Neetel Inside 文芸新都
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 ユイの唇は、ほんのりと紅茶の味がした。そういえばミルクティーのペットボトルを買っていたな、と思った。コンビニで見かけたとき、ミッフィーちゃんだったかキティちゃんだったか、そんなオマケがついていたのだ。「救出してあげないと」とか言ってレジに持っていったのを覚えている。たった一時間ぐらい前のことなのに、なんだかずいぶん遠い記憶。
 でも、そう考えると、私の唇はカフェオレの味がするのかもしれない。こんなことになるとわかっていれば、もっと違うものにすればよかった。たとえば、そう、レモンジュースとか──。
 ユイは唇を閉じていたけれど、顔をそむけたりはしなかった。
 その唇を割って、舌を入れた。「ん……」という、ちいさな声。
 舌に歯が当たった。舌の先を硬くして、歯を押し開く。そのまま、ゆっくり中へ差し込んでいった。やっぱり、紅茶の味がする。舌の裏側に、熱いものが触れた。やわらかくて、ザラッとした感触。舌を絡めると、それはぎこちなく動きだした。
 ユイは目を閉じていた。私が舌を動かすたび、ひくっとまぶたが震える。まぶたの間から流れる涙は、止まる気配がなかった。どうして泣いているのかという疑問が、一瞬だけ頭のどこかに浮かんで消えた。私は考えないことにした。きっと、うれしくて泣いてるんだ。そうだ。そうに違いない。ほかの可能性はありえない。

 深いキスをつづけながら、私はユイの中に入れたままの指を動かした。どこをどうすればいいのかは、よく知っている。手のひらを上に向けて、かるく折り曲げた中指を、そっと動かす。ほんのわずかに膨らんでいる部分があって、そこに指先が触れたとたん、ユイの背中が弓なりになって跳ね上がった。すごく気持ち良さそうだ。
 唇を離すと、すきとおった唾液が糸を引いて銀色に光るのが見えた。糸はすぐに切れてユイの唇に落ち、ちいさな泡を作ってはじけた。私は指を動かしながら、三十センチぐらいの距離をおいてユイの顔を見下ろした。
 すこし尖った感じの、高い鼻。そこに、汗が浮いている。アーチ型に整えられた眉も今は大きく歪んで、見たこともないような顔になっていた。薄桃色の唇は小さく開かれて、荒い呼吸の下から切れ切れに呻き声が聞こえる。──うめき声? ちがう。これは喘ぎ声だ。
 このまま指を動かしていたら、最後にはどういう声を出すだろう。それに、どういう表情を見せてくれるだろう。知りたかった。ユイがどんな顔で逝くのか、見てみたい。だれも見たことがないはずの顔だ。キスだって初めてだったんだから、あたりまえだ。

「ねえ、気持ちいい?」
 無意識に、私はそんなことを訊いていた。いったい何を言ってるんだろう。もう、自分で自分をコントロールできなかった。いや、そんなのは言いわけかもしれない。──言いわけ? だれに対して? 自分の思考が理解できなかった。
 ユイは答えなかった。右手の甲を口に押し当てて、なにかに耐えるような声を漏らしている。人形みたいに揃えられた髪も、いまは乱れに乱れていた。ほつれた髪が数本、睫毛にひっかかっている。その髪を指先で払ってやり、スッと首筋をなでおろした。
 ビクンという反応。一瞬で、うなじに鳥肌が立っていた。私の指は首筋から肩をとおってセーラー服のスカーフを払いのけ、胸の上で止まった。標準的なサイズの胸。けれど、いまは仰向けになっているせいで幾分ちいさく見える。制服の上からでもわかるぐらい、その先端が硬くなっていた。私は中指と薬指の間でそれをはさみ、くりっとひねった。
「ぁく……っ」
 押し殺そうとして出来なかったのか、噛みしめるような声が漏れた。脳の中に直接響くような声。じわりと、甘苦いものが口の中いっぱいに広がる。ユイの声だけで、私は達しそうだった。いま彼女の手が触れたら、数秒で逝ってしまうに違いない。

「ここがいいの……?」
 問いかけながら、私はユイのセーラー服に手をかけた。たくしあげて、直接さわろうとしたのだ。
 すると、彼女の手が私の腕を押さえつけた。
 初めて見せた抵抗だった。ちょっと驚いた。だって、私の右手はもっとすごいことをしているっていうのに。いまさらそんなところで抵抗する理由がわからなかった。
 すぐに答えが浮かんだ。これは、形式上だけでも抵抗しておこうという意思かもしれない。きっとそうだ。いや、そうに違いない。そう結論づけて、私はユイの腕を振り払った。
 しかし、思うようにいかなかった。ユイはもう一方の腕でセーラー服の裾を押さえていた。どけようとしたが、まったく動かなかった。どこにそんな力があったのかと思うほどの強さで、彼女は制服の裾を押さえつけていた。
 私は右手の中指を深く差し込み、ぐりっと動かした。そのとたんユイの体が浮き上がり、私はスキをついてセーラー服をたくしあげた。

