Neetel Inside ニートノベル
表紙

あの世横丁ぎゃんぶる稀譚
13.守銭奴

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 こっちこっち――キャスケット帽に連れられて、いづると、その足元に騎士のごとく付き従う電介は地下へ地下へと潜っていった。錆びた螺旋階段を下り、赤茶けた梯子を下り、ささくれだった鉄棒を猿のように滑り落ちた。外に向かっているのではないのだろうな、といづるが認めざるを得なくなった頃、二人と一匹の足が硬い石畳を踏んだ。
 いづるたちが降り立ったのは、石を積んで作られた高架道路の途中だった。橋、というべきかもしれない。ゆっくりと下へ続いている。あたりは真っ暗で、雪女の吐息のような冷えきった風が吹いている。電介がむにゅむにゅとブレザーのズボンに顔を擦り付けてくる。早く暖かいところへ連れて行ってやりたい。
「なあキャス子」いづるがあたりを見回しながら言う。「ここってほんとに外?」
 キャス子は吹き飛ばされそうな帽子を押さえて、怪訝そうに言う。
「キャス子……? まァいいけど。もちろん、外だよ。風吹いてるじゃん」
 キャス子の言葉を信用しようにも、明かりは石道の両端にところどころ組み込まれた灯篭のほかにはない。その橙色の光が届かなくなった先は、真の闇である。
「ここ、横丁の真下にあるんだよね。だからなんて言えばいいのかわかんないけど、一応あの世だし、外でもあるよ。もうちょっと下ると山とか見えてくるし」
「まだ下るのか? そのまま地獄行きなんてのは、ゴメンだな」
「ふふ、どうだろね。まあ紙島からは逃がしてあげるよ、それはほんとに」
 歩いていく二人の足音だけがこつこつと闇に響く。猫は足音を立てない。
「なあキャス子、ここが外なのは認めてもいいけど、僕は横丁の外に出たいんだ」
「ああ、そっか」
 言い忘れてた、とキャス子は呟く。
「この下から別ルートで地上へあがれるんだよ。そこまで案内してあげる。あ、そうだ、ついでにその左腕も治したげるよ」
 キャス子は手を伸ばして、いづるの左腕の傷口に触れた。そのままスッと一なですると、いづるの腕が綺麗に復元されていた。破れた服まで直っている。
「ありがとう」
 いづるは左腕を軽く振ってみる。怖いくらいに異常はない。
「どういたしまして。あたしたちは魂貨でできてるから、それを補充してやればいいだけの話」
「なるほどね、便利なもんだな」
 それからしばらく、二人と一匹は無言で歩いた。どれほど歩いただろうか、やがてあたりには霧が立ち込め始め、不思議なことにその白さでかえって周囲が見渡せるようになった。
 いづるたちが歩いているのは、万里の長城に似た城壁の上だった。その周囲を掛け軸に描かれていそうな立派な峰々が囲んでいた。どこかでちちち、と鳥が鳴き、がさがさと草むらを何かが這いずる音がした。
 普段は、人を騙すときでもなければ、じっくり考えてから喋るいづるだったがこのときはすんなりと言葉が出てきた。
「なんだか僕、こういうのわくわくするんだよね」
「こういうのって?」
 キャス子が帽子が落ちない程度に小首を傾げて聞き返してくる。いづるは周囲の山を顎でしゃくった。
「遠足とかでさ、山とかにいくじゃん。でも僕、実際に山の中に入るのがいやだったんだ。ズボン汚れるし、変な虫とか落ちてくるし。でも、こういう安全なところからああいうヤブの中を見るのは好きなんだよね。なにか得体の知れないものがいそうな気がしてさ、胸がざわざわする」
「へええ。でも男子だったらそこは野を駆け山を制し、とかなきゃ駄目じゃない? まあ気持ちはわかるけど」
「まあ、そうなんだろうね、普通はさ。だから小学校のときとかは、ぜんぜん男子の輪には入れてもらえなかった」
「あ~。わかるわかる。男子ってわりかしそういうので格付けされちゃうもんね。あんたひょろっちいし、ナメられてたんでしょ。このへっぽこ」さりげに悪口を混ぜてきたがスルーした。
「まさにそうだったよ。僕、運動苦手でさ、運動会なんて地獄だったね。小学校二年のとき、クラスでマット運動のパフォーマンスをやったんだけど、僕だけタイミングがいつまで経っても合わなくてさ。放課後まで残って練習しても駄目で。――当日はおなか痛いって嘘ついてトイレで寝てた。あのとき食べた弁当はもうほんとに不味かった。ああ自分はクズなんだなって思った」
「そりゃきついね。――でもさ、べつにあんたがゴミクズだったわけでもないじゃん、それ」
 思ってもみなかった返しだった。
 いづるの喉から「へ?」と裏返った声が出た。
 キャス子はそんないづるをちらっと見やって、
「だってそうでしょ。小学二年なんて毛も生えてないクソガキなんだから。そいつが放課後残ってまで頑張って上手くいかないって、あんたがどうこう以前に教えた方もクソカスだったってことでしょ。誰に教えてもらったの? 友達? 先生?」
 問い質して来るキャス子の声には有無を言わさぬ気迫があった。いづるを思いやって、というよりは自分の中の大事な何かにいづるの話がたまたま触れてしまってスイッチが入ったような感じだった。いづるは若干尻込みしつつ、
「せ、せんせい」と答えた。キャス子はフンと鼻を鳴らし、
「じゃ、そいつが役立たずのごく潰しのクズ野郎だったってこと。八歳だったあんたがうじうじする必要なんかないでしょうが。あんた探せばそのへんにいくらでもいる自分と似たような立場のガキ捕まえて『このクズがっ!』……って罵るわけ?」
「いやそんなことはしません決して」思わず敬語になった。
「でしょ。だったらいちいちつまんないこと覚えてなくていいよ。忘れちゃえそんなの。で、なんかもっと楽しい話ないわけ?」
「ううん……それは、あんまり、ないかな……?」
「あそ」
「なんか、ごめん」
「いいよ、あたしもないし。お互い様」
 そういうキャス子の表情はもちろん仮面に阻まれていづるにはわからなかったが、それでも一瞬、寂しげできつそうな女の子の横顔が透けて見えた気がした。
「なんか変な話しちゃった。なんでこんな話になったんだっけ」
「――忘れた。でもなんかすっきりした。ありがとう」
「お礼はまだいいよ。――あ、見えてきた」
 キャス子が指差す先は、峰々のふもとだった。城壁の果て、苔むした山に囲まれたそこには、円形の建造物が鎮座していた。いづるの脳裏に世界史の資料集の数ページが蘇る。
「あれって、コロッセオ? イタリアの……?」
「いいねえイタリア。いってみたかったね」
 感慨深げにキャス子がため息をついた。
「ああ食べてみたかった、本場のプロシュート。ねえ、門倉はサイゼで何が好き? あたしミラノ風ドリア」
「僕、一回しかいったことない」
「へえ。そのときはなに食べた? ハンバーグおいしいよね。あの美味しさであの値段だったらあたしはあの肉がどんなものでも受け入れるよ」
「僕はあれがビーフじゃなかったら結構へこむ」
 途切れることなく雑談する二人のうしろで、電介が不満そうに「なーお」と鳴いたが、彼の相棒は気づいてはくれなかった。
 城壁は闘技場の中へと繋がっていて、いづるたちはそのまま鬼の口を模した入り口から入場した。あたりには妖怪も死人もおらず、暗く、空き缶を投げたらそのまま返ってこなさそうな暗がりと静寂がそこかしこに満ちていた。いづるは昔見た夢を思い出していた。夢の中で、いづるは誰かに追われている。いづるは必死に逃げて地下道に下り、そこで腹に受けた傷の痛みと流れる血の暖かさを掌で受け止め続け、耐え、そしてまた逃げようとして顔を上げると目が覚めるのだ。あのとき自分は何から逃げたかったのだろう。あのとき自分は、何に追われていたのだろう。
「着いたよ」
 狭い通路の奥に鉄扉があった。それを見上げてキャス子が言う。
「ここが出口だよ。さあ、行って。あたしはまだ用があるからここに残るけど、ここから先は一人でも大丈夫」
「そっか……本当にありがとう、助かった。君がいなかったら、僕はたぶん今頃消されてた。またどこかで会いたいな」
「そうだね」
 キャス子は帽子を目深に被り直して、
「さ、行って。……あんまりもたもたしてると、別れるのが辛くなるから」
「キャス子……」
「その呼び方。――そんなにイヤじゃなかった」
 キャス子は後ろ手を組んで、とんとん、とバックステップを踏み、そのまま後方の闇へと溶ける様に消えていった。
 耳を澄ましても、足音はもう聞こえない。
 いづるは、壁にかけられたランタンの炎が揺らめく様をしばらく見つめた後、意を決して鉄扉に手をかけた。また会えるといい、とは言ったが、おそらくキャス子とは二度と会えないだろう。勝負好きのカンというやつだろうか、それがわかっていただけに、別れが本当に惜しかった。
 それでも前へ進もう、と思う。飛縁魔をこのままにはしておけない。
 しておきたくない。
 鉄扉を開けた。
 刺すような光が、仮面を貫いていづるの目をくらませた。
「う――」
 一歩、二歩と光の中へ踏み出すと、それまで強烈だった光が潮が引くように弱くなっていった。何度か瞬きして、顔を上げる。
 そこはグラウンドだった。茶色い土があって、少し先に土を盛って作られたマウンドがある。だが、球場にしては狭かった。普通はショートが中腰になっているあたりが、もう観客席になっている。誰かがたくさん、そこからいづるを見ているようだったが、まだよく見えない。
 マウンドのあたりまで歩いた。そして誰かに見られているような寒気を首筋に感じて、振り向くと、照明のついたポールの根元に誰かが立っていた。逆光で顔がよく見えなかったが、頭の輪郭が丸いのでいがぐり頭だとわかる。手にはバットを持っている。
「誰――?」
 バットを持った人影は答えない。ただ無言でバットを構えた。
 ボールを打つために、ではない。
 それは、両足を開いて、大根でも切るようにバットを持つ構え。
 人を襲う、構えだった。
 いづるは思わず一歩下がった。なにがなんだかわからない。だが喜ばしい事態ではないことだけはわかる。
 ここはどこなのか。
 やつは誰なのか。
 なんの対策も立てられないまま、どこかでまた鐘が鳴らされた。沈黙し続ける観客席を埋める気配が、むっとその濃度を濃くした。まるでおあずけを喰った犬のような、それでいてその待ちを楽しんでいるような、あの気配。
 賭けの気配だ。
「――――ああああああああっ!!!」
 人影がバットを振り上げて飛びかかってきた。いづるは咄嗟に横に逃げ、光源から離れた敵を視認する。緑色のジャージを着た、いがぐり頭の少年だった。
 少年は、顔に白い仮面をはめていた。いづるをめがけて振り下ろした金属バットが、グラウンドにめり込んでいる。
「やめとけよ」いづるは言った。「死人を二度は殺せない」
 いがぐり頭がいやいやをするように首を振った。
「うるせえ……うるせえんだよ……畜生、なんなんだよ……なんで俺がこんな……」
 ぶつぶつ言いながら、バットを構え直す。
「なんで俺が死ななきゃ……なんで……俺は……畜生、俺はぁ……!」
「ふむ。相当無念な死に方をしたらしいな。よかったら僕に話してくれないか。話せば楽に成仏できるかもしれない」
 返答はバットに乗って返ってきた。いがぐり頭がジャージのポケットから白球を取り出して、それをジャストミートさせたのだ。ちょっとした死因になりうる速度で飛んだボールはいづるの肩を直撃して頭上高く舞い上がった。
「ぐあっ……! くそっ、おいっ、病み上がりなんだぞ左腕は……」
「うるさいっ! 頼むから黙って消えてくれっ!」
 いがぐり頭はバットを足元に捨てて、肩を押さえるいづるに両手を伸ばして突進してきた。いづるはそれを見て、痛む肩のことを忘れた。――どうしてバットを捨てた? 僕に同情したのか? まさかそんなわけはない、それなら最初からバットなんか持ち出したりはしないだろう。なにか理由があるのだ。素手にこだわる理由が。だがそれを悠長に考えている時間はない。
 いづるは咄嗟に、いがぐり頭の両手と組み合って、押し合う形に持っていった。腕力に自信はないが、しっかり踏ん張っていればそうそう押し倒されたりもしない。この隙に説得ないし情報収集に努めるつもりだった。
 だがどうもそれは無理そうだった。組み合った掌から、じゃらじゃらと嫌な音がし始めていた。いがぐり頭の鼻息も荒くなっていた。まずい、まずいのはわかっているが、どうにもならない。
「うおおおおおおおッ!」
 いがぐり頭が咆哮し、いづるの掌から先をねじ切った。切断部からまた派手に赤い魂貨が血のように噴き出し、いづるの身体が横倒しになった。ねじ切った掌をグラウンドに投げ捨てて、いがぐり頭がマウントを取るべく飛びかかってくる。いづるはまだ衝撃の抜け切っていない頭と身体を総動員して、背中を丸めて頭を腕で押さえた。脇を固めた土下座の姿勢である。
 いづるはぎゅっと身体を硬くして、次の攻撃がやってくるのを待った。しかし何も起こらない。いがぐり頭がぼそっと「くそ」と言った。そして次の瞬間、いづるはわき腹をバットで打ち上げられた。生きていたら肋骨が折れていただろう、激痛が走った。ゴロゴロとマウンドを転がる。制服が土まみれになり、喉から押しつぶした蛙のような声が出る。だがそんなものは少しも気にならなかった。頭の中に浮かぶのは疑問符。
 ――なにが「くそ」なんだ? そんなに亀のポーズが「くそ」だったのか?
 この少年、哀れではあるが間違いなく馬鹿である。頭の中には常に疑問が渦を巻き、貪欲に答えを欲している。そうして誰も教えてくれないので、やがて自分で勝手に解答をひねり出す。
 だがいまはとにかく起き上がって距離を取らねばならない時だ。
 掌がないので腕を使って身体を起こした。
 いがぐり頭は、ゆっくりとこちらに近づいてくる。余裕だ。さっきまで見せていた殺気が和らいでいる。バットもまた足元に捨て置かれている。だが戦意を喪失したわけではないらしい。こちらの両手を潰したので、優位は揺らぎ無いということか――いづるは中腰になって膝に腕を押し当て、魂貨の流出を抑えながら考える。そのとき、ふいに声をかけられた。
 おおい、門倉あ。
「………………」
 仮面を外して裸眼で思い切り睨んでやりたい気持ちを抑えて、首だけで振り返った。観客席はすぐ上だった。いまになって、その客席を埋めている連中の面が拝めた。大半は、カエル、トカゲ、カメの顔をした連中だった。全員黒いローブをまとって、いづるをにやにやと見下ろし、時々くすくす笑ってくる。そんな連中に混ざって、キャスケット帽をかぶったのっぺらぼうが、いづるに手を振っていた。
「久しぶりじゃん! 元気してた? ああ懐かしいねえ、思い出すよ、あの頃を……さ!」
「およそ三分前だね」ドスの効いた声でいづるが言う。
「やってくれたなキャス子。僕をはめたな。何が出口だ、何が別れるのが辛いだ。よくも言えたもんだな」
「人聞きが悪いなあ。ちゃんと外には出してあげたでしょ? この広いグラウンドを見てごらんよ。それに紙島の式神も追ってこないし当然だけど。ほら、あたしあんたの願いは叶えてあげたよ?」
 まあでも、とキャス子は顎に指を当てて黒い空を見上げ、
「確かに黙って放り込んだのは悪かったかもしれないから、ちょっと助言をしてあげよう。いい、門倉? あんたがいまやってるのはあの世の決闘――『守銭』だ。銭を守る、趣旨そのまま。オーケイ?」
「オーケイ」いづるはじりじり動いていがぐり頭と距離を保ちつつ、
「で、どうすればいいんだ。どうも僕はいま不利っぽいんだけど」
「焦らない焦らない。よく聞いて、まずルールその1」
 キャス子がピッと人差し指を立てた。
「――『素手で掴め』」
 やっぱり素手か、といづるは呟く。
「いがぐり頭はさっきバットを捨てた。あれは、素手を使わなければ勝負が決まらないからか?」
「ご明察。あんたがさっき掌を千切られたみたいに、相手を魂貨に落とせるのは素手で掴んだときだけ。バットはメインで使うためのものじゃなくって、手ぶらのあんたをリーチの外から殴ってひるませて、そのあと素手で掴むっていう算段だったわけ。相手を魂貨にするための攻撃を『魂貫』っていうんだけど、守銭では『魂貫』ができないと絶対勝てないから気をつけてね」
「わかった。――ところでものすごく困ったことがあるんだ」
 いづるは両腕を掲げて見せた。
「手、もうないんだけど」


