Neetel Inside ニートノベル
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 私の財布に入っていた、一枚の百円玉。それを手に取ると、彼は言った。
「この百円玉。変に汚れているし、縁が傷ついて尖ってる。……どう考えたって、拾ったものだろ?」
「それは……はい、そうですけど……」
「別に責めているわけじゃない。こんな小銭をいちいち届け出た方がいいとも思わない。ただ、遺失物横領であるのは確かだ……確かなんだが、そこに君の悪意は働いていない」
 先生の言うことは、よくわからないことが多い。早口で難しいことをたくさんしゃべり、ほぼ自問自答で話が進む。私にはついていけそうにない。
「……苦しい言い訳になるが、例えば今、『道で落として踏んづけられちゃったんです』とか言ってしまえば一応の言い逃れはできたわけだ。でも、君はそれをしない……どうしてか?」
 彼の語り口には、まるで授業を受けているかのような気分にさせられる。相手を上から押し潰すように諭す、圧の高いしゃべり方だ。
「自覚がないからだ。拾った百円玉は汚くないと思い込んでいる。俺に言わせれば、正規手段で……給与所得だとか、もちろんギャンブルでもいい。つまり、『自分の金だ』と堂々と主張できる手段。そうして得た金以外はすべて『汚い金』なんだよ……何の悪意もなくても、故意でも過失でも」
 何も言えなかった。何を言っても言い訳になりそうだし、目の前の雄弁な男に、口先の勝負で勝てるとも思えなかった。
「――ただ、どんなに汚れた金だって価値は落ちない。百万円の賄賂を渡した途端に汚い金になって、五十万円になったりしたらやってられねえよ。な? だから、どんな金だって願いを叶えるためにだって使えるんだ」
 ――どんなに汚れていても百円は百円。
 ついさっき、自分自身がそう考えていたことを思い出した。
「……あの」
 口が自然に開いた。まだ母の住んでいる家を売り払いたくない。身体で稼ぐのだって嫌だ。私の倫理観を通して見たとき、そういうお金はやっぱり汚く感じるから。だから、こういう方法を取りたい。
「依頼が済んだら、働かせてもらえませんか。お給料は要りません。全額、料金の支払いに充てますから……だから」
「ここで働きたいと」
「はい」
「法律の知識はほぼ皆無、学力だって平均程度あるかどうかもわからない。役立つ人脈も持ってなさそうだし、しかも一千万円の負債つき……そんな従業員になりたいと」
「……やっぱり……無理、ですよね」
 「雇ってくれ」だなんて、単なる思いつきに過ぎないお願いをした自分が情けなくなる。奥歯を強く噛みしめると、口の中で苦い味がした。
「柳!」
 世中先生は白いスーツの女の人の方へ呼びかけた。どうやら、それが彼女の名前だったらしい。
「はい、なんでしょう?」
「自由にこき使える雑用係は欲しくないか」
 悪戯っぽい笑い。純粋さと大人の知恵が混ざりきっている表情だ。
「それは……そうですね、いらっしゃると助かると思います」
 対して、柳と呼ばれた彼女は汚れのない笑顔を見せた。
「よし、話は決まった。柳、この子に名刺を渡してやれ」
「はい」
 彼女は私の後ろから前に回り込んで、懐から名刺を取り出した。
「高遠柳と申します。この事務所で、世中先生の第一秘書を務めさせていただいております。……お気軽に『柳』とお呼びください」
「は、はい! よろしくお願いします!」
 世中先生とは対照的にも思える、丁寧なあいさつだった。
 柳さんの顔からは、決して愛想の良い微笑みが絶えない。背はきっと百五十センチを切っている。そのせいだろうか、ちょっと幼く見える。初めて会った人に「私は社会人です」と言っても、信用してもらえるかどうかが怪しい。けれど、純白のスーツを着た身体から漂う雰囲気は落ち着いていて、静かで優しいお姉さんという感じだった。幼く見える外見と、大人びた雰囲気が同居している、そんな人だ。私はぼんやりと、「きれいだなー……こういう女になりたいなあ」なんて思っていた。
「……契約は完了だ。この事務所は採用試験をやってないからな、人員補充にはちょうどいいだろ」
「じゃあ……」
「ああ、願いは叶えてやる。それでその後、きっちり返してもらう」
「ありがとうございます!」
 嬉しくて声が上ずる。刑の執行というぼんやりしたタイムリミットがあるだけに、すぐに希望を通してもらえるのは本当にありがたかった。
「中山!」
 先生が今度は、奥の部屋の方へ呼びかけた。するとすぐに扉が開き、中から執事風のおじいさんが現れた。姿勢がよく、背筋はピンと伸びていて、脚も長い。きっと、真面目な人なんだろう、と思った。
「なんでございましょう」
「彼女にお前を紹介したくてな。何しろ、依頼が済んだら同僚だ」
「……それは、どういう……?」
 彼は太い眉をひそめ、しわがれた渋い声で尋ねたが、世中先生は取り合わない。
「中山だ。俺の第二秘書をしている。歳は食ってるが仕事はできるぞ」
 中山さんは何か言いたげにしていたが、こちらに向き直って頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
「はい、こちらこそ」
「よし、形式的なやり取りは済んだ。……最後に聞きたいことがある。最後にして最大の質問だ」
 あいさつも最小限で切り上げさせ、先生は私の方へ向き直った。
「願いを叶えるために必要なものはなんだ?」
 鋭い眼差しが私を突き刺す。スケールの大きい問いに戸惑うほかない。叶える願いによって答えは変わるだろうし、一つだけとは限らない。でも、でも……。それでも不思議と、先生の望む答えはわかる。正しいかどうかは問題じゃない。口にしよう。ただ、彼の望む答えを。
「……お金です」
「上出来だ――行くぞ、柳もついてこい」
 彼は颯爽と立ち上がり、柳さんもそれに従う。ワンテンポ遅れて私も出口へ向かう。
 何も言われなかった中山さんだけが部屋の中に一人で立っていた。彼と目が合う。またしても中山さんは何か言いたそうな表情で私を見ていたけれど、結局は何も言おうとしない。早く行かないと、置いて行かれる。私は中山さんに軽く会釈をして、先生について行った。

       

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