Neetel Inside ニートノベル
表紙

あの世横丁ぎゃんぶる稀譚
16-02.必敗博打

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 息が、詰まる。必死に深呼吸して、新しい空気を身体の中に取り込むフリをして、そして全身が冷え切っていることを思い出す。
 ペンを握ったまま、固まっているアンナを見て、老婆がしたり顔で頷く。
「そう、それでいい。ようやく思い出せたらしいな。――知っていたはずだろう? 自分がどういう人間なのか。堂島アンナは、人助けのために、利にならない賭けをするような殊勝なやつではない。決してない。おまえの本質は、邪悪――穢れた魂」
「……あたし、は」
「おまえはわかっているはずだ」
 ペン先が震える。
 そう、わかっている。
 たとえ自分がどれほど尽くそうとも――
「おまえが門倉いづるに『惹かれている』と思っているのは、間違いだ」老婆は断言した。
「それはやつの性質と、おまえの悔いが生んだ幻想に過ぎない。実態のない、心とも呼べない、気のせいでしかない。幽霊の正体、見たり、そは枯れ尾花――おまえは、わかっているはずだ」
「……」
「やつは誰のことも好きにはなれない。それがやつの本質だからだ。だから、おまえは誤解した。――やつならおまえのことを嫌ってくれるのではないか、そして――」
「……」
「引き返せ、堂島アンナ」
 老婆は諭すように声を和らげ、身を乗り出して、
「おまえは、勝てない。決して――私にも、彼にも。だが引き返しさえすれば、おまえを待つものがおり、おまえを包む時間がある。なにもそれをわざわざ捨ててしまうことはない」
 ああ、わかる。
 わかっている。
 こいつが、
 なにもわかっていない、ということが。
 アンナはペンを走らせた。さっと線を走らせて、6×6の図を作り、そこに自分の記憶を転写する。老婆はそれを見て目を剥いた。
「アンナ――」
「確かにあたしは、あいつに期待している」
 仮面の奥の目は、ノートに冷たく向けられている。
「ひょっとすると、初めてなにかを好きになったのかもしれないと思ってもいる。確かにあんたの言う通り――否定はしない。でも」
 迷路を進むペン先に、迷いはなく。
「あんたは、わかっていない。門倉は、誰も好きになれない人間なんかじゃない」
「なら――おまえはやつを愛せない。違うか?」
「違うよ。あいつが好きなのは――ひとりだけ、だから。そして、それはあたしじゃない。だから――」
「……」
「確かにあたし――堂島アンナは、自分を無償で愛してくれるひとたちを愛せない」
「じゃあおまえは、こう言いたいのか? 自分を決して愛してくれないやつを好きになる、と」
「うん」
 できっこない、と老婆は吐き捨てた。忌々しげに。それはそうだろうとアンナも思う。
 だから、それをこれから証明する。
 魂を賭けて。


 ○


 まず、正確に、記憶を頼りに自分が歩いたと記憶している足跡を書いてみた。だが、これは壁を突き抜けている。突き抜けた後からの道順をノートの右側に書いた。これがいまのところアンナの羅針盤となってくれる。

     


     


     


 もっとも問題は、これが間違っているということなのだが。アンナもそれほど記憶力に自信がある方ではないが、たぶん、合っているはずだった。
 アンナはノートを見ながら、その上端とキャスケット帽のつばで挟むようにして、卓上の四枚の羊皮紙を眺めた。羊皮紙には、それぞれアンナが通ってきた道順の候補が記されているのだが、それはひとつだけではなくて何度も何度もサイクルされて書かれている。そうでないと単調すぎるので刺繍にならないのだろう。それを自分でぷちぷちと縫い付けるのかと思うと一気にやる気が収縮してしまいそうになる。が、もう大口を叩いてしまったので退くに退けない。
 まあ、ヤマカンで張っても四分の一だ。ちょっと難しいジャンケンに過ぎないと思えばいくらか気も楽だ。こういう土壇場で慌てたり、気負うようでは話にならない。鍛錬不足も甚だしい。一番しっかりしなくちゃいけない時にこそ、チャランポランでいられるぐらいの気概がなければ、なんにもできはしないのだ。なんにも。
 アンナは改めて、候補になっている模様の最小単位を見比べた。

