Neetel Inside ニートノベル
表紙

あの世横丁ぎゃんぶる稀譚
12.きみはペルソナ

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 スタジアムを出ると、生ぬるい風が夕原志馬(ゆうばる しま)の顔を打った。風に乗って漂う線香臭さが鼻につく。辛気臭くてかなわない。
 志馬は手に持ったままだった白仮面を被り直した。
 煉瓦づくりのスタジアムを振り返る。赤茶けた壁の向こうでは。次のレースに向けて妖怪たちがああでもないこうでもないと未来の推理に励んでいるのだろう。妖怪たちに時間の感覚はほとんどないが、それでも競神は一週間に一度、開催される。現実と同じだ。
 七日間。それは神様が天と地を作ったのと同じ時間で、死んだ人間が自分のことを忘れる間の時間でもある。
 だが、後者に関して言えば――稀にいる業突く張りを除いて、だが。
 志馬は赤ブレザーの上から腹をのの字に撫でた。
 やはり門倉いづるは別格だった。魂の量が尋常じゃない。一度の勝負で抜いただけでも、当分の日当てにはなりそうだった。奪った魂がまだ、志馬の中に馴染まずにくすぶっている。吐き気さえした。もしお互いに、すべての魂を一度に賭けていたなら、いったいどれだけの魂が動いたか知れない。
 だが、志馬はオールインを持ち掛けなかった。いづるからもだ。その理由は、認めたくないが、きっとお互いにわかっていただろう。
 ――この敵を前にして、絶対に己が勝つ、と言い切れなかったから。
「ちっ……押しときゃよかったなァ、あん時。そしたら……」
 いまさら言っても仕方ない。
 少し勝った後で「もっと張っておけば……」と悔やむことは誰にでもある。まるで素人。だが、志馬は別にそれを恥とは思わない。
 ああだこうだ言う必要はない、最後に立っていたやつが正しいのだ。いまはまだ途中経過に過ぎない。正しいも間違ってるも糞もない。博打は結果が出て初めて決まる。人生が死ぬまで何も決まっていないのと、同じだ。
 そう。
 生きてさえ、いれば。
「――――」
 線香の匂いから逃げたくて、志馬は、あてもなくあの世横丁を彷徨い歩きだした。

