Neetel Inside 文芸新都
表紙

百合小説短編集
夕暮れ/美術室/高校生

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 ここ。美術室の窓は西側に面している。
 だから、放課後。夕暮れどきには窓の外が赤くなる。まるで、世界のすべてが焼け落ちるみたいに。
 その退廃的な美しさをキャンバスに写し取ろうとして、わたしは何度も挫折した。一年生のときも。二年生のときも。つい三日前にも。
 いまではわかっている。絵は写真ではない。見たものをそのまま描くことには意味がない。それはカメラの仕事だ。
 でも、わかっている。これが言いわけに過ぎないことを。
 だって、できてしまう人がいるのだから。あらゆるものを、見たとおりに、キャンバスの上に、そのまま移し替えてしまう人が──。
 あふれるような、赤い光の中。ルカはキャンバスに鼻をくっつけそうにしながら絵を描いている。針みたいに細い筆をつかって。時計職人みたいな精密さで。
 完成間近の絵は、この距離からだと写真にしか見えない。もっと近付いても同じだろう。
 わたしには真似できない技術。
 細い筆先が動くたび、わたしの胸は痛くなる。その筆運びに、天才と凡人の違いを思い知らされて、死にたくなる。彼女の刻む一筆一筆が、わたしを絶望に追いやる。なぜ──。なぜ、同じ年齢で、これほど違うのだろう。
「……どうしたの?」
 わたしの視線に気付いたのか、ルカはくるりと振り返った。
 赤い陽光を背景に立つ彼女の姿こそ、なによりもわたしを悩ませる。
 百六十八センチの長身。すらりとした、日本刀みたいな痩身。亜麻色の髪は背中まであって、赤い光の中でエナメルみたいに輝いている。ドイツ人とのクオーターなので、顔の作りは深い。つんと尖った鼻。形のいい眉。野生の猫みたいな瞳。そして、聴き心地の良い中高音の声。
 どれもこれも、わたしにはないものだ。
 きっと、神様は間違えたのだろう。なにかを間違えて、十人分ぐらいの才能や美貌を彼女に与えてしまったのだ。
 もっとも、美貌については遺伝という説もある。ルカの母親は有名な女優だ。おまけに、父親も俳優。生まれからして、なにもかもわたしたちとは違うのだ。
 ただ、いまの彼女にはひとつだけ問題がある。
 その問題をどう指摘しようかと考えて、結局ストレートな方法を選んだわたしは彼女の鼻を指差した。
 ルカは、きょとんとした顔になる。
「え? なに?」
「絵の具ついてる」
「うそ。やだ」
 ルカは、手の甲で鼻をこすった。猫が顔を洗うみたいなしぐさはかわいいけれど、残念。よけいに汚れただけだった。
「どう? 落ちた?」
「ぜんぜん」
「ああ、もう。またやっちゃった」
 わたしの知るかぎり、これで三回目だった。絵を描いててキャンバスに鼻をくっつける人など、ほかに見たことがない。
「とってあげようか?」
「うん。おねがい」
 ルカはわたしの前まで歩いてきて、無防備に顔をつきだした。
 目を閉じている。子供みたいに安心しきった顔。
 わたしはポーチからコットンを取り出し、ラベンダーオイルを含ませてルカの鼻をそっと撫でた。
 そのついでに、キスもしておいた。かるく、唇が触れる程度の。
「ちゃんと落ちた?」
 キスのことには一言も触れず、ルカは鼻をこすっている。
「だいじょうぶ。落ちたよ」
 わたしはコットンを丸めて、三メートルほど先のゴミ箱に放り投げた。
 ルカが拍手する。
「ナイスシュー。さすが、元バスケ部員」
「バスケなんか、やったことないけど」
「そうだった? きっと向いてるよ、バスケ」
