Neetel Inside ニートノベル
表紙

あなたの願い、金の力で叶えます
1-1 : 噂の真相は、五十一階で待っている

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 百円玉を拾った。アスファルトの上で踏まれて、蹴られて、擦れて、汚れて、削れて。表面が黒ずみ、側面はデコボコしてざらついている。私はそれを財布にしまって、また歩き出す。どんなに汚れていたって百円は百円。落とし主には申し訳ないけれど、わざわざ交番に届けるような金額でもない。
 都心を行き交う車の群れは、今日も汚れた息を吐き出しながら鳴いている。この街の青空がそれを大いに吸い込んで灰色にくすむ。濁った五月晴れの空の下、私は林立するビルの隙間を縫って進んでいく。コンクリート製の木々はどれもこれもがそれなりに高いのだけれど、私の入った建物が一番なのは明らかだった。目的のフロアは最上階。他の高層ビルも、道路も、車も、そしてもちろん人だって、すべてを見下ろせるこの街の最高点だ。強化ガラスを通じて何もかもを望めるエレベーターに乗り込んで、空へと上がっていく。この空間はただ人を乗せて上下するだけの箱。それにしては、あまりにオシャレで広かった。
『五十階、フレンチレストラン「ラ・メール」です』
 無機質なアナウンスが聞こえた。
 ――何メートルあるんだろう。
 乗り合わせた人たちは途中でみんな降りていって、一人きりでたどり着いた「最上階」。人は点、道は線、街は単なる平面。遠くに見える山や海、それにずいぶん近く感じる雲だとか、近くの高層ビルだとか、そういうものだけが現実の中に置き去りになってしまう、そんな高さ。雑誌や夕方のニュース番組で特集を組まれるほどの高級レストランも、ディナータイムまでは“CLOSED”のままだ。その札のデザインさえも洒落ているのがちょっと憎い。見たところ、このフロアには閉店中のレストランしかない。別にそれでかまわない。誰もがうらやむ高級ディナーに興味がないと言えば嘘になるけれど、今はもっと大事なことがあった。
 同じ階の、エレベーターのちょうど反対側にある階段。こんな高層ビルで誰が使うのかは知らないけれど、とにかく……――最上階に上り階段がある。
 私は「あるはずがない」という触れ込みの階段を上り始めた。それより上がないから最上階。じゃあ、最上階の階段を上がったところには何があるんだろうって、学校でちょっとした噂になっていた。でも、誰も確かめようとしなかった。そもそもこのフロアは学生には縁がないから、来る機会もない。わざわざ噂を確かめるためだけに、五十階まで上がってくるのもバカらしい。それに、最上階にだって屋上へ続く階段くらいあって当然なんだから、というのが噂を噂のままにしている理屈だった。
 それでもわざわざ確かめに来るような物好き、もしくは真実を知っているごく少数の人たち。
 「世中法律事務所」は、「最上階」のさらに上――五十一階――で、そういうクライアントを待っていた。



 “YONONAKA LAW OFFICE”。曇りガラスの張られた入口の扉には、そう刻まれている。どうやら、この事務所は「よのなか」という人のものらしい。
 私にとっては場違いなビル。そして訪ねた経験なんてない弁護士事務所。緊張が手のひらに滲む。それでも意を決して扉を開くと、すぐに声をかけられた。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
 ずいぶん小柄な女の人が、白いスーツに身を包んで私を迎えていた。中学生なみの身長には不釣り合いなほど整った顔に、柔らかい笑みを浮かべている。彼女は用件すら尋ねてこなかった。かといって、ついていく他にやりようがあるわけでもない。
 私は応接室に通され、やたらふかふかするソファーに座るよう促された。最大限に来客の居心地が良くなるように配置されたインテリア。テーブルや棚などの家具類は全体的に木目調のもので統一されていた。かといって部屋全体が茶色だらけにならないように、隅の方には観葉植物が置いてある。「居心地が良いように、もっと良いように」という気遣いが伝わってきて、私にとってはかえって居心地の悪い部屋だった。
 と、きょろきょろ部屋を眺めまわす私の様子を、さっきの女の人がじっと見ている。目が合うと、彼女は言った。
「もうすぐ世中先生がいらっしゃいますので、少しお待ちくださいね」
 恥ずかしくなって、ごまかしたい気持ちが私の口を動かした。
「あ、あの……」
 ここまで来たら真偽を確かめたい。この街で最も高い場所にまつわるもう一つの噂。そちらの方が、「あるはずのない上り階段」の話よりも私にとっては大切だった。
「はい?」
「ここって……その、ほんとに?」
 歯切れが悪くて、伝わらないのは自分でもわかっていた。でも、私の尋ねたいことが真実じゃなかったらあまりに恥ずかしい。
「弁護士事務所ですよ」
 彼女は私の言葉に続けて答えをくれる。でも、私が聞きたいのはそういうことじゃない。
「いや、あの……そうじゃなくて……」
「弁護士事務所なんです」
 彼女の表情は変わらず、答えも変わらない。――でも、彼女は私の知りたい真実をしっかり握っていた。
「ここ、弁護士の事務所なんですよ。ですけれど、私はここにいらっしゃったあなたに、どんなご相談がおありなのかもお伺いいたしませんでした。あらかじめご予約があったのか、ですとか、あなたのお名前ですとか、そういうものも全部」
 それが何を意味しているのか。
「そもそもこの事務所は、弁護士業務を完全予約制で行っているんです。しかも――言葉は悪いのですけれど――お客様を選んで、ですね。だって、一般の方はこの事務所の存在さえもご存じありませんから、ね」
 私の知っている噂が、真実になろうとしている。
「ですから、あなたみたいにときどき迷い込んでくるお客様は、もう一つの仕事のお客様なんですよ。あなたも、『願いを叶え』てもらいに来たんでしょう?」
 都会の空気に、薄く、うすーく、空気の中のどんな成分よりも、もっと薄く。注意しなければ……もしかしたら、注意していても見逃してしまうかもしれないくらい薄く紛れ込んだ噂。
「あのビルの最上階にあるはずのない階段があって、そこを上ると、願いをなんでも叶えてもらえるらしい」って、学校で人づてに聞いた噂。その噂は真実だった。
 私の「願い」が叶うかもしれない。驚き、期待、戸惑い、不安。ごちゃごちゃになった感情が、心の中で叫んでいる。しかしその声は、応接室の奥の扉が開く音に――そして、そこから現れた人の声にかき消された。
「まだ見つからねえ!」
 響いた声は怒りのようでもあり、嘆きのようでもあった。私はソファーの背もたれ越しに声の主の顔を覗く。
「世中先生、お客様がいらしてますよ」
 まるで驚く様子もないまま、白いスーツの女性は言った。
「……へ?」
 世中先生と呼ばれた彼は、座ったままの私に気がついたようだった。品定めをするかのように私の顔をまじまじと見つめたあと、彼は下座に回って腰を下ろし、気さくな感じで話を始めた。