 ○

 人気、と言うべきか、妖気、と言うべきか。
 死人も妖怪も寄り付かない界隈の曲がり角を一つ折れると、それまでの民家が立ち並ぶ景色が一変した。まるでどこかから盗んできたように突然、一つの公園が志馬の目の前に現れた。うかつに触れたら健康に悪そうなくらい錆びついたジャングルジム、銀メッキがはがれかかっている滑り台、鎖が馬鹿になっていてちょっと傾いているブランコ、場所によって色の濃さが違う砂場、誰もいない水飲み場、未来の電話ボックスみたいな筒型トイレ。
 その公園に、ひとりぼっちの女の子がいた。肩口で切りそろえた黒髪、刺青を彫りたくなるような白い肌、目元は泣き腫らしたようにぽっと赤く染まって、顔には白粉と紅で古代人のような化粧が施されている。その化粧が乱れた線の悪戯で、なんだかタヌキを模しているようにも見え、少女の印象をいっそう和らげている。
 火澄だった。
 鎖が馬鹿になっていない方のブランコに乗って、楽しくなさそうな速度で漕いでいる。視線はずっと自分の膝前で止まっている。
 志馬がブランコの前には必ずある小さな柵の上に座ると、火澄がはっと顔を上げて、死装束
の白い袖で目元を慌てて拭った。
「えっと、あなたは……」
「志馬だよ」志馬は友達ぶって片手を挙げて、
「こころざしのある馬。縞々模様の方じゃないぜ?」
「わ、わかってます。馬鹿にしないで、漢字ぐらい、読める……」
「はは、そうか。すごいな」
「べ、べつに普通です」
「いや――本当に、すげえよ」
 志馬の声には魂が篭もっていなかった。
「どうか、したんですか」と火澄が聞くと、
「門倉と勝負したよ」
 火澄は息を呑んだ。
「――――それで?」
「勝った」
「どっちが?」
「俺」
「――――」
 志馬はぷいっと横を向いた。
「あいつの読みはよかったよ。何か一つ、いや二つ違ってれば、あいつが当ててたかもしれねえ。俺の読みが、否定されてたかもしれねえ」
「二つって、結構多いですね」
「ん? ああ。一つは、ヒミコの伸びだ。新人で、第壱走ではドンケツのビリだったくせに伸びてたよ。あいつが順位に喰いこんだんだ、泰山府君杯の第弐走は総合的に見て、荒れ場だったと言えるだろうな。……俺は、それを見抜けなかった。ヒミコは二着に食い込みこそしなかったが、食い込める可能性は充分あった。俺はあの買い目をないと言うべきじゃなかった、と思う」
 火澄がぱちぱちと瞬きをした。まつげ長いな、と志馬は思った。
「――殊勝、なんですね。もっと、唯我独尊な人かと思ってました」
「ふん、まあな」
「で、二つ目は?」
「ああ……どうだろな。これはまだ確信ってわけじゃない。ただの違和感みたいなものだから」
「違和感、ですか」
「ああ。おまえも勝負で生きてくなら、自分のカンってのは大事にしとけよ。結局、それがイカれてたら、勝つとか負けるとかの前にまっすぐ歩くこともできねえ世界だからな。もっとも、おまえの義兄さんはこの第二点には気づいてないと思うが」
「はあ? そんなはずない。あなたにわかるなら、兄さんにだってわかるはずです。あの人は、わたしの――」
 火澄が口をつぐんだきり、続きを言わないので、志馬がまた喋り始める。
「やけに、あいつの肩を持つんだな。知り合って、そう長くないんだろ?」
「それは……」
「あいつのこと好きなのか?」
「ち違っ! や、えっと……」
 言葉に詰まって、もじもじ身をくねらせ、
「違うっていうか……まあ……その」
 いつの間にか。
 答えを探して右斜め上の空を見上げる火澄から、目を逸らせなくなっていた。自分が何を考えているか正確に測量しつつ、
「それで?」と志馬は合いの手を入れる。火澄は困ったように黒髪をかきあげた。
「あの人は、家族ってものに憧れみたいのを持ってるらしくて、だ、だからわたしはそれに合わせてあげてて……」
「そんなことをしてなんになる」鼻で笑い、
「あいつとおまえは他人なんだぜ。いや、同じ存在ですらねえ。あいつは人間、おまえは妖怪だ。分かり合えることなんかない」
 火澄がきっと志馬を睨んだ。夕陽を受けて、赤い瞳にゆらめく光と影の炎が点った。
「そんなことない。あなたは、自分ができないことをみんなできないって思ってるだけです」
「へえ――?」
「自信過剰のナルシスト。寂しい人、つまらない人、可哀想な人。自分がいつも一番だと思ってるから、誰のことも認められないし、誰のこともわかってあげられない」
 火澄は、気丈に、それでいてどこか悪戯っぽく志馬を見た。
「兄さんはきっと帰ってきますよ。それで、あなたをやっつけるんです」
「ほお」娘のわがままを聞いてやる父親のように、軽く何度も頷いた。「どうやって?」
「競神で大穴の一つや二つを当てれば――」
 志馬はゆっくりとかぶりを振った。
「次の競神は来週なのに、か?」
 火澄が、あっ、と口を開けた。志馬は追い討ちをかけるように続ける。
「俺とやつの勝負はオールインでこそなかったが、普通のやつだったら粉々になってる程度の魂は動かした。いまのあいつはほとんど空っぽだよ。来週どころか、まともに七日間凌ぎ切れるかも危ういだろうな。わかるか火澄。このあの世で、死人が魂を繋ぐには絶対に競神で大穴を当てなきゃならねえんだ。だが、あいつは今日、そのチャンスをふいにした」
 そうとも、と志馬は笑い声を絡ませて、
「ある意味、一思いに消滅させられるよりキツイかもな。門倉はもう死人窟で揉め事を起こしてるから、死人相手の博打はできない。妖怪連中は小銭張りばかりで話にならない。オールインなんて誰もしない。つまり、あいつは、もう終わってるんだよ」
 己の言葉が向かい合った少女の魂に染み透るのを待つ。火澄は、しばらく目を閉じて、言葉を吟味しているようだった。
 そして、両目を開いて、笑った。


