Neetel Inside 文芸新都
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「……それで? あなたは私に何を要求するわけ? 全財産の半分?」
「それでも構わないんですが、あなたを困らせるのは本意ではありませんね」
「じゃあ何を要求するのよ」
「では、あなたの体を」
 突然のことに、私の体は熱くなった。
 それこそ、こっちが要求しようとしていたことだ。
「ああ、誤解しないでください。その……そういう趣味はありませんので」
「え?」
「この場で踊りを見せてください。そういう意味です」
「こんな狭いところで?」
「無理なようでしたら、全財産の九割でも結構ですが」
 さすがに、これで踊らないという選択はなかった。

「踊るのは構わないけど、音楽がほしいわね。それに、酒も足りない」
 私の言葉に、ネーイはカウンターの奥からギターを引っ張りだしてきた。
 ずいぶんと用意のいいことだ。
「弾けるの?」
「ええ。まあ」
 ネーイは右手でネックをおさえ、左手にピックをつまんだ。
 流れだしたのは、『霧のアンダルシア』
 驚くほど上手な演奏だった。
 あざやかな指の動きと艶のある音色は陶然としそうなほどで、私の目は釘付けになる。

 最後まで聴きたかったのだが、ネーイは十秒ほどで手を止めてしまった。
「なに? 最後まで弾きなさいよ」
「そのまえに、酒が足りなかったのでは?」
「……そうだったわね」
 いつのまにか、ボトルはほとんど空いていた。
 ふだんより早いペースで飲んだせいか、すこし頭がボンヤリする。
 だが無論、これぐらいでは酔えない。

「マティーニを作って。いつもどおりに」
「かしこまりました」
 ネーイはバックバーに手を伸ばし、ジンとベルモットをカウンターに置いた。
 タンカレーとチンザノ。
 初めてこの店を訪れたとき、そう作るように言った。その一度だけで、彼女は私のオーダーを覚えてしまった。

 ミキシンググラスに氷が何個か落とされて、その上にジンとベルモットが順に注がれる。
 細長いスプーンが差し込まれ、なめらかに回転した。
 まったく音が立たない。ヘタなバーテンにやらせると、ガシャガシャやかましくて見てられないものなのだが。
 引き上げたスプーンから落ちる水滴をクロスでぬぐい、それを指の間に挟んだままネーイはロックグラスを手元に寄せた。カクテルグラスは使わない。飲みにくいだけだ。
 ミキシンググラスから、透き通った液体が移される。トロッとしているのは、よく冷えている証拠だ。
 最後にオレンジビターズを一滴。
 オリーブは入らない。
 それで完成。

「どうぞ」
 出されたグラスを、私は一息で飲み干した。
 ネーイが、すこしばかり表情を変えた。驚いたのかもしれない。
「おかわり」
 グラスを突き返して、私は次のオーダーを告げた。
 なにも言わず、ネーイは同じ作業を繰りかえして二杯目のマティーニを作った。
 私は、それも数秒でカラにしてしまう。
「ずいぶん無茶な飲みかたをしますね」
「いいのよ。酔っぱらいたいんだから」
「酔わないと踊れませんか?」
「そういうわけじゃないけど。もう一杯作って」
「……かしこまりました」

 三杯目のマティーニが出てくるのを待っているあいだに、すこし酔いがまわってきた。
 あざやかに動くネーイの手や、胸のふくらみを盗み見ながら、私はふと考えた。
 さっきの賭けで私が勝っていたら、と。
 言えただろうか。
 あなたの体がほしいと。
 酒の力を借りれば、あるいは──。
 酒は万能の秘薬だ。できることは、いくつもある。
 たとえば、人を陽気にさせたり、饒舌にさせたり、涙を流させたり、頭を狂わせたり。
 しかし、この想いを伝えることは決してできない。
 なぜなら、私たちは失敗作だから。

       

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