     


     

「失礼。ちょっと探し物をしてたんだ」
 メガネの奥の瞳がこちらを見ている。鷲か鷹のように鋭く、目に見える以上のものを見透かしてしまいそうな、そんな目だ。
「あんたは今、俺のことをだいたいこう思ってる」
 自己紹介もしないまま、彼はまくしたてるようにして話し始めた。
「鋭い目をしていて、身長は高め。思い浮かべていた『弁護士』のイメージよりはずっと若い。頼りになりそうではあるけれども、ちょっと態度は威圧的――だいたいこんな感じ、違うか?」
 私が抱いていた第一印象を、彼はそのまま口にした。
「ファーストインプレッションってのは大切だ。とはいっても、完璧にコントロールすることは難しい。だからこそ、自分が他人に与える印象を、自分自身で把握しておく必要がある」
 あまりに予想外な挨拶。彼は私が反応に困っている様子を見て満足そうに笑うと、名刺を差し出してきた。
「よのなか……か、かねなり……?」
 世中金成。世中が姓で、金成が名。名刺には確かにそう書いてある。
「あ、あの、これって本名なんですか?」
 失礼だとは思ったが、聞かずにはいられなかった。
「さあ? どうだろう」
 世中先生はオーバーに肩をすくめてみせた。
「でも、いい名前だと思わないか? 世の中はすべて金次第って、そういう名前だ」
 いい名前だとは思えない。もし本名なら、こんな名前をつけた両親はどうかしている、というのが率直な感想だった。
「……まあ、俺のことはいいんだ。あんた、叶えて欲しいことがあるんだろ?」
「まさか、ほんとになんでも叶えてもらえるんですか?」
 今さらそれを聞くのも無粋かもしれない。けれど、手放しで信じ込むことなんてできなかった。
「なんでも、ってことはないだろう。そんな夢みたいな力、俺は持ってないよ」
 噂話にはよくある大きな尾ひれ。「なんでも」って言葉は、「願いを叶える」ってフレーズの枕詞のようについて回る。
「例えばだ。俺には海水をすべて蒸発させることはできない」
 ……笑いどころなのかどうかわからなかったけれど、彼はいたって真剣なようだった。
「だって、『なんでも』ってのはそういうことだ。違うか? 生身で空を飛べるようにするだとか、タイムスリップがしてみたいだとか。百人どころか、六十九億人が乗れる物置を作ってみるとかな」
 今度のはジョークだったらしく、彼は無反応な私を見て咳払いをした。
「とにかく、『なんでも』って言うなら、そういうことも叶えられなくちゃならない」
 スケールの大きな屁理屈をこねているように聞こえるセリフ。
「俺の力で叶えられるようなことってのは、ほんの些細で、ちっぽけで、さっき挙げたようなことと比べれば取るに足らないような、そんな『願いごと』なんだよ。わかるか?」
「はあ、なんとなくは」
「そうだな、例えば……あんた、人を殺したいと思ったことはあるか?」
 突拍子のない質問。答えは決まりきっている。
「もちろん、ありません」
「ま、それはそれで何よりだ。……なら、仮に今、あんたは誰かに殺意を抱いているとする」
 彼はきっと、私に一番わかりやすい例を突きつけるつもりなんだ。
「依頼してもらえれば、殺せる」
 ずっとつり上がっていた彼の口の端が、下がった。
「もちろん俺が直接、ってわけでもないし、俺だってそういう依頼を受けるのは好きじゃない。ほら、『願い』ってのはもっとこう、きれいなものだろ。ただ、依頼者の身に一切の容疑がかからないように……というか、人が死んだ事実さえも気づかれないように誰かを消すこと。それが可能かどうか、と聞かれたら可能だってことだ」
 一呼吸おいて、彼はこう言い切った。
「つまりだ。俺にできることは、金の力でできることなんだよ」
 私が唾を飲み込む音が、もしかしたら彼にも聞こえたかもしれない。彼の表情には迫力があった。きっと、彼は私が今まで知らなかった世界を知っている。
 彼は自信ありげに続ける。
「他にもいろいろあるぞ。例えば『試験なしで官公庁に就職する』とか……」
 そう言って、先生は一瞬だけためを作った。核心を突く準備のための、一瞬。