「だから、なに?」


 火澄はブランコからひょいっと飛び降りて、志馬の前に立った。
「勝つのは兄さん。それが私の信じていること。あなたの言葉なんて聞こえない」
「なあ」
「あなたにはないものをあの人は持ってる。一緒にいた時間は確かに短いけど、あたしにはわかる」
「なあって」
「惚れてるかって? 惚れてるかもね。あなたなんかに辱められたって、あたしの気持ちは、変わらない――」
 志馬は勢いよく立ち上がって、火澄の胸倉を掴んで引き寄せた。火澄が短い悲鳴をあげる。
 仮面をはぐった。
 夕陽の光を間に挟んで、二人は、唇が触れ合うほどの距離で見詰め合った。
「ひとつ提案があるんだ」
 志馬が言った。
「俺に、乗り換えてみないか?」
 火澄は痴漢されたような顔になった。
「……は?」
「だからさ、おまえがいま感じてるその気持ち全部を、俺にくれって言ったんだよ」
「な、何言って……そんなことできるわけないっ!」
「できるさ。おまえはきっと好きになってくれるよ、俺のこと」
 志馬が、有無を言わさずに火澄の唇を唇で塞いだ。火澄は一瞬大きく目を見開いた後、どん、と力いっぱいに志馬の胸を押した。二度目ともなれば驚きよりも怒りが勝つ。
 志馬はあっけなく後ろによろけて、ブランコのポールに激突した。
「なあ、俺、お前のことが気に入ったんだよ、火澄」
「その名前を呼ばないで」口元を手の甲で拭って、きっと志馬を睨む。
「それは、あの人がくれたものだから」
「――――どうしてもか。どうしても、譲ってはくれないのか」
「当たり前」
「じゃあ、仕方ない、か」
 志馬がゆらり、と一歩踏み出した。口元にさびしげな笑みが浮かぶ。
「奪うしかねえってわけだ」
 一瞬の出来事だった。
 髪についたゴミでも払うかのように火澄に近づいた志馬が、その右腕で彼女の胸を貫いた。電流を受けたように火澄の黒髪が跳ねる。
「がっ……はっ……」
「――――」
 志馬は一思いに腕を引き抜いた。いづるの時と同じように、引き抜かれた手には魂貨がぎっしりと握られていた。火澄は傷一つ無い胸元を押さえて、その場に膝をつく。
「なん、で……あんたは妖怪じゃ……ないのに」
「そう。俺は妖怪じゃない。死人だ。でもどうやら、あんまりにも我が強いもんで、いくらか強引が効くようになったらしくてな。普通はせいぜいできても死人同士でしかできない『魂抜き』が妖怪相手にもできるようになった……これがどういうことか、わかるよな、火澄?」
 志馬はしゃがみこんで、指の節で火澄のおとがいをついっと持ち上げた。火澄の赤い瞳が屈辱に潤む。
「俺はおまえを殺せる」
「う……」
「なあ、大切にされないと思ってるなら、それは間違いだぜ。俺はきっと門倉よりも、おまえを大事にするよ。あいつよりいくらか要領もいいって自負はあるんだ。たぶんあいつも思ってるんじゃねえかな。おまえが誰かと生きるなら、自分よりも志馬の方が向いてるって」
「そんなこと……ないっ……いづるは……あなたとは違う……!」
 その言葉が引き金だった。
 ぴくっ、と。
 志馬の目元が震えた。そして、探るような目で火澄の赤い目を覗き込む。覆いかぶさるように、夕陽から庇うように。火澄も、志馬の雰囲気が変わったことに気づきはしたのだろうが、なにがなにやらわらかず目をぱちくりさせるばかりだった。
「いまなんて言った?」
「あの人は、あなたとは違」
「正確に」
「――いづるは、あなたとは、違う」
 志馬の知性を帯びた目が、すうっと細められる。
 気に喰わない。
 火澄は、志馬の知る限り、一度も門倉を「いづる」とは呼んでいない。記憶違いもありえない。そんなことはしたことがない。
 妙だ。
 夕原志馬は、そういうのは気に喰わない。
「――なに、なんなの?」
 そういう火澄の唇に塗られた紅が、手で拭ったせいで顔に擦り傷のような線を引いていた。それを見て、心臓を直に叩かれたように一つの閃きが魂を駆け巡った。
 志馬はポケットに手を突っ込み、綺麗に折り畳まれたハンカチを取り出して、何を思ったか火澄の顔に押しつけた。
「うぷぁっ!? や、やめっ」
 やめなかった。そのままごしごしと擦る。抵抗されるたびに左手で腹を小突いて魂貨をいくらか抜いてやり、足元にばらばらと小銭が散らばった。
 たっぷりとハンカチを化粧で汚すと、志馬はそれを後ろに放った。はらはらとハンカチが悲しげに宙を舞う。あーあ、やっちまったな、とでも言いたげに、ふわふわと。
 顔を覆った火澄の両手を無理やり取って、その顔を夕陽に晒させた。
「これはいったいどういうことだよ。おまえ、どっかで見かけたことあるぜ。なあ、ええ、おい」