 ルカは、ときおり突拍子もないことを言いだす。中学生の時から六年間いっしょにいるのに、いまでも彼女の行動は読めない。おたがいさまかもしれないけれど。
「わたしがバスケ部に移ったら、つぶれちゃうでしょ。美術部」
 この部には、わたしたちを含めて五人しか所属していない。部として存続できる最低限の人数だ。さらにいえば他の三人は人数あわせの幽霊部員。部としての機能は失われている。
「美術部なんて、もうつぶれてるようなもんでしょ。亜矢子がバスケ部に入るなら、あたしも入るし」
「で? コートのすみっこで絵を描くの?」
「ううん。コートの真ん中で描くんだ。試合中にね。……あ、想像してみたら映画みたいじゃない? これはアートだよ、アート」
 やっぱり、なにを言いだすかわからない。
「馬鹿なこと言ってないで、作業にもどったら?」
「うーん。今日はもういいかな。目が疲れちゃった」
「キャンバスに近寄りすぎなんだよ。視力落ちるから気をつけたほうがいいよ」
「そしたら、あたしもついに眼鏡っ娘デビューだね。萌える?」
 また、顔をつきだしてくる。眼鏡があろうとなかろうと、ルカがかわいいことに変わりはない。萌えるとか何とかは、よくわからないけれど。
「眼鏡か……。ちょっと見てみたいかも」
「じゃあ今度買いに行こう。レンズの入ってないやつ。かわいいの選んでよ」
「わたしが選ぶの? まあいいけど」
「きまり。今度の土曜日ね」
 ルカは手帳を出して、予定を書き込んでしまった。わたしのスケジュールはいつでもあいていると思われているようだ。実際そのとおりなので文句はないけれど。
「それで? 亜矢子はなにを描いてたのかな?」
 おどけるように言いながら、ルカはわたしの机を覗きこんできた。
 クロッキー帳に描かれているのは、人魚のデッサン。石膏像を模写したものだ。
「ふーん。いい感じに描けてるね」
「そう?」
「うん。石膏の質感が出てるよ、ちゃんと」
 それぐらいはできてないと困る。でもそれ以上なにも講評しないのは、ほかに評価できる点がなかったということだ。
 あらためて、デッサンを見なおしてみる。
 いい感じに描けているのは事実かもしれない。でも、それだけだ。つまらない絵だと自分でも思う。「凡庸」の一言で切り捨てられる絵。
 切実に思う。才能がほしい。
 もしも。魂と引き替えに画才を与えると悪魔がもちかけてきたなら、わたしはよろこんで応じるだろう。その準備はいつでもできている。けれど、現実は映画や漫画のようにはいかない。悪魔も天使も存在しない。
 ただ、ときどき思う。ルカこそが悪魔なのではないかと。
 彼女とは、もう長いつきあいだ。
 中学一年のとき、ルカは北海道から転校してきた。そのころのわたしは、クラスにだいたい一人はいる「絵のうまいやつ」という立場で、クラスメイトの似顔絵やアニメのキャラクターなんかを描いては上手い上手いと持ち上げられていた。馬鹿なわたしは調子に乗り、県の絵画コンクールに作品を出して銀賞をとった。そのとき金賞をとったのがルカだ。
 以来、わたしは「クラスで二番目に絵のうまいやつ」という立場に落ちた。おまけにルカは勉強もスポーツも万能だったので、わたしには何一つとして彼女に勝てるものがなかった。
 もしルカが性格の悪い人間だったら、憎むことでわたしの気は晴れた。ところが彼女は自分の才能や美貌をまったく鼻にかけない性格だったので、わたしの嫉妬心は行き場を失って制御不能に陥った。
 自分自身、いまでもよくわからない。なぜ、わたしとルカは友人なのだろう。それどころか、同性なのにキスしたりするのだろう。不思議でならない。
 ときどき考える。すべてのできごとがルカにコントロールされているのではないかと。彼女こそ悪魔なのではないかと──。