     


     


     


     


     

 一つ目。全体図から言うと、右上の方に進んでからほぼまっすぐ左へいき、ちょっとやる気を出したがすぐに夢破れた金魚のようなルート。これはあるのかないのかちょっと判断不能なので保留にしておく。

 二つ目。これはない、と一目でわかるルート。なぜなら入り口すぐから左折しているからだ。さすがのアンナも最初の曲がり角すら忘れるようなおたんこなすではない。老婆がしっかりと右の横顔を見せて角を曲がっていったことをしっかりと覚えている。

 三つ目。なめている。なめているが、これがひょっとすると一番あるかもしれない。この刺繍はアンナと老婆が通ったルートを当てるのではなく、その最短ルートを当てろ、というものだ。だから、ぐるぐるあっちこっちを回ったつもりでいて、実は入り口そばだった、と言われても、その過程がこの図からは推理できないために、アンナの記憶の齟齬具合によっては、ありえる。

 四つ目。これは一つ目と同じく、途中までかなりアンナの記憶と一致しているため、要検証。つまり保留。
 なんだか膨大な仕事をしなければならないような気がしていたけれど、いまの考察でひとつのルートを破棄でき、また三つ目のなめたルートも検証しようがないというか、残り二つが駄目ならこれかなぁぐらいのキープ案として一次保留しておけるので、実質二択まで絞り込めたと言える。
 あとは、自分の記憶がどこでズレたのかを、見つけ出せればいい。


 怪しいのは、あの老婆が車椅子を倒した地点。あの時キャス子は、老婆があの十字路に最初に踏み入った地点から右折した、と思った。行き止まりから引き返してきた所から見れば、直進したということになる。倒れこんで、立ち上がった時に、老婆の右顔を見ていたから――そして脳内地図の壁をぶち破る破目になった。つまり、あの十字路は北上(この図の上が北を指しているなら、だが)してはいないという結論に達する。では残りの道筋は?
 左へ進んでみる。そこから、右折、右折、右折、で元の十字路に戻ってきてしまい、しかもそこから直進して壁にぶつかってしまう。なら左の道はない。もちろん下へ進んでも壁。上は突き抜けてしまうから――残りは右だ。戻ったのだ。アンナは嬉々としてペン先を進ませる。戻って、右折、右折、右折――ペン先が、止まる。
 壁。
 壁。
 壁。

     


     