     



「心配ご無用」キャス子が指をちっちっちと振って見せた。
「そういううっかりさんのために、ちゃんと救済策が用意してあるよ。よかったね」
 何が救済だ、決着が簡単に着いたらおまえらが退屈だからだろう――と思いはしたが、黙っておいた。キャス子は顎でいづるの背後をしゃくる。
「ほら、あそこに箱があるでしょ。千両箱。わかる?」
 見ると、キャス子の言うとおり、グラウンドに半ば埋もれるようにしてゴキブリの背中みたいにてかてかとした箱があった。
「その中に回復用の魂貨が入ってるからさ、そこで補充しなよ。腕を突っ込んで、なくなった部分が『あるんだ』って思い込めばいいからさ。得意でしょ、現実逃避」
「まあね――うわっ?」
 いづるはプールに飛び込むように横に跳ねた。かすめるようにしてバットが宙を回転して飛んでいき、客席へ続く壁にぶつかってカァンといい音を立てた。ちっ、と誰かが舌打ちする。
「くそっ」
 ころころと転がるバットが止まるより早く、いづるは駆け出し、千両箱に飛びついた。フタを蹴り上げて開けると、中には赤い硬貨がどっさり詰め込まれていた。フタを開けた途端に何枚か地すべりを起こしてグラウンドに零れ落ちるほどのフィーヴァー具合。まさに守銭奴が目にしたら瞳まで硬貨に変わってしまうような光景だった。だが、ここから生きて(生きて?)帰らない限り、これはメダルゲームのそれと何も違わない。パンも買えなければ何かに張ることもできないのだ。
 いづるは切断部を合わせて硬貨の流出を防いでいた両腕を千両箱の中に突っ込んだ。そして仮面の奥で目を閉じて念じる。自分の掌を。毎朝毎日見続けてきた節くれだった手を。冬になると必ずあかぎれして血を滲ませた指を。強く、強く。そうしているうちに、なんだか掌の感覚が戻ってきた、ような気がした。この感覚こそが大事なのだと瞬時に判断、より強く、あるというよりもないなら生やすという気概で念じる。そしてその念が至高に達したと悟ったとき、いづるは硬貨の山から手を引き抜いた。そこには、元通りになった自分の両手が、
 なかった。
「……キャス子?」
 ごめんごめん、と上の方から聞こえてきたので顔を上げると、キャス子が片手拝みして他の観客たちの前を通っていた。
「おいキャス子これはどういう……?」
「才能ないんじゃん?」キャス子は落下防止用の手すりに頬杖をついて、つまらなそうに言った。
「あたしに文句言われたって困るわ。――ていうか、ちょっと興ざめなんですけど。手も戻せないって何? 普通できるんだけど。あーあ、あたしあんたに張ってたのに。損したなあ、大穴すぎたか。せっかくあたしがお膳立てしてあげたのにさ、なにこれ?」
「キャス子」
 いづるは切断されたままの両腕を、キャス子と、そのうしろにある、被造物を見下ろす神の目のような照明に向けた。
「僕は負けるのか?」
「手がないんじゃね、掴めないし」
「そっか」
 いづるはひとつ頷いて、背後からこっそり掴みかかろうとしていたいがぐり頭のみぞおちに思い切り肘鉄を叩き込んだ。さっきから、キャス子のそばのトカゲ男とカエル男がにやにやしていたのでそんなことだろうと思っていたのだ。うめき声をあげて後ずさるいがぐり頭を振り返る。
「汚いね、勝負はなかば決してるんだろ? だったらせめて最後くらいフェアにいこうって気持ちはないのかな。スポーツマンなんだろ、一応?」
「うるせ……よ。俺は、俺は」
 いがぐり頭はもう二度と伸びることのない髪を両手で押さえて、
「俺は向こうに帰らなきゃいけないんだ……試合があるんだ、試合に出て、勝って、そしたら、俺、告白するんだ。告白したいやつがいるんだ。ずっと言いたかった、初めて同じクラスになれて、高校二年生の春なんだ、レギュラーなんだ、まだまだやりたいことがたくさんあるんだ、だから」



 ――死んでくれよ。


 いがぐり頭の右手がいづるに迫る。対するいづるは素手ですらない。絶対唯一の攻撃手段がすでに消失している。歓声さえあがらなかった。
 ああやっと終わるのか、誰もがそう思っている中、
 いづるはその場で身をひねった。伸びてきた右の二の腕の下に、自分の右肘を差し込んだ。力は入れなかった。ただ、持ち上げるように少し上向きの力を加えた。殴ることに気を取られていたいがぐり頭は反応ができない。そのままいがぐり頭の身体が軽く浮く。まだつま先は地面に触れていた。それで充分だった。いがぐり頭のたくましい胸板と腹筋に、自分の薄い背中を合わせる。そのときにいがぐり頭の伸びきった右腕の、手首より少し前に左肘をやや斜めに差し込む。すっと死神の鎌のように、とどめの右足をいがぐり頭のそれの前に置いて、自分の膝にいがぐり頭の重心がすべてかかった瞬間に、全身のバネを使っていがぐり頭をハネ飛ばした。
 ひあっ!? と女の子みたいな悲鳴をあげたいがぐり頭は一回転してグラウンドに背中から叩きつけられ、今度はカエルのように呻き声をあげた。いくら死んでいても数秒は動けない。
「体育の柔道は得意だったんだ、これでも」
 いがぐり頭が身悶えしている隙に、いづるは走った。
 苦悶するいがぐり頭に、ではない。
 グラウンドを囲む壁めがけて、である。
 いづるが何をしようとしているのかを悟って、観客席からブーイングの声があがった。いづるは気にせず走り続ける。中身の残ったポップコーンの容器やジュース類が飛んできていづるをべたべたにした。いづるは気にせず走り続ける。そしてゴミが散乱したグラウンドを振り返りもせず、マラソン上等のスニーカーで地面を親の仇のように踏みしめ、高さ五メートル強の垂直の壁めがけて、跳んだ。

「いっ――けええええええええええええええええっ!!」

 いづるのスニーカーが、壁を垂直に踏みしめた。一瞬、そのまま、駆け上がっていきそうに見えた。おお、と誰かが呟いて、
 そして、
「うおわあああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ……へぶぁっ」
 無論、無理なものは無理である。
 いづるのスニーカーは一瞬の夢を見たあとすぐに我に返ってつるっと空すべりし、いづるは頭から地面に激突した。そのままべしゃっと倒れ伏す。
 笑っていいものかどうか迷っているような、沈黙が降りた。
「うう……」立ち上がりざまに首をぶるっと振る。「だめか」
「当たり前だろ……馬鹿か、おまえ」
 いがぐり頭が腹を押さえながら、マウンドの盛り土を越えてやってきた。
「イカれてんのか? 壁なんか、登ってあがりきれるわけねえだろ」
「わからないぜ。そのうちできるようになるかもしれない」
「ならねえよ、できもしなければ意味もな。それにお前には死んでもらう。ここで、絶対に――」
 だからもう死んでるって、といういづるの切り返しを無視して、いがぐり頭はぐっと腰を落として構えた。
「俺はやり直すんだ――今度はもっといい条件で」
「どういうこと? やり直すって、何?」
「もういい、もうわかった。これはチャンスなんだ。そうなんだろ? 俺が俺を超えるための、機会。そう思うことにした。おまえを見てたら吹っ切れた。そうとも、世の中おまえみたいな馬鹿がまだまだたくさんいるんだ。俺が死ぬ道理はねえ。向こうに戻ったら、おまえみたいなのを狙うよ」
「何を言ってる?」
「俺はやり直す――たとえ誰かの尊厳を盗むことになっても、だ!」
「聞けよ、人の話――」
「聞かねえっ!!」
 いがぐり頭が雄たけびをあげて突進してくる。
 いづるはその場を動かない。逃げ出したくなるほどの『敵意』を一身に浴びて、幻の脳がびりびりしびれた。このまま突っ立っていたら、自分は間違いなくやられてしまうだろう。
 確かに、自分は罰当たりなことばかり言ったりやったりしてきた。死後の世界も幽霊もありはしないし、そんなの弱い人間の慰め道具に過ぎず、自分は墓もいらなきゃ来世もいらない。そううそぶいては弱い人間の心を傷つけてきた。誰がそれをどう信じていてもよかったはずなのに、そんな夢まで一つ残らず踏みにじってきた。それが正しいと思ったから。夢を壊すことが、ではなく、あの世なんてないんだ、ということが。
 これが正しい、と思ってしまったら。
 それなら信じられる、とわかってしまったら。
 そうする以外にやり方を思いつけなかった。そうしないことは許容できなかった。要領よく誤魔化しごますり生きていくのは嫌だしできなかった。
 神にも唾吐く生き方をしてきた。それはわかっている。
 それでも、いい加減、限界だ。思い返せども数え切れない。自分の不遇、ツイてなさ、都合の悪さ。あんまり言いたくないが、それでも今だけは言わせて欲しい。
 なんだこれ。
 痛い目、つらい目、イヤな目、ひどい目に遭って遭って遭い続けて。
 それでこんなところまで落とされて。それでもまだ状況は悪くなり続けて、ゆっくり考える時間さえ与えてはもらえない。急かされるように「ほら次だ」と嫌がらせのように続く苦境苦難困難試練の乱れ打ち。
 いい加減、むかっ腹のひとつぐらい立ててもいいだろう。
 それぐらいの権利も許されないなら、もういい。わかった。
 えこひいきばかりする神様なんかに、もうかける言葉はなにもない。
 ――――完全に、
        怒った。



 地面を足蹴にして駆け出した。腕を振るたびに魂がこぼれる。そのたびにむかつきがひどくなる。キャス子は言った、普通ならできる、と。そうかなるほどこんなところに堕ちてまで、僕は人並み以下で空気の読めないごく潰しのろくでなしか。
 いいよ、それで。
 『手』があればいいんだろ?
 用意してもらわなくっても結構だ。
 僕を嫌った母上と顔も知らない父上からもらった立派な手がねじ切られたまますぐそこにまだ転がっているから。
 その位置取りのために、壁蹴りなんてまぬけな真似をする羽目になったのだ。


 ○


 いがぐり頭が一間の距離を越えてきた。もう数瞬もしないうちにその両手はいづるを引き裂くだろう。だが、いづるの右足も、しっかりと、自分の掌を蹴り上げるコースにすでに乗っていた。スニーカーに、自分の掌を蹴る世にも奇妙な感覚が伝わってきた。
 いがぐり頭が両手を振り下ろそうとしていて、その爪の間のどす黒い汚れが見えた。それはきっと、野球の練習のしすぎで魂にまでこびりついて取れなくなった汚れなんだろうな、といづるは頭のどこかで考えた。
 右掌が弾道ミサイルのように、いがぐり頭の顔面めがけて吹っ飛んだ。いづるの蹴り上げた右足は限界いっぱいまで跳ね上がった。
 勝った。
 いづるがそう思ったそのとき、蹴り上げた右掌が砕けた。
「あ――」
 おそらく、観客席からはよく見えなかったであろう。
 夏のスイカみたいに割れて赤い魂貨の塊になったそれは、もういづるの『掌』ではなかった。
 ――手がないと勝てないよ。
 聞いたかどうかも定かではないキャス子の声が聞こえた。
 ほんの一瞬。
 ほんの数秒。
 それを手に入れられなくて、自分は負ける。
 そう思っとき、いづるの脳裏には何もよぎらなかった。消滅を目前にして、あるのは空白だけだった。恨みも嘆きも怒りも悲しみも、全部まるごといづる自身にもわからないどこかへと吹っ飛んで消えたしまった。
 魂貨が炸裂した散弾のように、狙いだけはいまだに正確にいがぐり頭の白仮面へと向かっていく。ちらっとジャージの胸元に刺繍された名前がいまさらになって目に入る。このいがぐり頭は吉田という名前らしかった。
 もっと他人に興味を持とうと思った。もしも来世が、あるなら――










