Neetel Inside ニートノベル
表紙

あの世横丁ぎゃんぶる稀譚
EX.『インフレーション・ラヴァーソウル…』

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 かわせたはずだった。
 あの時、自分はあのナイフを、
 かわせた、はずだった――



 ○



 愛されて育った。
 そのことについて否定はできないと思う。
 堂島アンナは、なんだかんだ言ってある高名な政治家の家系の出だ。父親はもちろん政治家、母親はその元秘書だった。堂島家には金があった――そして、往々にして語られるような、富裕層にはつきものの親が子に対する冷淡さのようなものは、まったくなかった。父親はアンナが産まれる時、のちのち自分の立場が危うくなるかもしれないとわかっていながら2ランク上の政治家の誕生日パーティを蹴って病院へかけつけた。母親は、前回からだいぶ間の空いた出産を冷静に、そして喜びを持ってやり遂げた。父親がかけつけた時、母親はすでにアンナを腕に抱いて「遅いわよ」と苦笑いしたという。とても速やかなお産で、担当医は「まるで神様に祝福されたようですね」とお世辞を飛ばした。
 そう、アンナは神に愛されていた。
 アンナの家系――というよりも母方の血には遺伝子の欠陥が潜在しており、母の兄弟はみなそれで死んでいた。発症率は五分の四。もし遺伝子の選択に巻き込まれていれば、アンナは一生、口を利くことも自分で歩くこともできなかっただろう。アンナの上には兄が二人、姉がひとりいたが、みな生まれ落ちてから五年以内に死亡していた。
 だが、アンナはその勝負に勝った。
 堂島家の子どもたちの中で、たったひとり、3000gを越える体重で産まれた女の子。
 アンナの母は、結婚二十年目にして、ようやく母子手帳に「母子ともに健康」と記すことができ、そしてその手帳の書きこみとアンナの幸福な人生はその時そこから始まった。
 父親の意向で、他の子供と同じように育てられた。といっても、大学へいたるまで完全エスカレート制の付属幼稚園は、年収一千万円以下の家庭の子供には絶対に通えない超エリート校だったが、父親にとっては、それが『ふつう』だった。そうでないひとたちというのは、いってみれば「どうしようもない」とか「なにか罰当たりなことでもしたんだろう」ということになるらしかった。父親は、いい父親ではあったが、政治家だった。
 自分が通う、教会のような幼稚園へいく道すがら、排気ガスまみれの車道に面した小さな孤児院で遊ぶ子どもたちを横目に見るとき、アンナはいつも思っていた。自分と彼らのどこが違うのか、と。どこも違わない――でも彼らは容赦なく吹き付けてくる灰色がかった排気ガスをずっと吸っていなければならない。なぜならその道路を車が通れなくなれば、その車の台数分だけ迷惑する人間がおり、失われる時間があり、損なわれる金があった。孤児院に通う子どもたちが肺を病むことと、それらの資本的価値を天秤に乗せると、一発で孤児たちの肺は空高く舞い上がってしまうのだった。
「アンナ、なに考えてるの?」
 べつに、とアンナは自分の手を引く母に返した。こんなことを考えていると知れば――それもまだ四歳の女の子が――母はとても悲しむ。それは『ふつう』ではないから。アンナはそれを本能的に悟っていた。言葉はまだ拙かったけれど、その根っこの部分は、たしかに理解していたのだ。
 ここは空気がよくないから早くいこうね、具合が悪くなったらいつでも言うんだよ、その時は車でいこうね、と母がアンナの手を引いて孤児院の前を通り過ぎようとする。アンナは顔を向けずに、怖いものでも見るように中をちらっと窺う。その時、中でゴムボールを弾ませていた同い年くらいの女の子と目があった。
 どきっとした。
 ああ、ひょっとするとひどいことを言われるかもしれない。なぜなら、母とお手伝いさんと蟻塚が見ているテレビドラマなんかでは、お金持ちはいつも悪し様に描かれるから。お金持ちの父親と母親はいつも喧嘩ばかりしていて、子どもはその鬱憤をお金持ちではない、ださい服を着た別の子にぶつけるのだ。そういう筋書きなのだ。そう、お金持ちはテレビの中で、それが政治を商う家柄の子ならなおさら――問答無用で悪者なのだ。
 そして、それは、当然の反応だとアンナは思うのだ。
 だって、自分が逆の立場だったら、絶対にそうするから。
 柵の向こうの女の子の顔が変わろうとしている。表情を浮かべようとしている。アンナはそれから目を逸らせない。
 結局、女の子は――にこっと笑って、柵の向こうにいるアンナに手を振ってきた。なんでもないように。友達でも見つけたかのように。目があった、というだけで。
 金縛りが解けて、ぱっとアンナは顔をそむけた。それきり植え込みに隠されて、園内は見えなくなった。
「どうしたの、アンナ?」
 なんでもない、とアンナは答えた。心臓が跳ねていた。嬉しさで? 違った。
 アンナにはわからなかった。
 どうして自分が愛されるのか、が。
 自分は周りのひとたちが思っているような『いい子』なんかじゃ決してない。いや、仮に『いい子』だったとしても、恨まれて当然なのだ。アンナは、誰のことも好きじゃなかったから。好きになってくれないなら、どうして好きになろうとする? 世の中は等価交換――やり取りでできている。ただで手に入るものなんて、ないはずなのに、どうして――
 ずっと、そのことがわからないまま――堂島アンナは大きくなった。
 自分はなにも愛していない。なのに、彼女の周りには常に愛が振りまかれていた。道で目があったひとたちは笑顔で挨拶をしてくれる。安月給でこき使われる家のお手伝いさんはたとえ夜中であろうとアンナにご飯を作ってくれる。母も父も、政治家にありがちな束縛を嫌い、育ちこそ洗練されていなければいけないし、上流階級との触れ合いも大事だけれど、それより優先するべきは子どもの意志――そうやって育ててくれた。だから、アンナは、なに不自由なく育った。ただひとつの感情を除いては。
 愛。
 ――なにそれ?
 みんな、笑顔を向けていれば、こっちが向こうを愛していると思い込む。そしてアンナはそれを否定しない。肯定もしない。でも、みんなアンナの笑顔を信じる。信じて、その挙句にたとえアンナが裏切ったとしても、事情があったのだろうとか、好きでそうしたわけじゃないんだろうとか、勝手な理屈を作り上げてアンナを守ってくれる。傷つけた相手であるアンナを。恵まれ、なに不自由なく育った、きれいでかわいく、遺伝子(運命?)にさえ打ち勝った堂島アンナを。
 妬ましくないの? とアンナは中学のクラスメイト(向こうはアンナを友達だと言っていた)に聞いてみると、彼女は笑って首を振った。
 ――なんで?
 アンナには理解できない。妬ましいはずだ。
殺したくなったと言われても頷ける。それならわかる。敵意ならわかる。向けられて当然だ。でも、愛?
 ――どうして。
 アンナはその疑問に苦しめられた。怖かった。鏡を見て、自分の顔を眺めてみる。確かに整っている。でも、テレビの中ではもっと可愛い女の子たちが一生懸命歌って踊ってがんばっている。なのに、愛されるのは自分だ。どのアイドルたちもすぐに飽きられて、二、三年もすればピークが終わる。アンナは、産まれた時からピークのままだった。
 いつからか、疑問を疑問のままで済ませられなくなった。
 たとえばある時、わざと友達が大切にしていたアクセサリーを壊してみた。その友達は一瞬、悲しげな顔を見せたが、それでもすぐに笑顔を作って許してくれた。一回目はな、とアンナも思った。だから何度も壊してやった。
 その友達は土木作業中に事故死した父親の形見の青いつなぎを肥溜めに捨てられてから一週間後、アンナに謝りにきた。
 ――ごめんねアンナちゃん、きっとわたしがなにか気に障ることしちゃったんだね。こういうのって、やっぱり自分ではわからないことがあるから、できれば言って欲しかった。あ、ううん、責めてるんじゃないよ。アンナちゃんも辛かっただろうし、その辛さはわたしにもわかるから。ひとりで悩んでたんだよね? ごめんね、気づいてあげられなくって。わたし、アンナちゃんのそばにいない方がいいみたい。安心して、アンナちゃん! もう悩まなくっていいの、わたしね、親戚のおじさんの家にいくことにしたんだ。だからもう大丈夫! わたしがいなくなれば、アンナちゃんは元のやさしいアンナちゃんに戻るんだよね? そのためだったら、わたし、転校ぐらい平気だよ! もし、もしね、アンナちゃん、わたしともう一度友達になってもいいって思える時が来たら、いつでも連絡してね! わたしとアンナちゃんは、いつまでも、友達だから――
 だいすきだよ、アンナちゃん。