 むきになってペン先で描いた壁を強行突破してみるが、そんなことしたって仕方ない。わかってはいたが、気が立った。気が立っていられるだけ幸せかもしれない。いま、その感情の湧き出る場所は、ベットさせられていて、一瞬後には自分のものではなくなっているかもしれないのだから。
 アンナはぎろっと仮面を老婆に向けて、
「この四つはどれも間違いです、なんて言わないよね。そんなんにあたし魂とか渡さないから」
「ははは」老婆が笑った。「わがままだな」
「当たり前でしょうが。それは『ルール』なんだよ、最近流行ってるみたいだけど、人の言葉尻を捕まえてあーでもないこーでもないと法律学者みたいに解釈のたまう連中なんて、あたしは卑怯者だと思ってる。そして、あたしは、卑怯者に魂は渡さない。約束を破られた、口車に乗せられた、と思ったら、どんな理屈も通用しない――あたしは歯向かう。徹底的に、絶対に」
「おお、こわいこわい」老婆は身をすくませて、
「安心しろ。選択肢はこの四つだけだし、答えもここにある。それは約束しよう。それにわかっているはずだ、もし、言い訳ではなく、負け惜しみでなく、おまえがこの勝負を無効だと思えば――私はおまえから魂を取り立てられない。逆もそうだ。おまえがいま、ここを出て行って完璧な地図を描いて戻ってきたりしても、私は魂を渡さない。そこには納得がないからだ。なんの意味もないからだ。さあ、堂島アンナよ。私とおまえの勝負に意味をつけてくれ」
「言われなくても」
 とは言え――アンナはペン先をくせ毛に絡ませて猫のように唸った。どうやら自分は道を記憶違いさせてしまったらしい。ならどこから――いや違う。ほんとうにそうか? 簡単に自分の間違い、過ち、ミスを認めてしまっていいものか? それはまじめすぎるんじゃないか? 清く正しく美しく、お行儀よく襟元正して生きていければ世話ないが、それほど甘くはないのがこの世というもので、それはたとえあの世の底でだって同じはず。芯をしまったペン先で削るようにノートに描いた地図を弾きながら、考える。そして気づく。
 たとえどこの道を間違えて暗記していたとしても、同じだ。
 この、壁に一度ぶつかって、そこから戻った十字路から、自分が通った順路では、壁にぶつかる。しかも、行き止まりにぶつかって、戻って老婆の車椅子に押し倒され、そこから歩き出した道筋は間違えようがない。右折三回に、そこから、道の記憶違いにアンナが近づいた地点まで直進。これは覚えている。確かだ。
 アンナは卓に両手をついて、動かなくなった。
 困った。
 出口が、見つからない――
 どうしてだ? どうして――あるはずなのに。ない、と思ってはいけない。あると思う。思い込む。それが土台となってくれる。だが、これじゃあ、まさに八方ふさがり――いや四方ふさがり? とにかく、どうにかして、答えを弾き出さなければ自分の末路は神隠しだ。冗談じゃない。
 考えてみて、わかった。
 一つ目はない。例の車椅子転倒ポイント(略してKポイント)から、アンナは確かに右折ばかり繰り返したが、ちゃんと直進した。それは間違いない。相当歩いた。だから、Kポイントから直に、アンナが道の間違いに気づいた地点から歩いた不覚の道(この道順も、確かだ。相当慌てていたけれど、プレッシャーに負けて覚えることを放棄したりはしなかった)を通ってゴールしているこれは間違っている。
 となると、残りは三つ目か四つ目。
 この四つ目がクセモノだ――とアンナは、何度も何度もその順をペン先でなぞった。このルートは、Kポイントから右へ進んで、右折を繰り返し、壁を破ってまたKポイントへと到達している。だが、そこからの直進と不覚の道がぴたりと符号するのだ。一番ありえそうなルートだった。
 壁さえなければ。壁さえ――ひょっとして壁なんてなかったんじゃないだろうか? アンナは帽子の中に手を突っ込み、がりがりと髪をかきむしりながらそんな風に思った。老婆も自分も、最初に壁にぶつかったと思ったのはなにかの気のせいで、ほんとはそんなのなくって、でも二人には見えて、つまり集団幻覚で引き返してコケて回って回って回ってKポイント突っ切ってそのままゴールしたんじゃないだろうか。ありうる。結果から見ればそういうことになる。しかしまあ、集団幻覚というのは言いすぎでも、壁は無くなったのかもしれない。現実世界では、壁というのはそんなに消えたり出たりされては困るが、ここはあの世だ。
 『ぬりかべ』というやつもいることだし。


