Neetel Inside 文芸新都
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 翌日、私は学校を休んだ。部屋を出る気にならなかったし、だいいちどんな顔をしてユイに会えばいいのか、まるでわからなかったのだ。それに、あのできごとをユイが周りに話したりしてないかと思うと、もう学校の誰にも顔を見せられなかった。社会的に抹殺された気分だった。でも仕方ない。それだけのことを、自分はしたのだ。受け入れるしかなかった。
 日が暮れるころになっても、私は布団の中から動けなかった。私の部屋には暖房がない。だから、こんな寒い日にはこうして布団にくるまっているのが一番だ。そうして一日中布団の上で寝そべりながら、これから先どうしようと、おなじことばかり考えていた。
 ユイには、あやまるしかない。土下座でもなんでもして、とにかく許してもらわなければならなかった。大丈夫。ユイほど優しい子は他にいない。私が誠意を見せれば、許してくれるはずだ。そこだけは心配しなくてもいい。
 問題は、昨日までのような友達関係にもどれるかということだ。こればかりは、しかしどんなに都合のいい展開を想像してみても、ありえないように思われた。あんなことがあった後で元通りの関係にもどれるなんて、とうてい考えられない。──そう。終わってしまったのだ。昨日、この部屋で。私の恋は。あとかたもなく。

 考えれば考えるほどみじめな気持ちになってきて、ほんとうに死んだほうがいいんじゃないかとも思った。そして、そのたびに考えなおした。でも、われながら恐ろしいことに、私はこう思っていたのだ。どうせ死ぬぐらいなら、そのまえに力ずくでユイを自分のものに──と。
 やっぱり自分は病気なのだと思う。だれだって一度ぐらいそういうことを考えたことがあるかもしれない。どうせ死ぬならそのまえに──という考え。ただ、私の場合、その相手が同性だというのが異常だった。
 そう。私はまだユイに対して下心を持っている。下心なんてものじゃない。劣情とか言ったほうが正しい。そして、たぶん、ユイは私の心を見抜くだろう。彼女は他人の表情から気持ちを読み取る能力にすぐれているのだ。私の抱いている劣情など、あっさり見破るに違いない。昨日までの私はそれをうまく隠していたけれど、本性を見せてしまったあとでは一目瞭然だろう。

 それにしても──と思う。あのおびただしい傷跡は、何だったんだろう。
 交通事故に遭ったって、あんな傷は残らない。あれは、意図的につけられた傷だ。とくに、あの釘で引っ掻いたような痕跡。「シネ」と書かれているように見えた。どうやったって、事故で生じるような傷じゃない。
 火傷の跡もひどかった。ふつう、火傷というのは手や足にできるものだ。あんなふうに腹部に火傷するというのは、どういう状況だろう。事故で、あんなことが有り得るだろうか。
 どう考えても、結論はひとつしかないように思えた。信じがたいことではあるけれど。でも、たぶん、そのとおりなんだろう。──嗚呼。

 何百回目になるかわからない溜め息を、私は漏らした。なにもかもが絶望的だった。
 寝返りを打ち、枕元のノートに触れてみた。天使と少女。まだ一ページも読んでいない。とてもじゃないけれど、小説を読むような気分になれなかった。
 ここにあるのは、ユイの魂の断面だ。たとえどんな内容の小説でも、心の中に存在しないものは書けない。だから、これを読めば私はユイの心を深く知ることができる。けれど、もはやかなうことのない恋のために、そんなことをする必要があるだろうか。徒労になるどころか、私はまた自分の欲望を遂げようとするかもしれない。ユイだって、こうなったあとでなお小説を読んでほしいとは言わないだろう。
 それでも、やはり私はこれを読まなければならなかった。昨日、約束したのだから。読んで、感想を伝えると。それに、読み終えなければノートを返すこともできない。このまま借りっぱなしというわけにもいかなかった。ユイからの私に対する評価がくつがえることはないだろうけれど、できるならちょっとでもマシな評価にもどしたい。借りたものは返す。常識は守らなければならない。
 私は布団の中でうつぶせになり、あまり進まない気分でノートを開いた。

