Neetel Inside ニートノベル
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 ――自分が思った以上にいい音が出る。調子はいいみたいだ。なんだか気分がよくなって、客席の方をちらりと見る。お父さんは無表情に私の姿を見つめている……のかもしれないし、あの眼は実はピントが合ってなくて、私と彼の間にある空気を見つめているだけなのかもしれない。……それでもいい。耳が働いてくれさえすればいいんだ。
 音はいい。耳を塞ぎさえしなければ伝わるから。通り道があれば空気が鼓膜を揺らす。起きていようが眠っていようが関係ない。音は確かに伝わっている。
 お父さんは私にバイオリンを勧めたくせして、きっとクラシックのことなんかまったくわからないんだろうな。今この瞬間、あの人が聴いているこの曲のことも全然わからないんだろうな。バイオリンソナタだとか、エックレスだとか言ったって、何にも知らないんだろうな。――私がお父さんのことを何も知らなかったみたいに。
 ある瞬間、少し弓運びを間違えて音がかすれた。……まあ、いいや。演奏の質は高いに越したことはないけれど、そこまで大切でもない。 この葬送曲――曲自体にそんな意味づけはないけれど、私はそのつもりで弾いている――に込めた「さようなら」と「ありがとう」が伝わればいい。
 手を動かしていても、妙に頭が働く。いろんなことを考えてしまう。最後列で聴いている二人はこの演奏をどう思っているんだろう。偏った考え方かもしれないけど、お金持ちって音楽にもうるさそうだ。きっと、たいしたことないって思われてるんだろうな。
 当たり前だけれど、私の出す音以外は何も聞こえない。短調のメロディが……なんて言ったらいいんだろう……支配的、かな。とにかく、このホールの空気を丸ごと自分のものにしたみたいだ。お父さんは口を開けっ放しにして、間抜けな表情で私の方を見つめている。一瞬だけ目が合った。あなたの娘は、このくらいはバイオリンが弾けるようになったんだよ。弾ける人たちの中では自慢できるような腕前じゃないけど……でも、それだけは感謝してる。
 私が空気を揺らして、照明が投げる薄い光もゆらめく。もうこんな機会もないのかな。
――寂しいけど、楽しいな……。
 光のゆらめきは次第に大きくなっていく。大きく揺れて、揺れて、ぼやけて、もっとぼやけて、そして……最後には滲んでいった。

「ありがとうございました」
 気がつけば終わっていた。私が演奏を終えたんじゃなくて、曲が勝手に終わった――そんな感じだった。客席の方をほとんど見ないままにステージを降りる。あの人と話をするつもりはない。今さら何を話すっていうのか。話題だって、話す必要だってない。私と一つも言葉を交わさないまま、あの人はまた拘置所へ連れて行かれる。そうあるべきであって、それが正しい。だから私はまっすぐに着替えに向かった。



「よかったのか?」
 帰りの車の中、ハンドルを握っている世中先生が尋ねてきた。
「……何がですか」
 私は後部座席から返事をしたけれど、目は窓から外の景色をぼんやりと追っていた。夜だけど外は明るい。明かりの絶えない都心に並ぶ建物が、後ろへ後ろへと流れていく。
「一言も話さなかっただろ」
「いいんですよ、これで」
 先生の声はわずかに同情を含んでいたと思う。助手席に座っている柳さんは、私と同じように窓から外を見たまま身じろぎひとつしない。
「いいんです」
 前に向きなおって念を押した。彼はバックミラー越しにこちらを見ている。
「……本人がよければいいけどな」
 先生はそれ以上、何も言うつもりはないようだった。