「――――――――飛縁魔よお」






(つづく)

     



 時は遡り、いづるがポリ袋で不貞寝していた頃まで戻る。

 目を覚ましたとき、飛縁魔は知らない部屋の布団に寝かされていた。ちょっとだけ首を持ち上げて、あたりを見回すと、そこが八畳ほどの和室であることがわかった。深山を背景に向かい合う竜虎が描かれた襖はすべて締め切られ、漆喰の壁には足折り式のちゃぶ台が立てかけられている。気難しい作家の居室のようだったが、ペン立ても原稿用紙も見当たらない。枕元には鎧と愛刀がきちっと添えられている。障子越しに降り注ぐ夕陽の光が、室内を赤く染め上げていた。
「――――」
 飛縁魔はちょっと迷って、寝返りを打った。何があったのか思い出そうとしたが、よく思い出せない。睡魔の霧の向こうに薄ぼんやりと最新の記憶が滞っているのはわかるのだが、それを振り払うには顔のひとつでも洗わねばなるまい。が、その労苦を考えるとこの布団の中はなんともぬくぬくしすぎていて――
 ああ。
 めんどい。
「zzz」
「――こらこらひのえん、知らない場所に寝かされてても気にせず二度寝って女子としてどう?」
「うん?」
 首をちょっと持ち上げてみると、部屋の暗がりに青い着物を着た西洋少女が正座して、あきれた顔を飛縁魔に向けていた。
「ア、リス……? え……なんでいんの……?」
「あのねえ、あたしはあんたを看病してあげてたのー。あんたいくら馬鹿でも三桁になるまで<炎>使いこむのはまずいって。あたしの分ちょこっと補充してあげたけど、まだぜんぜん足んないかんね。油断してるとマジで消えるよ」
「……さんきゅ」
「はい、目が覚めたところで――見返りは?」
「ん。ツケで」
 これだよ、とアリスが首を振った。
「――楽しそうなところ悪いけど」
 木戸がするっと開いて、黒巫女姿の紙島詩織が入ってきた。不機嫌を無表情でフタしようとして、三割がたはみ出していた。
「元気になったんなら出て行ってもらえるかな。私もヒマじゃないんで」
「あれ?」
 飛縁魔が小首を傾げる。
「あんた、紙島詩織? 競神の? なんで騎手がこんなとこに?」
 詩織は立てかけてあったちゃぶ台の足を起こしながら、
「ここがあたしの工房だからですけど……?」と飛縁魔を睨んだ。
「いやーごめんね詩織ちゃん」
 アリスは飛縁魔のぴんぴん跳ねた寝癖頭をぐしゃぐしゃかき回した。飛縁魔は首を振って逃げようとするが逃がさない。
「ひのえん馬鹿だからさー。たぶん一眠りしてぜんぶ忘れちゃったっぽい」
「おい誰が馬鹿だよ? やめろよなそういう誤解を招くようなこと言うの」
「1足す1は?」
「3ときどき5」
 アリスは頭痛を覚えたように手でこめかみを揉んだ。そしてこの馬鹿を矯正するのは今は無理だと判断し、
「あのねひのえん、詩織ちゃんはチンピラに絡まれてたあんたを助けてくれたんだよ。で、知り合いのあたしが身元引受人として馳せ参じたわけ。つまりはあんたは恩人に対して今と――っても失礼なひのえんなわけ。おわかり?」
「あー……」
 飛縁魔は口を半開きにしたまま、天井の木目に浮かび上がったドクロ模様を見上げた。記憶の霧がうっすらと晴れ間を覗かせ始める。
「そんなこともあった気がするな。あ、なんか思い出してきた。そうそう、うんうん。花札負けて……いづると逃げて……ぼんやりしてたけど、覚えてる、あたし……」
「ある程度、思い出してきたなら」
 詩織はちゃぶ台の上にばらばらと白紙の式札を袖からばら撒いた。そして慎み深い態度で正座し、その一枚に毛筆ですっすっと線を引き始めた。どうやらそれが、彼女が「ヒマでない理由」らしかった。
「事情を説明して欲しいかな。どうしてあんなことになったの?」
「そーそーわたしも聞きたいな。身元引受人として。ていうか、いづるんはどしたのん?」
 何かの獣の輪郭を描いていた詩織の筆先がぴたりと止まった。
「……いづる? あなたたち、門倉を知ってるの?」
「へ?」と飛縁魔。「あんたも知り合い?」
「クラスメイトよ、遺憾ながら。私のことはいいから。何があったの?」
 詩織の剣幕にひるみつつ、飛縁魔は時々アリスに補填してもらいながら、これまであったことを語った。