 ○


 アンナは一度だけ、ぬりかべに会ったことがある。それは横丁の片隅だった。廃墟の寺の、鳥居の下、石段にぬりかべは座り込んで、煙草を吸っていた。アンナが近づくと慌てて煙草の先を石段にこすりつけて、パタパタと手を振った。
「だめだめ、この先は通れないよ。天狗どもが遊んでるから、邪魔すると祟られるぜ」
「祟られる?」
「うん。まあ祟られなくても、水を差してお互い嫌な思いはしたくないだろう。さあ、帰ってくれ。おれはここの見張りなんだ。やりたくもないが、ほかにやることもないからね。だから、おれは見張りなんだ。さ、帰ってくれ――」
「わかったよ――」アンナは素直に言って背を向けて、歩き出したが、ふいに振り返った。ぬりかべは新しい煙草を取り出して、ぼんやり中空を見つめていた。その視線は地上三メートルほどの位置から、夕焼け空へ向かっていた。
 問題は、あの巨体。
 墓石そっくりのねずみ色をした丈夫な石でできた身体は、重たく、融通が利かなさそうだった。あの巨体でここまで来れるだろうか――アンナはちらっと背後を見やる。老婆と一緒に下りてきた降ろし通路は、せいぜい人ふたりが並んで通れる程度だし、高さだってアンナの髪をかするくらいだった。迷路内の通路なら、ぬりかべも入れるかもしれないが、そもそもここへやって来た時の、露店通りからの通路が狭すぎる。あそこも、確かこの降ろし通路と同じくらいの幅だった。そして迷路内の壁を演じるには、やはりあの見張りをしていたぬりかべぐらいの大きさでなければ隙間が生まれてしまうはずだ。
 それに――はたして、ぬりかべがここへ来れることを証明するべきなのか? その必要はあるのか? アンナは自分の胸に問う。もし、この『壁抜け』ルートが正しいと思うなら、ほかに答えはないと思うなら、これはイカサマを看破する勝負ではないのだから、選べばいいのだ。これが正解、あの路地からおばあさんの家まで続く道筋ですと指差せばいい。それで勝ちだ。そして、ぬりかべがここに来れることを証明し、自分自身を納得させてしまえば、アンナはおそらくこのルートを選ぶだろう。選ばない理由が無いからだ。ほかの二つは、デハナから間違っているダミーとアンナの暗記がぜんぶ狂っていたと認めるルート。心境的には、暗記不全ルートは選びたくない。アンナには自信があるから。それなりには、といっても、こんな入り口からどんなルートを辿ったにしろ入り口方向へ戻ってきてしまうような道は取っていないし、そこまで方向音痴でもない。そこを疑ってしまえば、結局このギャンブルは味もコクも望みもない四択問題――ダミーを除けばジャンケンと同じ勝率と敗率。外せば、消える。外せば、帰れない。
 外せば、会えない。

 当てる。
 当ててみせる。

 選ぶんだ。選ばないわけにはいかない。いつか選ばなくっちゃならない。学校のテストと同じだ。理屈はどうあれ、答えがあるなら、エンピツを転がそうとも前のやつの答案をチラ見しようとも、当てればいいんだ。そこにどんな意図が隠されていようが、問題の趣旨も本番で困るかどうかも関係ない。困っているのは今であり、切り抜けなければならないのも今なのだ。今をどうにかしなければいつまで経っても先へは進めない。この今をどうにかし続けていけば、ひょっとしたら頑固な氷も溶け出す時が来るかもしれない。どんなに頑なに思えても、ひょっとしたら心変わりしてくれる時が来るかもしれない。今をどうにかすれば。どうにかできれば。
 当てる。
 当ててやる。
 当てなきゃなんない――
 ああ、と思う。がくっと首と肩から力が抜ける。卓に額をつけるようにして俯いて、アンナはぎゅっと目を瞑る。怖い。すごく怖い。外すのが怖いんじゃない。消えるのが怖いんじゃない。
 もう会えないかもしれないのが、怖い。
 なにもできないかもしれないのが、怖い。
 迎えに来てくれないかなぁ、とか思う。虫が好すぎる? そうかもしんない。なにも言ってないのに、そんなそぶりも見せてないのに、そんなこと期待するのは間違ってる。そんなことはわかってる。でも、迎えに来て欲しかった。助けて欲しかった。どう繕おうとしても駄目だった。それが堂島アンナの本音。嘘偽りのない気持ち。
 帰りたい。
 あいつのいるところに。
 硬い床を踏みしめる靴のつま先に、露店通りの喧騒が震えとなって伝わって来る。それさえも懐かしかった。それさえも――






 つま先?





