「いいか。人間がこの世に生まれて、意味が無いなんてことはないんだ。たとえお前のようなあまり出来の良くない、担当教官に迷惑ばかりかけてしまうような人間でもな」
 居酒屋のボックス席に、普段研究室で聞くよりもかなりボリュームの大きな声が広がった。
 席についてから約一時間半。それなりに長い時間飲み会を続けているのに、私たちが空にしたジョッキはわずか4杯で、しかもそのうち3杯は私が飲んだものだった。
 『なんで俺がお前を酒に誘ったかわかるか!?』飲み会の冒頭にそう言った教授だったが、その答えは未だに聞けていない。たった一杯のカクテルで完全に出来上がってしまった教授は、先程から同じ話を堂々巡りで続けている。その要約が先の「いいか。人間が〜」のセリフというわけだ。
 他の人間から聞けば嫌味に聞こえるかも知れないが、こと林田教授が私に告げる分にはこのセリフにはなんの嫌味もない。
 私が今まで教授に散々迷惑をかけてしまっているのは一切の誇張のない事実である。
「去年の卒論も、なんだあれは。全く研究を進めないで、提出ギリギリになって泣きついてくるとはな……もっとしっかりしてくれないと困る」
 その節は本当にお世話になりました。
 大学院入試が終わったのが大学四年の9月。それから卒論提出の2月まで、私は受験疲れを言い訳にひたすら研究もせずデスクでYouTubeを見続けていたのだった。
 結局その間私が学んだのは、いかにして自分の背中で教授からパソコンの画面を隠すかというコトだけ。提出が近づいた一月の半ばになって、私はようやくYouTubeでは卒業論文は書けないという当たり前の結論に至ったのだった。
「本当に手間のかかる生徒だよお前は……」
 そう言って教授は自分のジョッキをあおる。八割方溶けてしまった氷が、僅かな水滴だけを教授の口に運んだ。さっきから何度かドリンクのおかわりを尋ねてみたが、これ以上アルコールを飲む意志は無いらしい。
 結局教授が私を居酒屋に誘ったのは、これまでの溜まりに溜まった私への愚痴を吐き出したかっただけなのだろうか。確かにこうして眼の前で愚痴ってもらった方が私としても反省につながるが、教授が不平を漏らすためだけにわざわざ私を酒の席に誘うとは考え難かった。私の不甲斐なさに対しては、頭をひっぱたくという幼児でもわかるボディーランゲージでしっかりと吐き出していると思うし。
 私が帰りの電車の時間を気にし始めた時、腕時計からふと目の前に目線をやると、そこには俯き加減で何かを思案している様子の教授がいた。
 かなり酔っていたようだから、気分がすぐれないのかも知れない。教授が思いつめたように口を開いたのは、私がそんなことを考えた時だった。
「……確かにお前は出来があまりよくないし、しかもそれを丁寧にフォローするだけの面倒見の良さも俺にはないかも知れん。しかし、しかしだな。『自分がなぜここにいるのかわからない』なんて、そんなことは言わないでくれ」
 かつて聞いたことのない、優しく諭すような声が教授の口からこぼれ出た。私は身体を硬くして、その声に耳を傾ける。
「そういうことで思いつめて、しかも気づけばいなくなっていて、そんなのは俺は、もうたくさんなんだ」
 そう言って教授はおしぼりで目頭を抑えた。そんな教授に何を言ったらいいかわからず、ただただうつむいてしまう私に、おしぼりの向こうからさらに教授の声が届く。
「お前を見ていると昔を思い出すんだ。まだあいつがいた頃のことをな」
 その言葉にふと私が顔を上げると、教授は、言い過ぎた、とでも言いたそうな気まずい表情でおしぼりを握っていた。
 私は踏み込んでいいのか迷いつつも、教授が一瞬さらけ出した本心へと足を踏み出していく。
「あいつと言うのは、どなたのことですか」
 教授は数瞬の間躊躇するような素振りを見せてから、短く答えた。
「俺の、妻のことだ」
 私のジョッキに入った氷が、からん、と音をたてた。