Neetel Inside 文芸新都
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「いま、なに考えてた?」
 突然、ルカが顔を寄せてきた。息がかかるくらいの距離。コーヒーの匂いがする。それも、甘ったるいカフェラテの匂い。
「進路について考えてた」
 さらっと言える。わたしは嘘をつくのが得意だ。
「進路? それさあ、まえにも言ったけど、あたしと同じ大学行こうよ」
 かんたんに言うが、筑波大だ。彼女は楽勝だろうけれど、わたしには難しい。不可能ではないにしても。すくなくとも、絵を描いている時間はないだろう。
 でも、そんなことより。問題は他にある。
「わたしも前に言ったけれど、美大行きなよ。もったいない」
「もったいないって言われても、あたしそんなに絵の才能ないからさあ」
「それはないでしょ。わたしの知ってる中では一番うまいよ」
 ほめてあげると、ルカは微笑んだ。ほんの数秒。
 でも、その笑顔はすぐ真顔にもどってしまう。
「うん。まあ、シロートの中ではうまいほうかもね。でも、美大に行ったらあたしぐらいのレベルの人はゴロゴロいるわけ。プロで通用するレベルじゃないよ」
「そう? プロのイラストレーターでもルカよりヘタな人なんて、いくらでもいるけど」
「ヘタなのと比較したって意味ないじゃん。だいいち、プロの仕事は技術だけで決まるものでもないでしょ。ヘタなイラストレーターだって、性格がいいとか締め切りをちゃんと守るとか、いいところがあるから使ってもらえるんだよ」
「そんなこと言ったら、ルカには欠点なんかないでしょ」
「欠点なんか、ボロボロあるよ。……なに? そんなにあたしを絵描きにしたいの? 本気で言ってるの?」
 どういうわけか、ルカは語気を荒げた。わたしはなにかおかしいことを言っただろうか。せっかく絵が上手いのだからそれを生かしたほうがいいと、あたりまえのことを言っただけのはずだ。
 むかしから、ルカはよくわからないことで機嫌をそこねる。たいてい、五分もすればケロッとしてしまうのだけれど。今回は五分で済まない見込みが高かった。
「逆に訊くけど、ルカは絵の方面に進みたくないの?」
「べつに……。だいたい、絵なんてさ、ヒマつぶしにやるものだよ。仕事になんかするもんじゃない。ただのお遊びだよ、こんなの」
 これには、すこし怒りをおぼえた。絵のほかに取り柄がないわたしにとって、絵で生活できるかどうかは死活問題だ。ルカのように家が裕福ならともかく。ルカのように多才ならともかく。ルカのように美しいならともかく。──そう思った瞬間、感情にまかせて口走ってしまった。
「絵でやっていける自信がないから、そんな言いわけするんでしょ?」
 たちまちルカの表情が変わり、わたしたちのあいだの空気も一変した。まるで凍りついたように。窓からさしこむ赤い陽光さえ、ルビーの色から血の色に変わって見えた。
 ルカは、すぐには言いかえしてこなかった。こわいほど真剣な顔つきで、わたしを見つめている。きっと、彼女は怒っている。でも、怒っているのはおたがいさまだ。
「亜矢子ってさあ……」
 ふだんよりずっと低いトーンで、彼女は言った。
 わたしは息をつめて、次の言葉を待ちかまえる。
「すごく残酷だよね」
 思いもかけない言葉に触れて、わたしはうろたえた。──残酷? わたしが?
 けれど、すぐに理解できた。そんな言葉が出てくるということは、わたしの指摘が図星だったということだ。もしかすると、さっきの一言は刃物のようにルカを切りつけたのかもしれない。
 心臓が早くなった。
 わたしは、なにを言えばいいだろう。なにをどう言えば、いまの一言がなかったことになるだろう。──いや、駄目だ。なにをどうやったところで、いまの失敗は取り消せない。なかったことにできない。わたしはルカを傷つけた。それは確かだ。でも、ルカだってわたしの心をえぐった。だから、わたしだけが罪の意識にとらわれる必要はなくて──それなら、もう踏み込むだけだ。
 言いたいことを言う。でも、こんなことを口にしたら、終わってしまうかもしれない。わたしとルカをつないでいた友情らしきものは一瞬で崩れ去り、二度と口をきけないかもしれない。それでも、言わずにいられなかった。
「そうだね。わたしは残酷だよ。だから言わせて。絵に自信がないなら、あんなの描いてても時間の無駄じゃない? もうやめたら? 自信ないんでしょう?」
 言いながら、わたしはルカのキャンバスを指差した。
 鼻に絵の具がついても気付かないほど真剣に描いていた、夕焼けの風景画。写真と見間違えるほどの油彩画。わたしには決して描けない。それほどの絵を描ける人間が、どうして自信を持てないのか。ルカほどの天才が自信を持てないのなら、わたしみたいな凡人はどうすればいいのだろう。
 やりきれない思いに胸が苦しくなり、目尻が熱を帯びた。
 あ──と思ったときには、涙が出ていた。
 なぜだろう。自分で自分がよくわからない。
 いや、わかるような気もする。きっと、わたしはルカに強くあってほしいのだ。自信がないなどと、言ってほしくないのだ。
 なんて自分勝手な押しつけ。でも、しかたない。わたしにとって、ルカは悪魔なのだから。弱い悪魔なんて、存在する意味がない。弱いのは、わたしだけで十分だ。

       

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