Neetel Inside ニートノベル
表紙

くすんだレモネードを手にとって
キョンシーラボにようこそ

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ニ キョンシーラボにようこそ


 しゅるるるるるるるるるるる、ぽんっ!

 どこかのテレビでやっていそうな、ワンダーランドを舞台にしたアニメで使われていてもおかしくない効果音が聞こえた。
 そして気付くと、柔斗は地下室のような暗い部屋の中に立っている。
 ここは、どこなんだろう。
 自分は、どうしたんだろう。
 透ける手を一瞥してから部屋の中を見回すと、真後ろにれもんが立っていることに気付いた。
「うわっ!」
 思わずのけぞりながらも、柔斗はなんとか彼女と対峙して、睨みつける。
 彼の記憶に残っている最後のシーンは、壺を持っていたれもんである。
 つまり、彼女がなにやらよくわからないことをやったに違いない。
「ここは一体どこなんだ?」
 れもんは相変わらずさっきと同じように笑みを浮かべていた。
 よく見てみると、服装はさっきの制服からジャージに着替えていて、髪は後ろで留めてある。
 どこかで着替たらしい。
 それなりに、時間が経っていることは明白だった。
「ちょっとした秘密基地です。」
「秘密基地?」
「ええ。だから、ニュート先輩にはこの壺に入っててもらいました」
 してやったりのしたり顔で、れもんは小壷をフリフリと振りかざしている。
「魔法のランプならぬ魔法の小壷とでも言いたいのか?」
 俺はお前のジーニーじゃないんだぞ、と食いかかる柔斗をれもんはまぁまぁとなだめた。
「短気はケンタッキーって言うじゃないですか」
「言わねえよ」
 柔斗の全力のツッコミはスルーして、彼女は小さな部屋のあちこちを歩き回りながら説明を始めた。
「ここはアラブの王宮じゃありません。私の家の地下室です」
「あのボロ家の地下なのか?」
「はい。この場所で私たちは魂を扱います。人から魂を抜くこともあれば、それを冷凍保存した既存の肉体に封入する――先輩は幽霊だから分からないかもしれないんですけど、この部屋かなり寒いんです」
 しかし、言っている当のれもんも寒い素振りはまったく見せていない。
 普通、寒い所で呼吸すれば白い息が出てくるはずだが、彼女は先程と変わらずに話しているのだ。
「さて――」
 疑問を感じる柔斗の横を通り過ぎて、れもんは冷蔵庫のドアが大きくなったような鉄製の扉の前で止まる。
 そして、その取っ手を持つとゆっくりと開いていく。
 そういえば、この四角い部屋の至る所にこんな感じの扉が幾つもある。
 中心には、小さな長方形のテーブルがひとつあるだけだ。
「この中に、何かが入っています」
 ゴクリ、と柔斗は唾を飲んだ気がした。
 何が入っているのだろうか。
「……なんでしょう?」
「知らねえよ! お前が知らないのを俺が知る訳ないだろ!」
 気温の低い冷凍室だからどうかは分からないが、柔斗の声が恐ろしいほど気持ちよく響き渡る。 
「もったいぶってるってこと、わからないんですか?」
 むぅ、と口を一文字に結んでれもんは不満そうな表情をさらけ出した。
 人形のような無機質の手は、扉にかけられたままである。
「柔斗先輩って、幽霊のクセにアツいんですね」
「幽霊がみんなクールだと思うなよ」
「どんなものにも例外はつきものですね。わかります」
 憎たらしく笑って、れもんは扉を開けた。
 もう何を言ってもしょうがないだろうと、柔斗は呆れて肩をすくめただけだった。
「この子です」
「…………」
 開け放たれた扉の中は、暗くてよく見えない。
 しかし、れもんが『この子』と呼んだ何かは確かにそこに横たわっていた。
「こ……こいつは」
 近付いていき、その存在に気付いた柔斗は思わずすくめた肩の力が抜けていくの感じる。
 どんな怪物が入っているかと思っていたら、そこにいたのは――
「ね、ねこ?」
「はい。黒猫のヤマトちゃんです」
 お届け物を届けてくれそうな猫の名前を、れもんは静かに告げた。