 寒気がした。



 感じの悪そうな『叔父』に腕を掴まれてクラスメイトは車に乗せられ、その車はわだちを残してどこかへと走り去っていった。アンナはひとりその場に取り残され、砂に刻まれた、やがては消えてしまうタイヤの痕跡をじっと見下ろしていた。
 どうして。
 どうして、わかってくれないんだろう。
 いつの間にか拳を握り締めていた。唇がわなわなと震えた。目尻から涙が溢れかけたのを、最後の意地でせき止めた。
 誰か、教えて。
 どうしたら、嫌いになってもらえるの?
 なにをしても許されて、愛されてしまうなら、
 あたしはどうやって、嫌われたくないと思えばいい?
 嫌われたくないと思って、そして、
 愛されたいって、
 思いたいのに――――




 だから、自分は、あのナイフをかわさなかった。
 キャスケット帽を目深に被っていた自分を、あの暴漢はナイフで刺した。そのまま何も言わずに立ち去った。顔も見ずに。誰でもよかったのかもしれない、あの頃は、そういう通り魔が流行っていた。
 腹からこぼれる血をすくって、自分で作った血だまりに跪いて、その赤い血潮に刻まれたうねりを見つめる。死を、見つめる。
 死ぬ。
 身体から力が抜けた。どっと赤い飛沫を飛ばして、血だまりに横倒しになる。一度、身体から流れ出た血液が、むき出しの頬に染みていく。
 最期に脳裏をよぎったのは、それでもやはり家族のことだった。

 お父さん。お母さん。






 好きになれなくて、ごめんなさい。

       

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