     

「いま、なに考えてた?」
 突然、ルカが顔を寄せてきた。息がかかるくらいの距離。コーヒーの匂いがする。それも、甘ったるいカフェラテの匂い。
「進路について考えてた」
 さらっと言える。わたしは嘘をつくのが得意だ。
「進路? それさあ、まえにも言ったけど、あたしと同じ大学行こうよ」
 かんたんに言うが、筑波大だ。彼女は楽勝だろうけれど、わたしには難しい。不可能ではないにしても。すくなくとも、絵を描いている時間はないだろう。
 でも、そんなことより。問題は他にある。
「わたしも前に言ったけれど、美大行きなよ。もったいない」
「もったいないって言われても、あたしそんなに絵の才能ないからさあ」
「それはないでしょ。わたしの知ってる中では一番うまいよ」
 ほめてあげると、ルカは微笑んだ。ほんの数秒。
 でも、その笑顔はすぐ真顔にもどってしまう。
「うん。まあ、シロートの中ではうまいほうかもね。でも、美大に行ったらあたしぐらいのレベルの人はゴロゴロいるわけ。プロで通用するレベルじゃないよ」
「そう? プロのイラストレーターでもルカよりヘタな人なんて、いくらでもいるけど」
「ヘタなのと比較したって意味ないじゃん。だいいち、プロの仕事は技術だけで決まるものでもないでしょ。ヘタなイラストレーターだって、性格がいいとか締め切りをちゃんと守るとか、いいところがあるから使ってもらえるんだよ」
「そんなこと言ったら、ルカには欠点なんかないでしょ」
「欠点なんか、ボロボロあるよ。……なに? そんなにあたしを絵描きにしたいの? 本気で言ってるの?」
 どういうわけか、ルカは語気を荒げた。わたしはなにかおかしいことを言っただろうか。せっかく絵が上手いのだからそれを生かしたほうがいいと、あたりまえのことを言っただけのはずだ。
 むかしから、ルカはよくわからないことで機嫌をそこねる。たいてい、五分もすればケロッとしてしまうのだけれど。今回は五分で済まない見込みが高かった。
「逆に訊くけど、ルカは絵の方面に進みたくないの?」
「べつに……。だいたい、絵なんてさ、ヒマつぶしにやるものだよ。仕事になんかするもんじゃない。ただのお遊びだよ、こんなの」
 これには、すこし怒りをおぼえた。絵のほかに取り柄がないわたしにとって、絵で生活できるかどうかは死活問題だ。ルカのように家が裕福ならともかく。ルカのように多才ならともかく。ルカのように美しいならともかく。──そう思った瞬間、感情にまかせて口走ってしまった。
「絵でやっていける自信がないから、そんな言いわけするんでしょ?」
 たちまちルカの表情が変わり、わたしたちのあいだの空気も一変した。まるで凍りついたように。窓からさしこむ赤い陽光さえ、ルビーの色から血の色に変わって見えた。
 ルカは、すぐには言いかえしてこなかった。こわいほど真剣な顔つきで、わたしを見つめている。きっと、彼女は怒っている。でも、怒っているのはおたがいさまだ。
「亜矢子ってさあ……」
 ふだんよりずっと低いトーンで、彼女は言った。
 わたしは息をつめて、次の言葉を待ちかまえる。
「すごく残酷だよね」
 思いもかけない言葉に触れて、わたしはうろたえた。──残酷? わたしが?
 けれど、すぐに理解できた。そんな言葉が出てくるということは、わたしの指摘が図星だったということだ。もしかすると、さっきの一言は刃物のようにルカを切りつけたのかもしれない。
 心臓が早くなった。
 わたしは、なにを言えばいいだろう。なにをどう言えば、いまの一言がなかったことになるだろう。──いや、駄目だ。なにをどうやったところで、いまの失敗は取り消せない。なかったことにできない。わたしはルカを傷つけた。それは確かだ。でも、ルカだってわたしの心をえぐった。だから、わたしだけが罪の意識にとらわれる必要はなくて──それなら、もう踏み込むだけだ。
 言いたいことを言う。でも、こんなことを口にしたら、終わってしまうかもしれない。わたしとルカをつないでいた友情らしきものは一瞬で崩れ去り、二度と口をきけないかもしれない。それでも、言わずにいられなかった。
「そうだね。わたしは残酷だよ。だから言わせて。絵に自信がないなら、あんなの描いてても時間の無駄じゃない? もうやめたら? 自信ないんでしょう?」
 言いながら、わたしはルカのキャンバスを指差した。
 鼻に絵の具がついても気付かないほど真剣に描いていた、夕焼けの風景画。写真と見間違えるほどの油彩画。わたしには決して描けない。それほどの絵を描ける人間が、どうして自信を持てないのか。ルカほどの天才が自信を持てないのなら、わたしみたいな凡人はどうすればいいのだろう。
 やりきれない思いに胸が苦しくなり、目尻が熱を帯びた。
 あ──と思ったときには、涙が出ていた。
 なぜだろう。自分で自分がよくわからない。
 いや、わかるような気もする。きっと、わたしはルカに強くあってほしいのだ。自信がないなどと、言ってほしくないのだ。
 なんて自分勝手な押しつけ。でも、しかたない。わたしにとって、ルカは悪魔なのだから。弱い悪魔なんて、存在する意味がない。弱いのは、わたしだけで十分だ。

     

