「時間遡行の基本は、体中隅々の細胞まで神経を行き渡らせることなんだって。要は気持ちというか気合というか、小手先の技術よりも感覚だってことね」
「き、気合……? なんかもっとこう、身体に機械を埋め込むとか機械的なアプローチじゃないの? 一応私たちは時間遡行『工学者』じゃないか……」
 早速時間遡行術初級の講義を始めた彼女の言葉に、私は多少肩透かしをくってしまった。理系人間としてはこういうことはやはりオーバーテクノロジーで達成して欲しいと思ってしまうのだが。
 体育会系時間遡行を提案する彼女はそのまま説明を続けていく。
「今私たちがいる三次元の世界っていうのは、言うなれば幅、奥行き、高さの三つの方向があるよね。時間もそれと同じ。もちろん私たちは例の論文を読んでそれを知っている」
 時間は空間と同じように三つの次元で構成されている。これが先の論文「時間遡行に関する基礎研究とその理論」の骨子となる概念である。その記述は大変に煩雑で、発表されてから数年の間はその理論の趣旨を理解することがなによりの研究対象とされるような論文だった。
 かく言う私も、一時間遡行学に携わるものとして当然その論文には目を通したことがある。……通したことは、ある。林田教授に命じられてゼミの課題となっていたのだ。
 その内容は、本当にサッパリわからなかった。たしかに日本語で書かれているはずのその文章は、その意味を全く私に伝えようとはしてくれなかったのだ。まるで音楽プレーヤーで画像ファイルを開こうとしているかのように。
 結局私はゼミ当日、2時間まるまる私を無言で見つめ続ける林田教授と沈黙のお見合いをするはめになったのだった。
「あの論文、作者不詳ってところがたち悪いよね! 質問のメールすら出来やしない……。なんでもすぐに情報が手に入る世界で育った私たちには荷が重いよね」
 目の前の私は両手のひらを天井に向けて、ため息をつきながらそう言った。自分の考えていることが概ね相手に分かってしまうという状況はなかなかに気持ちが悪い。
 作者不詳の得体のしれない論文がなぜ新学問の発生にまでつながるほどセンセーショナルに取り上げられることになったかは、またお伝えする機会もあるだろう。
「さて、それじゃあそろそろ実践にうつってみようか」
「もう実践か。まだほとんど何も教えてもらってないと思うんだけど……まずは何をすればいいの? 」
「なんていうか意識を変えるんだ」
「……意識を変える?」
 彼女の言葉はカルト宗教の教祖様のお言葉くらい嘘臭く感じられた。
 そんな考えが態度にも出てしまっていたのだろう。未来の私は声を説得するような調子にして言葉を続けた。
「そう。意識を変える。まずは時間の奥行きを自分の細胞に刻みこむようなイメージを持てばいいらしいよ。その感覚が理解出来れば、私たちが今三次元空間を自由に歩き回ってるみたいに、時間を行ったり来たりできるようになるってわけさ」
 話的には分かるが、意識だけでどうにかなるものとは思えなかった。私は赤ん坊の時に「三次元空間を歩きまわりたい!」と考えてあんよの仕方を覚えたわけではなかったのだから。
「でもまぁほんとに意識を変えるだけでひょいひょいタイムトラベルできるなら、ドラえもんはいらないよね」
 目の前の私はそう言うと自分のスーツのポケットに手を突っ込んで、なにかを探し始めた。
 ややあって、彼女がそこから取り出したのは一本の栄養ドリンクの瓶だった。
 私がこの一週間散々お世話になった、鷲のマークが付いているヤツだ。飲むと絶海の孤島で危機に陥ってもファイト一発どうにでもなりそうな、そんな栄養ドリンクだ。
「コレを飲んで。意識を変えやすくするお薬だから!」
「……その表現はあんまりよくないと思うんだけど。ようは時間遡行用の体質改善薬みたいなもん?」
「そういうこと。さっきの空色オヤジにもらったんだ。大丈夫! 私も飲んだけど、ただのリポDだから!」
 せっかく人が鷲のマークとか誤魔化したのに、仕方ない女である。
 どうやら飲まないと話が進まないようだ。知らない人から食べ物をもらっちゃいけません! って母にはよく言われてたけど、目の前のこの人はよく知っている人だから多分大丈夫だろう。
 私は瓶を受け取ると、勢い良く蓋をあけて一気に喉の奥に流し込む。
 うん。ただのリポDだ。味はね。
 特に体調にも変化は見られないようだった。私は少し安心する。
「はい、いい飲みっぷり。じゃあ、いい加減に始めようか。……そう固くならずにやってよ。舞空術を練習するビーデルさんみたいなもんだよ」
 例えがあまりにも自分の趣味にあっているので、私はなんとなく納得してしまう。
 考えなし。疑いしらず。楽観的。全国の詐欺師は私を顧客に据えれば食いっぱぐれはないだろう。
 そんな私の「はじめてのじかんんそこう」が始まろうとしていた。
 私は高鳴る心臓の鼓動に揺れている胸の下で手を組んで眼を閉じる。キリスト教に詳しくない人から見れば祈りを捧げるシスターのように見えなくもないかもしれない。
「自分の細胞が点滅するような感覚を持って。少し前と、少し後を行き来して点滅しているような感覚を持って。そうしたらその点滅の感覚を広げていくような感覚を持って。あんまり過去に行くと面倒だから、一分前くらいにいくつもりで」
 未来の私のアドバイスが続く。通常他人のアドバイスはあくまで他人の感覚に基づくので、鵜呑みにしすぎないよう注意が必要だが、このアドバイスはほかの誰でもない自分自身の感覚である。
 私は鵜飼いの鵜よりも深くその言語を飲み込んで、一心に一分前、一分前と心のなかでつぶやいた。
 全身の細胞が、それを形作る原子単位で細かく振動しているような感覚がどんどんと強まってくる。自分という存在のフレームがブレていくようで、とてつもなく心もとない。
 一分前、一分前、一分前……!
 必死でそう念じていた私の背後に、急に人の気配が『発生』した。
 そして、その正体不明の気配は震える声でこう言ったのだった。
「……ホントにできた……! な、な、なにコレ……。あ、一分前の私! そのままの感覚を持ち続ければ、一分後には行けるよ!」
 それは一分後の私だった。