Neetel Inside 文芸新都
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「ここからの話はそんなに面白いものじゃない。妻の言い分は、ありふれた専業主婦の小言を100人分集めて煮染めたような、そんな内容だったよ」
 教授は手にしたお冷のグラスの縁で唇を擦りながら、自嘲したようにそう言った。ちなみにお冷はさっき私が教授の酔いを覚ますために注文したものだ。
「仕事でなかなか帰らない俺と、子供のいない我が家でひたすら家事をする生活への嫌気。『なんのために生きているかわからなくなった』なんて大それた言葉を吐く原因にしては、俺にはどうにもちっぽけすぎるように感じられた」
 専業主婦の働きは年収1000万円に相当する、なんてことを堂々と胸を張って言えてしまう主婦がいる。個人的には少々主張が強すぎやしないかと思うが、専業主婦をやったことのない私には彼女たちの苦労や苦悩は決してわからない。そしてそれは私だけではなく、教授にも同じことが言えたのだろう。
「話し合い……というか喧嘩は一晩続いたよ。結婚してからそれまで、派手な言い争いなんて一度もしたことがなかったから、お互いにやり方もよく知らなかったんだな。次の日の朝になって『一晩ぶっ続けで喧嘩するとしんどい』ということがようやく二人ともわかったんだ」
 そこまで言って、教授は今更夫婦の痴話喧嘩を暴露していることが恥ずかしくなったのか気持ち顔を赤くした。それがわかるくらいには、酒が原因の頬の赤みは引いていた。
 口をつぐみそうになる教授に先を促すために、私はラストオーダーを取りに来た店員を追い返しながら、教授に声をかける。
「一晩話されて、お互いに納得はされたんですか?」
「少なくとも俺はそう思っていた」
 教授は、俺は、の部分にアクセントを置いた。それが導く答えは一つだ。理系の私でもそれくらいの行間は読み取れる。
「だが、妻は違っていたようだ」
 時計の針が歩く音が、にぎやかな居酒屋の一画で妙にはっきりと聞こえた。まるで教授の話がクライマックスに向かうのを知っているかのように、その針の音は着々と音量を上げて私に迫った。
 そんな音を一刀両断にしたのは、教授の一言だった。
「でなければ、あんな死に方はしないだろう」
 バラバラになった音が、私の足元に散らばった気がした。



 結局私たちは、居酒屋の閉店に伴ってボックス席を追い立てられた。
 レジに映しだされた合計金額は予想以上に安く、そのことは私たちがろくにお酒を飲まないで席に陣取る嫌な客であったことを表していた。
 財布を取り出した私を片手で制して、教授は会計を済ませてくれた。『誘ったのは俺だから』。そう言っていた。
 入り口のドアを開くと、季節が移り変わりつつあることを主張するような冷たい風が吹き込んできた。今年の秋風の出番も千秋楽を迎えようとしているらしい。
「今日は付きあわせてすまなかったな。こういった機会はほとんど設けてこなかったが、また希望があればやってもいいかもしれん」
 教授は気温差で鼻の頭を少し赤くしながら言った。今日帰宅したら、きっと冬用のコートをクリーニングに出すに違いない。
「いえ、とても勉強になりました。私のためにわざわざこんな機会を設けていただいて、その……すごく嬉しかったです! また是非、よろしくお願いします」
 私がそう言うと、教授は満足そうににんまりと笑った。先ほどまでのお酒の力を借りただらしのない笑みではなく、見ていて気持ちの良くなる笑顔だった。
 私がどんなSFチックな力を持っていようと、教授にこんな表情をさせることは簡単ではあるまい。
「それじゃあまた明日、研究室でな。遅刻するんじゃないぞ」
 教授はそう言って、手を振りながら地下鉄の改札に吸い込まれていった。
 私はそれを見送りながら教授の姿が見えなくなるまで何度も改札口に向かって会釈し続けるのだった。
 
 ※

 教授を見送ってから、私は自分の乗る、教授とは違った地下鉄の駅を目指して歩き始めた。所要時間は大体15分くらいだ。大学の名前に「前」とつけただけの簡素なネーミングの駅である。
 酔いを覚ますためにゆっくりと歩きながら、私は今日教授に言われたことを反芻していた。
 奥さんとの生活のこと、助教時代のこと、そして奥さんとの喧嘩のこと。
 そしてその後に聞いた、奥さんの死のこと。
 奥さんは教授と喧嘩して一夜を明かしたその日に、教授の大学の屋上から転落死したそうだ。
 事故なのか、自殺なのか、それすらもわからない。警察にはそう言われたらしい。
 ただわかるのは、奥さんは教授にお弁当を届けに来たということだけ。
 一夜を話し合いに費やした奥さんは、その朝お弁当を用意することができなかったのだ。だから、一睡もしていないのに定時に出勤する夫を見送ってから急いで用意して、急いで届けに行った。いつも待ち合わせをした、大学の屋上へ。
 教授が待ち合わせ場所に着いた時には、奥さんはもうそこにはいなかった。
 変わり果てた姿で、教授の足元よりもはるかに下にいた。
 このことを語ったときの教授の様子が、その凄惨さを表していた。
 
 結局この一連の出来事を私に伝えた教授の真意は、居酒屋を出る直前に教授の口から聞くことができた。
『お前の口から妻と同じセリフが出て、これは、今度こそは、どうにかして止めなくてはならない、と思ったんだ。あの時俺は、激しく悔いた。後悔した。妻の気持ちを汲んでやれなかった自分をな。自ら命を絶ってしまうほどにあいつを追い詰めていたのにも関わらず、のんきに問題は解決したと思い込んでいた自分を、殴ってでもあいつを止めなかった自分を、俺は殺してやりたかった。こうしてお前にこのことを話したのは、お前のためじゃなく、自分自身を満足させたかっただけなのかも知れないな』
 事故か自殺かわからない、というのはあくまで警察の言い分で、教授としては自殺したということを確信しているように感じられた。教授はまるで自分自身が奥さんを殺したかのように、それを語ったのだから。
 教授のそんな大演説は、真摯で、実直で、切実で、聞いていて少し顔が赤くなるほどだった。
 教授が事あるごとに私をひっぱたくのも、奥さんの真意を無理にでも聞き出して説得すべきだった、という教授の後悔の表れなのかも知れない。
 私は、自分自身に突然降って湧いた力の使い道がまるでわからなかった。そうして一人で悩んで、それに気がついた教授が私を元気づけようと、苦手な酒に誘ってまで励ましてくれた。
 私は自分の中で、心がカチリと決まるのを感じた。
 私に突然降って湧いた力は、こんな風に私のことを考えてくれていた人のために使うべきなんじゃないだろうか。
 今日聞いた話はまだまだ咀嚼されておらず、私の頭の中にむき出しで転がっている。教授の気遣いはある意味で的はずれだし、やり方も不器用で決してうまいとは言えない。
 それでも、私は嬉しかった。この恩を返したいと思った。
 林田教授のために。
 奥さんの死の真相を知るために。
 できることなら止めるために。
 私は、時をかける。

       

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