                              ――ねえよそんなの。







 最後の最後に身をよじった。腰がみりみりと嫌なきしみ方をしたが知ったことではなかった。吉田の爪が、いづるの髪を数本千切っていった。そのときに少しだけこめかみもひっかかれて数枚の魂貨が剥がれ落ちたが、そんなこと、どうでもよかった。
 吉田は、右腕を突っ張らせ、指を伸ばしきった姿勢のまま、空気にセメント漬けされたように、その場を動かなかった。だがそれも振り返ってみれば一瞬、吉田の身体はゆっくりと、傾いていって、そのまま慣れ親しんでいたであろう土のにおいのなかに倒れこんだ。
 その首から上は、なにもなくなっていた。
 魂貨に砕かれた白仮面の破片が、思い出したように、吉田の身体に降り注いだ。そして吉田の身体はその緑のジャージごと、魂貨の塊になった。
 夢から覚めたように、吉田を吉田たらしめていたものすべてが消えた。
 いづるは、グラウンドに大の字になって、耳で聞いて、それを知った。呼吸する必要なんてないのに、息が上がっていた。身体の芯がジン、と熱かった。これも幻覚なのだろうか、と思い、誰かに聞いてみたくなった。無性に誰かと話したかった。責め立てるように輝く照明が鬱陶しかった。誰かに抱きしめて欲しかった。その胸に顔を埋めて、この光から隠れたかった。
 いつ、立ち上がったのか、覚えていない。
 いづるは煌々と照らし出された野球場のど真ん中、ピッチャーマウンドの上に立っていた。猫背なのが自分でもわかった。魂貨がこぼれないように、ポケットに両手を突っ込んでいた。
 光の向こうに、自分と吉田の争いを見物していたやつらがいるのが、わかった。
「――くっ」
 歯の隙間から噴き出すような笑いが漏れた。それはどんどん大きくなって、こらえがたくなった。くくくくくと笑っていたのがもう辛抱たまらなくなってハハハハハハと大声で笑い始めた。観客たちに奇妙な目で見られているのがわかるが気にならない。
 背筋を伸ばして、声を張って、
 言った。








 ざまあみろ、オケラ共








 地獄の裁判官さえ逃げ出しそうな大ブーイングの集中砲火を浴びながら、
 掌から先ののない腕を高々と掲げて、
 門倉いづるは、闘技場を後にした。



(つづく)

     




 勝負が終わって、入場ゲートから闘技場内部に戻ると、黒ローブをまとったヤギ頭の大男がいづるを待ち構えていた。ひねくれすぎて何も刺せないのではないかと思ってしまうような黄ばんだ角が頭の横から二本生えていて、エメラルド色のおそろしいくらいにゆがみの無い真円の瞳に紺色のブレザーを着た血みどろののっぺら坊が映っていた。
 ヤギ男はついてこい、と顎をしゃくる。べつについていく義理もなかったが、とにもかくにも情報も魂も気力も尽きていた。もうどうにでもなるがいい、なにが起ころうと――いづるはろうそくの炎に照らされて鈍く輝くヤギの角を睨んだ。――気に喰わなければ抵抗するだけだ。もともと、好き放題にヤられまくっておとなしくしていられるほど温和じゃあない。べつにそのヤギ男がいづるに何かしたわけではないのだが、ささくれ立ったいづるの神経はまだ戦闘態勢を解かない――真の闇の暗がりにうずくまって、自分の鼓動に耳を澄ませる時までは、決してそれが安らかになることはない。
 いづるは一言も口を利かなかったが、ひょっとするとそのあまりの警戒がヤギ男にも伝わっていたのかもしれない。ヤギ男は客の性質を一瞥して見抜く熟練のタクシードライバーのように静かに素早く、いづるをひとつの鉄扉の前に案内した。そしてそのまま何も言わず、闇に溶けるように消えた。
 鉄扉には『霊安室 その13』とプレートが下がっている。ノブを握ろうとして、手首から先がなくなっていることに気づいた。なんとか四苦八苦してノブを回し、肩で体当たりするようにして中に入った。
 霊安室なんて誰が名づけたのか。
 一泊で月給が飛びそうなホテル風の一室で、キャスケット帽をかぶった少女がベッドに腰かけていた。
「やあ門倉、お疲れさん」
「……。やあ、人でなし」
 キャス子は肩をゆすって笑い、抜け目無く首を振った。
「そう言わないでよ。一応、アドバイスもしてあげたでしょ? こんな可愛い女の子がセコンドしてあげたんだから、無条件で許すべきだよね」
「……………………」
「荒れてるなあ。勝ったんだから喜べばいいのに。――蟻塚あ」
「なんでしょう」
 急に背後から声がしたのでいづるが驚いて振り向くと、黒服に白いスカーフをした執事が立っていた。その顔には、見慣れた白仮面。死人だ。
「門倉の手、治してあげて。それはロハでいいや」
「かしこまりました、お嬢様」
 蟻塚と呼ばれた執事はいづるがポケットに突っ込んでいた両手を乱暴に掴むと、懐からいくつかの小銭を取り出して傷口に振りまいた。そして三度何もない空中を撫で、四度目でいづるの手が復活した。いづるは自分の掌を神経質にさすって、どうもありがとう、と執事に礼を言ったが、彼は無言のまま扉のそばで仁王立ちする仕事に戻ってしまった。
「まず、改めてお祝いするよ。おめでとう、門倉。あんたは『守銭』を生き残った。このあの世の果てで生き延びるチャンスとを得て、その資質も表明した。言うことなしだね。気分はどう?」
「いまのところ最悪」
 ははは、とキャス子は愉快そうに笑った。
「まあ、なにも言わずに連れてきちゃったしね。感じはよくない、か。いいよ、じゃあお詫びになんでも聞いてよ。できるだけ答えてあげるから。そこ、座って」
 いづるはキャス子と向き合う形で、ソファに腰かけた。すると蟻塚がすっと音もなく主人の脇に立った。顔は見えないというのに、なぜだか睨まれている気がしていづるは落ち着かなかったが、失せろとも言えない。若干もごもごした口調で切り出した。
「どうして僕をここに?」
「ああ、守銭に新規のプレイヤー突っ込むと紹介料もらえるんだよね。実はあたしもさっき客席にいたんだよ。あんたと志馬のすぐそばにいたんだよね。で、会話が聞こえてたってわけ」
「なら、志馬を誘えばよかったんだ。僕よりかは、やつの方が優秀に見えただろ? 魂貫もしてたし」
「うーん、誘えなかったんだよ、あいつはもう守銭をやったことあるから」
 ――志馬が。
 一瞬、胸に熱い火が点る。だが、それはすぐに消えてしまった。
「……もういい。とにかく僕は上に出たい。上に出る方法を教えてくれ。それだけで充分だ」
「それは無理。あんたはもう登録を済ませちゃったから」
「登録?」
「そ。さっきのが予選だったんだよね、実は。あんたは吉田を倒して勝ち上がっちゃったから、本選にエントリーされたの。もう取消はできない、負けて両替されるまではね」
「逃げたらどうなる?」
 逃げられないよお、とキャス子は言った。
「もうこの闘技場には結界が張られたから。なにもない出口でずっとウォーキングしたいっていうなら止めないけど。でも、どうして上に出たいわけ? あんたを追ってる紙島の式神がうじゃうじゃしてるだろうに」
「それは、姉さ……知り合いが封印されてる刀が置き引きされたんだ。できればそれを探し出して信頼できるやつに届けたいけど、無理ならせめてこのことだけでも伝えたい。それさえ済めば、もうあの世に残留し続ける気なんてない」
「ふうん……あっそ。どうでもいいや、そんなの」
 キャス子の機嫌が目に見えて悪くなり、脇に控える蟻塚からの殺気もまた一段と強くなった。
「どっちにしろ、あたしにはもうどうにもできない。ここから出たければ優勝するしかない」
「優勝?」
「そう、あんたが登録した『本選』。あの世の決闘、守銭奴の宴、地獄の沙汰も腕次第――それが、『第六天魔王会』」
「魔王……会」
 門倉さ、とキャス子が言う。
「さっき、用が済んだら消えてもいいって言ってたけど、それって都合よすぎない?」
「え?」
「あんたの言う信頼できるやつが誰にしろ、あんたの頼みを聞いてくれるかどうかわからないでしょ。その知り合いとかいうのを助けてくれないかもしれない。そしたらどうすんの? そしたら、しょうがなかった、運が悪かった、自分には無理だった、他の誰かがやってくれたらよかったのに、そんな女の腐ったようなこと言ってほざいてぬかして無様に消えていきたいの、あんたは?」
「それは……」
「助けたい? だったら自分で動けよ門倉いづる。――守銭奴になって、魔王会を勝ち上がって、一番を取ればその時間と資格があんたには手に入る。これはあんたが願ってもみなかったチャンスのはず――あの状況で紙島から逃げられて、残り少ない自分の時間を水増しできる勝負に出会う。あんたは、それを願っていたはず。あたしは、それを用意した。迷うことなんてなにもない、これが、これこそがあんたの願いだったんじゃないの? それを誤魔化して、言い訳して、遠慮して、他人に譲ったり任せようなんて虫が好すぎて反吐が出る」
「…………」
「この世でなにか思い通りにしたいというなら――押し通せ、その傲慢。あんたにはそれができる。あたしの目に狂いはない」
 いづるは改めて、この正体不明の少女を見た。
「きみは、誰?」
「だから、キャス子なんでしょ? いいよそれで。そしてあたしは、これから守銭で苦しみ続けるあんたが勝つ方に賭け続けるバクチ狂いでもあるし、そのためにあんたを鍛えるセコンド役になってもいい。もしあんたが、あたしの手を取り、優勝すると一言誓ってくれればね」
「セコンド役なんて、できるのかよ。さっきはぜんぜん、役に立たなかったぜ」
「言うじゃん」仮面の奥でキャス子がにやっとしたのが、見なくてもわかった。
「こう見えてもあたし、通算試合数歴代五位、MAXダメージ額七五六万三〇〇〇炎、そんでもって第五天魔王会の優勝者『金色夜叉』――なんだけど? 文句ある?」
 金色夜叉?
「――っぷ」
 思わず、笑ってしまった。キャス子の耳が一気に赤くなった。
「……わ、笑うな。しゅ、しゅしぇんでは闘士に異名をつけるのがならわしなにょよ」
「お嬢様、しっかり」
「う、うるさい蟻塚、ばかぼけあほ」
 こほんと、もはや修正不可能な威厳を取り戻そうとして咳払い。
「で、どうすんの門倉。あたしはどっちでもいいよ。わかってると思うけど、あんたのファイトマネーはあんたが残留できる分以外は全部ピンハネするから」
 そう言って、ん、とキャス子は掌を出してきた。
 夢のように白くて砂のように細い手だった。
 その手を取る、ということは。
 もっと多くの『吉田』を犠牲にするということ。
 死にたくて死んだわけじゃない。やりたいことがまだあった。こんなところじゃ終われない。
 そんな、報われぬ魂たちを足蹴にし、蹂躙し、完膚なきまでに打ち砕く。
 それは、そういう道を往くということ。罰が追いつかないほどに罪を重ねて重ねて重ねて、
 願いも祈りも踏みにじって、腐臭をまとい泥を浴びても勝利する。
 そういう決意をするということ。
 いまならまだ引き返せる、そう思って逡巡したその瞬間、『吉田』の声が聞こえた。

 俺は消えたぞ、と。
 おまえはもう俺を消したぞ、と。

 そうだよな、と思う。
 もう引き返せない。あの時、退かないと決めたとき、
 自分はもう、この手を取っていたのだから。
 いづるは差し伸べられた冷たい手を握り締めて、言った。
「今後とも、よろしく」

     



 いづるが「疲れすぎて頭がじんじんするので休みたい」と言うと、キャス子はあっけらかんと「眠りたいならあたしのベッドで寝ればいいじゃない」と言ってのけた。これが蟻塚の静かなる怒りに火を点けた。
「お嬢様、それはいけません」声に余裕が無い。
「ふふふ、過ごしてみたいね、イケナイ夜。――で、何、蟻塚。文句あんの? じゃあこの門倉ボーヤはどこで休んだりどこで自主トレしたりするわけ。ケータイもないこんな世の中でどうやってあたしと連絡取るわけ」
「そんなことは知ったことではありません。お嬢様、すでに仲介料は入ったはずです。もう目的は達せられたのです。我々は死んでからも愚図愚図している馬鹿どもをこの地獄に落とし込んで、そのおこぼれを頂戴する、それだけで充分過ごしていけます」
「へえ? ――蟻塚、あんた自分のご主人さまを糞にたかるハエ扱いしてんの、わかってる?」
「――。いえ、言葉が過ぎました。お許しください」
「許すと思う? このあたしが」
「――お嬢様」
「まあ、でも、心配してくれてるのはわかるよ。おしべとめしべの話もあるしね、うん。まあ死んでるから不毛なんだけどさ、あたしだって腐ってもレディですよ、モラルぐらいわきまえてるつもり。でも門倉はたぶんオオカミだからなあ」
「……人を不当にケダモノ扱いするのはやめてくれないか?」
「――と、容疑者は申しておりますが、蟻塚先生?」
「信用できませんね、こんなドラ猫の言うことは」
「うーん、困ったなあ。蟻塚はあたしが心配、でも門倉はいくところがない。どうしようか……ん?」
 キャス子はぽん、と手を打って言った。
「ああ、なんだ、簡単じゃん。蟻塚」
「はい」
「あんたの部屋に、この子泊めたげて」




