Neetel Inside ニートノベル
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 お母さんを実家へと帰し、自分の身の回りの整理をした後。……私は世中法律事務所で働き始めた。私の仕事は書類や各種資料の整理が主で、あとはお茶くみやら何やら……つまりは雑用係だ。それが辛いなんていうことはなかった。むしろ、こんなに楽な仕事で借金を返せてしまっていいのかと不安になるくらいだ。
 私が事務所に入ってから二週間、願いを叶える依頼は来なかった。先生曰く、「そんな仕事、しょっちゅう転がり込んでくる方がおかしい」のだそうだ。先生は通常の弁護士業務を行う。通常、と言っても普通の弁護士がするような、個人からの法律相談を受けて相談料を取るだとか、裁判で弁護をするだとか、そういう仕事をしている素振りはなかったし、実際、あまりしないと柳さんから聞いた。
「弁護士の仕事はコネ作りのためなんだよ」
 先生はそう言う。
「財界に幅を利かせるような企業グループの顧問弁護士をいくつも掛け持ちでやらせてもらったり、中央省庁で働く官僚たちにアドバイスをやったり……もちろんそれなりの謝礼はもらえるけどな、やっぱり目的はコネ作りなんだ」
「……なんか、想像していたのとは違うなあ」
「自分の想像だけで世の中を測れると思っている方がおかしい」
 先生はぴしゃりと言った。私は知らなかった世界を垣間見て、幾度とないカルチャーショックを受ける。そのたびに先生は「こんなのは当然だ」と私に教え込もうとしてくるのだ。

「……なあ、伊織。そのスーツは?」
 スーツを着て出勤した私に向かって、先生はあいさつもなしにそう尋ねた。その表情はどこか険しい。確かにまだスーツは着慣れていない。もしかしてどこかおかしいところでもあったのだろうかと、私は自分の服装を確認する。
「え……あ、どこか変ですか?」
「変? 変かと言われれば、そうでもないな」
 先生の方からスーツのことを口にしたくせに、返ってきたのはこんな答えだ。
「まあ、確かにどこもおかしくない。いたって普通の女物のスーツだけどな……。ただ、服にはもう少し金をかけた方がいい。それ、どうせどこかの量販店で買ったんだろ?」
「まずかったですか?」
「……ああ、まあ……まずくはないんだけどなあ」
 先生は、私の依頼を叶えようとしている間だって何でもかんでも遠慮なく言ってきた。その彼にしては珍しく歯切れが悪い物言いだと思い、私は首をかしげる。……かと思えば、その本人が今度は突然にこんなことを言い出した。
「衣食住、って知ってるか?」
「いしょくじゅう?」
 それが私のスーツの値段とどう関係するのかよくわからなくて、オウム返しになってしまう。「いしょくじゅう」と言えば「衣食住」のことだろうけど……。
「『いしょくじゅう』って……どの『いしょくじゅう』のことでしょう?」
「どの『いしょくじゅう』も何も、衣食住はあの衣食住だろう。……その衣食住って、いったい何なのか答えられるか?」
 どうやら、先生は本当にあの「衣食住」のことを言っているらしい。改めてそれがいったい何なのか、って聞かれるとなると答えにくい。
「……えーっと、衣食住って言ったら、生活するのに必要な三つのもの、ですか?」
「そうだな。生活を構成する主要な三本の柱のことだ……と、普通の日本人はそう思ってる」
 先生は口角を上げる。どうやら、先生の期待する答えとは違ったらしい。
「しかし俺が考えるに、衣食住ってのは『ビジネスで成功するために金をかけるべき順番』だな。まずは初対面の相手にも見える服装に金をかける。次は相手といい関係を築くために、一緒に行くかもしれない食事に金をかける。そして、ビジネスと関係のないプライベートな住居に金をかけるのは後回しでいいってことだ」
「うーん……だから私ももっといいスーツを買えっていうことですか……」
「そうだ」
「借金があるのに、スーツなんかにお金はかけられませんよ……」
 ため息が漏れる。実のところは、借金があることで生活に不便を感じることなんてなかった。それはまだ借金を負って日が浅いからかもしれないし、単に先生が催促をしないからかもしれない。だけれど、「自分が借金をしている」という事実だけは、確実に心に重く圧し掛かるのだ。
「借金があるのに、じゃない。俺は、借金があるんだから、それを返すために服に気を遣えと言っている」
 ……そういえば、二、三日前にも「気を遣うことは金を使うことだ」ってこの人が言ってたなあ。
 なんだか、ここで働き続けていくうちに自分が先生流の哲学に染まっていってしまいそうな気がする。それがいいことなのか悪いことなのか、判断するにはまだ私は子供すぎるのかもしれないけれど。

       

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