 ◯


 ヤマト、と名を呼ばれた黒い猫は、一畳ほどの大きな暗闇の中に溶けこむように横たわっている。
 れもんはその猫を冷凍庫の中からそっと取り出して、部屋の中央にあるテーブルの上に乗せた。
 力無くうなだれるヤマトを見ながら、柔斗は後ろから彼女に尋ねる。
「この猫……生きてるのか?」
 ヤマトを撫ぜていたれもんが振り返る。
 無表情だったが、そこには哀愁が漂っていた。
「残念ながら……」
「……そっか」
 沈み込んだ声につられて、柔斗もくぐもった声で返す。
「私が見つけた時には、もう道路の上で息を引き取ってました」
 れもんは地上へと続くらしい、急な階段の上をなんとなく見上げて溜息をついた。
 階段の先には薄汚れた扉が静かに佇んでいる。
「その時――子供なんでしょうね。三匹の子猫ちゃん達がヤマトに擦り寄ってたんです」
 視線を手元のヤマトに落として、安らかに眠る小さな顔を彼女は見つめる。
 その姿を見ながら、柔斗は目の前の黒猫と自分の姿を重ね合わせる。
 自分もまた、周りの家族を残して逝ってしまった。
 この猫も、それを後悔しているのだろうか。
 悲しみをまとった声色で、れもんは続ける。
「私、その子たちを家に連れてきたんですけど、いつも寂しそうにしてて……」
 結局、私って弱いんですよ、とれもんはうつむく。
 れもんはその後ヤマトの代わりに子猫達の世話をしているが、彼等は時たまとても寂しそうに地下室の入り口のあたりを見ていることがあった。
 そこが隠されている、秘密の入口であるにもかかわらず。
 何か、感じるものがあるのだろうか。
 どうすればいいか悩んでいたら、れもんはいつの間にか山に足を運んでしまっていたのである。
 彼女にとっては、あまりよくわからないことだった。
 ただ、なんとなく悲しかった。
「自分に出来ないことが、対処出来ないことがあると、さっきみたいにすぐにああやって首を吊って忘れようとするんです。だけど、忘れた所であの子猫ちゃん達は救われないんですよね」
「いや、その子猫達の世話してるだけ偉いと思うけどな、俺は」
 見て見ぬふりをする人だって数多くいるに違いない。
 そもそも、自分で飼っておいて捨てる人だって少なくないだろう。
 それなのに、れもんはこうして頑張っているのだ。
 柔斗は少し見直したくなった。