 その時、
 背骨を鉄に打たれたような衝撃がアンナに走った。
 がばっ、と顔をあげて、老婆を見つめ、なにも言わない彼女の顔を見つめて、言った。


「決めた」


「ほほう?」
 老婆は頬に引きつったような笑みを浮かべて、枯れ尽くした枝のような指で顎をかいた。
「三秒前のへこみようが嘘のようだな、堂島アンナ?」
「堂島アンナぁ~?」
 キャス子はハン、と鼻を鳴らして、腕を組み、そしてずびしっと老婆に指紋が見えそうになるほど人差し指を突きつけた。
「そんなやつは知らないぜ? あたしは妖怪キャスケット女」
「……。壊れたか」
「ふっふっふ」キャス子は堪えない。
「イカレポンチで結構結構。それぐらいでなくっちゃ、あいつの相手は務まらないし? むしろあたしじゃなくてどうするっていうか?」
「……ほう」
「あたしさー……ずっと迷ってたんだよね」
 パタン、と広げていたノートを閉じて、中空を見上げ、
「門倉は違うって言ってるけどさー。あいつって、あの剣に封印されてるとかいうコに惚れてんの。だってさあ、あいつさあ、会話に詰まるといっつも飛縁魔の話するんだもん。しかもそんなに仲良くなかったのかしんないけど、同じ話なのね。一緒に生首スロットをがんばってやっつけたとか、牛乳飲んだ飛縁魔の口のまわりが白ヒゲになっててかわいかったとか、会ってすぐいきなり篭手で殴られたとか。そーゆーのぺらぺら喋ってきてさあ。あたしの気持ちも知らずにさあ……」
「……」
「だからさ、そこまで惚気られるとさ、もう退こうって思った。まだ自分の気持ちがはっきり整理ついてない時にもう、退こうって決めた。そう、わかってたから、あんたの言う通り。ああ、会ったことないけど、あたしは飛縁魔とかいうのには勝てないんだなって。いっくら頑張っても、門倉はこっちを向いてはくれないんだな、って……」
 だから、キャス子はことあるごとにセコンド役という言葉を使ってきた。門倉いづるにそう思い込ませるために、そして、自分にそう思い込ませるために。言葉には力がある。そう言い続けることで、もしかしたらほんとうに、そうなってしまえるかもしれないと思った。なにもかも丸く収まって、かどが立たない形になれるんじゃないかと思い、思い込み、そして自分の気持ちを封殺した。邪魔だと。消えてしまえと。おまえにそんな資格はないんだと。


「でも、もう無理」


 仮面をはぐって、それを卓に叩きつける。仮面にヒビが入ったが、そんなことはどうでもよかった。キャス子ははっきりと、裸眼で、老婆を見上げた。
「あたしはあいつが好き。門倉いづるが好き。あのね、好きすぎてたまんないの。死んじゃいそうなの。きっとこの気持ちは、これだけはあんたにだってわからない。わかってたまるか。これはあたしの恋で、あたしの勝負。絶対に、退くわけにはいかない」
「……」老婆は品定めでもするように、キャス子を見ていた。
「威勢がいいのは結構だが、わかったのか? それともカンか? どっちにしろ、おまえは勝てない」
「さあ、果たして最後に勝つのはどっちかな? ねえ、サトリ」
 サトリ。
 その妖怪は、人の心を読む。
「あんたは確かにあたしの気持ちを読んだのかもしれない――でも、勝負の綾目までは読めないよ」
「……確かに。私にはいま、おまえの『勝つ』という気持ちしか読めない。その思いが強すぎて、おまえが何を選んだのか見えないほどだ。よくも――よくもまあ、そこまで高慢になれるものだな、人間よ」
「わがままでいいよ。泣いて喚いて暴れまくって、それで門倉があたしのモノになるんなら、いくらでも滅茶苦茶やってやる」
 キャス子はバッと卓の上、四枚の羊皮紙の上に手をかざした。そして、子どもに横から揺さぶられるようにゆらゆら揺れた。一つ目の羊皮紙をスルーし、四つ目の羊皮紙を通り越し、三つ目の羊皮紙を歯牙にもかけず、キャス子はそれを掴んだ。
 二つ目の羊皮紙。
 入り口からすぐに『左折』する道筋を。滅茶苦茶な道筋を。ありえないはずの道筋を。
 だが、キャス子はそれを掴んだ。



