Neetel Inside 文芸新都
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 会話はそこで打ち切られ、エニスは体重をかけてルイゼを押し倒した。ナイトウェアの裾から手を入れて、指先で乳首を探り当てる。やさしくひねっただけで、すぐ硬くなった。と同時に顎を舐めあげる。ルイゼはブルッと震えて、噛みあわせた歯の間から吐息を押し出した。
「おとなしくしてろって言わないの?」
 小悪魔を演じるように、エニスは得意の笑みを浮かべた。酔っぱらっていてもなお──否、酔っぱらっているからこそ、その表情は寒気を催すほど蠱惑的だ。
 ルイゼは何かうまいセリフを言いかえそうと頭を働かせたが、この小悪魔をやりこめる言葉は思いつかず、沈黙する以外なかった。
「言わないんじゃなく言えないんだね」
 エニスの膝がルイゼの脚を割って入った。かるく押しつけられただけで、ルイゼはビクンと反応してしまう。さっき、中途半端にいじられたせいだ。
 指と膝を使って微妙な刺激を与えつづけながら、エニスはルイゼの顔を見下ろした。乱れた髪が床に広がっている。いつのまに落ちたのか、髪の下にペンケースが転がっていた。拾い上げて、テーブルの上へ──もどすまえに、エニスはペンケースの中身を床にばらまいた。
 鉛筆とボールペン、サインペン、蛍光ペン。太さの違うものが、それぞれ二本ずつ。アートナイフも二本あった。
 エニスは極細のサインペンを手に取り、キャップを外した。ルイゼの上着をたくしあげながら、耳元に問いかける。
「ねえ、監督(レジスタ)。答えてよ。どうして、不幸な映画なんか撮るの?」
 サインペンの先が、ルイゼの腹部に触れた。かすかな痛みに、彼女は顔をしかめる。
 おかまいなしに、エニスはペンを走らせた。性格をあらわすような、殴り書きのラテン文字が刻みつけられる。白く柔らかなキャンバスに、『命題:不幸な映画はなぜ作られるか』という一文が書き込まれた。
「そんなの、簡単な話でしょ。人は他人の不幸を見て喜ぶからよ」
 ルイゼの声は、すっかりうわずっている。
 ペンが動き、その言葉がルイゼの腹部に書き留められた。
 美しいエニスの手によって綴られる、汚い文字。そのひとつひとつが、ルイゼに倒錯的な愉楽を与える。
「でも、今日の映画で泣いてる人いっぱいいたよ?」
「それは、泣くことを楽しんでるだけ。フィクションだろうと現実だろうと、人は他人の死を娯楽として受け取るの。映画に限らず、物語を作る人はそれを知ってる。だから作中の人物を殺すのよ」
 その答えを書くのは面倒だったようで、エニスは全然ちがう言葉を書いた。
『この変態趣味の監督は作品の中で人をいっぱい殺すんです。あたしも二回殺されました。でもあんまり売れなかったけど』
「いま、なんて書いたの?」
「『愛してる』って書いといた」
「嘘ばっかり」
「ウソじゃないよ」
 そう言って、エニスはイタリア語とフランス語とスペイン語と英語で、「愛してる」と書いた。中国語で書いたものは、漢字が間違っていた。
「……でもさ、観客をたのしませるだけなら、ふつうにハッピーエンドの娯楽映画を撮ればいいんじゃない? わざわざ主人公が死ぬような映画なんか撮らなくてもさ」
「お菓子ばっかりじゃ飽きるでしょ? 口直しのコーヒーやワインもないと」
「あ、なるほど」
 納得したようにうなずいて、エニスはこう書いた。
『命題:人生に必要なもの』
『解答:酒、コーヒー、お菓子』
 そのあと思い出したように『愛』と書き加え、文字だらけになったルイゼの肌をペンの尻でなぞった。
 ルイゼはまったく抵抗しない。されるがまま、とろけそうな瞳で天井を見つめている。
「……よほど心に残ったみたいね、その映画」
「トラウマになりそうだよ」
 うんざりしたように、エニスはサインペンを放り投げた。次に拾い上げたのは、アートナイフ。ペンシル状の先端に、小さな刃が光っている。キャップをはずして、銀色の刃先を眺めながら彼女は言った。
「でもまあ、場所は別々だったけど同じ日に死ねて良かったのかも、あの夫婦」
「そうね。人は皆かならず死ぬんだから、生きて苦しみを味わう必要はないもの」
 答えながら、ルイゼは心臓が早くなるのを感じていた。酔っぱらったときのエニスは、予想外の行動をとることがある。刃物を持って何事か考えこんでいる様子の彼女は、それを心臓に突き立てようと結論するかもしれない。しかも、冗談半分で──。その想像は、ルイゼの感情をひどく揺さぶった。
「よく考えてみたら、理想的な死にかたかも。五十年間幸せな結婚生活を送って、ある日突然苦しむヒマもなく天国行き。……悪くないような気がしてきた」
「天国があればね」
「地獄でもいいよ。ルイゼさえいれば。……だって、ルイゼがいればそこが天国になる」
「どこで覚えてくるの、そういうキザなセリフ」
「いまのはルイゼが言ったセリフだよ。むかし、パリにいたとき」
「私が? あなたに?」
「ほかの人にそんなこと言ってたら、殺しちゃうよ?」
「あなた以外に言うわけが……あ、」
 最後まで言えなかった。鋭い刃が降りてきて、ルイゼの乳房をまっすぐ横断したのだ。金属の、つめたい感触。一瞬、ほんとうに切られたのかと錯覚するほどだった。
 ルイゼはナイフの通り抜けたあとを見た。切れてはいない。峰のほうを使ったのだ。それでも、赤いラインがうっすら浮き上がっているのは見えた。
「あっはっは。おどろいてる。切られたと思った? 思ったでしょ? 酔っぱらってるあたしは何するかわからないもんね? 正直に答えていいよ」
 得意げなエニスの笑顔は、もはや小悪魔どころか悪魔そのものだ。
 ごくっと唾を飲み込んで、ルイゼは答える。
「切りたいの?」
「切ってほしい?」
「ん……」
 ルイゼは目を閉じて、その場面を想像してみた。映画を生業にしている彼女にとっては、お手のものだ。最愛の人の手で乳房の皮膚を切り裂かれ、苦痛に悶える──。その情景には、なんらかの美的価値があるように思われた。
「切ってもいいけど、撮影しておいて」
「写真で?」
「ムービーで。私の車にハンディカムがあるから……」
「えええ。やだよ、そんなの。めんどくさい」
「こんなチャンス、二度とないわよ?」
「べつに、切りたいわけじゃないし。あたし、ルイゼほど変態じゃないからさあ」
「ああ、それはそうね」
 ルイゼは、ふうっと息を吐いた。ガッカリしたのかホッとしたのか自分自身区別がつかない。エニスの言うとおり、自分が変質者だということは理解している。だが、仕方ない。映画を撮ろうなんて考える人種は、程度の差こそあれ皆そろって変人なのだから。

       

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