私は私の通う大学のキャンパス内を歩く。歩いていく。
いつもと変わらない並木道。いつもと変わらない古びた講堂。
しかしこの場所は、私のいるべき場所ではなかった。「私の通う大学」ではなかった。
この時たしかにあったはずの構内唯一のコンビニは無いし。
改修工事によって新しくなったはずのトレーニング施設は今にも崩壊しそうな佇まいだ。
ここは、「この世界の私が通う大学」。
決して今ここにいる、別の世界から来た私がいていい場所ではない。
それでも私はここにいる。私のいた世界を、時間を、悲劇で終わらせないために。
空色オヤジの言うところの、「時間の幅」とやらの理解はわりと簡単だった。
時間遡行が出来るようになった時と同じ。まるで最初から自分の体にインプットされていたかのように、こうしてパラレルワールドに跳ぶことが出来た。
……あの栄養ドリンク風の飲み物が作用したのだろうか。正解は私にはわからない。
しかし、重要なことはそれではないのだ。私は今パラレルワールドにいる。自分がもともといたのとは違う世界にいる。
京子さんが、死なないかも知れない世界にいる。
重要なのは、そのことだ。
私は地面に散らばった落ち葉を踏みしめる。
空色オヤジは言った。
『君もこの悲劇的な世界を、誰かに押し付ければいい』
理論は、通っていると思う。現状さえろくに理解できていない私の、つたない理解ではあるが。
問題は、意志があるかどうか。
他の世界の自分を犠牲にしてまで、私の世界の京子さんを救いたいかどうか。
ただそれだけだ。
……正直なところ、私は迷っていた。
他の世界の私に京子さんの死を押し付けた所で、京子さんが転落死することに変わりはない。
教授は悲しむだろう。同じように時間が進むなら、その悲劇を「私」に伝えるだろう。
結局のところ、悲しみの全量は減っていないのだ。
いやむしろ、罪のない別の世界の私を悲しませる分、この方が増えているとさえ言えるかも知れない。
……私は迷っている。
それでも、私は今ここにいる。明確な意思も固めずに。
一言で言えば、見てみたくなってしまったのだ。
教授に弁当を届けに来た京子さんが、死なない世界を。二人で屋上で笑い合って、そしてその先もそれまでと同じように続く、幸せな世界を。
この世界の私と入れ替わるかどうかは、それを見届けてから決めればいい……。そんな楽天的なような悲観的なような思考で、私はこの世界へと足を踏み入れた。
時刻は昼前だった。日付は20XX年8月26日。私の世界では、京子さんが転落死したまさにその日だ。
これから向かうのは、もちろん林田助手が勤務している棟、理学部棟の屋上だ。京子さんと林田助手がよく二人で会っていた場所だった。
私のいた世界とこの世界は違う。違っているはずだ。
それならば、私がこれから向かう場所で、悲劇は起きない。……そうでなくてはおかしい。
私はそれを見届けたかった。それだけで安心できた。この世界では悲劇はないのだと、そう確信したかった。
私は理学部棟に足を踏み入れる。入るやいなや、ひんやりとした空気を置き去りにして、真っ直ぐエレベーターへと向かった。
ふわふわ落ち着かない足元はエレベーターのせいだろうか。私は自問する。
……違う。不安なのだ。落ち着かないのは足元ではなく心なのだ。
そんな心を踏みつけて、私は明るい屋上へと一歩踏み出した。夏の日差しが頭上でらんらんと輝いている。
……誰もいない。
それで正しい。京子さんがここへ来るにはまだ若干の時間があるはずだった。
私は死角となる貯水タンクの裏側に腰を下ろした。少しは影ができているので、他の場所よりは涼しい。
ひとごこちついて、息を吐く。それからゆっくりと腕時計に目をやった。
……あと、15分くらいのはずだ。
元いた世界で読んだ新聞。それによれば約15分後に京子さんは転落死する。そういう予定だった。……予定というのもおかしいかも知れないが。
私は貯水タンクの隙間から、わずかに見える空を見上げる。
真っ白で呑気そうな雲が、今の自分の状況とそぐわなくて苦笑した。笑顔になったことで気が緩む。そういえば時間を行ったり来たりしているせいで昨日(?)からほとんど寝ていない。
私は首を振って眠気を吹き飛ばす。その間も時計の針は着々と時を刻んでいた。
私は針を見つめる。見つめ続ける。
あと10分。あと9分。あと8分……。
誰しも経験があるだろうが、眺めていると時計の針は急にのろのろと動き出すのだ。遊んでいると大急ぎで走りさるくせに。
あと7分、あと6分、あと5分……。
その時が近づくにつれて、私は少し不安になる。京子さんが現れないのだ。
京子さんが死なない、イコール、林田助手とここで普通に会う。という事だと思っていたが、そうではないのかも知れない。
転落死しない代わりに、別の場所で会っているのかも知れない。
そもそも京子さんがここへ来るのは弁当を届けるためだ。今日に限って林田助教は弁当を自分で持ってきたということもあり得る。
あと4分。あと3分。あと2分。あと1分……。
私の不安をよそに、時計は一定のリズムで進む。
あと0分。
その時がきた。
理学部棟の屋上には、誰もいない。涼しくもない熱風がわずかに吹いているだけだ。
私は腰をあげる。
なんだか拍子抜けしたような気分だったが、これはこれで目的は達成できたはずだ。
京子さんは、転落死していない。そもそも屋上にすら来ていないのだから。
ほっとした私が、「さて、それなら今晩林田教授の家にでも行って、幸せなところを拝んでやるか」などと考えていた、その時だった。
私のいた屋上の遥か下。
そこで放たれた悲鳴が私の元まで届いた。
耳が痛くなるような、ブレーキ音とともに。