Neetel Inside 文芸新都
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 教授は伝えたい内容をどう言ったものか迷っているかのように、グラスに右手をかけてじっと自分の手首のあたりを見つめていた。
 一つ前の発言から時間が経つこと2分と少しくらい。教授は酒のせいか話す内容への気の進まなさのせいか、すっかり動きの鈍くなった唇を動かし始めた。
「……当時俺は、今の大学で助手をやっていたんだ。今は助手ではなく、助教と言うけどな」
 その話は聞いたことがあった。今でこそ工学系研究科の教授職として教鞭を取っているが、それまでは理学部で助教をやっていたということだったはずだ。
「そう、理学部の物理学科だ。専門は今も昔も時間遡行学だけどな。当時は今ほど注目されていない分野だったから、予算も今より少なくてがむしゃらに働いていたよ」
 今の林田研究室も決して裕福な研究室ではないことを考えると、当時の予算はさぞかし限られていたのだろう。資金的に豊かではない研究室は、実験器具を他の研究室に借りたり共同研究を行える相手を探したりと、仕事の量が増えような何らかの工夫をして何とかする場合が多い。
 その意味で、当時の教授は今よりもはるかに忙しかったのだろう。
「そんな状態だったから家にもあまり帰れなくてな、っとこれはさっきも話したか。そんな時には妻が大学に荷物や弁当を持ってきてくれていたんだ。さすがに研究室で会うわけにもいかないから、校舎の屋上で会っていたんだが……」
 教授が奥様と仲睦まじく屋上で語らっている光景を想像して、私は自然と頬が緩んでしまった。奥さんの顔は知らなかったが、なんとなく教授の奥さんは大人な感じの日本美人なんじゃないかな、と思った。
「そんな風に、忙しかったが充実した毎日を送れていた時だった。何かの仕事に追われて、しばらく帰宅できない日が続いて、そしてようやく仕事を片付けて、帰宅できた日のことだったな。俺が玄関の戸を開けたら、目の前で妻が正座していたんだ」
 教授は長台詞をそこで一旦区切った。ごくりと鳴った喉から、次のセリフが吐き出される。
「旅館の女将じゃあるまいし、それまでにそんなことは一度もなかったら、俺は驚いた。しかも妻は俺が帰宅しても一言も口を聞かずにただ俺の方をじっと見ていたんだ。何事かと思ったよ」
 先程までグラスを握っていた教授の右手は、今は左手と組まれていた。教授は相変わらず俯き加減で、まるで親指の付け根に乗っかった小人に話しかけているかのようだった。
「とにかく妻を立たせて玄関から居間に連れて入った。その間も妻は終始無言で、目もどこか虚ろだった。どうしたら良いかわからなかったよ」
 そう言う教授の口元はわずかに震えているように見えた。読み返したくない本のページを恐る恐るめくっているような、そんなペースで教授は話を続ける。
「『どうした、何があった』と俺は聞いた。それに対して妻はこう言ったんだ」
「『なんのために生きているのか、分からなくなった』とな」

       

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