているわけでもない。つまり、いまここでどうにかなってしまう事態ではない。ならいい。
 光明は左顔面を直接触れないように手で碗を作って押さえながら、路地を後にした。行かなければならない。まだ間に合うはずだ。
 常雨通りを抜けて、大通りへ。顔を押さえた光明をいぶかしむ妖怪たちの隙間を縫って、目当てのものを探す。すぐに見つけた。
 店先に衣服を山ほど積んだワゴンを出した呉服屋、その前に一台のバイクが停まっていた。灰色のモトクロッサーだ。左の顔で唯一無事だった左目からも、キーが挿しっぱなしなのが見えた。
 乗り手と思しき女子高生は、いまワゴンの服の山に胸まで突っ込んでいる。時々スカートに覆われたケツと、スカートから覗く三毛柄の尻尾がふりふり揺れる。さらにツイてる。女子高生の猫娘なら、この界隈にだってそうそういない、光明の友達だ。
 神様なんぞ信じちゃいないが、役に立つなら相乗りしてやってもいいだろう。
 許可も取らずにシートにまたがると、気配を感じたのかピン! と三毛尻尾が逆立ち、服の山からぼふぁっと茶髪の猫娘が顔を出して、モトクロッサーを振り返った。
「にゃ――にやってんのっ!?」
 べつに彼女は普段からにゃんにゃん語を喋っているわけではない、ただ噛んだだけだ。
「おほん。……おい土御門! 土御門光明! 今度勝手にバイク乗ったら罰として死ぬってあたしと約束したよね!?」
 光明は神妙に頷く。
「ツケで頼む」
「ツケでじゃねーよ! 踏み倒す気満々か! 場末のバーか! あんたねぇ人には人の事情ってもんがあっていくら急いでるからって人のバイク無断で乗ってくとか常識を――」
 モトクロスのフロントを回って、そこで猫娘は光明の左顔面の惨状を見た。
「ちょ……え? なに、怪我してんじゃん……? そ、そうだよあんた追われてるってみんな言ってた……」
「ああ。それより顔、どうなってる? 見えねえんだ、自分じゃ」
「爛れてるよ! ねえやばいって! 病院いきなよ! あんた生きてるんだから身体とか粗末にしたら駄目だよ!」
「猫町……おまえいいやつだな。おまえの優しい言葉で俺は左目から塩水が出そうだよ」
「駄目! 落涙駄目ゼッタイ! 傷にさわるってヤバイヤバイ!」
「ああ、そうだな。じゃ、これ借りてくぞ」
「どこいくの!」
「病院」
 なんだそっかァ気をつけてねーと手を振る馬鹿に笑顔を見せて、光明はハンドルを回した。
 無論、病院になんて用はない。そんなところへ寄っている暇も時間もありはしない。ちらっとはためく狩衣の袖から見え隠れする腕時計に目をやる。
 もうすぐ始まる。
 競神が。
 泰山府君杯の第二レースが。
 一着になれば、競神には賞金が出る。ただそれはあまり知られていないが、魂貨でももらえる。
 いままで出たレースのすべてで一位になっていれば。
 あるいは桔梗を繋ぎ止められる魂を稼げたかもしれない。
 桔梗がいなくなった今となっては、なんの意味もないかもしれないけど。
 桔梗が消えてしまった今となっては、もう取り返しはつかないけれど。
 あいつは、喋れなくなる前に言っていた。




 ――わたし、走ってる時の光明が、一番カッコイイって思うな。




 あっという間に過ぎ去っていく景色の中を驀進しながら光明は思う。
 俺は強くもなければカッコよくもない。優しくもないし、なんだかんだで最後に勝ったりもしない。そんなのはぜんぶありもしないご都合主義の夢物語だってわかってる。
 でも。
 あいつは、そういう夢物語が好きだって言ってて。
 俺はそういうあいつが、嫌いじゃなくって。
 むしろ好きで。
 だから。
 せめて、あいつのために、
 そういう夢に、俺はなりたい。






 ○





 ゆるやかに弧を描いた道の先、赤い空の下、地平線からドーナツ型をした常夜橋スタジアムがじわじわと生えてくる。コンクリで固められた橋を渡ると、もうそこは戦場のエントランス。
 蜂の巣を突いたようなあの喧騒が聞こえてくる。何度も聞いたその音の調子でわかる。
 もうきっと、まともに入っていったんじゃ間に合いやしないのだろう。
 だから、光明はエントランスへ突っ込むぎりぎりでハンドルを切り、その脇にあらかじめ立てかけておいた板にモトクロッサーの前輪を乗せた。ぎしぎしと嫌な軋み方をしながら板橋が揺れるが構わない。アクセルを回してさらに加速。べきべきと後ろから何かが砕ける音。
 構わない。
 板橋を渡りきって、光明を乗せたバイクは、観客席の真上へと跳んだ。気づいたのはすぐそばにいた妖怪たちだけ。緑色の顎鬚を生やした太鼓ほどの大きさをしたおっさんの生首三つが仰天して目を皿にしていたのがなんだかツボに入って、光明は笑い出した。ふはははははと悪役みたいに笑いながら観客席を下っていく。間にいる妖怪たちはみな轢き倒したがその程度で死ぬほど連中はヤワではない。ふははははは! 最前列近辺に陣取っていた妖怪たちが異変に気づいて我先にと逃げ出していく。そうして誰もいなくなった客席を突っ走っている気分はモーゼ。さぞや海を割ったときは愉快痛快だったのだろうなと思う。

 観客席の最下段の向こうに、金属棒で囲まれたグリッドがせり上がっていた。もうすでに陰陽師たちがスタンバイしている。見知った顔もいる。あまり知らない顔もいる。
 紙島詩織と目が合った、気がした。
 が、次の瞬間には光明は最下段の柵にモトクロッサーのフロントを激突させていてそれどころではなかった。猫娘の愛機は無残にもその場でライトと前輪のシャフトを駄目にして、その衝撃の逃げ場として後輪が浮き、乗り手の光明はトラック内へと放り出された。電光掲示板のそばで、雲に乗ってタンバリンを持った小猿がいまにもそれを打ち鳴らそうとしていた。それが鳴った時、式神に騎乗していなければ、問答無用の失格処分。




 待てよ。

 ここまで来て、そりゃないだろ?




 だが、そんな事情など知ったことではない小猿は息を吸って、

 いま、無数の勝

 負の始まりを告げ

 る地獄の鐘



 を




  鳴






   ら








     し――――――――









       待ってろ
        いまいく
         すぐいく 
          勝ちに行く


           だから、

             時よ、





        「止まれよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」






                       ――――――――た。





(つづく)

       

表紙

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Neetsha