「なんで泣いてるの? いま、ひどいこと言われたのはあたしのほうなんだけど。あたしが泣くシーンだよね、これ。なにか間違ってない? ちょっと舞台監督さん呼んできてよ」
 こんなときでも、ルカには余裕がある。
 いっぽう、わたしは馬鹿そのものだ。意味もなく涙を流して、余裕のカケラもない。
「ごめん。勝手なこと言って一人で泣くなんて馬鹿みたいだね、わたし。……でも信じて。ルカのことが嫌いなわけじゃないの」
「えー。どうしようかな。けっこう傷ついたよ、あたし」
 よかった。この感じからして、ルカはあまり傷ついてはいないようだ。──ほんとうに? いや、きっと彼女は傷ついている。ただ、生まれもっての精神力と演技力で、うまく隠しているだけだ。
「ごめんなさい。……正直に言うとね、わたしはルカに」
 最後まで言うより先に、口をふさがれた。
 カフェオレの匂い。ぬるっとした感触。舌が入りこんでくる。抵抗できない。唾液の混じった甘い香りが、一瞬でわたしの脳を溶かした。
 わたしはまた泣きそうになる。ルカは、やっぱり強い。強くて、やさしい。けれど、やっぱり悪魔だ。こんなとき、いちばん効果的なことをしてくれるのだから。
 キスは十秒ぐらい続いた。そのあいだ、ルカの手がずっとわたしの頭を撫でていた。指先が耳たぶに触れたとたん、体が震える。胸が締めつけられて、濡れるような感触があった。
「……あたしはさ、絵は趣味だと思ってるんだ」
 唇が離れると、ルカはあごに垂れた唾液を親指でぬぐった。
「でも、亜矢子が言うならプロになってもいいよ。美大を受けるかどうかはわからないけど」
「ほんとう? ルカならプロになれるよ」
「ただし、条件がひとつ」
「条件?」
「亜矢子もプロになること。当然の条件だよね」
「わたしは……なれるかな」
「だいじょうぶ。プロになれるまで、あたしがコーチしてあげるから」
 わからない。どうして、彼女はここまでわたしにやさしくしてくれるのだろう。容姿も才能も劣っている、このわたしを。なにより、性格の悪いこのわたしを。
「なんで、そこまでしてくれるの? わたしなんかに」
「なんでって……。親友のためになにかしてあげることが、そんなに不思議?」
 そういうことを、当然のように言ってのける。わたしには、どうやったって真似できない。
 けれど、ルカが完璧であればあるほど、わたしの胸は痛みを増す。きっと、わたしのような汚れた人間にとって、彼女は高潔すぎるのだ。きらめく光に彩られた彼女は天使のようで、わたしは浄化の炎に焼かれた痛みを覚える。
「亜矢子はさ……まじめすぎるんだよ」
 ルカの手が伸びてきて、頬に触れた。
 ひんやり感じるのは、わたしの頬が熱を持っているせいだ。
「まじめ? わたしが?」
「そう。クソまじめ。何にでも理由をつけようとして、考えすぎ。もっとさあ……適当でいいんだよ。テキトーで」
 頬に触れていた指先が、耳をたどって首筋を撫でた。
 ぞわりとする感覚。産毛が逆立って、指先の動きが手に取るようにわかる。ゆっくりと、渦を描くような動き。触れるか触れないかぐらいの。くすぐったくて、妙にもどかしい。
「……あんなに緻密な絵を描くあなたが、そういうこと言うの?」
「それは趣味だもん。趣味は真剣にやらないと楽しくないでしょ? でも人生まで真剣にやってたら、苦しくてしょうがないよ。苦しむために生きてるわけじゃないんだから。もっと気楽に楽しめばいいんだよ、人生なんて」
 なにか高尚なことを言いながら、ルカの手はまったく別なことをしている。
 うなじから耳たぶの間を、ゆっくりじっくり、いったりきたり。ぞくぞくして、気持ちいい。
 ルカの指が動くごとに、わたしの感情はなだめられてゆく。かわりに、別の感情が湧きだしてくる。じわじわと、熱いお湯がたまるみたいに。血のような夕焼けの色が、わたしたちを狂わせようとしていた。
「……それは、たのしいの?」
「あたしは、たのしくないことはしない主義」
 赤い光に照らされて、ルカのブラウスが透けて見える。すっとした体のラインは、みとれるばかり。亜麻色の髪は鮮やかな緋色に染め変えられ、ほつれた髪が金色に輝いている。
 なんだか、ものすごく──
「きれい」
 わたしが思ったことを、ルカが口にした。
 思わず、聞き返してしまう。
「それ、わたしのこと?」
「ほかにだれがいるの?」
 ルカの手がゆっくり降りていき、襟の内側に入りこんで鎖骨をなぞった。そのまま更に降りていくと、人差し指がブラウスのボタンに引っかかる。
 なんでもないことみたいにボタンが外された。上から順に、ひとつ、ふたつ。
 ふたりだけの美術室は、あまりに静かで。わたしたちの息づかいはもちろん、ボタンの外れる音さえはっきり耳にとどくほど。もしかすると、わたしの鼓動さえルカに聞かれているのかもしれない。