「――そうだな、『死刑囚になった父親を釈放させる』……とかもな」
 刺すような眼差し。「お前のことはすべてお見通しだ」って、目が宣言していた。
「……どうして? なんで知ってるの!?」
「……やっぱりそうか」
 彼は勝手に納得したような顔をして頷いた。
「名前は弓之辺伊織。弓之辺洋一死刑囚の娘で、今は母親と二人暮らし。報道被害にも遭ったみたいだな。そのせいで在籍中の音大も休学中」
「だから、どうして――!」
 話してもいないことをすでに知られている気味の悪さが、冷や汗になって噴き出ていく。脈は速くなって、落ち着いていられなくなって、得体の知れない怖さが背筋をはい上がってくる。
「大きな犯罪をやらかした奴らの身辺情報が伝わってくる、そういう人脈があるんだよ。家族の名前に顔写真までついて出回ってたりしてる。一般に知られていない情報は、使われなくても価値があるからな」
 彼はこともなげに言った。世中先生にとっての当然と、私にとっての常識。二つの間にはどうにもできないギャップがあるのかもしれない。私みたいな普通の学生が普通に生きていたら、どうやっても知ることができない、そういう情報を彼は握っている。
「不気味か? そう思われても仕方ないのは承知してる。こっちも仕事だしな」
 先生は笑った。含みのある笑みではない、優しい笑顔だった。
「ま、嫌なら帰ってもかまわないよ。依頼料だってバカにならないから、よく考えるべきだとは思う。ついでに言っておくと、俺はこういう個人情報を握ってたとしても悪用はしないから安心してくれていい」
「それは……」
「違う。俺が情報を悪用しないということは、俺は善人だということを意味しているわけじゃない。例えば、まとまった金が――まとまった金っていうのは、万じゃなくて億単位のことだけど――とにかく、それだけの金が欲しいとき、俺が誰かの個人情報を持っているとする。だからって、すぐにその情報を売っても、俺にとっては小銭未満にしかならない。わかるか? 個人情報は『束』……というよりも『山』にならないと使えないんだ。それに、そういう情報は売るだけが使い道じゃない」
彼は「俺にはこんなこともできるんだぜ」、って嬉々として言う子どもにも似ていた。
「金があれば人が集まる。実際、俺はいろんな方面に融通を利かせてもらえるだけの人脈は確保したよ。金と人の二つが揃っていれば、叶えられることは多い。……だから、俺にはあんたの『願い』が叶えられるだけの力はある。それは真実だよ」
 縮んだ私の身体が、彼の手のひらの中に握られている。そんな錯覚。
 きっと、彼はとてつもなく大人で、私はどうしようもなく子どもなんだ。世間知らずで、無垢で、汚いものを直視することさえできない、そんな子どもなんだ。
「……依頼、させてください」
 子どもは子どもなりに願いを叶えたい。サンタクロースがいないと知った子どもは、大人からプレゼントをもらうしかない。ちょっとだけ大人の世界を覗いて、悩んで、どうにか向こう側へ溶け込もうとする。
「それじゃ、依頼は『死刑囚になった父親を救う』ってことでいいんだな?」
 何もかもわかってますよ、ってそんな顔。目の前にいる人は、いったい何なんだろう。
 ――本当に弁護士?
 ――それとも、単なる金の亡者?
 いずれにせよ、「願いを叶えてくれる」って言葉から想像できるメルヘンチックな存在とはかけ離れている。
 だからかな。私もちょっと現実に戻ってこられたような、そんな感じがした。
「――いえ、救わなくていいんです」
 私のこの言葉を聞いて、先生は初めて驚いた表情を見せた。今までずっと自信ありげだった表情が崩れるところを見るのは、少し気持ちが良かった。
「父親にただ一曲だけでも、私のバイオリンを聴かせてあげたいんです。ちゃんとした場所で、ちゃんとした演奏を」
 ――世中先生。私のこの願いは、お金の力で叶えられるのでしょうか。

       

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