何かを悟ったような口ぶりで、れもんは柔斗を見やる。
「……中途半端な努力は、大抵報われずに終わるんですよ」
 その言葉は、頭の片隅で家族の事を思いつつも、現実から逃げていた彼の過去に突き刺さった。
 もちろん、れもんは意図せずに言っただけなのだろうが。
 そして、彼女はその目に力をこめる。
「だからこそ、先輩の力が必要なんです」
「俺が……?」
 れもんと、テーブルに横たわるヤマトを交互に見ながら柔斗は戸惑った。
 幽霊の自分がこの猫に対して何が出来るのだろうか。
 一年間の旅で幽霊としての無力さを味わい続けた彼からしてみれば、想像が出来無かった。
「はい」
 れもんは真面目な顔で、静かに告げた。
「先輩がヤマトの中に入れば、すべて解決です」
 何を意図しているのか分からないが、指を一本ピンと立てて柔斗をじっと見つめている。
 柔斗にはそこに強い意志と確信が見え隠れしているようにも見えた。
「……それが、俺をここに連れてきた理由か?」
「はい。そういうことですね」
 彼にはれもんの願い入れが今一ピンとこない。
 猫の中に入る――まるでどこかの童話のような話だ。
 あまりにも現実離れしている。
 それに、そんなことをして、どうなるというのだろう。
 しかし、れもんが思いつきそうな考えでもある。
 ここまで来て断るわけにもいかないので、彼はとりあえずの曖昧な返事をすることにした。
「あぁ、わかった。だけど……」
「本当ですか!?」
 どうすりゃいいかよく分からないんだが、と彼が付け加える前にれもんが輝くような青白い笑顔を浮かべる。
 その笑顔を見ると、とりあえずよかったんだな、と柔斗の方も安心してしまう。
「それでは早速やりたいと思います!」
「……随分元気になったな」
「キョンシーならではのポジティブシンキングですよ。きっと天国のヤマトちゃんも喜んでます」
 言って、れもんはテーブルに置いていた壺を手に取った。
 くすんだ茶色で、よくわからない文様が描いてあるそれは、キョンシーのアイテムなのだろうか。
「先輩。何度もすみませんが、この中にお願いします」
 なんだか楽しそうにしているれもんに柔斗は少々の苛立を覚えた。
 仮にも人だった自分を壺の中に吸い込むことに対しての罪悪感はほとんど感じられない。
 けれど、彼女も別にただぽけーっとしているわけではないのは、今の会話でよく分かった。
 困っている人がいるなら、協力するのが彼の美徳である。
「……あぁ」
 薄明かりのような曖昧な納得をして、柔斗は暗い空間へ吸い込まれていったのだった。

     


 視界が明るくなって、柔斗の目にまず飛び込んできたのはれもんの顔だった。
 あまり生気の感じられない、無感情な目が彼をじろじろと見据える。
「おはようございます」
「んあ……?」
 れもんの大音響なあいさつでようやくはっきりと目を覚まし、柔斗は首をゆっくりと傾けた。
 首の横には、れもんの手。
 宙に浮いた形になっている、己の体。
 彼は、れもんに抱き上げられていたのだ。
「うお」
「あはは」
 だっこです、と言ってれもんは猫になった柔斗を自分の体に引き寄せる。
 毛の感触を楽しむように、ぎゅーっと抱きしめて、彼女は歓喜の声を上げた。
「気持ちいい……」
「く、苦しい……」
 柔斗にしてみれば、首の辺りにれもんの方が見事にフックされているわけで、とても苦しいのだ。
 だが、よくよく考えてみればその感覚は、一年ぶりでもある。
 幽霊ならば絶対に得ることの出来ない、生きている感覚。
 すみません、と笑いながられもんに体から離して地面に下ろしてもらって、彼は今こうして肉体を持っていることを実感した。
 そう、確かに今彼は生きている、のである。
「おぉお」
「やーん。先輩可愛いです」
 猫となった自らの体躯を、たまげたもんだとやんややんやと動かしていたら、れもんが腕を胸の前に持って行き、きゅぴーんと効果音が鳴りそうなポーズをした。
 そんな彼女を、柔斗inヤマトはジト目で見上げる。
「……どうしたんだ」
「も、悶絶してます」
「女の子はそうやって悶絶するもんなのか」
「モチロンですっ」
 そうなのか、と柔斗は首をかしげて前足でヒゲをいじくってみた。
 すると、もう二回ほどきゅぴーんと音が聞こえた気がする。
「なるほど、そういうものなのか」
 納得しつつも、彼は生前の人付き合いでこんな格好をして喜ぶ女子は見たことがなかったぁと回想する。
 幽霊としてさまよっていた一年間で、世の中は随分と様変わりしたらしい。
 首吊キョンシーは、思ったより小動物に弱いらしかった。

