Neetel Inside 文芸新都
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 ふと名案を思いついて、たずねてみた。
「あなた、これ飲んだことある?」
「ありません。貧乏生活ですので」
 期待どおりの答え。
 私は見せびらかすようにシャンパンフルートを目の前に掲げ、こう言った。
「一杯おごってあげてもいいわよ?」
「それはうれしいですね」
 たいしてうれしくもなさそうな顔だった。
 まったく、おもしろくない。──否、クソおもしろくない。

「やっぱりやめた」
「え」
 その瞬間、ようやく彼女の表情が動いた。
 氷のように冷めきっていた顔に、なにやら落胆したような色が浮かんでいる。
「あなた、たいしてうれしそうじゃないんだもの。おごる気も失せるってもんでしょ」
「残念です。とてもうれしかったんですが」
「だったら、もっとうれしそうにしてみなさいよ」
「むずかしいご注文ですね」
「飲みたくないなら無理しなくていいけど」
 このバーテンが無類の酒好きであることは、とうに知っている。なにしろ、営業中にブランデーボトルを一本あけてしまうぐらいだ。

「では、賭けをしませんか?」
 唐突に、ネーイはそんなことを言いだした。
 世間話でさえ面倒くさがる彼女が賭けなど持ちかけてくるとは、どういう風の吹き回しだろう。よほどシャンパンが飲みたいのか。
「どういう賭け?」
「ここにカードがあります」
 そう言って、ネーイはカウンターの下から一組のトランプカードを取り出した。
「いまから、カードを一枚選んで伏せます。その色を当ててください」
「それはいいけど、なにを賭けるの?」
「あなたが勝てば、カクテルを一杯サービスします。こちらが勝ったら、そのシャンパンを一杯おごってください」
 せっかく面白いことを言いだしたと思ったのに、その内容では面白くもなんともなかった。

「セコい賭けねえ。そんなの、私が勝ったところでうれしくもないわよ。……どうせだったら、こうしない? 負けたほうは、勝った人の言うことをきくの」
 これこそ名案だった。
 もっとも、ネーイが了承するとは限らない。
「言うことをきく? どんなことでも、ですか?」
「ええ。そうよ。ただし一回だけ。相手が可能な範囲でね」
「こちらは構いませんが、あなたにとって危険なゲームなのでは?」
「なにが危険?」
「こちらが勝てば、財産の半分ほどを要求するかもしれませんよ?」
 ストレートな要求だった。
 それでも、勝てばこの女を自由にできる。
「半分でいいの? 欲がないわね」
「それだけあれば、一生酒を飲んで暮らせますから」
 いい答えだ。酒が好きという点で、私と彼女は共通している。

「賭けは成立よ。ゲームをはじめて」
 言いながら、私は三杯目のシャンパンをグラスに注いだ。
 普通こういうことはバーテンの仕事だが、こちらが言わないかぎり彼女は何もしない。
 その距離感が、私にとってはむしろ心地良い。
「シャンパンぐらいで酔っぱらう人ではないと思いますが、本当にいいんですね?」
「女に二言はないわよ。さあ、カードを選びなさい」
「どうなっても知りませんよ」
 ネーイは手の中でトランプカードを扇状に開き、カードの上端を指でなぞった。
 その動きが、マジシャンのように洗練されている。
 ただカードを広げているだけで絵になるのだから、癪にさわる。
 どうして、これほどの女がバーテンなどやっているのだろう。

「では、これで」
 一枚のカードが抜かれ、テーブルに伏せられた。
 これが赤か黒か、当てなければならない。
 しかし、私には確信があった。これはジョーカーだ。色を選ぶだけなら、あのようにカードを広げる必要などない。特定のカードをさがすために広げたのだ。そして、特定のカードとはジョーカー以外ありえない。自信満々に賭けを持ちかけてきた態度からしても、間違いないだろう。
「そのカードは赤でも黒でもない。ジョーカーよ」
「ハズレですが、一度だけなら言いなおしても構いませんよ?」
 ネーイは無表情だった。あせっている様子も、勝ち誇っている気配もない。
 無論、言いなおす理由など何もなかった。
「変えないわよ。表を見せなさい」

「あなたの舞台を何度か見たことがありますが……」
 意外なことを口にしながら、彼女はカードを開いた。
「舞台の上でも下でも自信に満ちているんですね」
 あらわれたのは、ハートのA。
 どうやら、私の財産は半分になってしまったようだ。べつに大した問題でもないが。
「私の負けみたいね。あなたこそ言いなおしてもいいわよ。財産の半分じゃなく、九割って。さすがに全財産は勘弁してほしいけど」
「本気ですか?」
「女に二言はないのよ」
 資産を失うことは、なにも問題ない。
 私の財産は、この体だ。ステージに立つかぎり、いくらでも稼げる。

「こう言うと驚くかもしれませんが」
 と前置きして、ネーイは続けた。
「昔から、あなたのファンなんですよ」
「……なんの冗談?」
「本気ですが」
「あなたの言動はファンの態度とは思えないんだけど」
「仕事とプライベートは区別する主義でして」
「仕事中に酒を飲むような人間が、よく言えるわね」
「飲酒は仕事の一部ですから」
 冗談を言っている風ではなかった。
 この冷淡な女が、私のファン? ちょっと笑えてくる。
 実際、声に出して笑ってしまった。まったく、なかなかのジョークだ。

       

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