 ○


 飛縁魔がすべて語り終えると、詩織はみかんの汁が目に入ったような顔をした。
「じゃあ、門倉が牛頭天王を消そうとしたんじゃないんだ……。あなたの方が、首謀者だったのね、飛縁魔?」
「うん」
 詩織はすっと膝をすらせて、飛縁魔を真正面から見据えた。その顔は真剣で、思わず飛縁魔は布団の中で居住まいを正した。が、詩織の言葉を聞いて、そんな必要はなかったと思った。
「悪いことは言わない。牛頭天王に手を出すのはやめなさい」と詩織は言った。
「やだ」
 飛縁魔の顔から朗らかさがさっと消える。
「あいつはあたしの親父を殺った。だからあたしが仇を獲る。絶対にな」
 その目はこの世にもあの世にもないものを見ていた。どこにも存在せず、しかし確かにそこにあるものを見ていた。
 詩織がうんざりしたように首を振る。
「そうやって、全滅するわけ? 勝てもしないとわかっているなら、退くのが親孝行よ」
「別に親父のためじゃない。あたしが納得するために必要なだけだ。何したって親父は戻ってこない。……そんなこと、言われなくても知ってるよ」
「……そ。ならもう止めない。好きにしなさい」
 睨み合う二人の間に、アリスが割って入った。
「まあまあまあ二人とも。眉間に皺が寄ってるよ。それよりさあ、飛縁魔の話だといづるんってボッコボコにされた後に放置されたんでしょ? 迎えにいってあげた方がよくない? 常雨通りだとたぶんずぶぬれになってるし」
「その必要は無いわ」と詩織。
「なんでだよ?」
 詩織は鼻で笑った。
「いまごろ門倉はあなたのことなんて忘れてるわよ。あいつはそういうやつだもの」
 すう――っと息を吸って刀に手を伸ばしかけた飛縁魔をアリスが羽交い絞めにする。
「まずいって、ひのえん。それはまずいよ。どうどう。――詩織ちゃんもさあ、もうちょい言葉選んでくれてもいいんじゃない。こうなることはわかってたでしょ?」
「あら、ごめんね。わかんなかった」絶対嘘だ、と飛縁魔は思った。
「でもあいつはやめておいた方がいいよ」
「やめろやめろってうるさいやつだな、おまえ誰だよ」
「あなたを案じて忠告してるし、あなたを助けたくて助けたの。それはわかって欲しいな」
 飛縁魔はしぶしぶ、刀に伸ばしていた手を引っ込めた。どんなにいけすかなくても、助けてくれたのは彼女なのだ。
「――ホントにおまえの知ってる門倉いづるって、あたしの知ってるいづると同じなのかな」
「どうだろうね。でも、私の知ってる門倉いづるは数日前に、トラックに轢かれて死んだよ。私は見てたし、葬式にもいってきた。ひどい葬儀だったけど」
 あいつはね、と詩織は誰とも目を合わさずに話し始めた。
「心が空っぽな人間なの。なにもないのよ。あいつは何かを綺麗だとか、守りたいとか、思うことなんてないの。あいつにあるのは、ぜんぶ滅茶苦茶になったらいいって破滅的な妄想に満ちた脳みそだけ。それだけならいいけど、そばにいるっていうだけの人にまで悪影響を及ぼすの。どんな善人でも、例外はない。ちょっとした新興宗教みたいなものよ。炎の揺らめきは綺麗に見える、でもそこに飛び込んで生きていられる虫はいない……確かに、門倉にはカリスマみたいなものが、あった。だから星彦は……」
「それが、いづるんと会って変わっちゃったって人?」とアリスが合いの手を入れた。詩織は頷き、
