Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      

 嫌な予感は、多少していた。
 少女が『お父さん』のもとへ行くと宣言してから、一歩歩き出した瞬間に嫌な予感はしていたのだ。
 その時それはほんの僅かな違和感として匂い立ったが、私にはその理由がわからなかった。その時は、まだ。
 雑談をしながら、少女と私の二人は歩を進めていく。
 10年前の校舎とは言え、同じ校舎には違いない。私は少女の目的地が段々と推察できてきていた。
「お父さんの働いている場所までは、あと少しです。あの坂を下れば見えてきますよ」
 眼下に横たわる下り坂を指さしながら、少女は言った。私たちの右手には、この大学を象徴する講堂が見える。
 この坂を下った先にあるのは、私も知っている建物だった。
 見上げるような階層の建物。ビルといってもいい。
 学生が勉強したり研究したりするだけのためのものとしては、いかんせん豪奢すぎるようにも思えるが、私も10年後同じ構内で勉強することになるので文句は言えない。
 それは主に理学部の生徒が利用する、理学部棟と呼ばれる建物だった。
 物理、化学、生物、地学。これらのいわゆる高校理科をさらに細分化したものを専門的に勉強する学部、それが理学部だ。
 機械や建築などの、より実地的な分野を扱う工学部とは、同じ理系の学部にしてずいぶん毛色がちがう。
「お父さんはここで助手をしているんです」
 少女はビルを仰ぎながら言う。
 理学部、助手。私の中でパズルのピースがぱちぱちとはまっていく。
 この10年前の時間軸においては、林田教授は理学部で助手を立っていたはずだ。私は実はこの少女が林田教授の娘で……という筋書きを妄想する。
 しかしパズルは最後の1ピースがどうやってもはまらない。私の知る限り林田教授に娘はいないからだ。
 少女と私の二人は、目の前で開いた自動ドアをくぐって理学部棟に足を踏み入れる。中は冷房が効いていて、外界で溜め込んだ熱気が身体から引いていくのがわかる。
「涼しいですね。この建物はいつも冷房が効いていて、助かります」
「そ、そうだね……あはは」
 少女への返答もそこそこに、私は首をくるくる回して周囲の様子を伺う。
 林田教授が、いるかも知れない。
 仮にいたとして、この時の林田教授は私のことを全く知らないはずなので特に問題は無いはずだ。だが予期せぬ状況でばったり遭遇してしまい、私が挙動不審になり怪しまれる、という事態はできれば避けたかった。
 ぎくしゃくとあちこちに視線を送る私はそれだけで十分挙動不審だったが、それに気を配る余裕は無かった。
 少女に連れられて、エレベーターに乗り込む。少女が行き先の階のボタンを押すと、6階を示すランプが頭上で光った。
 エレベーター内の壁には、各階にある研究室の案内板が貼られていた。知っている名前もあれば、知らない名前もある。
 6階には3つの研究室があった。その中の一つの名前が私の目に飛び込んでくる。
 それは、居酒屋で林田教授に聞いた研究室の名前だった。
 『俺が理学部にいた頃所属していた研究室で――』そういう説明で聞いた名前だった。
 私の頭の中で警報がますます声高に鳴り響く。
 目的階に着いたエレベーターのドアを押さえておいてくれている少女に礼を言いながら、私は何度も同じセリフを自分に言い聞かせた。
 林田教授に娘はいない。いないはずだ。
 そんな努力も虚しく、少女が足を止めたのは件の研究室のドアの前だった。ドアの横に貼られたプレートにはしっかりと記されている研究室の名前がじっとりと私を見下ろしていた。
「せっかくだから、お父さんを紹介しますね。この時間なら少しお話できると思いますから……」
 ドアの前で私の方を向いて少女は言う。背後で手を組んでいるその姿は、これから「お父さん」に会える喜びのせいかとても嬉しげだった。
 少女がドアをノックする。数瞬の後、ゆっくりとドアが向こう側に開いた。
 これだけ話を引っ張ったからには、当然だと思っていただけるだろうか。
 ドアの向こうには、林田教授がいた。いや、この時点では教授では無いので、きっちりと林田助手と呼ばせていただこう。
 林田助手は私の知る林田教授よりも、当然ながら若く見えた。髪の色はまだ白よりも黒のほうが優勢だったし、顔に刻まれた皺もずいぶん浅いように思える。
 林田助手は一瞬私に怪訝な目線をやった後、少女の姿に気づいた様子だった。
 その瞬間、林田助手の顔面の筋肉は弛緩剤でも打たれたかのような総崩れを見せた。
「京子~! よく来てくれたな。車には気をつけてきたか? 日射病にはならなかったか? 不審者に目を付けられたりしなかったか? お菓子食べるか~?」
 彼はそのままの勢いで少女の身体に腕を回すと、軽々とその体を持ち上げて頬ずりをしていた。その顔面の筋肉と同じくらい、私の中の林田教授のイメージもまた崩壊していく。
「や、やめてください、お父さん……人が見てますよ」
 そうだそうだ。私という人がちゃんと見ている。家族でなければ犯罪モノの行動を取る男の顔を両手で押し戻しながら、少女は必死で私の方に向き直った。
「あ、えーと、これが私の‘夫’の林田和希です。すいません醜態を晒しまして……」
 ……。
 ゲームなんかでよく石化、という状態異常があるが、この時の私はそれにさらに麻痺と毒の状態異常を一気にくらったような気分になった。
 私は何とか少女の言葉に応えようと唇を動かそうとするが、それらはパクパクと金魚のように閉じたり開いたりを繰り返すだけだった。
「い、いや、でも、ずっとその、お父さん、って言って……」
 やっと思いで口から出たのは、そんな途切れ途切れの言葉だけだった。
「え、あー、そうでしたね。自分の両親がお父さんお母さんって呼び合っていたもので、私もそうなっちゃって……。変ですよね、子供もいないのに」
 ああ、確かに時々いる。お互いをお父さんお母さんと呼び合うようになってしまい、そして喧嘩の度に「私はあんたのお母さんじゃないよ!」みたいな言い合いをする夫婦。
 それにしても、少女にしか見えないこの人が結婚できる年齢だったのが驚きだ。林田助手の妻ということは、私より年上ではなかろうか。
「そうだったんですか……いえ、とてもお若くみえるもので……」
 私は思ったことをそのまま口に出す。なんだかきざな男が未亡人を落とす文句のようになってしまった。
「あら嬉しい。そうね。よく言われるんですよ。夫と並ぶと親子にしか見えないって」
 口に手を当てて微笑む少女の、いや、京子さんの顔が、先ほどまでとは打って変わって妖艶に見えた。イメージというものは恐ろしい。
「京子、こちらの方はどなたなんだ」
「あ、そうね。えーと、この方は……」
 京子さんが私を林田助手に紹介している間も、私の状態異常は解けなかった。
 拝啓、10年後の未来にいる林田教授。一言だけ言わせてください。
 このロリ野郎!

       

表紙
Tweet

Neetsha