「で、ここはどこなんだ?」
 ヒゲをいじくるのにも飽きたので、両の前足を地について、柔斗は周りを見回す。
 視線の高さが地上10センチほどに下がったので、目に入って来る光景全てが新鮮に思えてしまう。
 そんなに大きくない部屋のようで、窓からは光が差し込んでいた。
 ベッドの足らしい柱が四本あって、近くには服が乱雑に散らかっている。
「あ、私の部屋ですよ」
 いつのまにやらポーズを解除していたれもんは、しゃがみこんで正座した。
 格好はさっきと同じジャージ姿のようである。
 そして、親切にも柔斗と同じ視線になるように顔を地につけて、彼をジーっと見つめた。
「子猫ちゃん達をつれてきますからね。元気づけてあげてください」
 わざわざそんなことをしなくてもいいだろうに、とは言わずに柔斗は頷く。
「わかった」
「あ、それと」
 立ち上がりながら、思い出したようにれもんは言った。
「先輩が話しても普通の人間さんには猫が鳴いているようにしか聞こえませんから、私残念です」
「そこは俺が残念がる所だろ」
 どうやらこのまま家族の元へと舞い戻っても、良くて拾われてペットにされるくらいだろう。
 そもそも気付かれないかもしれない。
 しかし妹にナデナデされるのも悪くないよな、などと思っているとれもんが顔を赤らめていた。
「でも、こういうのもアリですよね」
「アリもキリギリスもないな」
 一人で納得して部屋から出て行ったれもんに、柔斗は呆れたのだった。