 ○




「……………………………………………………………………………………………」
「……………………………………………………………………………………………」
 気まずいことこの上ない。
 蟻塚はいづるなど存在しないかのように闘技場内回廊の入り組んだ通路の一つを優雅な足取りで行進し、そのうしろから俯いてついていくいづるはドサ(手入れ)を喰った一昔前のバクチ打ちのようだった。
 いつもは気にならない足音が、やけにうるさく聞こえた。
 いづるは悩んでいた。何か気の利いたことでも言ってやって「お、こいつなかなか話せるじゃん」みたいな空気を手に入れたい気持ちはあるのだが(それはもう喉から手が出るほどに)、気合を入れれば入れるほど何も思いつかなくなって沈黙が重たくなっていく。いっそ途中で間違ったフリをして別の小道に入りそのまま永遠にこの執事からおさらばしてしまおうか。しかし道はいまのところまっすぐで、ついうっかりで済みそうな手頃なルートが見つからない。いよいよ静寂に耐え切れず、いづるが呼吸困難に陥りかけた時、前をいく蟻塚がぼそっと言った。
「言い忘れていたが、おまえの猫は私が預かっている」
 いづるは息を吹き返した。なんだかこの執事には最初から嫌われているようだが、彼だって鬼じゃあるまいし、まだまだ挽回の機会はあるはずだ。いづるは噛まないように気をつけて丁寧に言った。
「ああ、よかった! いったいどこではぐれたのかと思ってたんだ。ありがとう、助かるよ」
 完璧だ。
 僕が女なら惚れてる。
 だが蟻塚のガードはそこらへんの壁より固かった。
「私に取り入ろうとしても無駄だ。ふん、安いセリフを吐いて油断を誘おうとしているのだろうがそうはいくか。お嬢様は変なものが好きだからおまえなんぞに興味をそそいでしまわれたが、私は違うぞ。覚えておけ」
 むしろ忘れられそうになかった。挨拶代わりの軽いジャブを放ったらカウンターが十五発くらいになって戻ってきた気分だった。いづるはくらっとよろける。ひどい言葉は足に来る。
 こいつ鬼だ。
「いいか、貴様が消えようが残ろうが私にはどうでもいいことだ。だが、目下いまのところお嬢様の興味はおまえにある。ゆえに、貴様は自分のすべてを台無しにしてでもお嬢様を喜ばせ、お嬢様を楽しませ、お嬢様を愉快にさせなければならない。それが愚民である貴様が生まれてきて虫けらのように死んだことの意義だ。わかったな?」
 最後に優しい言葉を受けたのはいつだろうと考えかけたが空しいのでやめた。もう何を言ってもカウンターが二十発くらいになって戻ってくる気がしたので、いづるはそれきり押し黙った。蟻塚もそうした。
 蟻塚の部屋は、キャス子のとは比べ物にならないくらい手狭だった。扉をあけるとそのまま六畳程度のスペースに出て、ベッドが部屋の半分を占拠し、もう半分はほとんど椅子と変わらない丸テーブルが置いてあるだけ。他にはなにもない。玄関から入ってすぐにある右のくぼみを覗き込むと洗面所とユニットバスがあった。
「本来、死人に睡眠の必要は無い」
 いづるの心中を読んだように、蟻塚がネクタイを外し、鍵をベッドにテーブルに放りながら言った。
「だが、できないわけではない。いまのおまえのように、生前の記憶が『これだけ動いたら疲れて頭痛がする』ということを思い出し、『眠りたい』という欲求に繋がっている。いわば幻覚なのだ。よってそれを無理やり意思の力でねじ伏せることは可能だが、そんなことしなくても眠ればいいだけのこと……おお、ビーちゃん」
 ベッドの上で電介が丸くなっていた。蟻塚は彼を抱き上げくんくんとその美しい黄金の毛並みに鼻をくっつけた。電介は不愉快そうににゃーにゃーと虚空に前足を伸ばして脱走を試みていたが徒労に終わった。そしてかつての相棒が呆然と突っ立っているのを見つけて、
「にゃ! ……なおう」
 気まずそうに目をそらした。いづるはぐっと拳を握り締める。
 ビーちゃん?
「人の猫を勝手に改名しないでもらおうか」
「ふん、嫉妬するな。何、おまえが以前どんな名をこの子に与えていたかは知らないが、その名がビーちゃんを超えることはない……うおっ?」
 電介がフーッ! フーッ! とアラシを吹いて、毛先から青白い静電気を放出し、蟻塚はぱっと抱いていた手を放した。電介は床にととんと着地して相棒の影に隠れた。
「ふっふっふ」いづるは電介を抱き上げて喉をさすってやった。電介は目を細め、ごろごろごろと気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「どうやら僕の方が電介に好かれているようだな、ん? どうした悔しいか? なんとか言ったらどうだ、え?」
「馬鹿な……」蟻塚は顎にフックを喰らったボクサーのように床に膝をついた。
「くっ、許さんぞ門倉……お嬢様に続きビーちゃんまでも……!」
「ふふふ、文句は電介に言うんだな。ビーちゃん? なんだそれは、発売中止になったビーチボールの名前か? あ?」
「うぐぐぐぐ」
「勝負は決した……さあ出て行け。ここは彼の縄張りだ。いったい誰の許可を得てここにいる?」
「覚えてろよ……門倉いづる!」
「ああ、その気になったらいつでも勝負を受けてやろう。まあ勝つのは僕だがな」
 五秒間ほど睨みあった後、蟻塚はいづるの横を通り過ぎて玄関の扉を開けた。最後にちらっと電介を振り返る。電介はいづるの腕の中でいづるを見上げていた。思わず泣きそうになったがそれは男としてやってはならないことだった。
 バン、と音を立てて扉を閉めた。
 深々と息をつく。
 これからどこへいこうか、お嬢様は部屋に入れてくれまい、さて、
 部屋?
 蟻塚は我に返った。そして竜巻よりも早く振り返ってドアノブを握った瞬間、
 がちゃん。
 中から鍵がかけられた。
 どこからか、冷たい隙間風が人気のない通路を吹き抜けていった。

     


 守銭。
 無論、由来は卑しいまでに金銭に執着する守銭奴から来ている。発祥は不明。あの世では昔のことを誰かに聞いても、なぜそんなことを聞くのかと怪訝な顔をされるだけだ。しかし、おそらくは血の気の多い死人同士が掴み合いでもした結果、お互いを削りあえるということが判明したのであろう。おとなしくしていればゆっくりと夕陽に溶けていけたというのに、それでもどうしてもこいつとだけは素通りできない、そう思った原始の二人のせいで、あの世の地下には闘技場が建造され、妖怪たちの中でも鼻つまみ者がこぞって叫び喚き罵り賭け勝ち負けるゴミ溜めが出来上がってしまったのである。
 だが、生まれた原因がどんなにくだらないものだったとしても、ごつごつした石が川に流され転がっていくうちに丸みを帯びていくように、現在『守銭』はあの世の決闘としてすでに体系化されている競技である。そこには当然のように経験から基づいて発掘されたルールが存在する。
 その1。
 『魂貫』は両掌でしかできない。
 厳密に言えば、掌の側面と指先を含む掌が『魂貫』を発生させられるエリアとなる。それ以外では、仮に片方の守銭奴が相手に実に見事な延髄切りを叩き込んだとしても、それは相手を昏倒させるだけで一炎も得ることはできない。頭突きや拳による殴打もそうだ。チョークスリーパーや腕ひしぎ十字なども痛くて苦しいだけ。もっとも腕ひしぎ十字の場合は相手の腕を取った段階でその部分を破壊――相手を魂貨にすることを魂化というがたいていの場合は破壊と呼ぶ――できるので、そもそも技が極まることがない。
 その2。
 死人には『急所』がある。
 通常急所とは人体の中で攻撃を受けた際に致命傷になりうる箇所を指すが、すでに魂の塊と化し肉体を持ち得ない死人にとっての急所は、魂貫をされた際に一撃で破壊されうる箇所のことである。人体の急所は数多にあれど、魂の急所は二箇所だけ。
 『頭部』と『左胸部』である。
 つまり脳と心臓が『あった』場所だ。ここを貫手で貫かれた場合、貫いた方の実力次第ではあるが高確率で全身が魂化する。意識は完全に消滅し、その場にはアーケードゲームの筐体をハンマーでぶち壊した後のような小銭の山が残るだけとなる。ボクシングでいうならノックアウトだ。判定不要、勝敗確定。
 ただし、急所の二箇所には特別に魂が集まっている『濃い』部分であり、そこは魂貫をしても貫き切れないことがままある。なので正確に左胸部に掌を突っ込んだはいいが中途半端に刺さったまま抜けなくなり、相手にこちらの急所を打ち返されカウンターノックアウトされないように注意が必要だ。また、頭部にはのっぺら坊の仮面がかぶされているため、まずその仮面を打ち破らねばならないし、ご存知の通り首は動く的である。よって比較的狙いやすい急所は左胸部となる。
 その3。
 死人の『背中』から魂貫をすることはできない。
 どういうわけか、死人を魂貫できるのは正面ないし側面からの攻撃のみに限定される。先の戦いで吉田が蹲った門倉いづるへの魂貫を中止したのもこのルールを知っていたがゆえだ。
 なので背中を向けてしまえば極端な話、負けることはない。だが無論、それで済むわけはない。それが四番目のルールにかかってくる。
 その4。
 死人には『痛み』がある。――ただし、六分の一の確率で痛みが『キャンセル』される。
 死人には身体がない。よって痛みを伝える神経もないのだが、生きていた頃の経験から、死人たちは殴られたとき、その痛みを想像して、あるいは思い出して、痛覚を自分の魂に蘇らせる。ただしそれは平均して六回のうち五度程度。キャンセルされたとき、どれほど吹っ飛ばされようが痛みは発生しない。
 吉田がバットを持って闘技場にやってきたのも(武器その他私物が持ち込み可能であることもルールのひとつで、基本的に守銭はなんでもアリの『バーリ・トゥード』だ)、亀になられたときにバットで思い切りぶん殴って相手の姿勢を崩すためだ。我慢していれば安全とはいえ殴られれば痛いし弾き飛ばされもする。これが、背中を向けているだけでは負ける理由である。
 その5。
 制限時間と舞台装置に関してのいくつか。
 これは守銭が妖怪どもの賭けの対象として取り扱われ始めてからのルールで、比較的新しい決めだ。制限時間、これは明瞭に666秒とされている。分換算にすれば十分強。言葉にすると短く感じるかもしれないが、自分を削除しにかかってくる相手と休憩なしで顔を付き合わせる時間にしては長い方だ。
 闘技場は、およそ野球のグラウンドをセカンドベースあたりまで縮小したもの。東西に守銭奴が入場するためのゲートがあり、入場すると門は堅く閉ざされる。なおこの門、同時に潜った守銭奴のどちらか一方の深層心理を反映した舞台に闘技場の中を作り変える性質を持っていて、門倉対吉田戦が野球場で行われたのは吉田の深層心理が血と汗と涙を流した場所を忘れられていなかったからだ。
 舞台には、回復用の魂貨が詰まった千両箱が設置される。されないこともある。あまりアテにしない方がいい、というのが通例だ。
 ここまでざっと説明し終えたキャス子が「何か質問は?」と聞くと、いづるはふるふると首を振った。それを見てキャス子は手に持っていたマジックペンのキャップをきゅっと締めた。
 じゃあ、実際にやってみようか。




 実戦練習は闘技場を見下ろす外回廊で行われることになった。幅はそれほどない、せいぜい車二台が通れる程度。そこに、キャス子といづるが二間ほど間を取って向かい合う。いづるのうしろでは針のような敵意をちくちくといづるの後頭部に刺し続ける蟻塚と、その腕の中で知らない男の体温にうんざりしている電介がいる。
 キャス子はぽきぽきと手首を鳴らした。とんとんとステップを軽く踏むたびに、赤チェックのミニスカートが闘牛士のカポーテのようにひらひらと不可視の媚薬を撒き散らす。
 そのステップがぴた、と止まった。
「さて、じゃあまず基本から――魂貫、やってみようか。これは自分だけでもできるんだけど、やっぱり他人にやるのに慣れてた方がいいから、あたしが受けよう」
 犬に待てを命じるように、キャス子が掌をぐっと突き出した。が、さっそくその掌を突こうとしたいづるの前にずずいっと蟻塚が身を挟んだ。
「お嬢様に万一のことがあってはこの蟻塚、お父上に顔見せすることができません。実験台は私がやります。それにお嬢様、もう少し人を見る目、というものを培った方がよろしいかと」
「どういう意味だよ。蟻塚くん、僕はべつに掌に興奮したりはたぶんしない」
「ぬかせ下郎、とっとと突いてこい」蟻塚は掌を差し出した。
「いつまでお嬢様をこんな吹きさらしの場所にいさせるつもりだ?」
 いづるはぐっと腰を落として、できうる限りの力と気合をこめ、カタツムリのような速度で貫手を放った。魂貫に速度はいらず、必要なのはただ相手を『削る』――それをどこまで念じられるか。本来なら削るどころか引っかく程度がせいぜいの指先が、相手の中に入っていける、侵略していけると信じられるかどうか。競馬が馬の血筋が勝敗を握るブラッド・スポーツであるなら、守銭はさしずめソウル・スポーツ。
 思いの強い方が勝つ。
 の、
 だが、