     

「ねえ。亜矢子はさ、どうして絵を描くの?」
 どうしてだろう。あまり考えたことがなかった。
 趣味だから? たのしいから?
 最初はそうだった。たしか、子供のころは。いまは違う。
「上手になるため、かな……」
「ふうん。……でも、それってキリがなくない? 絵はテストじゃないからさ。どんなに上手くなったって百点をとれることはないわけで。それに、いくら上達したところで上には上がいるでしょ」
「わかってるよ。でも、いまのわたしは下手すぎるの」
「ううん。十分上手いよ。あたしは好きだもん。亜矢子の絵」
 そんな言葉と同時に、ルカの手が胸元に入りこんできた。
 顔が熱くなる。ほめられたせいなのか、それともほかのせいなのか、区別がつかない。きっと、両方だろう。
「亜矢子の心臓、すごく早くなってる」
 心地良く響く、アルトの声。耳に触れるだけで濡れてくるような声。つめたかった手は、もうわたしの体温と変わらない。いつも見とれている、時計職人みたいに細密な動きをする手──。
 その器用な指先が、するりと弱点をさぐりあててくる。
 ピリッと、胸の一点から電流みたいなものが走った。
「あ……」
 思わず声が漏れて、わたしは自分の胸に目をやった。
 ルカの手が、ななめに入りこんでいる。はだけたブラウスの下。ブラジャーの中にまで。なんだか、すごくいやらしい光景。
「大きくていいなあ」
 ルカの手が、ゆっくり動きだした。お餅でもこねるような動き。なにやら、すごく手慣れている。
「Eぐらいあったっけ」
「……だいたい、それぐらい」
 だいたいもなにも、正解そのものだった。
 ルカはBかCぐらい。
 そういえば、これが唯一わたしの勝てるものだ。そんなものに勝ち負けがあればの話だけれど。
 ルカはもういちど「いいなあ」と繰りかえした。
「こんなの、重いだけだよ」
「いちどでいいから言ってみたいよ、そんなセリフ」
 ルカの手が深く入ってきて、ブラジャーを押し下げた。中身がこぼれだして、私の目に映る光景はますますいやらしいものになる。沈みかけた太陽の作りだす深い陰影が、ひときわ扇情的だった。
「……だいじょうぶかな」
「なにが?」
「だれか来たりしない?」
「こんなところ、だれも来ないよ。……わかってるくせに」
 こぼれだした胸の先端を、ルカの指が撫でた。指の腹側でなく、爪のほうで。
 背中に鳥肌が立ち、全身がヒクッと震えた。
 見ると、撫でられたところは一瞬で固くなっている。──いや、最初からそうなっていたかもしれない。首を撫でられたときぐらいから。
「ねえ、亜矢子。知ってる?」
 固くなった先端の輪郭を指先でなぞりながら、ルカは言った。
 さざなみのようにやってくる快感に耐えながら、わたしは問い返す。
「知ってるって、なにを……?」
「あたし、あなたのことが好きなの」
 こういうときにそういう言葉が言える心理とは、どういうものだろう。いつだって、ルカはわたしの予想しない言葉を投げかけてくる。
「好きだから、こういうことするの?」
「自然でしょ?」
「そう、かな……」
 あまり自然ではないように思えた。だって、わたしたちは同性なのだし。そもそも、あたりまえのようにキスする関係からして普通ではなかったわけで──。
「こういうのはイヤ?」
「ううん」
 イヤなはずはなかった。わたしだってルカのことは好きなのだから。
「ならよかった」
 ルカは手を止めて、正面から体をあずけてきた。
 すごく温かい。長い髪が顔にかかって、くすぐったかった。
「この香水、なに?」
 耳元でささやかれるルカの声は、いつもより大人びて聞こえた。わたしの声もまた、自分のものではないみたいだ。
「……キャロンの新しいやつ」
「レモンティーみたい」
「好きじゃない?」
「ううん。いい匂い」
 ルカの手が背中にまわってきた。絵を描くときと同じ、まったく迷いのない手つき。かんたんにホックが外されてしまう。
 締めつけられていた胸が解放されて、わたしは吐息をついた。
 解放されたのは、わたしの心かもしれない。もしかすると。

