Neetel Inside 文芸新都
表紙

時をかける処女
20XX年8月25日

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 右、左、上、下、前、後。そんな順番で私の身体は振り回される。まるで巨人のバーテンダーにシェイカーに放り込まれたようだ。周囲のぐにゃぐにゃとした幾何学模様もあいまって、私は少し吐き気を覚えていた。
 何しろ約10年間の時間跳躍だ。これまでにした一番長い時間跳躍はせいぜい数時間だったが、それと比べると明らかに跳躍にかかる時間が長い。私は、時間を跳躍する時間が長い、というのもよくわからない言い方だなと逡巡する。そんな風にどうでもいいことを考えていないと今にも胃液が逆流しそうだった。
 周囲のグニャグニャした模様が徐々に輪郭のはっきりとした風景へと変わっていく頃には、私は脱水機にかけられた洗濯物のようにすっかり観念して、もうどうにでもしてくれというような投げやりな気持ちになってしまっていた。
 私はヨダレの跡が残る口元を袖で拭いながらあたりの光景を見渡す。そこは私が毎日通っているT大学構内の広場だった。出発した場所ときっかり同じ場所だ。ただしあるはずのコンビニがなく、無いはずの購買部の建物がある。まるでよくできた間違い探しのようだった。10年一昔とはよく言ったもので、校舎以外の施設のほとんどが私のいた10年後とは違っていた。
 教授の奥さんの事故がいつ起こったかについては、図書館で調べればすぐに分かった。当時の学内新聞が大きく取り上げていたからだ。もちろん実名は掲載されていなかったが、「理学部物理学科の助手の妻」という肩書きの人物の事故が数年の間にそう何件もあるとは思えない。私は事故の起こった当日の校舎に来ているはずだった。
 季節は夏だった。晩秋から来た私にはかなりむしむしとして暑いように感じられる。着ていた白衣を脱いで脇に抱え、ロングTシャツの袖をまくる。肌と服の間を通り抜ける風が涼しい。最近、昔の夏はこんなに暑くなかったよな、と思うことがよくあるが、やはりこの時代の真夏は私の時代の真夏よりも少し涼しいように思えた。
 とりあえず本当に10年前に来たのか確かめるために、私は購買部に入り新聞を見てみることにした。事故が起こったのは20XX年8月26日のはずだ。私は新聞のラックから適当に一部抜き出して、記事の見出しよりも更に上に印刷された日付の欄を見る。
 並んでいる数字は2、0、X、X、8、2、5だった。
 私はひょっとして一日前の新聞を手にとってしまったかな、と他の新聞にも手を伸ばす。しかしやはり記されている日にちは同じだった。当然だ。店頭に一日前の新聞を置いている店なんてあるはずがない。もしあったとしても、あっという間に潰れるだろうし。
 私は意外な気持ちと、少しの落胆をはらんで購買部を出た。どうやら長時間の跳躍のせいで、到着時間に誤差が出てしまったらしい。私は気落ちしながらとぼとぼと構内の道をどこに行くでもなく歩いていった。
 もともとどのくらい時間を遡るのか、というのは完全にフィーリングで決まるので、ある程度の誤差があるのは当然といえば当然だったのかも知れない。数時間の跳躍ではせいぜい数十秒から数分の誤差だったそれも、10年間ともなれば一日の誤差になり得るのだろう。
 私はこのままここで一日を過ごすか、それとも人気のない場所を探してさっさと未来に飛んでしまうか、少し思案した。別にここにいても事故のことがわかるわけではないが、せっかく初めてずいぶんな過去に戻ったのだから少し見て回りたいという気もする。
 そんなことを考えて、気がそぞろになっていたからだろうか。バリアフリー化されて下り坂となった長い階段に差し掛かった時、私の足はあるはずの地面を見失って、身体は大きくバランスを崩した。
 そうだ……構内のバリアフリー化が急速に進んだのはここ数年のことだった!
 私のいた時代では下り坂だったそこは、この時代ではただの階段だった。
 私は自分が転びかけている原因に一瞬で思い当たるが、それで身体がバランスを取り戻すわけではない。
 ここが池田屋かと見まごうほどに見事な階段落ちを決めて、私は地面に派手な音を立てて硬着陸する。
 数瞬の間私は腰だけを高く上げてうつ伏せにうずくまっていたが、恐る恐る体中に神経を行き届かせて痛むところはないか確かめる。……どうやら大丈夫のようだ。あまりにひどい怪我があるようなら階段から落ちる前に戻って自分を助けてやらなければならなかったところだ。
 私が顔を上げて立ち上がろうとすると、ふと頭上から鈴を転がしたような声が投げかけられた。
「大丈夫ですか?」
 私は声の主を見上げる。ショートカット、童顔、小柄、少女、断片的な情報が頭の中で回る。
 きちんした文章で言えば、次のようになる。
 そこには心配そうな顔で私を見下ろす、可愛らしい中学生くらいの女の子が立っていた。

       

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