「あの……どうして私はここに連れてこられてるんでしょうか……」
 私たちは発表会をしたその足で事務所へ戻ってきた。さすがに今日は疲れたから、そのまま家に帰りたいという不満が声に出る。柳さんは先生が先に帰してしまったけれど、事務所にはまだ中山さんが残っていた。
「少し見せたいものがある……バイオリンを愛する君に対しての、ちょっとした自慢かな」
 なんだか懐かしくもある応接室の中。先生は奥にいた中山さんにバイオリンケースを持ってこさせながら、そう言った。
「これだ」
「バイオリン……ですよね?」
「じゃなかったら何に見える」
 先生は慣れた手つきでケースを開け、仰々しく手袋をはめてから中のバイオリンを取り出した。だいぶ古びているけれど、手入れはいいように見える。
「バイオリン弾きだったら『ガルネリ』って言えばわかるだろ」
 バイオリン奏者じゃなくても、少し楽器に詳しければ知っている。
 ――名器として名高いガルネリ・デル・シェス。世界に何十本と残っていないはずのバイオリン。先生がどうしてそんな話をし始めたのか、はじめはよくわからなかった。そのうち、はっと気がつく。
「……もしかして、それが?」
 まさか。
「ああ、これが」
「本当に?」
 嘘でしょ?
「わざわざ伊織に見せてやろうと思って、家に取りに行かせたんだぞ」
 どうしてそんなものを彼が持っているのか。
「いい楽器にはいい価値がつく。それだけのことだ」
 彼の言いそうなことだった。
「財産は現金に限らない。いろいろな形で持っている方がいい。それは不動産でもいいし、有価証券でもいいし、宝石や貴金属、それに美術品でも楽器でもいい」
 これもそのうちのひとつだって言うんだろうか。
「それに、楽器のコレクションだなんてちょっと洒落てるだろ?」
 洒落ているには違いないけれど、洒落にしては度が過ぎている。十六世紀から伝わるバイオリンの最高の形のひとつ。それがいったいいくらするのか……。
この応接室についた大きな窓。窓というか、通りに面した一面が強化ガラス張りになっている。そこから真下を覗けば、きっと背筋がぞくりとするに違いない。ガルネリの値段について考えるという行為は、この階の窓から下を覗く感覚に似ている。
「触ってみたいだろ?」
 混乱と興奮。私なんかが触っていいのかどうかを尋ねることさえ忘れて、ただうなずいていた。
「ほら、手袋」
 私は自分のバイオリンケースを机の脚に立てかけて、手袋をはめた。本でしか見たことのない名器が目の前にある。先生から受け取って、震える腕でその重みを感じる。胴の中にはしっかりと、これが本物である証のラベルが貼られていた。
「うわあ……うわあ」
 発表のときとは違って、感嘆のため息が漏れた。
「さすがにプレゼントするわけにはいかないが……ま、ちょっとした労いになればいいかな」
「あ、ありがとうございます!」
「喜んでくれて何より」
 先生はそう言うと、何気なく私のバイオリンケースに手を伸ばした。さっきと同じように開けて、中身を出す。
「先生? 何を……」
 先生は妙に恭しく私のバイオリンを扱う。まるでそれが、先生が持ってきたもの以上の名器であるかのように。
「いや、こっちもなかなかいいバイオリンだと思ってな」
 それは……確かに悪いバイオリンじゃないけれど、いま私が手にしているものに比べれば、単なる現代の量産品にすぎないはずだ。先生の意図が読めないまま、私は彼の様子を黙って見ていた。
「状態もいい」
 二週間前から毎日欠かさず手入れしていたから当たり前だ。
「このバイオリンな」
 芝居がかった口調だ。
「死刑囚の父親に演奏を捧げるため、名もない奏者が使ったという逸話があるらしいぞ」
「……は?」
 彼が何を言い出したのか、私にはよくわからなかった。
「これはきっと、価値がある品に違いない」
 もはやセリフは棒読みに近い。何かの冗談だろうか。彼のジョークはわかりづらいから厄介だ……と思った瞬間、先生の目が鋭くなった。初めて会ったときに先生が見せたあの目。何もかもを見透かしているかのような、自信ありげな眼差しだ。
「――九百万」
「え?」
「九百万円でこのバイオリンを買いたい」
 ……意味がわからない。
「このバイオリンには、きっかり九百万円の価値がある」
「いやいや、ちょっと……。このバイオリンに、そんな価値があるわけないじゃないですか」
「ある。俺の目に狂いはない。九百万で買いたい」
 それは交渉じゃなく宣言だった。
「ね、ねえ先生? 意味がわかりませんよ!」
「よく考えてもみろ。死刑囚のために娘が曲を捧げたバイオリンなんて、そうそうあるもんじゃないぞ」
「だからって、私が弾いても価値は上がらないでしょ!」
 お互いむきになっている。何のためにむきになっているのか、それすらもあいまいになってくる。価値がある、あるはずない、いやある、ないってば……そんな押し問答が続いた。
「いいから。売るのか、売らないのか……どっちだ」
 彼は本気らしかった。私は彼の真意を測りかねて、黙っているほかない。
「売ってくれるんだな」
 彼は沈黙を都合よく解釈したようだった。
「……もう好きにしてください」
 きっと先生は退かない。そういう性格だ。
「ようし、決定。これでこのバイオリンと引き換えに君の負債は百万円になったわけだ。よかったな、もう九割も返済できたぞ」
「……先生」
 私のバイオリンをケースにしまい、中山さんに持っていかせる先生。その目はどこか満足げだった。
「どうした?」
「きっと、先生は……私のバイオリンをこんな値段で買い取った理由を教えてくれないでしょうから、ひとつだけ。ひとつだけ聞かせてください」
「……質問による」
「これは同情ですか?」
 先生の目を見て質問を投げかけた。猛禽類みたいに鋭い目が、今は若干の優しさを帯びている。
「伊織、帰ろう。今日は疲れただろ」
 ごまかすみたいな笑顔。そんな表情、ただ顔面に貼りつけただけだ。
「先生、答えて」
 私の催促で、その笑顔も消えた。
「……もしそうだったら?」
「お金なんて要りません。自力で一千万円、返してみせます」
 先生は鼻を膨らませて、ふん、と息を吐いた。
「現実を見ろ。一千万円なんてな、君に返せるはずないんだよ。それを十分の一にしてやろうって言ってるんだから、素直に受け取ればいい」
「要りません」
「強情だな」
「……私がここに来て、一千万円を払ってでも願いを叶えようって、そうやって考えた決意を無駄にしないでくださいよ……」
 先生みたいに何よりもお金を大切にしていそうな人が、私の借金を減額しようとしている。私には、それが挑発のように感じられた。「お前にはどうせ、無理なんだから」って、見下されているように思えた。素直に受け取った方がいいのはわかってる。一千万円なんて、簡単に返せる額じゃないのもわかってる。でも、それでも……愛してもいない父親のためにそれだけのお金を投げうってバイオリンを弾く。そんなバカな願いを叶えようとしたのは自分だから、責任を取りたかった。
「……じゃ、教えてやろう」
 先生は壁際へ歩いていき、スイッチを押す。パチッという音と一緒に応接室の明かりが落ちた。
「同情なんかじゃない。初めて会ったときにも言ったはずだ……俺は善人じゃないってな」
 芯まで冷え切ったリアリストの声がした。周りのどの建物よりも高い位置にあるこの部屋には、外の明かりが窓を通して下から差し込んでくる。
「帰るぞ」
 有無を言わさぬ威圧感がこもった声。もうこれ以上は何も言えない。
「とりあえず百万円、うちで頑張って返してみろ」
 彼は出ていった。仕方なく私も出ていく。戸締りは奥に残っている中山さんに任せればいいだろう。
 ――薄暗い応接室の中には、消えない疑問だけが置き去りになった。

       

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