「……………………」
「……………………」

 いづるの貫手は蟻塚の掌を押すだけで、そこから小銭が零れ落ちることはなかった。キャス子ははあ、と濁ったため息をつく。
「なんとなく予想はしてた。門倉、あんた吉田のときも自分の腕、治せなかったよね。あれもさ、魂貫とやり方は一緒なんだ。強く念じる、必要なのは『集中力』と強靭な『自我』――おかしいなあ、あんた、両方持ってるはずなのに。なんでだろ?」
「簡単ですよお嬢様」蟻塚が受けていたいづるの指先をぴしゃりと払った。
「こいつは恐れをなしたのです。魂貫も、回銭(魂貨を使った回復のことを言う)も、わざとできないフリをして戦線から逃げ出したいのですよ。ええ、そうだろう、ん?」
「ほほう、興味深いね」いづるは叩かれた手をさすった。
「あれほど吉田に追い込まれていながら、僕は先の先まで、いまの君の一言まで読み切って一芝居打ったってわけだ。まだ知りもしない守銭のルールや出会ってもいないきみのことなんかも全部ものすごい洞察力で看破して? 蟻塚くん、きみは僕を買いかぶりすぎだな」
「クチの減らないガキが……!」
「蟻塚」
 キャス子の一言で、殺気立っていた蟻塚の背筋がぴっと伸びた。キャス子は急に自分の爪の伸び具合を気にし始めながら、
「残念だけど、いやこれがあんたと門倉どっちにとって残念かは知らないけど、門倉はほんとに魂貫も回銭もできないんだと思う。もう魔王会のエントリーは済んじゃって優勝するまで出られないことは話したし、いまさら意味の無い悪あがきするほど馬鹿じゃないよ、彼は」
「それは……そうかもしれませんが。なら、どうなさるおつもりです? まさかつきっきりでこの愚図を鍛えると? できるようになるかもわからない魂貫と回銭を手取り足取り? お嬢様それは」
「口を慎め」
 蟻塚の息が止まった。倍の重力を浴びているかのようにゆっくりと、キャス子は首を自分の執事に向けた。
「おまえ、誰に話しかけてんの? さっきから言葉にいちいちいちいち鬱陶しいトゲが刺さってるけど、それはあたしが気に喰わない、ってことなのかな」
「い、いえ、滅相もありません……お嬢様、私はただ」
「ただ?」
「――ただ、あなたにこの地で、安らかに暮らしていて頂きたい……そう願っているだけ、なのです」
「あそ。――じゃあ、門倉」
 キャス子がいづるを見る。
「あんたはどう思う? 自分がどうして、相手を魂に両替できないのか、どうして剥がれた自分の魂を別の魂で補充できないのか、なにか思い当たる節はある?」
 うーん、といづるは頭上を見上げてぽりぽりと頭をかいた。
「僕にはわからないな。ただまあ、僕は自転車に乗るのもだいぶ苦労したクチだし、慣れるのに時間がかかるのかもしれない」
「それじゃ困るんだよ。次の試合まであと三日しかないしさ。なんとかしてもらわないと……まあ、どやしてできるようになったら苦労はしない、か。はあ」
 脱臼したようにキャス子が両腕を弛緩させた。そのまま振り子のようにぶらぶらと振りながら闘技場内へ下りる石段へと向かっていく。
「お嬢様、どこへ?」
「なんかがっくりきた。テンションあがんないから部屋戻って寝る。――門倉、蟻塚使って練習してていいよ。あたし、あんたが負けるとこは見たくないから、ほどほどにガンバっといて」
 じゃあね~とひらひら手を振り、キャス子は去っていった。去り際に、またため息。
 それを見送り、いづるは自分の両掌を見下ろす。血の気の薄い掌からは生気がまったく感じられない。死んでいるから当然、でもない。
 吉田の掌は、熱かった。
 またマウンドに立つことを願っていた少年と組み合った掌を、握る。
 その握った拳を、蟻塚が冷たい仮面の奥から見ていた。


 それから小休憩を挟みつつ、時々、闘技場の回廊を無許可で占めている闇市通りを冷やかしたり、棺桶のようなシャワー室で魂の洗濯をしたりしながら、いづるの特訓は続いた。ただひたすらに相手のかざした手にゆっくりと貫手を放ち、放っては引く。その繰り返し。
 キャス子(ふらっと戻ってきたり黙ってどこかへ行ったりを繰り返していた)は言う。
「いい、べつに守銭に限った話じゃないけど、突いたら必ず腕を引かなきゃ駄目。よく漫画とかでさ、思い切り殴ったりして前傾姿勢になってるけど、あんなのさばかれて足払われたら一発でマウント取られるから。必ず突いたら『次』を意識して。次って言うのは、もちろん、次の一撃のことで、つまり、仕留め切れなかった時のこと。勝つって信じるのはいいよ、自分は負けないって思うのもいいよ、でもそれを『言い訳』にしたらそれは逃げるよりももっと、重い、重い枷になってあんたを縛り、苦しめる。だから突いたら、必ず引いて。『次』の一撃のために――まあぜんぶ、魂貫ができるようになってから、の話だけどさ」
 槍のように研ぎ澄ました指先を、蟻塚の掌に押し当てる。そのまま貫こうとする。ずぶずぶと、蟻塚の乾いた掌に指先が埋まっていく。が、それだけ。引いた指先は硬貨を挟んではいなかった。
「自転車に乗るのにも苦労した――か。なるほどな、確かにそうかもしれない」
 ぽつっと蟻塚が言い出した。いづるは城壁の縁に腰かけていた。顔を上げて蟻塚を見る。あたりに人気はない。
「なあ門倉、おまえもそろそろ飽きてきたんじゃないか。次の試合は明日だしな」
「もうそんなに経ったのか。まだ数時間ぐらいだと思ってた」
「それだけ夢中だった、ということかもしれんな」蟻塚は興味なさそうに言った。
「少し、闘技場の方にいってみないか? 明日の対戦相手がいるかもしれん。言い忘れていたかもしれんからもう一度言うが、ここではフリーの対戦が可能だ。知らない死人とトーナメント関係なしに闘える。ファイトマネーは、相手を倒した場合はその額だけ。明日の相手が調整がてらに誰かとやっていれば、それを見学するのも悪くあるまい」
「うん、いいよ」
「――驚いたな。らしくない、と皮肉のひとつも返してくるかと思ったが」
「何故。きみは僕に付き合ってくれているぜ。悪いやつじゃあないだろう」
「どうだかな。信用しすぎるのはよせ、そんなことだから魂貫のひとつもできんのだ」
 いづるは立ち上がって、ズボンについたほこりを払った。
「ははは、そうかな。そうかもしれない。誰にでもってわけじゃ、ないんだけどな」
 行こう、といづるが先に立って歩き出した。だが蟻塚はその場に突っ立ったまま、動こうとしない。その手が、声や体格に不釣合いなほど無骨な掌が、拳を作る。いまなら、そう、何事もなく。
 だが――なにか違う。
 そう思った。
「やめだ」
 いづるが立ち止まって振り返る。
「なにをやめるんだ」
「門倉、はっきり言おう。私はおまえが気に喰わない」
「――――」
「おまえは魂貫も回銭もできずに、明日、試合に望み、そしてなすすべもなく消されるだろう。両替されて、誰かの明日になるだろう。それはいい。だが、お嬢様ががっかりなされることと、お嬢様がおまえに賭けて失う時間が、私には我慢ができない」
「……それで?」
「その前に、私がおまえを――消す。お嬢様には、おまえは逃げた、と言っておこう。それが一番、あきらめがつく終わり方だと思う」
「彼女に嘘がつけるのか? きみは彼女のしもべだろう?」
「彼女の安寧こそが私の望むものだ。そのためなら、私は下衆にだって、なる。だが、おそらく彼女は私の不義に気づく。彼女は怒り狂い、そしてきっと私を消すだろう。だが、構わない」
 それで、彼女の明日の糧になれるなら。
 自分はそれで一向構わない、と蟻塚は言った。
「以上が私からの『宣戦布告』だ、門倉いづる――おまえが逃げようが、立ち向かってこようが、その果てにある運命は変わらない。安心しろ、消えるのは、きっとそれほど苦しくない。彼女のために、おまえは――死ね」
 いづるは黙っていた。そして急に、笑い出した。
「ははは――やっぱり思った通りだ」
「何がだ」
「きみはいいやつだ」
「は?」
「いこう」
 いづるは背を向けて階段を降り始めた。その先には、乾いた風が土を巻き上げている円形の闘技場がある。蟻塚が後を追ってくる気配。
 自分の足音を聞きながら、いづるは思う。
 彼女のために、か。
 悪くない。ちっとも悪くない。
 男同士の決闘なんてものは、それぐらい馬鹿げていないとやる気がしない。

 そう、これは決闘。
 男と男が誇りと力を懸けて、退けない一歩を競い合う。
 だから当然、
 負けてやる、つもりもない。
 やるからには勝ってみせよう。
 勝てないぐらいで負けるなら、
 自分はとっくに、消えている――。

     



 ぱっと点った照明の白さで、闘技場内が月面のようなモノクロのコントラストに包まれた。いづるは額に手をかざして、宇宙船に見下ろされる少年のようにその場に突っ立っていた。観客はあまりいない。なんでもつい30分前まで、ここでは『破天公(アスラ)』と『青面金剛(セイメンコンゴウ)』がぶつかる魔王戦(魔王会で行われる守銭はフリー対戦と区別されてこう呼ばれるそうだ)の最終予選があったとかで、それは今日の一番人気の試合だった。それが終わったので、客たちは皆もうそれぞれはけてしまったのだろう。
「よかったな、自分の恥を大人数に見られずに済みそうで」
 対面の門から蟻塚が入場すると、闘技場内の『模様替え』が起こった。なにもかもが蜃気楼のように揺らぎ、ぼやけ、それが収まるとそこは『チェス』の盤上になっていた。白と黒のマス目の上に、いづると蟻塚は立っている。二人の間でポーンやナイトを始めとするチェスの駒が不規則に並んだり、倒れたりしていた。いづると蟻塚の闘いを前に、すでに盤上は佳境を迎えているらしい。
 いづるはコンコン、と黒のポーンを叩いた。
「なるほど、チェスね……。さしずめきみはキャス子を守るナイトってわけか。格好いいね」
「誰から許可を得ればお嬢様にあだ名なんぞをつけられると思った? 撤回しろ、門倉」
「彼女は気に入ってるみたいだったけどなあ」
「おまえのことまで気に入られると困るんでな」
 はははっ、といづるは笑った。
「それはないだろう。……なあ蟻塚、はっきり決闘を申し込まれて僕は結構嬉しかったよ。だからさ、今もおまえははっきり言えばいいんだ、無様にさ――嫉妬と嫉妬で死にそうだよお! ……ってね」
 蟻塚が静かに構えた。親指を畳んだ掌を右は腰の横、左は胸の前に。
「消してやる」
「ああ、来いよ」
 最初に動いたのは蟻塚だった。タイルを蹴って大きく一歩前に出、そこから斜めに進んだ。さらにそこから斜め。瞬発力には自信がある、フェイントにも。まずはフットワークを駆使して門倉を翻弄する。進むと見せかけて退き、退くと見せかけて進み、まずは敵の背後を取る。守銭は確かに後方からの魂貫をすべてキャンセルされる。だが、よくよく考えればそれだけのことなのだ。後ろから引き倒してしまえば、相手を守る背中はチェス盤と接着される。マウントを取る必要さえない。一撃、胸に掌を突き込んで大穴を空けてやれば、それで門倉いづるという幻は終わりを迎える。こともなく。
 蟻塚のフットワークに、いづるはおたおたとあっちを向いたりこっちを向いたりするばかりだった。見よう見まね程度の構えを取っているが、脇が空いているわ手首が曲がっているわ、とても見ていられるものではなかった。もちろん自分は喧嘩なんてとてもとてもしたことがありません――それはそういうスタイルだった。蟻塚は仮面がなければ唾を吐いていたかもしれない。
 何も守ろうとせず、何の力もなく、ただ在るだけの生だったのだろう。
 なんて無意味で、無価値な、卑しい一生。
 何かを守りたかったら、力を得ようとしたはずだ。少なくとも、自分はそうした、と蟻塚は思う。気がついたときにはもう孤児で、乳歯が抜け始める頃には一人の女の子を守る盾となるべく引き取られた。
 誰かを守れるようになるということは、血反吐が出るような思いをしても立ち続けていることだった。
 自分はお嬢様を守るために生涯を捧げた。後悔なんて一筋ほども感じてはいない。
 そんな自分が、万に一つでも、負けることがあろうか?
 こんな、クズに――。
 きゅっ、たん、たん、きゅきゅ、たん――。
 たんっ。
 大きく迂回して、蟻塚はいづるの背後を取った。よれた制服の襟がすぐそこにある。それを掴んで引き倒せば、ジ・エンド。
 ――終わりだ。
 蟻塚は掴んだ。確かに、その手は掴んでいた。
 さらさらして、いつまで触れていたくなるような生地をした赤い風呂敷を。
 ――なに?
 考えるよりも先に、想定していた行動を取った。赤い布をそのまま引き下ろした。ばさっと柔らかい生地を空気が払う音。
 赤い幕の向こうで、右手を庇うように引いて構えたいづるがいた。



 ごめん、
 なんて、
 言わないぞ?