 物語の主人公は、高校生の女の子だった。
 もちろん名前は違うけれど、即座に察しがついた。これはユイだ。
 二人目の登場人物も、じきにあらわれた。これもまた、すぐに把握できた。私だ。
 その高校生二人が、とりとめのない会話をしている。舞台は図書室。あまり、ストーリーらしいストーリーは始まらない。淡々としている。けれど文章は磨き抜かれていて、ただの会話シーンを読んでいるだけでも面白かった。やっぱり、ユイには文才がある。ただ、それにしても、あきらかに自分とわかるキャラクターが小説の中でしゃべっているのを見るのは、ちょっと気恥ずかしいものがあった。

 五ページほど読み進めたところで、舞台が過去に移った。五ページといってもキャンパスノートにギッシリ書かれた文章だから、かなり読みごたえはある。
 過去の話が始まったとたん、作品の空気が変わった。いや、変わったなんてものじゃない。ユイは「ちょっと暗いお話だから」とか言っていたけれど、そんなものでは済まなかった。
 作品のテーマは明らかだった。児童虐待だ。
 きっかけは、主人公の両親が離婚したことだった。夫がいなくなって精神のバランスを崩した母親が、ストレスのはけ口として数かぎりない暴力を娘にぶつける。最初は素手で殴る程度だったのが、日に日にエスカレートしていく筋書き。しまいには灰皿やフライパン、酒瓶まで使って、娘は殴られた。──というより、この母親は手近にあるものなら何でも使って娘を殴った。それだけじゃない。火のついた煙草を腹部に押しつけたり、熱湯を浴びせたり、およそ常人に思いつくであろう虐待のすべてをおこなった。
 理由はひとつ。娘の目つきが、別れた夫に似ているという、ただそれだけのことだった。

 凄まじい内容だった。読み進めるうち、私の指は震えはじめた。文章がうまいせいか、すべての描写に有無を言わせないリアリティがある。──ちがう。そうじゃない。リアリティがあるのは、これが現実におこなわれたことだからだ。
 昨日のことがなければ、私はこの小説をただのフィクションだと思ったに違いない。それほど、ありえない話だった。しかし、私は見てしまった。ユイの腹部から胸部にかけて刻み込まれた、無数の傷跡を。ここに書かれていることは、すべて彼女の体験談だ。
 この告白を読んでもなお、信じられなかった。あの、だれもが憧れる美貌のユイが、見えないところでこれほどの虐待を受けていたなんて。彼女は誰よりも優しくて、気が利いて、それに賢かった。こんな目にあっていただなんて、だれが想像つくだろう。とりわけ目を疑ったのは、そうした虐待が今でも続いているということだった。
 たしかに、言われてみれば彼女からはそういうサインが出ていたかもしれない。体に触れられるのを極端に嫌う性質。他人の表情から心を読み取る能力。なにをするにも理由を説明するクセ。あれらはすべて、虐待を受けたことによる産物だったのだ。
 私はめまいをおぼえた。胃のあたりが熱くなって、吐き気がこみあげてくる。朝から何も食べてなかったおかげで戻さずにすんだものの、胃の中に何か入っていたら間違いなく吐いているところだった。