     

「このレモンティーみたいな香水、気に入っちゃった。あたし」
 体をくっつけたまま、ルカはブラウスのボタンをまたひとつ外した。もう、かかっているボタンはふたつしかない。
「だったら、また買おうかな……」
「うん。そうしなよ」
 香水だとかなんだとか、ふだんどおりの会話をしながら、わたしたちはふだんとまったく違うことをしている。
 いったい、どこからどうしてこうなったのだろう。
 わたしが泣いたから? ルカの絵が写真みたいに上手いから? 夕焼けの赤が綺麗だから? どれもが正解のようで、どれもが間違っている気がした。きっと、すべての要因が──
「い……っ!」
 ぬめっとした感触が耳の中に入りこんできたおかげで、つまらない思考はたちまち吹っ飛んだ。なにをされたのかわからなくて、一瞬うろたえてしまう。
 熱い吐息が浴びせられたところで、ようやく理解した。耳を舐められたのだ。
「また、どうでもいいことをマジメに考えてたでしょ」
「……ごめん」
「そんなところで謝るから、クソマジメって言われちゃうんだよ」
「言ったのはルカでしょ」
「そうだっけ。まぁ、そういうところが好きなんだけどね」
 今度は、うなじを舐められた。次は耳の裏側。そこから首筋へ。さらに鎖骨をたどって胸元に降りていく。
 見れば、ルカの舌が通ったあとにはカタツムリの這ったような跡。
 その舌先が胸の先端に触れる寸前。彼女と目があった。猫を思わせる瞳は、お酒でも飲んだみたいに焦点がずれていて──。彼女は自分の唇を舐めると、小豆みたいに固くなった部分をそっと口の中に入れた。
 心の準備はできていたはずなのに、それでもわたしの体はビクンと跳ねた。
 たまらず、ルカの頭を抱き寄せてしまう。
 つぶれた乳房に、ルカの顔が埋まった。
「ぐっ」という声。
 苦しかったのかもしれない。力をゆるめると、ルカは大袈裟に息をついた。
「窒息するかと思った」
「ごめん」
「ほら。また謝ってる。……だいたい、謝る必要なんかないんだよ。亜矢子は」
 なにか意味深なことを言って、ルカはもういちどわたしの胸に口づけた。
 口の中で彼女の舌がどういう具合に動いているのか、わからない。ただ、次から次へと注ぎ込まれてくる快楽に、頭がおかしくなりそうだった。
「ねえ、ルカ……。こっちも舐めて」
 わたしはなにを言ってるんだろう。自分の言ったこととは思えない。
 でも、そう言いたくもなる。ルカときたら、左のほうばかりいじってくるのだから。
「亜矢子は、こういうの好きだった?」
「……うん」
「お絵描きと、どっちが好き?」
「そんな質問ないよ……」
 答えられなかった。きっと、どちらを選んでも嘘をついた気分になるだろう。
 答えがほしかったわけではないらしく、ルカは追及してこなかった。そのかわり、右の乳首をかるく噛まれた。
「あたしは、こっちのほうが好き」
 その言葉に対してなにか言いたかったけれど、適切な言葉が見つからなかった。
 わたしの頭は、もうだいぶおかしくなってきている。──それとも、とっくにおかしくなっていたのかもしれない。中学生のとき、はじめてルカを見た瞬間から。
「ねえ、一目惚れだったって言ったら信じる?」
「なに言ってるの……?」
 心を読み取られたのかと錯覚しそうなタイミングだった。
 一目惚れ? それはわたしのほうだ。
 ルカは舐めるのをやめて、指でつまんできた。濡れているせいで、よくすべる。指よりも舌のほうが気持ちよかったけれど、さすがにもういちど「舐めて」なんてことを口にするのは勇気が必要だった。
 そんな逡巡を知ってか知らずか、ルカはマイペースに話をつづける。
「初めて会ったときのこと、おぼえてる?」
「おぼえてるよ。中一のとき、あなたが転校してきて。朝のHRで……」
「ところが違うんだな。そのまえに会ってるの」
「え……?」
 初耳だった。それとも、作り話? いや、そんなことをする理由がない。
「転校初日の朝にさ、電車の中で見かけたんだよ、亜矢子のこと」
「そうなの……?」
「小説読んで泣いてたでしょ。すごく綺麗だった」
「うそ……。全然おぼえてない」
「かもね。小説とか映画とかで、しょっちゅう泣いてるからなあ、亜矢子は。でもとにかく、あの瞬間あたしは恋に落ちたのでした」
 意外すぎて、返す言葉が見つからなかった。
 ルカは、言いたいことを言ったぞとばかりに満足げな顔だ。
 けれど、そんな話をしている間もルカの指は片時たりと止まらない。
「あのとき読んでた本、なんていうの?」
「おぼえてるわけないよ、そんなの」
「ざんねん。もういちど読ませて泣かせたかったのに」
 とっくに察していたけれど、この人はサディストだ。だいたい、泣いている姿を見て一目惚れなんて──ふつうとは思えない。そもそも、女の子が女の子に惚れるということ自体が──。でも、それを言うならわたしも同類だった。