 真っ白なおなかが見えるはずだった。ちがった。そこにあったのは、脇腹から胸にかけてベッタリと貼りついた、赤紫色の痣だった。ちがう。痣じゃない。表面が、ただれたようなケロイドになっている。やけどの痕だ。それだけじゃない。釘か何かで引っ掻いたような、深いミミズ腫れ。煙草を押しつけたような、丸い焦げあと。なんだかわからない傷は、かぞえきれないぐらいだった。
 氷水でもぶちまけられたみたいに、頭の中が冷たくなっていった。いま、私の見ているものは、なに──?
 頭が真っ白になり、なにをどうすればいいのかわからなかった。慄然として、言葉も出ない。私の中で本当に何かが壊れたのは、この瞬間だった。なにかではなく、すべてが。

 どれぐらいのあいだそうしていたのか、わからない。
 私はただ呆然と、ユイの体に刻みつけられた傷跡を見つめていた。いったい、なにがどうなって、こういうことになっているのか。理解できなかった。自分の見ているものが、現実とは思えない。もしかして今までのすべては夢だったのではないかとさえ思えた。でも、その場合、どこからが夢だったんだろう。どこまで巻きもどせばいいだろう。どこからやりなおせばいいのだろう。
 そうだ。あのコンビニに立ち寄ったあたりからやりなおせばいい。それで全部うまくいく。今日はウチじゃなくてファミレスとかで時間つぶさない? とか、なんとか。それでいい。完璧だ。

 けれど、どうやら目の前にあるものは夢でも錯覚でもないようだった。
 すべては、現実に起こったことなのだ。取り消しはできない。なかったことにはならない。
 ふと、突き刺さるような視線を感じて、私は顔を上げた。ユイと目が合った。ものすごい目だった。彼女がそんな目をすることも、いま初めて知った。どんなものを見たときに、人はそういう目をするか。知っている。おぞましいものを見たときだ。たとえば、駅のホームに吐き散らされた吐瀉物だとか、蛆のわいた猫の死体とか、そういうもの。
 その目を見た瞬間。すべてが崩れるのがわかった。ユイとの間に築き上げた二年間のすべてが。この数分間で、あとかたもなく塵になったのだ。
 いま、すこし冷静になってみて、ようやくわかった。彼女は決してあんなことを望んでいたわけじゃない。ただ、おびえていただけだ。だから、されるがままになっていたのだ。なにからなにまで私の思い込み──妄想だった。

 ユイは立ち上がり、カバンをつかむと、一言も発さず部屋を飛び出ていった。スカートの裾をととのえることさえしなかった。
 私は呼び止める言葉を持たなかった。あやまることさえできなかった。あんなことをしでかして、一体どういう言葉で償えるだろう。できるわけが、ない。友情がどうこういうレベルの問題じゃなかった。裁判を起こされたっておかしくないようなことをしたのだ。この私は。いっときの欲望に負けて。
 畳の上に座りこんだまま、私は動けなかった。動く理由も見つからなかった。猛烈な絶望と後悔がのしかかってきて、その重力に押しつぶされそうだった。死にたいと、切実にそう思った。いま目の前に刃物があったなら、私はまちがいなく手首を切っていただろう。──そうだ。ユイは優しい子だ。私が死ねば、許してくれるかもしれない。──いや、駄目だ。私が自殺したなんてことになれば、それこそ彼女の心には取り返しのつかない傷が残る。私にできることは、なにもない。
 ずっしりと、海の底に引きずりこまれるような疲労感がやってきた。アドレナリンの副作用だ。舌の奥に残っているのは、えぐい苦みだけだった。飲み込もうとしても、できなかった。ティッシュを五枚ぐらい取って、そこに唾を吐いた。丸めたティッシュをゴミ箱に投げようとして、それさえもできないことに愕然とした。まったく体が動かない。
 ティッシュが床に転がるのを、私はぼんやり眺めた。そして、気付いた。ノートが落ちていることに。ユイの書いた小説。それを読んでほしいと言われたのが、もう何日も前のことのような気がした。

 どうにか腕をのばして、私はノートを手に取った。
 表紙に題名が書かれている。天使と少女。ちょっとクセのある、手書きの文字。
 その文字を、指でなぞってみた。最後までなぞるより先に、ぱたぱたと音をたてて涙が落ちた。止まらなかった。次から次へと涙の粒が落ちて、ノートの上に広がった。
 ユイ──。彼女の名前を呼びながら、私はノートを胸に抱いた。そのままうずくまるように崩れ落ち、声を殺して泣いた。

       

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