ここ。美術室の窓は西側に面している。
だから、放課後。夕暮れどきには窓の外が赤くなる。まるで、世界のすべてが焼け落ちるみたいに。
その退廃的な美しさをキャンバスに写し取ろうとして、わたしは何度も挫折した。一年生のときも。二年生のときも。つい三日前にも。
いまではわかっている。絵は写真ではない。見たものをそのまま描くことには意味がない。それはカメラの仕事だ。
でも、わかっている。これが言いわけに過ぎないことを。
だって、できてしまう人がいるのだから。あらゆるものを、見たとおりに、キャンバスの上に、そのまま移し替えてしまう人が──。
あふれるような、赤い光の中。ルカはキャンバスに鼻をくっつけそうにしながら絵を描いている。針みたいに細い筆をつかって。時計職人みたいな精密さで。
完成間近の絵は、この距離からだと写真にしか見えない。もっと近付いても同じだろう。
わたしには真似できない技術。
細い筆先が動くたび、わたしの胸は痛くなる。その筆運びに、天才と凡人の違いを思い知らされて、死にたくなる。彼女の刻む一筆一筆が、わたしを絶望に追いやる。なぜ──。なぜ、同じ年齢で、これほど違うのだろう。
「……どうしたの?」
わたしの視線に気付いたのか、ルカはくるりと振り返った。
赤い陽光を背景に立つ彼女の姿こそ、なによりもわたしを悩ませる。
百六十八センチの長身。すらりとした、日本刀みたいな痩身。亜麻色の髪は背中まであって、赤い光の中でエナメルみたいに輝いている。ドイツ人とのクオーターなので、顔の作りは深い。つんと尖った鼻。形のいい眉。野生の猫みたいな瞳。そして、聴き心地の良い中高音の声。
どれもこれも、わたしにはないものだ。
きっと、神様は間違えたのだろう。なにかを間違えて、十人分ぐらいの才能や美貌を彼女に与えてしまったのだ。
もっとも、美貌については遺伝という説もある。ルカの母親は有名な女優だ。おまけに、父親も俳優。生まれからして、なにもかもわたしたちとは違うのだ。
ただ、いまの彼女にはひとつだけ問題がある。
その問題をどう指摘しようかと考えて、結局ストレートな方法を選んだわたしは彼女の鼻を指差した。
ルカは、きょとんとした顔になる。
「え? なに?」
「絵の具ついてる」
「うそ。やだ」
ルカは、手の甲で鼻をこすった。猫が顔を洗うみたいなしぐさはかわいいけれど、残念。よけいに汚れただけだった。
「どう? 落ちた?」
「ぜんぜん」
「ああ、もう。またやっちゃった」
わたしの知るかぎり、これで三回目だった。絵を描いててキャンバスに鼻をくっつける人など、ほかに見たことがない。
「とってあげようか?」
「うん。おねがい」
ルカはわたしの前まで歩いてきて、無防備に顔をつきだした。
目を閉じている。子供みたいに安心しきった顔。
わたしはポーチからコットンを取り出し、ラベンダーオイルを含ませてルカの鼻をそっと撫でた。
そのついでに、キスもしておいた。かるく、唇が触れる程度の。
「ちゃんと落ちた?」
キスのことには一言も触れず、ルカは鼻をこすっている。
「だいじょうぶ。落ちたよ」
わたしはコットンを丸めて、三メートルほど先のゴミ箱に放り投げた。
ルカが拍手する。
「ナイスシュー。さすが、元バスケ部員」
「バスケなんか、やったことないけど」
「そうだった? きっと向いてるよ、バスケ」
ルカは、ときおり突拍子もないことを言いだす。中学生の時から六年間いっしょにいるのに、いまでも彼女の行動は読めない。おたがいさまかもしれないけれど。
「わたしがバスケ部に移ったら、つぶれちゃうでしょ。美術部」
この部には、わたしたちを含めて五人しか所属していない。部として存続できる最低限の人数だ。さらにいえば他の三人は人数あわせの幽霊部員。部としての機能は失われている。
「美術部なんて、もうつぶれてるようなもんでしょ。亜矢子がバスケ部に入るなら、あたしも入るし」
「で? コートのすみっこで絵を描くの?」
「ううん。コートの真ん中で描くんだ。試合中にね。……あ、想像してみたら映画みたいじゃない? これはアートだよ、アート」
やっぱり、なにを言いだすかわからない。
「馬鹿なこと言ってないで、作業にもどったら?」
「うーん。今日はもういいかな。目が疲れちゃった」
「キャンバスに近寄りすぎなんだよ。視力落ちるから気をつけたほうがいいよ」
「そしたら、あたしもついに眼鏡っ娘デビューだね。萌える?」
また、顔をつきだしてくる。眼鏡があろうとなかろうと、ルカがかわいいことに変わりはない。萌えるとか何とかは、よくわからないけれど。
「眼鏡か……。ちょっと見てみたいかも」
「じゃあ今度買いに行こう。レンズの入ってないやつ。かわいいの選んでよ」
「わたしが選ぶの? まあいいけど」
「きまり。今度の土曜日ね」
ルカは手帳を出して、予定を書き込んでしまった。わたしのスケジュールはいつでもあいていると思われているようだ。実際そのとおりなので文句はないけれど。
「それで? 亜矢子はなにを描いてたのかな?」
おどけるように言いながら、ルカはわたしの机を覗きこんできた。
クロッキー帳に描かれているのは、人魚のデッサン。石膏像を模写したものだ。
「ふーん。いい感じに描けてるね」
「そう?」
「うん。石膏の質感が出てるよ、ちゃんと」
それぐらいはできてないと困る。でもそれ以上なにも講評しないのは、ほかに評価できる点がなかったということだ。
あらためて、デッサンを見なおしてみる。
いい感じに描けているのは事実かもしれない。でも、それだけだ。つまらない絵だと自分でも思う。「凡庸」の一言で切り捨てられる絵。
切実に思う。才能がほしい。
もしも。魂と引き替えに画才を与えると悪魔がもちかけてきたなら、わたしはよろこんで応じるだろう。その準備はいつでもできている。けれど、現実は映画や漫画のようにはいかない。悪魔も天使も存在しない。
ただ、ときどき思う。ルカこそが悪魔なのではないかと。
彼女とは、もう長いつきあいだ。
中学一年のとき、ルカは北海道から転校してきた。そのころのわたしは、クラスにだいたい一人はいる「絵のうまいやつ」という立場で、クラスメイトの似顔絵やアニメのキャラクターなんかを描いては上手い上手いと持ち上げられていた。馬鹿なわたしは調子に乗り、県の絵画コンクールに作品を出して銀賞をとった。そのとき金賞をとったのがルカだ。
以来、わたしは「クラスで二番目に絵のうまいやつ」という立場に落ちた。おまけにルカは勉強もスポーツも万能だったので、わたしには何一つとして彼女に勝てるものがなかった。
もしルカが性格の悪い人間だったら、憎むことでわたしの気は晴れた。ところが彼女は自分の才能や美貌をまったく鼻にかけない性格だったので、わたしの嫉妬心は行き場を失って制御不能に陥った。
自分自身、いまでもよくわからない。なぜ、わたしとルカは友人なのだろう。それどころか、同性なのにキスしたりするのだろう。不思議でならない。
ときどき考える。すべてのできごとがルカにコントロールされているのではないかと。彼女こそ悪魔なのではないかと──。