Neetel Inside ニートノベル
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「失礼。ちょっと探し物をしてたんだ」
 メガネの奥の瞳がこちらを見ている。鷲か鷹のように鋭く、目に見える以上のものを見透かしてしまいそうな、そんな目だ。
「あんたは今、俺のことをだいたいこう思ってる」
 自己紹介もしないまま、彼はまくしたてるようにして話し始めた。
「鋭い目をしていて、身長は高め。思い浮かべていた『弁護士』のイメージよりはずっと若い。頼りになりそうではあるけれども、ちょっと態度は威圧的――だいたいこんな感じ、違うか?」
 私が抱いていた第一印象を、彼はそのまま口にした。
「ファーストインプレッションってのは大切だ。とはいっても、完璧にコントロールすることは難しい。だからこそ、自分が他人に与える印象を、自分自身で把握しておく必要がある」
 あまりに予想外な挨拶。彼は私が反応に困っている様子を見て満足そうに笑うと、名刺を差し出してきた。
「よのなか……か、かねなり……?」
 世中金成。世中が姓で、金成が名。名刺には確かにそう書いてある。
「あ、あの、これって本名なんですか?」
 失礼だとは思ったが、聞かずにはいられなかった。
「さあ? どうだろう」
 世中先生はオーバーに肩をすくめてみせた。
「でも、いい名前だと思わないか? 世の中はすべて金次第って、そういう名前だ」
 いい名前だとは思えない。もし本名なら、こんな名前をつけた両親はどうかしている、というのが率直な感想だった。
「……まあ、俺のことはいいんだ。あんた、叶えて欲しいことがあるんだろ?」
「まさか、ほんとになんでも叶えてもらえるんですか?」
 今さらそれを聞くのも無粋かもしれない。けれど、手放しで信じ込むことなんてできなかった。
「なんでも、ってことはないだろう。そんな夢みたいな力、俺は持ってないよ」
 噂話にはよくある大きな尾ひれ。「なんでも」って言葉は、「願いを叶える」ってフレーズの枕詞のようについて回る。
「例えばだ。俺には海水をすべて蒸発させることはできない」
 ……笑いどころなのかどうかわからなかったけれど、彼はいたって真剣なようだった。
「だって、『なんでも』ってのはそういうことだ。違うか? 生身で空を飛べるようにするだとか、タイムスリップがしてみたいだとか。百人どころか、六十九億人が乗れる物置を作ってみるとかな」
 今度のはジョークだったらしく、彼は無反応な私を見て咳払いをした。
「とにかく、『なんでも』って言うなら、そういうことも叶えられなくちゃならない」
 スケールの大きな屁理屈をこねているように聞こえるセリフ。
「俺の力で叶えられるようなことってのは、ほんの些細で、ちっぽけで、さっき挙げたようなことと比べれば取るに足らないような、そんな『願いごと』なんだよ。わかるか?」
「はあ、なんとなくは」
「そうだな、例えば……あんた、人を殺したいと思ったことはあるか?」
 突拍子のない質問。答えは決まりきっている。
「もちろん、ありません」
「ま、それはそれで何よりだ。……なら、仮に今、あんたは誰かに殺意を抱いているとする」
 彼はきっと、私に一番わかりやすい例を突きつけるつもりなんだ。
「依頼してもらえれば、殺せる」
 ずっとつり上がっていた彼の口の端が、下がった。
「もちろん俺が直接、ってわけでもないし、俺だってそういう依頼を受けるのは好きじゃない。ほら、『願い』ってのはもっとこう、きれいなものだろ。ただ、依頼者の身に一切の容疑がかからないように……というか、人が死んだ事実さえも気づかれないように誰かを消すこと。それが可能かどうか、と聞かれたら可能だってことだ」
 一呼吸おいて、彼はこう言い切った。
「つまりだ。俺にできることは、金の力でできることなんだよ」
 私が唾を飲み込む音が、もしかしたら彼にも聞こえたかもしれない。彼の表情には迫力があった。きっと、彼は私が今まで知らなかった世界を知っている。
 彼は自信ありげに続ける。
「他にもいろいろあるぞ。例えば『試験なしで官公庁に就職する』とか……」