 腰の入った右の貫手が、
 蟻塚の胸に叩き込まれた。
 馬鹿だ自分は。
 いったん回避するべきだった――。
 ショックで意識が真っ白になった。終わった――と思ったが、引き伸ばされた時間は、実のところそのまま流れ続けていた。動いていなかったのは、現実の方だった。
「――ちっ」
 いづるが舌打ちして、バックステップで距離を取った。その際に白黒マス目に落ちていた赤風呂敷を拾い上げるのも忘れない。
 蟻塚は自分の胸に手をやった。なんともない。いや、違う。確かに自分はいま魂貫された。蟻塚の経験から来る引き落とし残高は――
 一炎。
 ぴぃん。
 いづるが指で弾いた一炎玉をパンと手で封じた。そして両手を開けてみせる。手品のように、硬貨は消えていた。
「やれやれ、あれだけ練習してやっと一炎か。参るな。僕って才能ないのかも。まあいいか……」
 赤風呂敷を空中でもてあそんで、空気を包み即席のタコを作ってみせる。その首を両手できゅっと絞めて、
「一炎でも、おまえが消えるまで削っちゃえばいいだけだもんな?」
 ――こいつ。
 蟻塚は構え、ステップを踏む。とりあえずの戦闘態勢を作りながら、
(本当はもしかして、魂貫できるようになっていたのか? 油断を誘おうとしているのか? いや、もしそうなら今、俺はここにいないはず。両替されて足元に散らばっていてしかるべきだ。やつの攻撃は致命傷になりえたんだから……。やはり、いま、ようやっと魂貫できるようになったということか――なら、)
 恐れることはなにもない。
 確かに一炎、抜かれた。
 だが、それだけだ。致命傷を与えられる場所を突いていながら、門倉は自分を仕留め切れなかった。いま、追い詰められているのは向こうの方だ。千載一遇の、経験者からのKOを狙えるヒットを当てておきながら、勝ちきれなかった。
 役満張って流局したようなもの。
 そんな好機、もう二度とは与えない。
「残念だったな門倉――だが、もう降参しても許さんぞ」
「そうかい? 僕はいつでも受け入れ態勢ばっちりだ。気兼ねなく降参してくれていいよ」
 ほざけ。
 今度は正面から突っ込んだ。タイルをすって巻き込むように距離を殺し、いづる目がけて跳んだ。べつに美しい勝負にこだわりはしない。近距離にもつれこませて殴打戦になればネズミとダンプカーの喧嘩だ。勝負ですらない。小賢しく立ち回られる前にそのすべての企みを灰燼に帰す試合展開――人それ泥試合を呼ぶ――にしてやる!
 だが、またしても視界を覆う赤。振り払おうとしたが、今度は布にさえ触れられない。
 開けた視界、ちょうどミドルレンジの位置で門倉が風呂敷をひらひら振っていた。闘牛士のように。蟻塚の意識がまだそこにあると誤解し続けている幻影の脳の中で、血管が何本かみちみちと血圧に耐えられなくなって軋んでいた。
「知ってるかい、蟻塚。牛ってのはもともと色なんかわかっちゃいないんだそうだ――やつらはただひらひらするものに突っ込んでいくだけでさ。でも、マタドールが使うカポーテってのは決まって赤なんだ。何故だと思う?」
 蟻塚の我武者羅に繰り出す貫手をいづるは右に左にさばいていく。そのたびにひらひらと揺れる赤。
「それは人間のためなのさ。赤ってのは血の色だからね、つい興奮してしまう。きっと賭けも盛り上がったろうな。闘牛で、どんな賭け方するのかは知らないけど――」
 貫手を放つ。
 さばかれる。
「なあ、いつまで僕に喋らせるつもりだ? 退屈しすぎて飽きてきたよ。あ、そうだ、この場で動かないでいてやろうか。そら」
 ぴたっといづるが立ち止まった。
 ――怒ってはいけない。
 蟻塚は自分に言い聞かせる。やつは自分を怒らせたいのだ。そして自分の望むゲーム展開に持ち込み、ヒットアンドアウェーで華麗に闘いたいはずだ。落ち着け。落ち着くんだ。自分の優位はちっとも揺らいじゃいないのだ。
 いづるは両手で風呂敷を持ってその裏に隠れている。布越しでもやつに貫手が当たれば魂は抜けるのだ。
 静かに、息を止めて。
 眠ったお姫様を起こさぬよう気を配るように。
 音もなく、震えもなく。
 正確無比の右の貫手を放った。
 赤い風呂敷越し越しに、蟻塚の指先はいづるではなく――黒のビショップに突き刺さった。ぼろっと砕けた石片が転がり落ちる。
(――門倉、は)
 そのとき、貫手を喰らう瞬間にしゃがんでいたいづるは完全に蟻塚の視界の外にいた。力を込めて痙攣したように震える指先を、屈めた膝を伸ばす力を利用して蟻塚の右肩に打ち上げた。
 貫手の、アッパーだった。
 一瞬遅れて、蟻塚は昇ってくる一撃に気づいた。そう何度も何度も同じ手を喰らうか!
 迫るいづるの掌を払おうと右手を引こうとして――抜けない。右手はビショップに突き刺さって、すぐには抜けない――体位が悪かった。
(左手じゃ、間に合わない!)
 今度は一炎では済まなかった。
 いづるの指先が削り取った赤い硬貨が、噴水のように蟻塚の肩から噴き上がった。苦悶の声が蟻塚の喉からほとばしる。六分の一の痛覚キャンセルは、都合よく廻りめぐってはきてくれなかった。衝撃で右手がビショップから抜ける。手で肩を押さえて蟻塚が後ずさるのをいづるは黙って見ていた。
「……少しは、美しい戦い方をしよう、とは思わないのか? しゃがんで不意打ちだなんて……子供か貴様?」
「未成年のまま死んだんでね。天下無敵の十六歳さ」
「言ってろ……おまえはもう、すでに終わった」
 そう言って、蟻塚は右手に巻きついたままだった赤い風呂敷を鬼の首を取ったように掲げた。
「どうだ! これで貴様はもうふざけたマタドールの真似など! ……でき……なく……」
 だんだんと声が尻すぼみしていく蟻塚の前で、いづるがポケットからまた新しい風呂敷を取り出しひらひら振った。今度は夜の湖のような青色。
「知ってるかい、蟻塚。風呂敷ってのは、畳めて収納しやすく、広げればある程度どんなものでも運べる優れものなんだ。だから泥棒にありがたがられたんだね。しかし、闘牛の真似事をこいつでやったのは世界広しと言えどもそうはいないだろうな」
「門倉……!!」
「安心しなよ。……闘牛ごっこは、本当にもうやめだ」
 そのままいづるは、駒がいくつも並ぶ乱戦地帯に身を滑らせて、蟻塚の視界から消えた。蟻塚は手から魂貨を出してそれを右肩に浴びせ傷を塞ぎ、身を屈めて後を追う。いつでも払い、突き、潰し、どれでもできるように構えには念を入れておく。四本の指を立てた掌をゆるやかに交差して構えると、それはどこか巨大な蜘蛛に似ていた。
(あいつ……この短時間で魂貫をマスターしつつある)
 削られた右肩は、まだじんじんと熱を持っていた。五千はやられただろう。蟻塚も死んでから長く、その魂の残高は一万や二万では効かないにしても、このまま門倉のペースに巻き込まれたままではいつか削り切られる恐れがある。
 少なくとも、さっきの一撃を胸に喰らっていたら自分は両替されていた。
 だが、
 ――なめてやがる。
 門倉は、さっき、わざと胸から攻撃を逸らしたのだ。狙おうとすれば急所を狙えたはずだ。真下からなら胸でも頭でも。だが、やつは右肩を狙ってきた。
 つまり、本当に、あいつはこの蟻塚蒼路(ありづか そうじ)を消す気がないのだ。消すまでもなく、自分から「参った」を引き出せると思っているのだ。
 あの冬の日。
 お嬢様が酔っ払った暴漢に殺されたと知ったとき迷わずそばにあった果物ナイフで喉を刺し、後を追ってきた自分をさばききれると思っているのだ。
 蟻塚蒼路は、彼女のためならなんでもできる。
 あるかどうかもわからない、死後の世界で、彼女が寂しい思いをしなくていいように、命のひとつやふたつをゴミ箱に放擲してしまえるくらいには。
 ようやっと手に入れたのだ。
 ようやっと、安定した魂の入手ルートを確保して、こんな争いごとを毎日毎日気が狂いそうになるまでやらなくて済む生活が手に入ったのだ。
 賭けなんてしなくていいのだ。
 ありもしない血を熱くしなくたっていいのだ。
 そんな危ない橋を、お嬢様にはもう一本だって渡って欲しくない。こんな地の底でも、死者と化け物しかいない世界でも、彼女があの仮面の向こうで笑っていると信じられるなら、
 蟻塚蒼路は胸を張って言える。
 自分の死は、まぎれもなく天寿であったと。

(門倉)
(おまえからは、お嬢様と同じ匂いがする)
(だから、これ以上いっしょにいさせるわけにはいかない)
(お嬢様がまたどこか遠くへ行ってしまわれないために)
(おれは)
(恨まれても、殴られても、呪われても)

(彼女を、静かで堅いこの鳥篭に、ずっと閉じ込めておきたい――)




「それで彼女がほんとに笑っていられると思うのか?」



 その一言で、
 蟻塚に流れる幻影の血が一発で沸騰した。全身を怒気で膨らませて、門倉いづるの名を怒号する。駒の森の中、返事はなかった。
 そして、蟻塚はいづるの名を呼ぶべきではなかった。しばらくして、

 ひゅううううううううう――

 最初、(口笛か?)と思った。耳を澄ます。いづるの足音や呼吸(そんなもの必要ないから止めているだろうが)、ほかにも独り言や衣擦れの音がしないかと。
 周囲に誰もいないのに、その口笛の音は、だんだん近づいてきていた。蟻塚は油断していた。守銭では基本的に背後へは警戒しなくていい。後ろから引き倒される危険性はあるが、生前柔道三段だった蟻塚が両足を開いて腰を落とせば大の男が三人がかりでも蟻塚を仰向けにはできないだろう。だから、両手の届く場所にいづるの姿がないなら、それは蟻塚の安全を証明していた、はずだった。
 奇襲は空から降って来た。
 蟻塚が顔をあげたのはまったくの偶然だ。蟻塚は最後まで、その口笛に似た音が攻撃だと気づかなかった。ただ、顔を上げたときに、なにかをたくさん包んだ青い風呂敷が近づいてくるのをぼんやり見ていただけだった。なんだ、とさえ思わなかった。
 その風呂敷は、『何か小さくて硬い平らなもの』をたくさん詰め込んだように、不規則なでこぼこを拵えていた。その風呂敷は、放物線を描いてチェス盤を横断し、そしていま、
 蟻塚蒼路の腹に突き刺さった。
 蟻塚は六分の一の幸運にあやかった。
 痛みを覚えることなく、蟻塚の身体は真っ二つに分断され、白と黒のマス目に、彼を貫通した青い風呂敷がぶつかり、四方八方に魂の欠片をぶちまけた。
(――あ)
 ゆっくりと、蟻塚はその場に倒れた。詳しく言えば、下半身が魂化し、上半身だけが盤上に滑り落ちた。
 頭上からは、光さえも受け入れることを拒んだ暗闇が蟻塚を見下ろしていた。その向こうにはきっと、今もあの赤い空が広がっているのだろう。もうだいぶ、蟻塚は横丁にあがっていないことを、唐突に思い出した。
「――ああ、よかった。バラバラになってたらどうしようかと思ったよ」
「門倉――」
 いづるは斜めに睨み合う黒のポーンと白のナイトの隙間から、蟻塚に近づいてきた。千両箱を引きずっている。それを蟻塚のそばに置くと、ふーと息をついて、
「ひょっとすると、僕とやりあって君が負けるってのが、たったひとつの君の勝ち方だったのかもしれないな。そしたら僕はキャス子に合わせる顔がないから、自分から姿を消すしかなくなるしさ。あっはっは、お互い馬鹿だな」
「そう、かもな――」
 蟻塚はいづるから顔を逸らした。いづるは千両箱に腰かけて、
「彼女は、鳥篭なんて自分で食い破るよ。あれはそういうタイプだ、絶対。わがままだもん。そしてきみには、それを止める資格も権利も力も、ない」
「――――」
 蟻塚は答えなかった。
 本当は、自分でもわかっていたのだろう。
「さて」いづるはパン、と膝を叩いて、
「試験官どの、僕は合格かな? それとも不合格? 結構がんばったと思うんだけど」
 蟻塚は髪の毛一本ほど首を動かした。
「おれは、どうして」
「ん? ああ、知らなかったの? 僕はたまたま吉田と闘ったときに気づいたんだけどさ、この魂貨って、お互いちょっと引き合う性質みたいのがあるみたいなんだよね。ほら、『お金は寂しがりや』ってよく言うだろ?」
 蟻塚は死んだように身動きしなかった。いづるは構わず続ける。
「僕が自分の掌を蹴り上げたとき、掌が魂化したんだよ、切断された僕らの身体はそれほど長くカタチを保っちゃいないらしいね。――だから、吉田に当たったのは僕の念のこもった『掌』じゃなくて、『魂貨の塊』だったんだ。観客席からは、見えなかったと思うけど。たぶん『裏ルール』ってやつなんだろう」
「だから、おまえは、自信が、あった、の、か」
「君とやるのに? まさかだろ。自信なんてなかったよ。正直、きみが本気だったもんだから、足は震えるし、頭痛はするし、散々だった」
 蟻塚が意外そうに首を持ち上げた。
「ほんとう、か?」
「ああ、自信満々に見えたんなら僕の演技力もなかなかだな。いやあ実際アタマを捻ったよ。実戦までに魂貫できなきゃ、この風呂敷だけが僕の命綱だったわけだから。優勝までこれ一本か――とも思ったけど、土壇場でそこそこ抜けるようになったから、よかったよかった、めでたしめでたし。きみにとってもそうだろ?」
「……はあ?」
「やっぱりさ」いづるはぼりぼり頭をひっかいた。
「彼女を大事に思う人に、そばにいることを認めてもらえないままだと居心地悪いからさ。認めて欲しかったんだ、きみに」
「――誰が」か細い声で言う。
「認めるもん、かよ」
「え?」
 敗北を認めた動物よろしく、蟻塚は喉仏を晒した。
「さあ、消せよ! そうすれば許可も糞もあるまい……」
 いづるの髪が、風も無いのにそよいだ。
「参った、って言えよ」
「言わん」
「そうかい。じゃあ、根競べだ」
 いづるはその場にあぐらをかいた。
「好きなだけ、そうしていろよ。僕はいつまでだって付き合ってやる。でも、いいのか? 彼女を放置しといてさ」
 見ろよ、といづるが指差した先。
 白のクイーンが見下ろしてくるそのさらに上、客席から、手すりに頬杖を突いたキャス子が二人を見下ろしていた。爪を綺麗に切られた指が苛立たしげに頬を叩いている。
「どうする?」いづるの声は笑っていた。
「どうも彼女、怒ってるっぽいぞ」
「……汚いぞ、門倉。こそくだ」
「そんな、僕に言うなよ。それに僕にしては珍しく綺麗なオチをつけたつもりなんだ。――ま、好きにしてくれ。足を治すための魂貨なら千両箱にまだまだ唸るほどあるしさ。でも可哀想だから同情だけはしておくよ、蟻塚。自分から怒られにいくってのは、うん、勇気がいるよな」
 蟻塚は、深々とため息をついて、言った。
「参った」

