林田教授

 私はもしかしたら世界をひっくり返せるようなとんでもない力を手に入れてしまったのかもしれない。いや、もしかしたらなんて曖昧な表現では追いつかない。間違いようもなく、疑いようもなく、私にはそんな力が備わってしまったのだ。
 やろうとする意志さえあれば、私は競馬で一山当てて億万長者になることができるだろう。凄腕の経済評論家になれるだろう。預言者にすらなれるだろう。力を持つものが世界を制した時代はとうの昔に終わりを告げていて、情報を持つものが取って代わった現代において、もっとも価値のある情報は未来の情報。そんなセリフをマンガで読んだ気がする。
 しかし実際にそうできる力が手に入ったところで、私のような小市民にはなにが出来るわけでもなかった。考えてもみてほしい。あなたに今世界中の軍隊を意のままに操れる力が備わったとしたら、あなたはそれをどのように使うだろうか。あなたがガンジーのような平和主義者なら、すべての軍隊を解体するかもしれない。過激なカルト宗教の教祖なら、自分の力を世界に示すためにことさらその力を行使するかもしれない。しかし、常識的に考えてあなたがそのどちらかである可能性はそんなに高くはないだろう。
 私もまたそのいずれでもなかった。F1カーにくくりつけられた蟻のように、その大きすぎる力にただただ面食らっていた。誰が近所のスーパーに買物に行くのにF1カーで乗り付けるだろうか。私の極めて一般的な日常には、こんな力を使わなければ解決できないようなことはそうそう転がっていなかった。
 せいぜい遅れそうなレポートの提出の前にちょっと時間を遡るくらい。それも15分ずつ小刻みに。浦島太郎のように周りより早く年を取るなんて真っ平御免である。
 私が京都から戻って二ヶ月が過ぎようとしていた。京都に行く前と違うのは、せいぜい温かいコーヒーが美味しく感じられるような季節になってきたことくらいだ。あれから一度として空色オヤジが私の前に姿を現したことはない。
 いつものように研究室のデスクに浅く腰掛けて、頭の後ろに両手をやってぼんやり虚空を眺める。今日は林田教授は別のキャンパスに講義をしに行っているために、そんなふうに多少だらけた様子を見せても頭に教科書が振り下ろされることはない。鬼のいぬ間になんとやらだ。予定では教授は夕方まで戻ってこないことになっている。私は時計を眺めて、後2時間はゆっくり洗濯し続けてもいいことを確認した。
 私は最近ひたすら考え続けている議題を脳内会議に提出する。
 時間遡行能力を使って、私にはなにができるのか。議会は今日も紛糾するだろう。
 紛糾するだけして、私の脳内会議は結局なんの収穫も得られないまま閉会する。結論はいつも同じだ。
『私ごときが世界を救おうなんておこがましい』
 仮に私がこの力を使って努力を重ねて、世界をおびやかしている巨悪を打ち倒したとしよう。断言しても構わないが、私は調子に乗るに違いない。
 神の如き力で、人間の所業をする。考えうる限り最悪のシナリオだ。核弾頭のスイッチを握らされた幼児は、いつ好奇心でそれを押してしまうだろうか。
 だったら最初から危うきには近寄らずだ。世界を救おうとして、その力に依存して逆に世界をぶっ壊すくらいなら、最初からなにもしないほうがいいに決まってる。
 私がなにもしなくても、世界はこうして回ってきたのだから。
 単なる一般人の私にそんな価値なんか無いさ。そう思って自分の怠惰なよどみにフタをする。それが正しいことなのかどうかもわからずに。
 議会の出席者が全員帰宅し、私の意識は心地良いまどろみに溶けこんでいく。教授が帰ってくるまでには起きなきゃなぁ……。それが意識が溶けきる前の最後の思考だった。
 その次に私の意識が感じたのは、外界からの刺激に脊髄が反射したという事後報告だった。
 簡単にいえば、なんらかの強烈な刺激が脳天に走り痙攣した私の身体が椅子から転げ落ちた。状況は分かっていただけるだろう。私はどうやらタイムリミットを寝過ごしてしまったようだ。
 恐る恐る顔をあげると、仮説が確信に変わる。果たしてそこには、無表情の仮面の下からすら吹出す怒りをたたえた林田教授の姿があった。
「研究室で居眠りとはなにを考えてる。お前はなんのためにここにいるんだ。反省しろ」
 伝えたい事だけを淡々と伝えて、林田教授は自分のデスクへと戻ろうとした。
 思えば、この時の私の行動が始まりだったのだろう。ドミノ倒しの最初の一ピース。世界記録を狙ったそのドミノを健気に立てたのは、おそらく私自身。プロデュースは空色オヤジ。
 寝る前にした深い思考のせいで判断力を欠いていたに違いない。いつもならただ一言謝罪して、自分の仕事に戻るだけだった。それなのに、何故か私の口からはボソリと別の言葉が飛び出したのだった。
「……自分でもわからないですよ。自分がなぜここにいるのか。……私なんかが……なんでこんなコトに……」
 京都から帰ってきて、なにも変わっていないと思っていた。だが私は確実に、悩んでいたのだ。
 誰かに相談したって、ただ病院に連れいかれるだけだろう。突然降って湧いた大きな大きな悩みは、私の中で行き場を失っていたのだ。
 私の言葉に、林田教授はその場でピタリと足を止めた。止めただけで振り返らない。その背中は私になにも語りかけなかった。
 聞きようによってはこの研究室を選択したことを後悔しているようにも取れる発言を、教授は一体どんなふうに受け止めただろうか。私は自分の両目がじんわりと湿っていくのを感じながら教授が振り返るのを待った。
 それはおそらく一瞬あとのこと。それは変な能力とは関係なしに、私には数時間のようにも感じられた。教授の首がゆっくり回って私の方を向く。
 教授は今まで私が見たことのない顔をしていた。
 憤りではない。侮蔑でもない。諦観でもない。
 そこにあったのは深い悲しみだった。