「そう……あたしの幼馴染で、たったひとりの友達。本当に、真っ白なやつで、薄暗いところなんてどこにもなかった。明るくって、穏やかで、いつもふざけてるけどたまには真剣になるときもあって、あたしは、そんなあいつが、好きなんだ」
 夕陽を超えて顔を赤くした妖怪童女二人組みに気づかず、詩織は続ける。
「門倉はいつも、どこか遠くを見ていた。教室の窓から、下駄箱の出口から、あたしたちには視えないところを。でも、それはね、あたしたちが知ってはいけない領域、知らなくていい世界だったのよ。なのに、星彦はそれに魅せられてしまった……星彦は優しいから、きっと初めは、ひとりぼっちの門倉に同情したんだと思う」
 アリスが言う。
「本人がそう言ってたの?」
 詩織は首を振る。
「でも、そうでしょ。門倉とつるんだりする理由が、それ以外には思いつかないもの。そして門倉は、あの悪魔は星彦を洗脳したのよ」
「せ、洗脳ぉ? いやそれはちょっといくらなんでも――」
「言い方なんてなんでもいいよ、あいつに会わなければ星彦は死ななかったのは間違いないんだから――」
 詩織の剣呑な言葉に、アリスが目を白黒させる。
「ま、待ってよ。じゃあ、いづるんが催眠術とかでその星彦って人を死なせたってこと? 自殺とかで?」
「そうじゃないけど、自殺だったのは確かよ」
「どうして?」
「だって、本人がそう言ってたから。――ふふふ、それでさ、星彦が死んだ後、門倉のやつ、私になんて言ったと思う?」
 詩織は薄く笑って、
「――どうでもいい、よ。あいつそう言ったの。たったひとりの友達が死んで、出てきた言葉がそれ。私は思った。こいつは死んだ方がいいって。叶ったよ、望み。ふふふ、だからね、あいつはきっと、あなたに会っても誰だかわからないと思うよ、飛縁魔。きっともう忘れてる。そしてあいつは彷徨うの。次の獲物を探してね。消滅する瞬間まで、不幸の種子をばら撒き続ける災厄の男――」
 突然、詩織の右手が閃いた。飛縁魔の胸倉を掴んで、その瞳を唇が触れそうな距離から覗き込む。
「ねえ、わかったでしょ? あいつがあんたの思ってるようなやつじゃないってこと。あんたに吐いた言葉は全部、あいつの甘い嘘なのよ。あいつは何かを懇切丁寧に作り上げてから、ぶち壊すのが好きな変質者。あたしはあんたの何倍もあいつを見てきたからわかる。あんたは間違っている。牛頭天王を倒そうとするのも、門倉に関わるのも、もうやめて、何もかも終わるまで休みなさい、いい?」
 詩織の言葉を否定できる要素が、飛縁魔にはなかった。生きていた頃のいづるを知っている人間に、あいつの言葉はみな嘘だと言われて、どんな理屈でそれを拒めるだろう。詩織が嘘をついているとは思えない。彼女は少なくとも、真実だと思っていることを喋ったのだ。
 だから、飛縁魔も思ったままを口にした。
「――試してみよう」それが一番いいと思った。
「え――?」
「あいつが、本当はどんなやつなのか、本人の口から聞いてみればいい」
「はっ……何を言うかと思ったら。あいつが面を向かって自分の心の内を喋ったりするとは思えない。無駄よ」
「そこに誰もいなければ、あいつだって独り言ぐらい言うかもしれないだろ」
「どういうこと?」
 飛縁魔は、ちらっと鏡台の方を見やって、
「なあ、紙島。ちょっと貸して欲しいものがあるんだけど――」