 ばりぃん、と。


 鏡の割れるような音がして、



 老婆の身体が、赤い貨幣になって崩れ落ち始めた。じゃららららら、とフィーバー状態に入った己の身体を不思議そうに見下ろして、それをしでかした小娘を見上げ、にっと笑う。

「やるな、小娘。……わかったのか? それともヤケか?」
「さすがにヤケでは選びたくなかったね」キャス子も、老婆に応じて笑顔を見せる。
「ぜんぜん、考えつかなかったよ。ギリギリまで。……この迷路が、『回転』してた、なんてね」
「ふ、ふふ……」老婆は零れ落ちる胸元の魂貨を握り締める。キャス子は流れ落ちる老婆の時間を見つめながら、
「気がついたのは、揺れだった」
「ゆ……れ……?」
「うん。露店通りってさ、年がら年中バカが騒ぎを起こすでしょ。ちょっとした小競り合いなんてラーメン茹でてる間に起こるし、スリの武者修行で行脚してるアンポンタンに財布取られてキレてるやつもいるし、とにかくうるさくて、やかましくて、騒々しい」
 そして、
「迷路に入って、奥――闘技場外壁に近づいたはずなのに、あたしの足に伝わってきた震えは、つま先の方から響いてきた。おかしいよね? その先には外しかないはずなのに」
 老婆は笑っている。もう言葉も出ないようだ。
「そもそも、あたしは最初、この『左折』ルートがダミーだと思ってた。でも、真剣勝負でわざわざありえない『ダミー』なんて混ぜてくれるやつがいる? 十問当ててナンボのクイズ番組じゃあるまいし、よくよく考えてみれば不自然すぎた――」
 それにさ、とキャス子はくすぐったそうな顔で続ける。
「もし、ぬりかべとかなんとか、ダミーの壁をひょっとしたらあんたは実際使ってたのかもしれないけど、それで推理の土台、賭けの土壌が壊れる結果の道筋だったら、ひょっとしたらこの賭けは『無効』扱いになるかもしれない。あたしは、納得しなかったかもしれない。とは言っても、たぶんしたと思うけど、これが門倉とか、志馬とか、あのへんの連中だと『絶対おかしいおれは間違ってなんかいない!』って信じて、信じすぎて――あんたは魂の取立てができないかもしれない。それが、あの世の博打の特徴。その危険を犯したくは、ないはず」
「…………」
「そう、確かにあんたは言った。この中のどれかに『家』まで続く道筋が描いてあって、そして『今』だれかがその道の通りにいけば、あんたの家に辿り着ける。――今、ならね」
「…………」
「迷路は『回転』してた――で、あとはイモヅル式に、ここが本当のあんたの家じゃないことに気がついた。だってここベッドもないし台所もないし、変な剥製とテーブルがあるだけのここってなんか、隠し部屋って感じだし。家じゃない、と言われたら、確かにそう」
「…………」
「ここは――あたしたちが迷宮に入った時の入り口の通路。その下。賭けはあたしの勝ちで、あんたの負け。あんたは、もう、家へは帰れない……」
 そうキャス子が締めくくった時、すでに卓の向こうには誰もいなかった。ただ、夥しい数の魂貨が、昆虫のコロニー内に産みつけられた卵のように、一面を覆っていた。キャス子は時々思い出したように揺れるロウソクの炎を見つめながら、迷い家の刺繍を記した羊皮紙をしばらく、撫でていた。