     



 しこたま怒られた。
「蟻塚」
 キャス子は執事をびしっと指差し、言い放つ。
「あんたクビ」
「えッ」
「あたしのおもちゃ壊そうとするとかマジ駄目な子。お母さん悲しい」
 蟻塚は化粧台に悪戯した子どものようにしょぼくれ返った。そして執事から執事見習いに『再雇用』という形が取られた。それでなにが変わるのかというと、キャス子に用もなく近づける距離が1.5メートルから3メートルに拡大された。好きな女子との距離における1.5メートルは地球と月の間よりも遠い。
「次、門倉」
「え、僕? いいかいキャス子、ちょっと冷静になってみよう。僕は被害者だぞ。悪いのはぜんぶ蟻塚ってやつなんだ。そういうわけで、ここはひとつ無罪放免でよろしく」
「駄目」にべもなかった。
「あんたの左腕、まだ貸しなんだかんね。あんたはあたしが貸した左腕を返せるようになるまで、ずっとあたしのモノなの。おわかり?」
「わん」
 従順な家畜の吼え声にキャス子が満足げに頷く。
「よろしい。あとで脳漿ラーメンおごってくれたらちょっと許す」
「だってよ蟻塚」
 と矛先を逸らそうとしたら債権者に首を絞められたので(あろうことかちょっと魂貨がこぼれた)いづるは彼女の望む返事を戻さざるを得なかった。キャス子はそれで一発でご機嫌になり、
「あれだかんね。闇市通り三番地横の『ラーメン死郎』そこ以外認めないから。あそこ以外はぜんぶ邪道」
「わかったよ」
「野菜マシマシのかびニンニク入りね。あと大盛り」
 注文の多いやつである。だが逆らえば魂がない。いづると蟻塚はフリーの後だったのでとっとと部屋に撤退して休みたかったのだが、キャス子に従えられ渋々闇市通りへ下りていった。
 闘技場の中は多層構造になっており、階ごとに特色がある。上層には券売所や軽食コーナー、売店などがあり、下層にいくほど市場や商店が増えてくる。闘技場はすり鉢状になっているため、余分なスペースは下層にしかないのだ。基本的な構造や店の並び方は、上にある常夜橋スタジアムとさほど変わらない。
 通りをいく妖怪と死人の数は半々、といったところ。みんなローブをまとっているのは、誰か知り合いに見つかりそうになったら顔を隠すためだという。守銭はあまり大手を振って楽しむ博打ではないのだ。
 ラーメン死郎は、潜水艦の中のような入り組んだ路地の途中にあった。通路にまで待ちの客があふれ出している。いづると蟻塚とキャス子はその一番うしろに並んだ。すぐにうしろにも待ち客がついて、長蛇の列の一部になる。
「この待ち時間がたまんないんだよね」キャス子が言う。
「インスタントじゃ味わえないよ、このタメにタメて喰べる感じって。ああ食べたい、でも食べらんない、ううん、どうしてくれよう?」
 キャス子が身もだえしている間に、列はどんどん短くなっていった。軟体動物と化した連れを観察する以外にやることがなく、いづるは退屈していたのだが、ちょうどそのとき後ろからぽんぽんと肩を叩かれた。振り返ると、いつぞやの河童が立っていた。
「やあ、少年」
「おじさん!」
 顔見知りとの奇遇な再会に、いづるの声が明るくなった。それほど親しくもないのに、なぜかびっくりするほどほっとした。
「どうしたの、こんなところで」
「いや、あれからな、俺も下に降りてな。競神で一発ってのも考えたんだが、どうもウマは性に合わなくてな」
「そうなんだ。僕もそんな感じ」
 河童はちらっとキャス子と蟻塚の方を見て、
「――飛縁魔は? 一緒じゃないのか」
「ああ」思い出すだけで胃が痛む。
「いやね、その、いろいろあって――おじさん、話は変わるんだけど、飛縁魔の刀知らない?」
「刀? ああ、あの柄が蓮になった洒落たやつか。ふうむ、無くしたのか?」
「いや、どうも置き引きされたみたいで」
 河童はなぜか感慨深げに何度も頷いた。
「なるほどな。道理でおかしいと思った。門倉、ちょっとこれ見てみろ」
 河童は背広の腰に手を回して、一冊の雑誌を取り出した。ベルトに挟んでいたらしい。いづるはまだ列がだいぶ残っていることを確認してから、開かれた雑誌を受け取った。先頭のカラーページに、高級そうな品々に混ざって件の刀が載っていた。
「あ、間違いない。これだ。くそお、誰かが盗んで売りに出したんだな」
「いや、違う。これはカタログじゃないんだ。これは景品なんだよ」
「景品? なんの?」
「魔王会」
 いづるは雑誌を閉じてみた。表紙は、仮面をつけた上半身裸の格闘小僧が取っ組み合う戯画で、その上に金色のロゴでタイトルが印字してあった。
 ぎゃんぶる宝典。
「たぶん、誰かが盗んで景品に申請したんだろう。魔王会で勝ち上がると、珍しい品がもらえるんだ。いくらでも米が湧いてくる碗とか、好きな夢を何回でも見られる枕とかな。どれも垂涎ごくりの品ばかりだが、気に入らなければ妖怪連中にオークションして売り払ってもいい。――その雑誌、やるよ。俺はもう読んだ」
 止まっていた列ががやがやと動き出した。河童は変に気を利かして壁を見つめ始め、いづるはキャス子と蟻塚の狭い輪の中に戻った。
「おかえり。あ、それ今週のぎゃんぶる宝典じゃん。ちょうだい」
 有無を言わさず取り上げられた。蟻塚に苦情の視線を送ったが執事は石像のように沈黙を守っている。
 開きっぱなしのガラス戸にかかったのれんをくぐり、店の中に入った。L字の店内には妖怪と仮面を鼻の上まで引き上げた死人たちでごった返している。中には通路に座り込んでラーメンをすすっている猛者もいた。いづるは券売機に魂の欠片を入れて三人分の食券を買った。悪魔の刺青を触手に施したイカ店主に食券を放り投げて(あ、ひとつ野菜マシマシかびニンニク入りで)、ちょうど空いた席に腰かける。
「奢ってやるよ蟻塚」
「いや、私はいい」蟻塚は入り口のところに立ったまま入ってこない。
「びー……いや、電介が寂しがっている頃だろう。先に部屋に戻る。お嬢様、申し訳ありませんが、門倉の面倒を見てやってください」
 ぴくくっとキャス子の耳が動いた。ぐっと親指を立てて、
「任せとけ、坊やの世話は――」うまく五七五にできなかったらしく、もう一度ぐっと親指を立て直す。身分がお嬢様にもなるとこういう強引さえ許されるらしい。蟻塚は機械にはまねできない柔らかさで一礼して去っていった。
「まったく」いづるはカウンターに頬杖を突いた。
「帰るなら食券買う前に言って欲しいよな」
「いいよあたし二人分食べるし」
「太るぞ」
「あんたさ、よくデリカシーないとか人の気持ちがわからないとか失礼とか言われない?」
「言われる」
「ふっふっふ」キャス子は突然魔王になった。
「安心せい、余は直せなどとは言わん。そちのようなコミュニケーション障害者にもキャス子さまの門戸は開かれておる。感謝するのだな」
「門前払いで結構だ」
 出てきた脳漿ラーメン(一杯は二人の会話をイカ店主が聞いていてくれたのか、鍋のようなどんぶりに二人前入っていた)をカウンターの縁からおろして、二人は同時に割り箸を割った。
「いただきます」
「いただいてやろう」
 ずずっ。
「うまうまー」
「んんんん(そうだね)」
「あ、玉子砕くの? なんで?」
「んーなんでだろ、特に理由はないけど、箸で掴みにくいからかなあ」
「え? ――わっ、ちょっとあんた箸の持ち方ヘン! 貸して貸して」
「あっ、ちょっ」
 止める間もなくキャス子の手がいづるの右手を実験台のモルモットのようにわしづかみにし、持ち方を矯正し始めた。キャス子が、ちょっとまってなんで落ちるわけちゃんと持ってちゃんと、と言っているが少しもいづるの耳には届いていなかった。なんだかとてもイケナイことをしている気がしてきて、熱々の脳みそが溶けたラーメンと肩と肩がぶつかりそうな店内の熱気があいまって、一瞬、キャス子の白い仮面の奥に飛縁魔の顔が透けて見えて死ぬほどびっくりした。
 ――まさか、キャス子が姉さん、ってことはないよな。
 想像してみる。
 ないない。
 いくらなんでも本人を前にして気づかないことがあるだろうか? そこまで自分はぼんやりしていない。はず。
 そういえば火澄は今頃どうしているのだろう、どこかで会ったら彼女にも謝りたい――勝った後だからか、いづるの心は凪いでいた。いつもの刺々しさが消えている。キャス子はいま、いづるの手の悪癖だけでなく心の芯に積み重なっていた歪みもとってくれているのかもしれない。
「――あっ、やば、めん伸びる」
 ぽいっと飽きたおもちゃみたいにいづるの掌をうっちゃり、キャス子はずびずびと麺をすするのに戻った。いづるも割り箸を手にしてムンクの叫びみたいな黒いしみのあるもやしを挟む。箸の持ち方は相変わらずだった。
「あんたさ、よく蟻塚に勝てたよね」ずずー。
「うん、正直魂貨をぶつけるってのはこれから流行ると思う」ずるるっ。
「そういうことじゃなくてさ」ずっ。
 キャス子がこっちを向いた。仮面は鼻の上まで上げている。唇の端からこぼれていた麺をすすって飲み込む。
 脂にまみれててかてかと唇が輝いていた。
「あいつが、あたし守ろうとして負けたことって、いままで一回もないんだよね」
「だろうね。あいつは好きだ。まっすぐで、羨ましい」
「騎士に憧れちゃう年頃なのかな、歩兵くん?」キャス子が楽しそうに言う。いづるは肩をすくめた。
「ああ、憧れるね。僕はああいう風に生きたかったな、できれば。迷わなくて済みそうだ」
「迷ってばかりだと思うよ」
「そうなのかな」
「あたしは、あんたが迷うフリをしているだけにしか、見えないけど」
 いづるは答えなかった。
 キャス子はどんぶりに向き直り、両手でがっしと掴んでごくごくと飲み下し始めた。周りから唖然とした視線が集まる。キャス子は白くてなめらかなのどをこくっこくっと上下させて、
「ぷはっ」
 どんぶりをカウンターに叩きつけるように置いた。
 最後の意地を見せたナルトが縁に貼りついている以外は何も残っていない。
「ごちそうさま――」
 そのとき、外で身も凍るような誰かの雄たけびがあがった。
 店内の時間が止まる。不思議なことに、誰もろくに会話しているわけでもなかったのに、その怒声で店内の気配はぴたりと静かになってしまった。何かが打ちつけられるような音がして、小銭が散らばる音。
 喧嘩だ喧嘩、と誰かが呟いた。キャス子はガタッと立ち上がって、いづるの手を引っ張った。きっと仮面の奥の顔は野次馬根性できらきらしているんだろうな、といづるはなすがままにされながら思った。


     




 守銭奴同士の喧嘩は基本的にご法度である。なぜかと言えば、ファイトマネーが両替した相手本人である以上(むろん運営側へ入るテラ銭からも出ることは出るのだが)、ストリートファイトで試合を消化されては見世物としての役割を果たさなくなる。よって、そういった私闘を発見した場合、ヤギ頭のスタッフに通報するだけでいくらか謝礼がもらえる上、私闘そのものを仲裁した場合は魂一封に闘技場内の各施設を期間限定で自由に利用できるフリーチケットがついてくる。よって、闘技場のどこかで私闘が始まると血の気の多い妖怪たちはこぞってそれを見物しにいく。噂は水面に落とした小石の起こす波紋のごとくどこまでも広がっていき、そして岸まで辿り着いた波はまた中心へとより返る。
 だが、その私闘を通報、ましてや仲裁しようなんていうやつはいなかった。
 潜水艦の中のように狭く薄暗い路地で、二つの人影が、向かい合っている。その影を取り囲んで野次馬たちが即席のリングを作っていた。
 人影のうち、袖をまくった白ランを着ている方は、その場にいる誰もが知っていた。なぜなら彼は、魔王会の優勝候補の一人――<破天公(アスラ)>だったから。
 花村業斗(はなむら ごうと)。
 戸籍上はそういう名前になっている。死亡届が役所に提出されたのもその名前でだ。死因はヤク中の友人の見舞いにいったら錯乱した友人その人にナイフで刺されたため。友人は警察の事情聴取で「背が高かったからクマと間違えた。業斗だとは思わなかった。嘘じゃない、信じて欲しい、ぜんぶヤクのせいなんだ」と供述した。驚くべきことにそれは信用に足ると判断された。現在その友人は警察病院でヤクを抜くための治療を受けている。
 誰がクマだ、と業斗は思う。確かに自分は背が高い。けれどクマのように豊かな胆を持つほど太ってるわけでもなければ鼻がブッ潰れているわけでもないし、なによりクマはナイフを持った人間に背中は見せない。
 ――コーヒーを淹れてくれ、とあのとき友人は言った。
 業斗はため息まじりに、わかったよ砂糖もガムシロも入れてやんねえからブラック飲んでちったあヤク抜け、とぶっきらぼうに答えて、台所のコーヒーメーカーのところまで歩いていって、刺された。最後に見たのは、斜めになった床に広がっていく赤い血のじゅうたんだった。
 真っ向から、向かい合っていれば、俺は殺されたりしなかった。そう思う。見栄などではない。業斗には絶対の自信がある。野生の肉食獣のように、細く、しなやかに鍛えられた豹のような体躯と持って生まれた格闘センスを持ってすればヤク中の一人二人が向けてきたのがナイフだろうがポン刀だろうが自分は一秒かからず払い落としていただろう。殺されるぐらいなら殺していた。友人だと思って油断したのがまずかった。いや、友人だと思ってなめていたのだ。この世に、地獄の果てまで付き合ってくれる間柄なんて本当のところありはしない。そして、やつにはそういう真似ができないだろうなんてことは、とっくのとうに知っていた。かえってカンに触ったのかもしれない。ヤク中を前にして平気な面して背中を見せられる『強さ』が、所詮未来をなくしたおまえと俺じゃ勝負のしょの字も始まらない、そう言っているように思えたのかもしれない。
 だったら、たぶんそれは正しい。事実だ。どっちもホントだ。
 友達だと思っていたのも、なめていたのも。だって、なめられるような相手じゃなければ自分は敵だと認識してしまう。――変わってるって? そうだろな、俺みたいなやつはそうはいない――少なくとも、いまだかつて一人だって見たことはない、俺以外にそんなやつ。


