Neetel Inside 文芸新都
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「だ……」
 大丈夫? と言おうとしたのだけれど、唇が乾いてうまくしゃべれなかった。
 そして、まちがいに気付いた。「大丈夫?」じゃない。まず、なにをおいても謝らなければ。
「ごめ、ごめん。ユイ。わざとじゃなかったの。わざとじゃ……」
 声が震えていた。いまにも泣きそうだった。
 震えているのは声だけじゃなかった。指先が、ぶるぶる痙攣している。いつのまにか、ノートはどこかに行っていた。私は、震える指でユイの背中に触れた。
 瞬間。彼女の全身がビクッと動いた。
 はねのけられるかもしれない。そう思った。ユイは他人に触れられるのをすごく嫌う。それこそ、病的なぐらいに。親友のはずの私でさえ、彼女の体にはほとんど触れたことがない。けれど、もし今この手をはねのけられたら、もうどうしていいかわからなかった。
 はねのけないでください、嫌わないでください、おねがいします──。祈るぐらいの気持ちで、私はそればかりを考えていた。必死だった。
 けれど、その数秒後に気付いた。私は、私のことしか考えてない。ユイの怪我の具合さえ、考えてはいなかったのだ。それこそ、ほんとうに信じられないことだった。
 そのことに気付いた直後、ずしっと胃のあたりが重くなって、吐き気に似た自己嫌悪がやってきた。よくわかった。いや、最初からわかっている。病的なのは、ユイじゃない。私のほうだ。私こそ、病気なのだ。すくなくとも、この国では。同性愛は病気として認定されている。

「……あたし、あとで読んでって言ったよね? 小説」
 うずくまったまま、ユイはかすれた声を出した。
 その言葉で、呪縛が解けたような気がした。よかった。口をきいてくれた。──そう思った瞬間、こわばっていた全身から一気に力が抜けた。
「ごめん。本当にごめん。ただ、早く読みたかっただけなの、ユイの小説。悪気はなかったの。信じて。おねがい」
「……すごく、痛かった」
「ごめんなさい! 許して! 気が済むまで私のこと殴ってもいいから!」
「……クレープ」
「え?」
 何の聞きまちがいかと思った。クレープ?
「サニーズのチョコレートクレープ、おごってくれたら許してあげる」
「おごる、おごる。ぜったい。約束するよ!」
 安堵のあまり、頭がくらっとした。よかった。ユイは怒ってなかった。いや、怒ってるかもしれないけれど、でもとにかく許してくれた。今度こそ、涙が出そうだった。

 ゆっくりと、ユイは体を起こした。
 泣いている。右手の親指で左の目を、左手の親指で右の目を、交互にぬぐいながら、「あたし、悪くないよね?」と彼女は言った。
 なにを言っているのか、意味がわからなかった。悪いのは百パーセント私のほうだ。
「ユイは何も悪くないよ。私が悪かったの。ほんとにごめん。許してくれる?」
「いいよ。許してあげる。だって、ただの事故だし。……ねぇ、ティッシュちょうだい」
 言われて気付いた。本当に、私は無神経すぎる。
 いそいでティッシュケースから三枚ぐらい抜き取り、手渡した。
「ありがとう」と言って、ユイはそれを目頭にあてた。
 涙を吸い込んで濡れていくティッシュペーパーを、私は不思議な気持ちで見つめていた。そういえばユイが泣くところは初めて見たなと思った、そのとたん。早鐘のように心臓が打ちはじめるのがわかった。なぜだか、理由はわからなかった。

「ケガ、してない? だいじょうぶ?」
 うつむいているユイの顔を下から覗き込んで、私はたずねた。たれさがった髪のせいで、表情が見えない。
「うん。だいじょうぶ。ちょっと痛いけど……。ほうっておけば治るよ」
「見せて」
 私の言葉に、ユイはすんなり従った。
 目元をおおっていたティッシュが離れると、右の眉あたりが赤くなっているのが見て取れた。すこし腫れているけれど、骨が折れているとか、そういうことはなさそうだ。それにしても、もうすこし下に肘が当たっていたらと思うと、ぞっとする。
「目に当たらなくてよかった……」
 金色がかった彼女の瞳を見つめながら、私はホッと息をついた。
 そして、ふと思った。もしも目に当たっていたら──そして一生とりかえしのつかないケガでも負っていたとしたら。それでもユイは私を許してくれただろうか。と。
 なぜそんなことを考えたのか、まるで理解できなかった。自分の考えたことだというのにだ。さっきから、私は、どこかおかしくなっている。
「心配させちゃってごめんね。もう大丈夫だから」
 うすく笑顔を浮かべて、ユイはそう言った。
 ああ、やっぱりこの子は優しい。自分が怪我をしたのに、怪我をさせた相手のことまで気遣うなんて。私なんかには絶対できないことだ。クレープをおごってくれたら──とかいうのも、そうすることで少しでも私の罪悪感を減らそうとしてくれたのに違いない。彼女は『天使と少女』というタイトルで小説を書いたけれど、天使というのはユイのことに違いないとさえ思うほどだった。

「ほんとうに大丈夫だから。気にしないで。ね?」
 ひざに何かが触れる感触があって、見るとそれはユイの手だった。
 おどろいた。彼女が他人の体に触れるなんて。見たことがない。
 つかのま、私はユイの手を見つめていた。それから、ゆっくりと彼女の顔へ視線を移した。
 さっきの笑顔は消えて、どこか思いつめたような表情が、そこにあった。
 私はうろたえた。それがどういう意思をあらわす表情なのか、まったく見当つかなかったのだ。やっぱり怒っているのだろうか。それとも、ぶつけたところがひどく痛むとか。そうじゃなければ、真剣に私のことを気遣っているのか。あるいは──。
 わからないまま、私は彼女の手に自分の手をかさねてみた。私の指も冷たかったけれど、ユイの指はもっと冷たかった。私の部屋には暖房がない。けれど、いまはそれを感謝したい気分だった。彼女の指を温めてあげることができるからだ。
 ユイの手は私のひざに置かれたまま、動かなかった。私は左の手のひらを彼女の手にかさねたまま、右手をそっと持ち上げた。そして、彼女の頬に触れてみた。指先が震えている。いや、震えているのは心臓かもしれない。ちがう。本当に震えているのは、魂だ。

 ユイは逃げなかった。正座するような格好で畳の上に座ったまま、じっと私を見つめている。その瞳に私の顔が映っているのが見えた。息が触れるぐらいの距離。
 ユイは何も口をきかず、私も何を言えばいいのかわからなかった。まるっきり、なにひとつ言葉が出てこない。痛いぐらいの沈黙が張りつめて、指先に熱がこもり、なにもかもが停止して、動いているのは白い吐息だけになった。
 私は中指と薬指でユイの頬に触れたまま、人差し指で彼女の目元をぬぐった。涙の粒が指先を濡らし、ゆっくりと乾いていった。
 ユイは目を閉じていた。私が目元に触れたせいかもしれない。ちがうかもしれない。なんにせよ、もう私の理性は限界だった。逃げるヒマも与えず、私は彼女の唇に自分の唇をかさねた。──この瞬間、私の中で何かが壊れた。おそらく、ユイの中でも。

       

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