 
 ◯


 数分後、柔斗が横になっている所にれもんが腕に三匹の子猫を抱えてやってきた。
「はいっ、みんなヤマトちゃんだよー」
「にゃーにゃー」
 かがみ込んで解き放つと、子猫達は嬉しそうに鳴きながら柔斗の元に駆け寄ってくる。
 どうやら、本当にヤマトが生き返ったと思っているようだ。
 体をすり寄せてくるのを恥ずかしいとは思いつつも、柔斗は彼らの頭を毛むくじゃらの手で軽く撫でてやった。
「よしよし。寂しかったんだな」
「ふにゅー」
 お腹の上に乗ってくる猫もあれば、顔を舐めてくる猫もいる。
 なんだか暖かくてほのぼのとしていて、柔斗は眠くなってきてしまった。
 さっきのれもんの気持ちも、わからなくもない。
「うぅ……これはこれで中々イけるな」
「名前もちゃんと覚えてあげてくださいね」
 そして、いつのまにやら戦場カメラマンのようにこちらにレンズを向けてれもんは伏せていた。
 そのままパシャパシャと数回シャッターを切っていく。
 なんとも手馴れた手つきである。
 横になったまま、柔斗はそんな彼女をジト目で見やった。
「……なんで写真撮られなきゃいけないんだよ」
「いいじゃないですか。減るもんじゃありませんし」
 ファインダーをのぞき込んで、上手く取れているか確認しながら、れもんは猫たちを指差す。
「今先輩のお腹に顔をうずめてるのが暁(あかつき)ちゃんです。顔を舐めてるのが――可愛い! えっと、東雲(しののめ)ちゃん。で、今しっぽを追いかけているのが」
 言われて後ろを見てみると、確かに柔斗のしっぽで遊ぶ子猫がいた。
 自分で動かしているつもりはなかったのだが、なぜかピクンピクンと跳ねていてる。
「曙(あけぼの)ちゃんです」
 曙と呼ばれた子猫は楽しそうにその尻尾へ猫パンチを繰り出している。
 とても、ほのぼのとする光景だ。
「名前、あるのか」
「自分でつけたんですけどね。まぁ、みんな同じ見た目で、よく分からないのでちょっとテキトーです」
「テキトーなのかよ」
 思わず柔斗はつっぱこねた。
「ただ、ヤマトだけは口の中から紙片が出てきたんですよね」
「紙片?」
「そこにヤマトって書いてあったんですよ」
 もうその紙は捨てちゃいましたけど、とれもんは手をパンパンと叩く。
「なんだそりゃ。紙を食べるだなんてヤギみたいじゃないか」
「もしかしたら、誰かが意図的入れたのかもしれないんですけど……」
 れもんは難しい顔をしてしばらく唸っていたが、嫌になったのか首を振りながら忘れましょうと言う。
「とにかく、予想通り元気になってくれてよかったんです」
「あぁ、まったくだな」
 ゴロンと転がりながら、柔斗はとりあえずこの現状に満足していた。
 昨日れもんと会った時に、まさか猫になるとは思っても見なかった。
 自分が車に跳ねられたのもそうだが、人生とはどうも偶然の連続らしい。
 良くも悪くも、山と谷が上手いこと並んでいると言うわけであある。
 と、ごろにゃんしながら感慨にふけっている柔斗の腹をれもんが撫でた。
「ふにゅー」
「おいっ、気持ちいぞ」
 人間だったら変態どころの騒ぎではなくなってしまうかもしれないが、今は彼は猫である。
 問題はどこにもなかった。
「先輩、可愛いです。でも、子猫ちゃん達の方がもっと可愛いです」
 そりゃそうだろうな、と思いつつ柔斗はふと浮かんだ疑問を口にする。
「あのさ、こいつらどうするんだ?」
「どうするって、食べるんですか?」
「キョンシーは猫を食べるのか」
 今現在彼は猫であるから、人事ではない。
「冗談ですよー」
 笑いながら撫で続けるれもんの手に、冗談はここまでにしておいてくれよと肉球をぽんと置いて柔斗は言った。
 こんにゃくのようにふにゃふにゃとした声が聞こえてきたが、無視する。
「いや、ここで飼い続けるのかな、って思って。それとも飼い主とかいないのか?」
「あ……」
 言われて、れもんは目が覚めたように声を上げた。
 何か、大事な事を忘れていたようである。
「そ、そういえば首輪をつけてたんですよ! しまったままでした!」
 立ち上がり、慌てて古びたタンスの引き出しを次々と引いていく。
「ここかな?」
 がんがん!
「あれっ!?」
 足をかがめて、下の段へ。
「ここかな?」
 がんがん!
「あれれっ!?」
 ――と次々と見て行き、最後の引き出しに手を突っ込んでまさぐり、ついにれもんは首輪を取り出した。
「ありましたー! これですね」
 待ちくたびれた柔斗は、体を一回転させて猫らしくあくびを一つした。
「ってことは、元気づけたら親元に返してやんなきゃだめじゃないか」
「そうですねー」
「勝手に名前つけたらダメだな」
「でも、元の名前が分からないと呼びようがないですもん」
「俺ならもっと分かりやすい名前をつけるぞ」
「例えば?」
「一、二、三」
「馬鹿ですか」
 ふひー、と彼女は鼻から生暖かい息を吐き出した。
 四つの首輪を手に取って、れもんは床に座り込む。
 それらにはどれも、小さな銀色の三日月アクセサリーがついていた。
「へぇ、綺麗じゃん。本当に夜空に浮いてそう」
 立ち上がり、柔斗はそのアクセサリーをよく見ようと近づく。
 子猫たちは気持ちよさそうに彼の腹から転げ落ちていった。
 と、その時。
「ふにゃー!」
 しっぽで遊んでいた曙が、突然れもんに体当たりを食らわせる。
「きゃっ!」
 首輪を奪うと、そのまま部屋から出て行ってしまった。
 なんだかとっても怒っていたようである。
「な……なんだなんだ! どうしたってんだんだんだだん! にゃんにゃんにゃん!」
 突然のことに唖然としてワケの分からないことを口走る柔斗の横で、子猫もまた、慌てたような鳴き声を上げている。
 こてん、と横になって目をバッテンにしていたれもんも起き上がり、言った。
「追いかけましょう! もしかしたら家に帰りたいのかも!」
「あ、あぁ!」
 二匹の子猫をれもんが抱えるのを見届けてから、柔斗は先立つように走り出したのだった。

     


