Neetel Inside 文芸新都
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 マズイことを聞いてしまったかも知れない。私は頭の中の血が、すっと、身体に吸い込まれるのを感じる。軽く血の気が引いた、という状態だ。
 このくらいの年頃の少女が父子家庭の身の上をどのように受け止めているのか。私には想像することしか出来なかったが、少なくとも自分ならこんな満面の笑みを浮かべることはできないだろう。
 彼女はそんな私の様子の変化をどう受け取ったのか、にわかにベンチから立ち上がると私の方へくるりと身体を向けた。
「私そろそろお父さんのところへ行かないといけませんから。もう傷の方は大丈夫ですよね」
 目を細めて慈しむようなほほ笑みをたたえて、少女はベンチの上の自分のカバンに手を伸ばす。
 私がこの時何を考えていたのか、今の私はあまり覚えていない。
 単に時間つぶしにもっと付き合って欲しかったのか。
 それとも少女の身の上に、不躾ながら興味を持ってしまったのか。
 とにかく私の手は差し出され、同じく差し出されていた彼女の手に添えられた。それは明確に、彼女を引き止める意志を示していた。
 少女は熱した鍋の持ち手に触れてしまったかのように瞬時に手を引っ込める。
「……なんでしょう」
 そう言った少女の顔は、驚き半分不信半分といった感じだった。突然赤の他人に触れられたことを考えると、当たり前の反応とも言える。
「そ、そのっ、私もお父さんのところへ着いて行ってもいいかな。実はちょうど暇ができちゃって、時間つぶしをしないといけないというか……」
 私は左手を自分の後頭部に置き、右手を眼前に差し出しながら、言い訳がましいセリフを述べる。時間つぶしをしないといけないのは嘘ではないので、必ずしも言い訳ではないかもしれなかったが。
「どうかな、無理?」
 しどろもどろになる私ではあったが、尋ねながら目線だけは彼女にまっすぐに向けていた。
 少女は口元を片手で押さえ、さらにその手をもう片方の手で押さえながら、値踏みするような視線を私に返す。
 知らない人に着いて行ってはいけません。誰でも小学校の時に習うことだ。
 今回の場合はその応用編。
 知らない人を知っている人のところに連れていっても良いのだろうか。彼女の目からはそんな考えが読み取れた。
 やがて思考が終わったのか、彼女は居住まいを正して口を開く。
「ええ。いいですよ。お弁当を渡しに行くだけですから、面白くはないと思いますけど……それでもかまわないのなら」
 また、あの笑顔だ。
 殺風景な部屋に花を飾った時のような、明るさをたたえた笑顔。
 その明るさを少しでも反射させられるように、私も精一杯の笑顔で返すのだった。



 構内のイチョウ並木の下を、私と少女は歩いていた。秋になれば道に実を落として異臭の元となるそれも、夏の日差しの下ではただ爽やかに緑色を透かすだけだった。
「無理言ってごめんね。せっかくだからもう少しお話したいなって思っちゃって……」
 私はぎこちない笑顔を少女に向けながら頬をかく。
「いいんですよ。私もいつも家に一人でいるので、女の方とお話ししたかったんです」
 少女は歩きながら、身体の向きを変えずに返事をした。ちらりと目をやると、少女の大人びた横顔が目に飛び込んできた。
 時期的に、今は夏休みなのだろう。働く父を支えるため家事などに忙殺されて、友達とも遊びにいけないのかも知れない。私は頭の中でそんな筋書きを立てた。
 私が同じ立場だったら、どうだろうか。
 中高生といえば、遊びたい盛りだ。しかも一年間で最大の休暇である夏休みである。ろくにどこにも行けない生活では、さぞかし不満もたまるだろう。思春期の思い出を作ることが人生に絶対に必要かどうかは知らないが、あって困るものでもないと思う。
 ふと、先日教授に投げつけた言葉が頭に浮かぶ。
『どうして生きているのか、わからなくなった』
 もしも私がこの少女と同じ立場だったら、それこそそう感じるのではないだろうか。
 中学生の時の私にそんな哲学的な思考があったかどうかはわからない。でも、無意識ではそう感じるのではないだろうか。
 この少女は、どうなのだろう。
 笑顔の下の、意識の底では、そのように感じているのだろうか。
「……あなたは、どうして生きているの?」
 思考が口から、ほんの僅かに漏れ出した。なんの文脈も無い、捉えようによってはとてつもなく失礼なつぶやき。おそらく彼女にも、聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの音量だっただろう。

 思えばここが分岐点だったのだ。この言葉が、この少女に届くかどうか。それがドミノ倒しの最初のワンピース。
 そしてドミノ倒しは、一度倒れ始めたら止まらない。最後の一つがパタリと地面に臥すまで。
 美しい模様を描いて、その死骸をさらすのだ。

「……どうして生きているか、ですか。急に難しい質問ですね」
 突然の意味不明な質問にも関わらず、少女は律儀に返してくれた。
「えっ、あっいや、ごめんね。急に変なこと言って……。ちょっと考え事してぼんやりしてただけだから……気にしないで」
「それは、何を生きがいにして生きているか、という意味でしょうか」
 我に返った私の必死の否定も意に介さない様子で、少女は私に質問を返してくる。
「えっと、うーん、そんなとこ……かな。家にいることが多いみたいだから、趣味とかあるのかなーなんて……」
 私が適当な返答でごまかしている間、彼女はあごに手を当ててじっと考えこむような素振りを見せていた。その表情に緩んだところはなく、どこかわからない一点を見据える視線は冷たささせ感じさせる。
「……今までそんなことを、考えたこともありませんでした。ただただお父さんの世話を焼いて、それで毎日が楽しいと感じていましたから……」
「そ、そうなんだ! ははは……」
 意味のない笑いを浮かべる私をよそに、少女は考え込んだような佇まいを崩さなかった。
 肩を並べて歩いて行く私達二人の上では、ようやくイチョウ並木が途切れて青い空が顔をのぞかせていた。

       

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