Neetel Inside 文芸新都
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「なんで泣いてるの? いま、ひどいこと言われたのはあたしのほうなんだけど。あたしが泣くシーンだよね、これ。なにか間違ってない? ちょっと舞台監督さん呼んできてよ」
 こんなときでも、ルカには余裕がある。
 いっぽう、わたしは馬鹿そのものだ。意味もなく涙を流して、余裕のカケラもない。
「ごめん。勝手なこと言って一人で泣くなんて馬鹿みたいだね、わたし。……でも信じて。ルカのことが嫌いなわけじゃないの」
「えー。どうしようかな。けっこう傷ついたよ、あたし」
 よかった。この感じからして、ルカはあまり傷ついてはいないようだ。──ほんとうに? いや、きっと彼女は傷ついている。ただ、生まれもっての精神力と演技力で、うまく隠しているだけだ。
「ごめんなさい。……正直に言うとね、わたしはルカに」
 最後まで言うより先に、口をふさがれた。
 カフェオレの匂い。ぬるっとした感触。舌が入りこんでくる。抵抗できない。唾液の混じった甘い香りが、一瞬でわたしの脳を溶かした。
 わたしはまた泣きそうになる。ルカは、やっぱり強い。強くて、やさしい。けれど、やっぱり悪魔だ。こんなとき、いちばん効果的なことをしてくれるのだから。
 キスは十秒ぐらい続いた。そのあいだ、ルカの手がずっとわたしの頭を撫でていた。指先が耳たぶに触れたとたん、体が震える。胸が締めつけられて、濡れるような感触があった。
「……あたしはさ、絵は趣味だと思ってるんだ」
 唇が離れると、ルカはあごに垂れた唾液を親指でぬぐった。
「でも、亜矢子が言うならプロになってもいいよ。美大を受けるかどうかはわからないけど」
「ほんとう? ルカならプロになれるよ」
「ただし、条件がひとつ」
「条件?」
「亜矢子もプロになること。当然の条件だよね」
「わたしは……なれるかな」
「だいじょうぶ。プロになれるまで、あたしがコーチしてあげるから」
 わからない。どうして、彼女はここまでわたしにやさしくしてくれるのだろう。容姿も才能も劣っている、このわたしを。なにより、性格の悪いこのわたしを。
「なんで、そこまでしてくれるの? わたしなんかに」
「なんでって……。親友のためになにかしてあげることが、そんなに不思議?」
 そういうことを、当然のように言ってのける。わたしには、どうやったって真似できない。
 けれど、ルカが完璧であればあるほど、わたしの胸は痛みを増す。きっと、わたしのような汚れた人間にとって、彼女は高潔すぎるのだ。きらめく光に彩られた彼女は天使のようで、わたしは浄化の炎に焼かれた痛みを覚える。
「亜矢子はさ……まじめすぎるんだよ」
 ルカの手が伸びてきて、頬に触れた。
 ひんやり感じるのは、わたしの頬が熱を持っているせいだ。
「まじめ? わたしが?」
「そう。クソまじめ。何にでも理由をつけようとして、考えすぎ。もっとさあ……適当でいいんだよ。テキトーで」
 頬に触れていた指先が、耳をたどって首筋を撫でた。
 ぞわりとする感覚。産毛が逆立って、指先の動きが手に取るようにわかる。ゆっくりと、渦を描くような動き。触れるか触れないかぐらいの。くすぐったくて、妙にもどかしい。
「……あんなに緻密な絵を描くあなたが、そういうこと言うの?」
「それは趣味だもん。趣味は真剣にやらないと楽しくないでしょ? でも人生まで真剣にやってたら、苦しくてしょうがないよ。苦しむために生きてるわけじゃないんだから。もっと気楽に楽しめばいいんだよ、人生なんて」
 なにか高尚なことを言いながら、ルカの手はまったく別なことをしている。
 うなじから耳たぶの間を、ゆっくりじっくり、いったりきたり。ぞくぞくして、気持ちいい。
 ルカの指が動くごとに、わたしの感情はなだめられてゆく。かわりに、別の感情が湧きだしてくる。じわじわと、熱いお湯がたまるみたいに。血のような夕焼けの色が、わたしたちを狂わせようとしていた。
「……それは、たのしいの?」
「あたしは、たのしくないことはしない主義」
 赤い光に照らされて、ルカのブラウスが透けて見える。すっとした体のラインは、みとれるばかり。亜麻色の髪は鮮やかな緋色に染め変えられ、ほつれた髪が金色に輝いている。
 なんだか、ものすごく──
「きれい」
 わたしが思ったことを、ルカが口にした。
 思わず、聞き返してしまう。
「それ、わたしのこと?」
「ほかにだれがいるの?」
 ルカの手がゆっくり降りていき、襟の内側に入りこんで鎖骨をなぞった。そのまま更に降りていくと、人差し指がブラウスのボタンに引っかかる。
 なんでもないことみたいにボタンが外された。上から順に、ひとつ、ふたつ。
 ふたりだけの美術室は、あまりに静かで。わたしたちの息づかいはもちろん、ボタンの外れる音さえはっきり耳にとどくほど。もしかすると、わたしの鼓動さえルカに聞かれているのかもしれない。

       

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