じつに天地両界は我が一翼にも値せず。
我、神酒を飲めり。
──リグ・ヴェーダ
酒こそ人類最大の発明だ。
この秘薬にできることは、いくつもある。
たとえば、人を陽気にさせたり、饒舌にさせたり、涙を流させたり、頭を狂わせたり。
むかしインドで書かれた聖典によれば、酒にできないことは何もない。自由に空を飛んだり、世界を焼きつくしたり、他人と心をかよわせたり、なんでもできる。
いま私たちが酒で酔っぱらうことしかできないのは、私たちが完全ではないから。失敗作だからだ。
完全でない私は、今夜もバーを訪れる。
DUSKという看板の出ている店。二ヶ月ほど前から、私はここの常連だ。
店はせまくて、七つのストゥールだけが並んでいる。
たったの七人しか入れない。けれども、満席になっているのを見たことがない。
価格設定は普通だ。サービスにも特に問題はない。
客が入らない理由は、いくつか考えられる。たとえば、立地条件が悪いこと。たとえば、すぐ近くに競合店があること。たとえば、店主の愛想が悪いこと。
扉をくぐると、けだるげなバーテンダーがカウンターの向こうに立っている。
歳は私と同じぐらい。背は遙かに高くて、短い髪のせいもあり、暗い照明の中では男にも見える。──ただし、とびきり美男子の。
彼女の名はネーイ。
『否』を意味する言葉だ。
本名かどうかは知らない。きっと、偽名だろう。
私は、いつもどおり一番奥の席に陣取る。
彼女は──ネーイは、「いらっしゃいませ」としか言わない。
ほかには、なにも言わない。
カウンターの向こう側で、また来たのかと言いたげな顔をしている。
さめた顔つき。客商売をしているとは思えない。
私を客に迎えてこの態度というのは、理解不能を通りこして、もはや犯罪だ。
この、我が国屈指のダンサーであり歌手である私を。
「いつ来ても客いないわね、この店」
言いながら、変装用のサングラスと帽子をカウンターに置いた。
「よく言われます」
「道楽でやってるわけ?」
ネーイは、あいまいに首を振った。うなずいたのか否定したのか、わからない。
べつにどうでもいいことだから、訊きなおさなかった。
このバーテンとの会話には、こういうことが多い。
煙たがられているのだろうか。私が有名人だから。
「なにを作りますか?」
問われて、私はバックバーに目をやった。
端から端まで並んだ、かぞえきれないほどのボトル。いったい、この店には何百種類の酒がそろっているのだろう。その大半を、私は知らない。
それで、こういう具合にオーダーする。
「あれ。あの赤いやつ」
指差したのは、バックバーの一番たかいところに並んでいるボトル。
それがどういう酒なのか、どうでもいいことだった。
「こちらは保存が利かないのでボトル売りになりますが」
「かまわないわよ」
ネーイは無言で背を向け、二メートル以上あるバックバーの一番たかいところへ手をのばした。
その瞬間。彼女の体は一本の木みたいになる。
弓のように反った背中。
薄くなって上を向いた胸。
陶器のような白さを見せる喉元。
形良くとがった顎の影。
光を照り返す、深海のような瞳──。
長い腕の先、ピアニストのような指がボトルに触れる。
私はダンサーだが、彼女ほど見栄え良くボトルを取ることなどできないだろう。
おそらく、ほかのだれにもできまい。
それほど、ひとつの動きとして完成されている。
「こちらで、なにを作ります? それとも、ストレートで?」
「その酒を一番おいしく飲めるようにして」
「かしこまりました」
事務的にうなずいて、彼女は背の高いグラスを手に取った。シャンパンを飲むためのフルートグラスだ。
そこへ、赤い酒が注がれた。
シュワッと泡の立つ音。
「それ、もしかしてシャンパンだった?」
「はい」
「赤のシャンパンって、初めて見たわね」
「あまり作られていませんから」
そう言って、彼女はグラスをそのまま出してきた。
「ストレートで飲むのが一番ってこと?」
「はい。おそらく」
「でも、ここはカクテルを出す店でしょう? 酒をボトルから注いで何の手も加えず客に出すなんて、芸がないと思わない?」
「あなたのように芸を売っているわけではありませんので」
「……あ、そう」
思わず舌打ちしそうになった。
私も今まで世界中あちこちのバーをまわってきたが、これほど横柄な態度のバーテンは珍しい。しかも、女のくせに。
とりあえずシャンパンを一口。
まずかったら文句を言ってやろうと準備していたのだが、予想以上においしかったせいで何も言えなくなった。──いや、それにしてもこれは絶品すぎる。
「これ、一本いくら?」
返ってきた答えに、私は一瞬言葉を失った。高級レストランでパーティーが開けるほどの金額だったからだ。
「……ずいぶん、いい値段ね」
「良い酒は高いんです。まさか、払えないことはありませんよね?」
「あんたねえ。私を誰だと思ってるの?」
「失礼しました」
そう言いながら、ネーイは一ミリたりと頭を下げなかった。
表情には、まったく変化がない。氷のように凍てついている。
一度でいいから笑わせてやりたい。泣かせてやるのでもいい。真剣に、そう思う。