 れもんの部屋から出て、薄暗い一本道の廊下を駆け出していくと、その先に玄関が見えた。
「戸締まりはもちろんちゃんとしてるよな!?」
 前を向いたまま、柔斗は当たり前の事をれもんに確認する。
 すると、後ろからは予想斜め上の弱気な答えが帰ってきた。
「たぶん……」
「泥棒に入られたらどうするんだよ!?」
 柔斗は呆れを通り越して、もはや心配する気持ちで心が一杯になりそうだった。
 しかし、そんなことで心配している暇はない。
 早く、曙を捕まえなくては。
 このヤマトのように、そして自分のように車に跳ねられてはもう遅いのだ。
 と、突然ガラガラと扉が開く音が聞こえた。
「ヤバイっ!」
 足に力を込めて、柔斗はさらに加速する。
 そして――突然、音が出そうな程の急ブレーキをかけた。
「…………!」
 人が、立っていたのだ。
 少し遅れて玄関にやってきたれもんも、それを見て絶句する。
 わなわなと、まるで雷に打たれたかのように体を震わせて
「も、ももちゃん……」
 ぺたんとへたり込み、れもんは元から青白い顔をさらに青くした。
「久しぶり、れもん」
 彼女が最も苦手とする、学級委員が曙を抱きながらそこに立っていた。
 そんな二人の関係はいざ知らず、柔斗は目の前に立つ人間を見上げる。
 綺麗に染まった金髪は、おかっぱのように短く切り揃えられていて、一見すると可愛らしい。
 しかし、眼光は斬鉄剣の如く非常に鋭く、正面きって対峙したら切り刻まれてしまいそうな気すらする。
 言い方は悪いが、ちょっと不良っぽい感じである。
 胸元に抱かれている曙に目をやると、なんと二つの谷間に埋もれて顔しか見えない。
 男の性か、少々羨ましいと思ってしまう。
 ボーイッシュな短めのジーパンから出た、健康的な生足に元に彼は近づく。
 それから、ちいさくにゃおんと鳴いた。
 もちろん、本人は「捕まえてくれてありがとう」と喋ったつもりなのだが、目の前の彼女には猫が嬉しそうに鳴いているようにしか聞こえない。
 そんな柔斗の挨拶にはチラと目配せしただけで、ももと呼ばれた女の子はれもんに歩み寄った。
「ちゃんと学校行ってた?」
「あ、えっ……と」
 うつむいて、はぐらかすようにれもんは後退った
 柔斗はそんな彼女に近づいて、小さく尋ねる。
「なぁ、この人が昨日言ってた隣人さんか?」
「はい、隣人の如月桃子(きさらぎももこ)ちゃんです……そ、それじゃ」
 凍えるような声で言い捨て、れもんは一目散に部屋の奥へと逃げて行ってしまった。
「お、おい」
 結局、玄関に残されたのは猫の柔斗と桃子。
 そして、桃子に抱かれて挟まれて呼吸困難に陥っている曙だった。
 桃子は慣れたような感じでやれやれ、と首をすくめる。
「猫なんて突然飼い出すから、ちょっとは変わったのかな、とか思ったんだけどね」
 じい、とこちらを見つめてくる黒猫の柔斗の元へかがみ込むと、その頭を撫でながら笑った。
「あんたも大変だね」
 何が大変なんだろうか、と柔斗は真顔で少し悩む。
 確かにれもんは少し変なところがあるが、大して変かといえばそういう訳でも無い。
 こうして町の中をふらついていた自分をある意味では起伏のある日常へと引き戻してくれた存在でもある。
 だから、桃子の言っていることが彼には今の段階ではよく分からなかった。
 しかし、見た目に反して悪い人間ではなさそうである。
 とりあえず曙に降りてこいと目でうながしてみると、彼はしょぼくれた顔でかくんと頷いた。
「ま、とりあえずお邪魔しちゃおうかな。ついておいで」
 桃子はさっさと靴を脱ぎ捨てると、まるで自分の家であるかのように廊下を闊歩し始めた。
 れもんの部屋は廊下の突き当たりにある。
「れもーん。入るよー」
 部屋のドアノブに手をかけて、すらりと伸びた肢体で返事を待つことも無く堂々と彼女は扉を開けた。