     

「あ。いいこと思いついちゃった。あたし、小説家になろうかな」
 なにを言いだすんだろう、この人は。ほんとうに予想がつかない。
「小説家って……。プロの絵描きになる約束したよね?」
「絵描きが小説を書いちゃいけないって決まりはないよ」
 ルカが顔を寄せてきて、わたしの肩を舐めた。
 いつのまにか、ブラウスはほとんど脱げそうになっている。なんだか、ぜんぶ脱ぐよりずっと恥ずかしい。
「決まりはないけど、どうして小説なんか……」
「だって、絵だと亜矢子がライバルになっちゃうからさ。その点、小説なら一方的に亜矢子をたのしませてあげられるでしょ? 泣ける小説たくさん書いてあげるよ」
 サディストなのかどうなのか、よくわからなくなってきた。わたしを泣かせるために作家になろうだなんて──。もしかすると、わたしは愛されているのかもしれない。すごく。
「いいよ。書いてみなよ、小説。読んであげる」
「じゃあ、記念すべき処女作は、プロの絵描きをめざす女子高生ふたりの話だね」
 ルカはわたしの手を取って、口元に持っていった。そうして、見せつけるように人差し指を口の中に入れる。その動作は、ひどくエロティックで──まるで映画のワンシーンを見ているよう。
「その小説って、わたしたちのこと?」
「ん」
 わたしの指をくわえたまま、ルカはこっくりうなずいた。
「ハッピーエンドにしてね」
「もちろん。すごいハッピーエンドになるよ、きっと」
 解放されたわたしの指は、唾液に濡れて光っている。
 なにも考えず、そうするのが自然なように思えて、わたしはその指を舐めた。すこし甘いような、すっぱいような──。ルカとキスしたときの味だ。
「ねえ、亜矢子。いま、しあわせ?」
 唐突な質問。迷う余地もなく、わたしはうなずいた。
「あたしも」
 するっと、太腿の間にルカの手が滑り込んできた。
 反射的に、体が固くなる。
 正直に言えば、やっといじってもらえるという気分だった。溜まりに溜まった欲求は、はちきれそうなほどになっている。
 けれど、ルカの手は膝から太腿の間を往復するばかりで、なかなか奥のほうへ来てくれなかった。ひとつ撫でられるごとに、わたしの頭はますます狂ってゆく。ひとつさわられるごとに、熱い水滴が落とされる気分。それを受ける器は、もうとっくにあふれている。
「あ、小説家じゃなく映画監督でもいいかも」
 またしても、ルカはそんなことを言いはじめた。
「映画監督……?」
「だって、映画も好きでしょ? 亜矢子は」
「女性の監督って、すくないんじゃない?」
「だから、話題性があるんだよ」
「ルカだったら、画家でも作家でも話題性あるでしょ」
 当然だ。彼女は高名な女優の娘なのだから。なにをやったってニュースになる。
 ところが、ルカはこんなことを言いだした。
「本当はさぁ。あたし、話題になんかなりたくないんだ」
「自分で言ったくせに。話題性だとかなんだとか」
「冗談だよ、そんなの。……ぜんぶ、冗談」
 そう言って、ルカはいきなり指を入れてきた。
 太腿に垂れるぐらい濡れていたので、痛みはまったくなかった。ただ、あまりに突然だったので、わたしはのけぞりそうになった。熱い液体のあふれていた器を、力まかせにひっくりかえされた気分。
「なんで。そんな。冗談とか。意味、わからないよ」
 ルカの指が出たり入ったりするせいで、わたしの声はそのたびに途切れた。
 ぐちゅぐちゅと、ひどい音がする。自分の体が発しているとは思えない音。
「あたし、嘘つきなんだ」
 指を動かしながら、ルカは絞り出すような声で言った。
 嘘つき? なにが? 言いたいことがわからない。
 ふと顔を見ると、信じがたいことにルカは泣いていた。