 ○



 扉を開けると、ベッドに寝転がっていづるが漫画を読んでいた。ぺらり、ぺらりと読みながら、袋を開けたポテトチップスを時々つまんで仮面の中に突っ込んでバリバリ喰っている。なにが面白いのか、しきりにあはははと楽しそうに笑っている。それがキャス子のカンに触った。あたしが頑張ってた時に、へえ、ポテチ喰って漫画読んでたんだ? ああ、そう。いいよべつに。それならこっちにも考えがある。
 キャス子は、テーブルの上に乗せられた本と、魂貨をくっつけたりはがしたりして遊んでいた電介の上に戦利品の羊皮紙をかぶせて(にゃ!)、いづるが寝転ぶベッドの端に腰かけた。
「ああ、キャス子おかえり」ぺらり。
「……。ただいま」
「なんかコロポックルたちが本を運んできてくれたよ。『猿でもみるみるそれなりになる裁縫』、だっけ? まったく、やっぱり裁縫できないんじゃないか。意地張っちゃってさあ。かわいいとこあるねぇ」
 沈黙。
「……それ本気で言ってる?」
「へ?」
「本気で言ってんのか、って聞いてんの」
 言うやいなや、キャス子の手が閃いて、いづるの読んでいた漫画とポテチを壁際まで吹っ飛ばした。唖然としたいづるが、身をひねって自分を見下ろして来るキャス子を見上げる。
「きゃ、キャス子? え、なに、どうし――」
 キャス子はいづるの胸倉を掴み上げ、壁に押しつけた。
「かわいい? 誰が?」
「え、いや、その、じょ、じょうだ」
「ああ?」
「ちがいますなんでもないです……な、なんなんだよ、キャス――」
 おもむろに、キャス子は自分の仮面をはぐった。
「キャス、子……?」
 キャス子はなにも言わず、答えず、いづるの仮面をはぐった。戸惑った顔をした、いづるの素顔が現れる。
 素顔を見せ合うのは、これが初めてだった。
「よかった、ブサイクじゃなくて」
 キャス子は呟いた。そして言葉の意味が掴めぬまま身動きできないでいるいづるの、
 唇を、奪った。
 重なる肉から、溢れて来る、柔らかい、感触――
 ああ夢だ、といづるは思った。これは夢だ。こんなことあるわけない。だってキャス子が、なんで――
 視界の端で、紙を頭巾にした電介が丸々と両目を広げて(こいつらいったいなにやってんだ?)いるのが見えて――
 どれだけ時間が経ったのか、
 唇を先に離したのは、キャス子。
 怯えたように自分を見つめて来る瞳を見据えたまま、ぺろりと舌で唇を拭う。獲物の血の味を確かめる肉食獣のように。
「しょっぱい」
 ポテチのせいだろうな、といづるは思った。
 ベッドから降りると、キャス子はスタスタと歩いてそのまま出て行ってしまった。もう一種のテロみたいなものだった。いづるは茫然自失の体で、ベッドにへたりこんだまま、指一本でも動かせばこのわけのわからない状況がもっとわけがわからなくなりそうで、固まっていた。焼き芋を買いにいった蟻塚が戻ってくるまで、いづるはそのまま石になっていた。




 ○



 扉を閉めると同時に走り出した。たっぷり二キロは稼いだあたりで、誰も周りにいないことを確かめて、キャス子は壁に背を預けた。そのままずるずると座り込む。まだ自分でもどうしていいかわからないうちに視界がぼやけてくる。感動したい気持ちもあるけどそれほどでもない映画を見た時とは打って変わって、自然と目から涙がぼろぼろ出た。しゃくりあげまいと思った瞬間にしゃくりあげた。なんでこんなことになっているのか自分でもよくわからなかった。十万握ってパチンコ打ちにいって、ふと外が暗いなと思った時に初めて自分がオケラになっていることに気づいた時のような気分だった。あれ、おかしいな、こんなはずだったっけ?
 ただ、パチンコと違うのは、自分がどうやらいま、勝ったらしい、ということ。
 あの顔。
 あの顔――
「ふ、ふふ……」
 どうだ、見たか。
 キャス子はぼろぼろ涙を零しながら、ゴンゴン、と後頭部を壁にぶつけて、会ったこともない女の子に言った。
 ――今日のところは、あたしの勝ち。





       

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