 すると、なんということだろうか、部屋の中はカーテンが閉められて真っ暗で何も見えなくなっている。
 柔斗はするりと部屋の中に滑り込み「おい、どうしたんだ」と言おうとしたが、その前に桃子が怒鳴った。
「ほら! 起きろれもん!」
 一喝、という文字通りの清々しい女声を浴びせながら彼女は電気をつける。
 すると、れもんがベッドの布団の中に潜り込んでいるということがありありとわかった。
 山のように盛り上がった布団の隙間からは、弱々しい草食動物のような眼光がこちらを注意深くとらえている。
(まるで、何かに怯えているみたいだな……)
 ベッドの上に飛び上がり、布団の中を覗き込む柔斗はれもんにこそこそと耳打ちする。
「どうしたんだよ、一体。この人そんなに怖いのか」
「だだだだだだだだだって、だだだって」
 カタカタと妙な音が聞こえてくると思ったら、それはれもんの歯の音であった。
「ももももちゃん、ももっちゃん」
「太ももをつったような言葉の震えようだな。ぷるぷるしてるぞ、れもん」
 冗談はそこそこに、柔斗は近づいてきた桃子に布団の入り口を譲ってやった。
 桃子は「ありがと猫さん」と軽く礼を言うが早いか、そこに手を突っ込み、れもんをさつまいもの掘りのごとく一気に引っこ抜いた。
 そのあまりに早いムダの無い動作に、思わず柔斗は本能から飛び退く。
 鋭い眼光は、さながら獲物を捕らえる肉食獣のようにれもんを射抜いていた。
 彼女の首には、桃子の細く、筋肉質な手ががっつりと食いついていた。
「うぐぅ……」
「ほら、ちょっとそこに座りな」
 首だけで一瞬浮いていたような気もしたが、桃子がぱっとすぐに手を離してしまったので柔斗にはよく分からなかった。彼は床に座り込んだ二人の間に審判のようにのそっと居座る。
 その後ろに、三匹の子猫たちが寄り添ってきた。
 なんだかたいそう怯えているが、恐らく桃子がいるからだろう。
 彼女は座らせられて力無くうなだれるれもんを睨みつけながら、声を潜めて言った。
「まさかアンタ、アタシが寝込んでるのをいいことに学校行って無かったとか……ないよね?」
 ギクリ、と音が聞こえてきそうな勢いでれもんは正座に座り直す。
 カタカタと震えているのは、キョンシーだからとかそういう理由ではなく、単純な恐怖によるものなのだろう。
 確かに、こんな剣幕で迫られたら、柔斗だって平然としていられるかどうか自信が無い。
 桃子はれもんが黙っているのをイエスと取ったのか、大きな溜息をついた。
「はぁ……この前の約束忘れちゃったの? ちゃんと毎日学校に通う。当たり前のことでしょ」
 確かにそれは当たり前のことだ。
 柔斗は桃子の真摯な瞳を見ながら、小さな頭を何度も頷かせた。
 不可抗力で自分はもう学校に通っていないが、生前はちゃんと毎日通っていたし、小学・中学でも休んだのは風邪を引いた時ぐらいである。
「学級委員長として、隣人として、そして友達としてアタシはお願いしてるの」
 柔斗は学級委員長という役職名で驚き、隣人という言葉で納得し、友達という言葉でちょっと歪んだものを見た気がした。
 この容姿で学級委員とは、中々意外である。
 ただ、正義感が強そうなのでありえないこともない。
 友達、という関係だと桃子本人はいうが、その友達であるれもんは今彼女の目の間でガクガクブルブルしているが、果たしてこれは健全な友達関係であると言えるのか。
 柔斗はそこに軽い封建制を見いだせるような気もしたが、人の付き合い方はさまざまだろうから、考えないことにした。
「明日からまた学校だけど、ちゃんと一緒に行くからね」
「……はい」
 れもんはうつむいたまま、小さく返事をした。
 垂れ下がった黒髪で顔は見えないが、声色からは疲弊した精神が伺える。
「……れもん?」
「なんでもないよ。ももちゃん」
 なんでもないと言いながら、れもんは体を伸ばしたまま、こてんと横になってしまった。