 なぜ? どうして? ルカの泣き顔なんて、初めてだ。心の弱いわたしと違って、彼女は決して泣かない。どんなに泣ける映画や小説を見たって、ぜったい涙をこぼさない。そういう人だ。なのに、どうして泣いているのか──。理由がわからない。
 けれど、考えようにも無理だった。わたしの中に入りこんだルカの指が、おおきな芋虫みたいに動いて──次の瞬間、乳首を噛まれた。心地良い痛みが跳ねて、背中のほうへ突き刺さる。
 もう、どうすればいいのかわからなかった。このままでいいのだろうか。泣いているルカを無視して? このまま──?
「ねえ。中学生のときのこと、おぼえてる?」
 問いかけてくるルカの声は、ひどく震えていた。
 おぼえてない。こんなときにそんなことを言われても。なにも思い出せない。いまにも溺れそうだった。突き上げてくる愉楽に。
「絵画コンクールでさ。あたしが金賞、亜矢子が銀賞だったでしょ」
「……あったね」
 そんなことか、と思った。たしかにそれはトゲのように刺さっていたけれど、もうどうでもいいことだ。だって、わたしはルカに愛されているのだから。ルカに、こんなことをされているのだから。
「ごめんね。あれ、親のコネで入賞したんだ、あたし」
「いいよ、そんなこと。どうでも」
 ほんとうに、どうでもいいことだった。
 でも、ルカは泣いている。
「ゆるしてくれる?」
「うん」
 ルカが泣いているせいで、わたしもまた泣いてしまった。
 よくわからない。金とか銀とか、心底どうでもいいことだ。むしろ、あのときの経緯があったから、わたしとルカはこういう関係になれた。そう思えば、なにもかもが些細なことに過ぎなかった。
「よかった。ずっと気になってたんだ」
 言いながらも、ルカの指は止まらなかった。
 内側から、ぐちゃぐちゃに引っかきまわされる感触。もう、すぐにでも逝きそうだった。
「亜矢子は気になってなかった? だって、あのコンクールの絵、どう見ても亜矢子のほうが上だった」
「そう、かな……」
「そうだよ」
 言葉は静かだったけれど、スカートの中に入りこんだ手は彼女の葛藤をぶつけてくるように激しかった。きっと、傷ついていたのだ。ルカも、わたしも。だから、こうして──。
 考えがまとまらない。
「いいよ、そんなこと。どうでも」
 わたしはもういちど言った。それ以外、なにも言うことがなかった。なにを言ったとしても、意味があるように思えなくて。いまのわたしにできるのは、手で口をふさぎ、体をよじらせることだけだった。
「やさしいね、亜矢子は。……残酷なのは、あたしのほうかも」
「は、あ……っ!」
 ひときわ深く指が入ってきて、わたしは声を上げた。
 熱い電流が、背骨を駆け上がって脳天に突き抜ける。
 そうして、ルカの体にしがみつきながら、わたしは果てた。
 言葉に尽くしがたい解放感と幸福感。その裏側で、わずかな罪悪感めいたものがよぎった。
 原因は何だろう。ルカを泣かせてしまったこと? それとも、同性とこういう関係になってしまったこと? それとも、学校でこんなことをしたこと?
「……ねえ、亜矢子」
 ルカは指を抜かなかった。
 おかげで、自分の中が痙攣しているのがよくわかる。
「明日、肖像画描かせて」
「いいよ」
 答えた声まで痙攣している。
 でも、ルカの言動はやっぱり予想がつかない。どうして、こんなときに肖像画とか言いだすのだろう。
「じゃあ、明日は早めに美術室来てね」
「わかった。……ねえ、指。抜いて」
「いいの? 抜いても」
「え……」
「夜まで、まだ時間あるよ?」
 笑っている。──ああ、やっぱり悪魔だった。この人は。
 ほんとうに。
 ほんとうに。


 その三日後、ルカの両親は離婚してニュースになり、彼女は北海道へ帰ってしまった。
 なにも言わずに。

       

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