 ぼおおおおおおおおお……
 壁にかかったランタンの火種が爆ぜる音、斜めから飴のように差してくるオレンジ色の灯り、野次馬から向けられてくる好奇とほんのアクセント程度の恐怖。まあこの人数だったら大丈夫だろうと踏んでいるのだろう、野次馬のリングは少なく見積もって三十人はいる。妖怪を「人」と数えるなら、だが。
 ふん――業斗は白仮面の奥で鼻を鳴らす。この中で、サシで俺の『前にいるやつ』を相手にして何人が助けを呼ばずにいられるかな。おそらく五人に満たないだろう。雑魚どもが。俺は違う。相手が誰であろうと叩き潰す。
 たとえそれが、とうとう消滅の時を迎えてもそれを受け入れられず、認められず、否定するしかなかった死人の成れの果て――『鬼』だろうと。
 業斗の前に、角を生やした女が立っていた。目は虚ろで、それぞれてんで違う方向を見ている。だがその意識が業斗をしっかりと捉えているのは間違いない。肌は陶器みたいなくすんだ灰色、なにより目立つのは――額に生えた、角(つの)。
 先のとがったネジのようでもある。螺旋状のスロープ(と呼ぶには小さすぎるが、ほかにあらわす言葉を業斗は知らない)が角の周りをぐるぐると巡っている。鬼になると死人はみんなこのユニコーンのような角を生やす。それは呪われたしるし。恨みの証。救われぬものの烙印。
 野次馬たちは生唾を飲み込んで二人を見守っている。誰も二人を止めず、誰もスタッフを呼びにいかないのは、これが守銭奴同士の私闘ではないからだ。

 ――もし、あんたが私に協力するなら、

 業斗は両手を構えた。ステップを踏み、軽く掌を開いて、脇を締める。なにもない空中を撫でるように円の動きを両腕にまとわりつかせる。

 ――あんたをもっと、強くしてあげてもいい。その結果に何が起ころうと、災いを呼ぼうとも、それがあんたの望みで、それがあたしの夢を叶えるためならば、あたしたちは手を組める。どれほどその在り方の間に断絶があろうとも――夢のためなら。ねえ、違う?

 違わない。
 業斗の黒髪がちりちりと静電気を帯びた。女の鬼が、おそらくはOLだったのであろう、腰かけ御用達の黄緑色のスーツに身を包んだ身体が、空気の壁を押し出す速度で業斗に突っ込んできた。業斗は思わず叫びだしたくなる気持ちを抑えて、女の繰り出してきた両手のうち先行してきた左手を右手で掴み、左足を右足のうしろから振りこんで身体を流し、そのまま女の腕を握りつぶそうとした。無論、魂貫を使ってだ。だが大して両替しきれぬまま、足を前に出して流されそうになった身体を踏ん張った女がうわぞりして逆向きから業斗の顔面に噛み付こうと牙を向いた。逆さになった女の顔が間近に迫る。妖怪と鬼は掌から以外でも魂貫ができる。よって死人はその二種には滅多なことでは逆らわない。
 女の黄色い牙の光沢に業斗の輪郭が映った。
 業斗はここで、女の顔を左手で押さえたりはしなかった。そんなことをすれば左手を食いちぎられる。自分の中にある魂貨で補充してもいいがそれにだって限りはあるしこんなやつ相手に無駄魂(むだだま)は使いたくない。よって、
 振り上げた左肘鉄を上向いた女の顎に斜めから打ち降ろし、その首を完全に粉砕した。
 げえ、と女は呻き、そのまま手折られた花のように床に倒れこむ。業斗はその背中に膝を叩きつけ、両手で肩から押さえつけた。
 さあ。
 お楽しみを始めよう。
 ライターでアイスを炙るように、女の肩がぐずぐずと魂貨へと変わっていく。こうして少しずつダルマにして動けなくしてからゆっくり急所を溶かせばいい。鬼は魂の量はそれほどないくせに耐久力が死人より高い。頭部・胸部を貫こうとしてもろくに指が通らないのだ。だからこうして完全に封殺する必要が生まれてくる。だがまあ自分にとってはちょっと面倒な相手というだけ――業斗はニィッと笑った。身体中に力が漲っていた。素質がどうだろうと、見てみろ、俺にだって鬼退治ぐらいはできるみたいだぜご先祖サマ?
 正直に言えば油断していた。
 女の首がぐるんと回った。完全に180度回転していた。しかし首は完全に破砕している。魂貨を使う時間も余力も残ってはいないだろう。せいぜいそこでコマみたいに回っているがいい――
 ぎゅるるっ。
 本当に首がコマのように回ったのではない。
 女の角が伸びた。ドリルよろしく回転し、空気中の塵の粒子を吹き飛ばしながら業斗の仮面を打ち抜かんとまっすぐに伸び上がってきた。両腕は女の身体を押さえたまま。間に合わない――しかし、業斗の両手は、伸び上がってきたツノを止めた。
 女の肩は、まだ業斗の両腕が止めている。
「っ?」
 女が不思議そうな顔をしている。業斗は笑って見せたが相手には見えないことに気づいた。
「悪いな、俺は特別製でね。ああ、製ってわけでもないか。カスタムされたんだから、そう、言うなら、バージョンアップ?」
 女の角を白羽取りしたむき出しの腕は、業斗のむき出しの両腕の肘から生えていた。
「漫画みたいだろ? でも可哀想になあ、漫画みたいに俺はおまえを助けたりはできないんだ……」
 ふっと息を軽く吐いて、女の角をべしりと折った。
 女が怪鳥のような声をあげてのたうち回る。業斗は折った角を放り投げた。角がからからと床を転がり、野次馬たちがその周囲からさっと逃げた。
 肘から伸びた別の両腕で女の顔面を挟む。鬼の顔が恐怖に歪む。

(敬意を払おう。この俺に挑んできたことを)
(だから)
(許したりは、絶対しない)

 業斗は両掌に力を込めた。
 ぐしゃり、と。
 バレーボールのような抵抗の後に、女の首が両替された。赤い魂貨が周囲にフィーバー。胴体も釣られてフィーバー。熱病熱病熱病(フィーバーフィーバーフィーバー)。
 業斗は立ち上がった。
 野次馬たちはばらばらとリングを崩し始めていた。その中に見知った顔を見つける。無論、第五天魔王会の覇者たる――ええとなんだっけ名前――キャスケット帽がトレードマークの少女とは、直接の面識はなかったけれど、確かぎゃんぶる宝典のインタビューに写真つきで答えていたのを読んだことがあるから知っている。だが業斗の興味をそそったのは彼女ではなかった。そのうしろにいるやつだった。
 血まみれの紺色のブレザー。くしゃくしゃになった、どうせ起きてからろくすっぽ梳かしてもいないだろう黒髪。白い仮面の下の首筋は女のように細くて白くて滑らかだ。格好だけならどこにでもいるのっぺらぼう、だがまとっている気配が違っていた。いや、違うなんていうものではない。断絶している。業斗にはわかる。こいつは、普通に生きている連中が吸って吐いてる当たり前の律から外れている。なにか別のものに縛られ、それを操り、それに苦しめられ、そのせいでくたばった。
 そういうやつ。
 業斗はふん、と鼻を鳴らして、二人の前に仁王立ちした。キャスケット帽がちょうど口のあるあたりを両手で押さえて、
「なになに、あたしに用? いやーモテる女はつらいなーあははははは」
「どけブス」
 その一言でひとつの核爆発が起こりかけたが、血まみれブレザーがキャスケット帽の肩をうしろからぐっと押さえた。顔はしっかり、こっちに向けたまま。
 業斗は、白ランの校章が縫いつけられた左胸を親指で指し示した。
 名乗った。


「俺は、土御門業斗」


 戸籍上は、花村だ。魔王会にも、花村業斗でエントリーされている。
 だが、その血統は紛れもなく大陰陽師から連なるもの。
 業斗の母は、土御門烈臣の父、土御門光明の義父の妾だった。認知はしてもらえた。だが、名前を分けてはもらえなかった。
 だから勝手に名乗ることにした。妾の子で終わるなんてごめんだ。あんな薄汚れた家と血なんぞこっちから拒否してやる。
 そう思っただけのこと。
 それはそうするだけ価値のある、業斗にとっては大切なことをこめた名乗りだった。
 こいつには、名乗らなければならない、どの道そうなる。
 そう思った。
 血まみれブレザーは怪訝そうな間を開けた後、
「……門倉いづる」
 かすれた低い声で答えた。そして続けた。
「いまのは、練習すれば、誰でもできるようなことなのか?」
「いまのっていうと、俺の『腕』のことか? ――いや、できねえだろうな。俺はこの腕を他人からもらったんだが、それも条件つきだったし、やつが俺以外に分け与えたって話も聞かない」
「それは、魔王会でも、使うのか」
 業斗はくっくと笑う。
「卑怯だって言いたいか? ――使うぜ。容赦なくな。俺は死んでからずっとここにいる。ずっとな。俺はここで強くならなきゃなんねえ」
 ごちゃごちゃ何か喚きかけたキャスケット帽の仮面の下から手を突っ込んで、門倉いづるはその口を押さえた。
「――強くなる? もう死んでるのに?」
「おかしいか? 俺はそうは思わない。ずっとここにい続ければ、自分の意識さえあれば、俺にとっては身体があろうが無かろうが関係ない――そう思ってるやつは割りと多いと思うけどな。まあ俺には、そんな居残り目指し隊よりも、もっとずっとやりてえことがあるのさ」
 そう。
 夢が。
 業斗は拳を握って、それをキャスケット帽の腹にどん、と当てた。その柔らかな衝撃の波は、門倉いづるにも届いただろう。
「俺は魔王会に勝って、兄貴に会いにいくんだ……。おまえとはなんとなく気が合いそうなんだが、悪いな、次に会ったら敵同士、遠慮なくいかせてもらうぜ。せっかく出会えて、もったいない気もするが――」
「気にするな」門倉いづるの声音は機械のように変わらなかった。
「僕もそうする」
 言いやがる。
 業斗は最後に門倉いづるの肩に拳を軽く乗せ、歩き出した。門倉いづるはキャスケット帽を羽交い絞めにしたまま、前を向いていた。二人の距離が遠ざかる。
 いまは遠く、しかしやがてはゼロになるだろうその距離が。
 魔王に等しい傲慢たる魂を持つものを選び抜く闘い。
 その予選が、その日、すべてつつがなく終了した。



 ○



 異名、もしくは、死んでから名づけられることからあやかって不届きにも戒名などと言ったりする。
 が、みんな自分にあだ名がつけられるのは嬉しいもので、誰しも自分の戒名には実のところ興味津々なのである。
 券売所そばにある黒板のまわりはいつも閑散としているのだが、誰かがいつの間にか守銭奴たちの戒名を考えては書き込むのが慣わしとなっていた。この戒名はやつには似合わない、と思ったら容赦なく消されてしまうが、ぴったりだとみんなに思ってもらえれば、その名は末永くその守銭奴を表す通り名となる。
 その日、券売所そばの黒板に一つの戒名が書き込まれた。
 その闘い方の見苦しさから、彼の戒名は、あまりいい印象を人に与える代物ではなかった。しかし、当の本人はそれを見て恥ずかしそうに頭をかいていたから、まんざらでもなかったのだろう。
 その戒名は、餓鬼。
 誰が名づけたのかは知らないが。
 その名には、侮蔑と嘲笑の意味の裏に、こういう意図が隠されていたのかもしれない。

 卑しく、弱く、見苦しく。
 とても天魔悪魔に混じって勝ち越せるとは思えぬが、
 だからこそ、勝ってくれるところを見せてくれ――

 馬鹿言うな、と餓鬼は思う。おまえらみんな、自分が儲けたいだけだ。その欲望のために、他人の運命に自分のそれを重ねて乗っけて冷たい汗を流しているのだ。そんなやつらのためには闘わない。ないが、
 それでも、自分は勝つ。
 だからせいぜい、僕に乗れ。
 増やしてやるよ、その魂。
 いづるは右手をポケットから取り出した。相変わらず、行き場をなくして、時々痙攣するように震えるその掌を、
 やっと、固く握り締めた。







 そして物語は、一時、地上に戻る――。

       

表紙

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