 そう言って、先生は一瞬だけためを作った。核心を突く準備のための、一瞬。
「――そうだな、『死刑囚になった父親を釈放させる』……とかもな」
 刺すような眼差し。「お前のことはすべてお見通しだ」って、目が宣言していた。
「……どうして? なんで知ってるの!?」
「……やっぱりそうか」
 彼は勝手に納得したような顔をして頷いた。
「名前は弓之辺伊織。弓之辺洋一死刑囚の娘で、今は母親と二人暮らし。報道被害にも遭ったみたいだな。そのせいで在籍中の音大も休学中」
「だから、どうして――!」
 話してもいないことをすでに知られている気味の悪さが、冷や汗になって噴き出ていく。脈は速くなって、落ち着いていられなくなって、得体の知れない怖さが背筋をはい上がってくる。
「大きな犯罪をやらかした奴らの身辺情報が伝わってくる、そういう人脈があるんだよ。家族の名前に顔写真までついて出回ってたりしてる。一般に知られていない情報は、使われなくても価値があるからな」
 彼はこともなげに言った。世中先生にとっての当然と、私にとっての常識。二つの間にはどうにもできないギャップがあるのかもしれない。私みたいな普通の学生が普通に生きていたら、どうやっても知ることができない、そういう情報を彼は握っている。
「不気味か? そう思われても仕方ないのは承知してる。こっちも仕事だしな」
 先生は笑った。含みのある笑みではない、優しい笑顔だった。
「ま、嫌なら帰ってもかまわないよ。依頼料だってバカにならないから、よく考えるべきだとは思う。ついでに言っておくと、俺はこういう個人情報を握ってたとしても悪用はしないから安心してくれていい」
「それは……」
「違う。俺が情報を悪用しないということは、俺は善人だということを意味しているわけじゃない。例えば、まとまった金が――まとまった金っていうのは、万じゃなくて億単位のことだけど――とにかく、それだけの金が欲しいとき、俺が誰かの個人情報を持っているとする。だからって、すぐにその情報を売っても、俺にとっては小銭未満にしかならない。わかるか? 個人情報は『束』……というよりも『山』にならないと使えないんだ。それに、そういう情報は売るだけが使い道じゃない」
彼は「俺にはこんなこともできるんだぜ」、って嬉々として言う子どもにも似ていた。
「金があれば人が集まる。実際、俺はいろんな方面に融通を利かせてもらえるだけの人脈は確保したよ。金と人の二つが揃っていれば、叶えられることは多い。……だから、俺にはあんたの『願い』が叶えられるだけの力はある。それは真実だよ」
 縮んだ私の身体が、彼の手のひらの中に握られている。そんな錯覚。
 きっと、彼はとてつもなく大人で、私はどうしようもなく子どもなんだ。世間知らずで、無垢で、汚いものを直視することさえできない、そんな子どもなんだ。
「……依頼、させてください」
 子どもは子どもなりに願いを叶えたい。サンタクロースがいないと知った子どもは、大人からプレゼントをもらうしかない。ちょっとだけ大人の世界を覗いて、悩んで、どうにか向こう側へ溶け込もうとする。
「それじゃ、依頼は『死刑囚になった父親を救う』ってことでいいんだな?」
 何もかもわかってますよ、ってそんな顔。目の前にいる人は、いったい何なんだろう。
 ――本当に弁護士?
 ――それとも、単なる金の亡者?
 いずれにせよ、「願いを叶えてくれる」って言葉から想像できるメルヘンチックな存在とはかけ離れている。
 だからかな。私もちょっと現実に戻ってこられたような、そんな感じがした。
「――いえ、救わなくていいんです」
 私のこの言葉を聞いて、先生は初めて驚いた表情を見せた。今までずっと自信ありげだった表情が崩れるところを見るのは、少し気持ちが良かった。
「父親にただ一曲だけでも、私のバイオリンを聴かせてあげたいんです。ちゃんとした場所で、ちゃんとした演奏を」
 ――世中先生。私のこの願いは、お金の力で叶えられるのでしょうか。

       

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