     





「――で、最初は門倉の真意を確かめたらすぐバラすつもりだったのが、ズルズル演技まで始めちゃって、ドンドン引っ込みがつかなくなってって、今に至る、と」
 事情を聞いた志馬は静かに言った。
「なあ飛縁魔、おまえ馬鹿だろ」
「すぐに気づくと思ったんだよ」
 飛縁魔はもらったプレゼントがもう持っているものだったときのような顔をした。志馬はため息を吐く。
「気づかないだろ……。誰がやったんだか知らんが、かなり別人だったぜ、化粧したお前」
 それに、と志馬は飛縁魔の髪をくしゃっと撫でて、
「演技もよかったな。とてもあれがおまえだとは思わんよ。誰かに演技指導してもらったのか? アリスとか紙島とかに?」
「いや、べつに……。ていうかさわんな。おまえ嫌い」
 ぱしっと手を払われても、志馬はハハハと笑ってのけた。
「いいよ別に嫌われても。むしろそっちの方が燃えるし」
「おまえもうマジでどっかいけよ。あたし、あいつを探さないと……」
 背中を向けた少女の手を少年が掴む。
「放せよ」
「じゃ、そうする」
 志馬は掴んでいた手をぱっと放した。飛縁魔は掴まれていた部分をさすって、
「マジで意味わかんねー……何がしたいの、おまえ?」
「だからさ、俺はおまえを好きになったわけ。好きなやつが放して欲しいって言ったらそうするだろ、普通は?」
 飛縁魔はいきなり首を捕まれたような顔をした。反応としては悪くない、と志馬は踏んだ。
 追い討ちのかけ時だ。
「なあ、いろいろあったけど悪いことはぜんぶ水に流そうぜ。そんで俺と一緒に来たらいいんだよ」
 赤いブレザーに覆われた両腕を広げて、
「たぶん、あんたがいくら探しても門倉はもう見つからないと思う。というか、見つけたら逆にやばい。だってそんときゃ、あいつが何の策も持たずに残り時間ギリギリでふらふらし続けてたってことなんだから。だから、あいつを探して見つけたら、それはちょっとあんたの負けかも」
 飛縁魔は唇をかみ締めた。
「――なら、どうすればいいんだよ?」
「うん。じゃあ聞くけど、あんたはあいつにどうして欲しいわけ?」
「そりゃあ、消えないで、欲しいけど……いやあいつはさ、ほら、頭キレるし、面倒くさいことは全部あいつ任せにしとくと楽だし、だから、うん」
「じゃあ俺でいいじゃん」
「おまえはヤダ」
 即答だった。予期していても足に来る。だがそれを表には見せない。あくまで明るく、明るく。
「まあ、そうだろうな。でもさ、あいつが消えなかったときは、絶対に俺んとこ来るわけだから、俺と一緒に来れば再会できる可能性は一番高いわけだ」
「あ――」
「俺たちの勝負は終わってない」
 そう、まだ何も終わっていない。始まってすらいない。
 スタートラインにさえ、立っていない――。
 志馬はぎゅっと拳を握り締めて、顔をそむける。視界の奥に、熱が滲んだ。
「まだ何も終わってねえんだ。俺とあいつは、このまま二度と会わないか、もう一度会って、それっきりになるか、どっちかだ。どっちかしかない。他に道はない。そしてあんたは二番目のがお望みなんだろ。だったらついて来た方がいい」
「――それって、もう一度勝負するってことか、あいつと?」
「ああ。あいつが来ればな。もし来たら、今度は逃がさない。全力で叩き潰す。オール・インだ」
 飛縁魔が悲しげに顔を伏せた。
「おまえも、あいつのこと嫌いなのか」
 それは、自分でもわからなかった。
 ただ、わかるのは、たったひとつ。
 それだけは、間違ってないと思えること。
「だってさ――いらねえだろ?」
 ぱしっと拳を掌に打ちつけて、志馬は言った。

「人間の屑は、二人もさあ」

       

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