 まるで、木が切られて倒れるような感じである。
 そんな光景を見て、桃子はわずかに笑った。
「アンタ、いつもそうやって突然横になるよね。なんか物理法則無視してて面白い」
 屈託なく笑う彼女の顔を見もせずに、れもんはぶつぶつとごねる。
「だって、キョンシーなんだもん……」
「あはは! れもんなら有り得そうかも!」
 力無く倒れているれもんを元気づけるためにその白い顔をなめてやりながら、柔斗はなんとなくズレを感じていた。どうやら、桃子は彼女がキョンシーであるという真実を知らないらしい。
 恐らく、柔斗にあそこまで打ち明けてくれたのは、彼がもう死んでいて、幽霊だからなのだろうか。
 れもん本人は、大して秘密にするつもりはないらしいが、まぁ常識的に考えてそんなことを真に受けて信じる人間がいるとは思えない。
 ましてや、かなりの常識人でありそうな桃子が常識の線路から外れがちなれもんの言うことを信じるはずもないだろう。
 それはれもん本人も分かっているらしく、彼女は柔斗に小さく「ありがとうございます、先輩」と言って、起き上がった。
 柔斗は黙っていたが、こうして弱々しい表情をしているれもんは、なんだかひどく可愛らしい。
 守ってやりたくなる、そんな感情が彼の心に住み着いているようだった。
「あのね、桃子ちゃん」
「なんだい」
「この猫ちゃん達なんですけど……」
 れもんの言葉を聞く桃子の態度は、真摯である。
 やはり、友達思いなんだろうな、と柔斗は思った。
「昨日、買い物帰りに迷子になってるのを見つけて連れてきたんです」
「へぇ、親猫がいるのに迷子になるなんて珍しい」
「うんと……」
 れもんはちょっともじもじしながら、柔斗に目配せした。
 多分、そのまま死んだ猫に柔斗の魂を入れたと言うべきか迷っているのだろう。
 柔斗はわずかに首を振って「俺の事は秘密に」と彼女にうながした。
 れもんは小さく頷き、桃子に言う。
「事故か何かで倒れてたのを、ここで手当してあげたんです」
「そうなのか。よかったなーおまえ」
 桃子はれもんのそばにいた柔斗を抱き寄せて、頭を優しく撫でた。
 もちろん、さっきの曙と同じような状況に彼は巻き込まれる。
 彼女はまさかこの黒猫が柔斗だと知る由もない。
 心地よい感覚に表情をとろけさて情けない声をあげている柔斗を、れもんは少し睨みつけた。
「むぅ……」
 その視線に気付いたのは柔斗ではなく、桃子だった。
「あ、れもん。もしかして嫉妬してるな?」
「えっ?」
「ほら、遠慮しなくていいって」
 桃子は乱暴にれもんを抱き寄せると、背中に手を回してぎゅっと抱きしめた。
「あっ……」
 れもんは突然のことに頭の中が空っぽになってしまう。
 なんだか、イケナイことをしているような、そんな気分で――
「はいっ、おしまい」
 すぐに、彼女は解き放たれた。
「いい? れもん。ちゃんと学校行くんだよ」
「むぅ……」
 自分に納得できないような、そんな顔でれもんは頷いた。
「で、この猫ちゃん達、どうすんのさ」
 現実主義だからなのだろうか、桃子は猫たちの先行きを案じた。
「迷子、ってことは飼い主が探してるかもしれないじゃん」
「あ、はい」
「もしかして、さっきはその飼い主さんの所へ行くつもりだったの?」
「まぁ、そんなところです」
 れもんが頷くのを認めて、桃子はすっくと立ち上がった。
「なら、いっしょに探そ。れもんがせっかく人のためになることやってるんだから、手伝わなきゃ損じゃん」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん」
 自信に満ちた表情で、桃子はサムズアップしたのだった。

       

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