 ノートが残り半分を切ったころ、ようやく舞台が現在にもどった。まるで処刑場から出てきたような解放感。ほっと息をついて時計を見ると、一時間以上も過ぎていた。まさに時が過ぎるのも忘れて、私は没入していたのだ。プロの小説家の作品だって、こんなことはなかった。ユイが文才にめぐまれているのは、もはや疑う余地もない。このまま出版社に持っていったらどうかというレベルだ。
 凄惨な過去からは解放されたものの、物語はまだ終わってはいなかった。主人公たち二人は図書室を出て、夕暮れせまる街を歩いていた。視点は、虐待を受けている少女。──つまり、ユイだ。
 この作品に書かれていることは彼女の魂の一部なのだと、読む前から私は予想していた。実際、そのとおりだった。一部どころか、ここには彼女の人生そのものが書かれている。それは、私の想像を絶する人生だった。
 小説の中で、彼女は常に気を配っていた。何をするときでも。何を言うときでも。自分の言動が相手に与える影響をよく考えて、それから行動したり、しゃべったりした。だから、彼女には気の休まるときがなかった。
 他人に気を使いすぎて疲れてしまうという人はよくいるけれど、そういう人だって自宅ではくつろげるはずだ。でも、この主人公にとっては自宅こそが一番の地獄だった。その地獄から逃れるために、彼女はよく親友の家に遊びにいった。その友達だけは、彼女にとって唯一ストレスを感じずに付き合える相手だったのだ。──そう、ただ一人の。親友だったのだ。

 読むのは、そこまでが限界だった。たまらない感情が押し寄せてきて、私は泣いた。昨日自分がどういうことをしたのか、今ようやく理解できた。ユイは、たったひとりの親友に裏切られたのだ。それも、信じられないような形で。心休まる場所だったこの部屋も、二度と訪れることはできない。現実の世界が小説であるとするなら、すべての読者を裏切る最悪の幕切れだった。
 なぜ、この小説をもっと早く読めなかったのかと思う。昨日、あんなことが起こるまえに。これを読んでもなおユイを押し倒すことができるほど、私は鬼じゃない。彼女を愛しているという感情は変わらないにしても、もうすこしおだやかな手順を踏んだはずだ。この小説に照らし合わせるなら、私は満身創痍の主人公の心に最後の一撃をくわえた極悪人だった。
 砕けるような感情が胸の中に吹き荒れて、私は号泣した。悲しみなのか後悔なのか、自分への怒りなのか、それらすべてなのか、なにがなんだかわからなかった。何故あんなことをしてしまったんだという思いが、いまさらのように私を打ちのめした。
 立ちなおれないほどの後悔。でも私はまだいい。ほんとうに立ちなおれない傷を負ったのは、ユイのほうだ。私が、その傷を与えたのだ。──ごめんなさい、ユイ。ごめんなさい。頭から布団をかぶり、私は泣きながら謝罪をくりかえした。どれだけ謝っても、たりるものではなかった。

 どれぐらいのあいだ、そうしていただろう。時間の感覚がさっぱり無くなるころ、ようやく私は感情をなだめることができた。布団のシーツがぐっしょり濡れている。けれど、それをどうにかする気にもなれなかった。
 私はノートを手に取り、小説のつづきを読みはじめた。最後まで読まなければならない。私には、その義務がある。のこりは五ページ程度だった。
 夕日の落ちる街並みの描写。主人公は親友を公園に誘い、そこで勇気ある決断をした。虐待の事実を告白し、生々しい傷跡を見せたのだ。彼女にとって、これは親友を失うかもしれない賭けだった。そこまではいかなくても、いままでと同じ付き合いができるかどうかは問題だった。たしかに、そんな事実を告げられれば、この親友だって主人公に対する見方が変わるかもしれない。
 けれど、小説の中で、この親友は何ひとつ変わることなく、哀れみを見せるでもなく、いままでと同じように親友でありつづけたのだ。主人公の期待は裏切られなかった。そして彼女は初めて自分から親友の手を取り、手をつないで歩きだすのだった。彼女は、この親友を「まるで天使みたい」と言った。主人公にとっては理想的なハッピーエンドだった。
 物語はそこで終わり、私は深い息をつきながらノートを閉じた。
 ひとつ、わかったことがある。そのひとつの思いが、私の心を深く深く切り裂いた。これこそ、完全な絶望に包まれた後悔だった。
 私は、天使になれなかったのだ。

       

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