Neetel Inside 文芸新都
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「今はあまり珍しくないかも知れないが、俺は父子家庭で育ったんだ。親父も俺と同じような仕事人間で……、俺は小学生低学年から鍵っ子だった。……鍵っ子っていうのはもう死語か?」
 私は小さく「いえ」と答えて、教授に先を促す。
 教授の人差し指と親指が、枝豆の腹を潰して中身を押し出す。そのまま口に吸い込まれていく枝豆は、鮮やかな緑色をしていた。
「小さい時に、家に帰って誰もいないのがさみしくてなぁ。親父は料理なんかできなかったから、自分で夕飯を用意して、親父の帰りを家でひとりで待ったよ」
 割合ヘビーな教授の少年時代に、私は口角を下げる。私の知らない教授のパーソナリティが次々と泡のように浮かび上がっては、順番に消えていくようだった。
 教授の始めた独白に、私は気付かれない程度に頭を振って酔いを覚ます。
「それでも親父のことは尊敬していた。子供心に親父が大きな仕事をしていたのは分かっていたし、機嫌のいい時に話してくれる研究の話はいつだって刺激的で、わくわくしたもんだ……」
 覆水を盆に返そうとするような、もう戻らない日々を懐かしむ様子が教授から滲んでいた。
 教授のお父さんが健在なのかどうかは分からないが、なんとなくすでに亡くなっているように感じられた。
 自分が教授くらいの年になったときに、私は時分の親に何を感じるのだろうか。
「親父に聞いた話に興味を持って、だんだんと自分で調べるようになっていった。考えてみれば、研究活動に興味を持ったのもやっぱりおやじの影響なんだろうな」
 しみじみ、という言葉が世界一似合いそうな、熟成しきった人間だからこそ醸し出せる風合いがあった。
 教授はそこでふと目を泳がせる。
「おっと、話がそれたな……妻の話だった。まぁ、ある意味じゃまともな家庭に育っていない俺が家庭を持つとなっちゃあ、それは戸惑ったもんだ……」
 教授の話は問題の奥さんの話へとシフトしていく。
 その表情もまた、先程までとは毛色の違う色合いへと移り変わっていった。
「俺には過ぎた妻だった。何でも如才なくこなしていたし、全く自分を省みないで研究に打ち込む俺にもなんの文句も言わなかった」
 教授は空のグラスを持ち上げて目を細めながら言った。
 私としては出会いの部分がすごく気になったのだが、そこに関しては拝聴することはできないらしい。
「……研究がうまくいかずに何日も家に帰れない時も、それをようやく終えて家に帰れば必ず飯を作って待っていてくれた。『おかえりなさい。おつかれでしょう』と、嫌そうな顔一つせずに言うんだ」
 そう言って頬を緩める教授の顔は、普段研究室で見るそれとは違う人間のようだった。厳格さも、剛健さも、寡黙さもない、心が弛緩しきった安らかな表情をしていた。
「おかえりなさい、って言葉は言われ慣れていない人間が聞くと心底嬉しいもんだ。自分の居所を保証する言葉だからな」
 現在一人暮らしをしている私にも、その気持ちはなんとなくわかるような気がした。地元を離れて都会でひとりで暮らすというのは、自分の居場所を探し続ける旅に出るようなものだ。
 それが早く見つかる人にはわからないかも知れないが、人間というものは寂しさで死ねるのだ。ウサギではないにしても。
 私は自分の思考内に登場した「死」という言葉に、ふと強い印象を受けた。
 教授の奥さんとの話は非常に心温まる。それは一応幸せな家庭に育って来た私にも十分に訴えかけるものがあった。
 だが、教授は意味のない自慢話を語るためにわざわざ生徒を酒に誘ったりはしない。
 そこには必ず何らかの私に伝えるメッセージがあるはずだ。だからこの話の、この後の展開はなんとなく分かってしまっていた。
 教授が繰り返す過去形の言葉たち。
 きっと、ハッピーエンドではないのだ。
「素晴らしい奥さんですね。……私もお会いしてみたいです」
 私は「その後の展開」を促すために、こんな言葉を教授に投げかける。
 残酷な言葉だ。
 だが、それでも今ここで聞かなければいけない話だと私の中の何かが告げていた。
「……そうか。ありがとう」
 短くそう答えた教授は、さらに言葉を継ぐ。
「だが、もうお盆は過ぎてしまったから、彼岸まで待ってくれないか」
 その返答は、なんとなく分かっていた。

       

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