20XX年8月25日。京子さんが投身自殺をする一日前。まさにその現場となるであろう理学部棟の建物の前に、私はいた。
木に寄り添うようにして木陰に入り、照りつける8月の日差しを避ける。
時刻は午後1時過ぎ。この時間、京子さんは林田助手に弁当を届けに来ているはずだ。それを届ける途中で私と出会い、傷の手当をしてくれたのだ。
前回は林田助手と京子さんの語らいを邪魔するまいと席を外した。しかし今回はここで京子さんを待つことにする。弁当を渡し終えた彼女は夫との時間を終え、家路につくためにこの場所を通るはずである。
弁当を届けに行く時までの京子さんに不審な点は無かった。しかし明日再び弁当を届けに来る彼女は確かにこの場所で自らの命を絶つ。
だからその動機は、この時刻から明日のこの時刻までの間に存在するはずだ。
私は顔を上げて理学部棟の出入口をにらむ。事情が事情なだけに、表情を緩めることはできなかった。
しばらくの間落ち着かない気持ちのまま佇んでいると、目的の人影が姿を現した。
童顔で、小柄で、まるで少女のような風貌。
少し明るい黒色の前髪の間から見え隠れしているのは、間違いようのない京子さんの顔だった。
私はその朗らかな顔つきに少しの安堵を覚えたが、同時に自分の行動の怪しさにどきりとした。
京子さんからしてみれば、つい先ほど別れたばかりの初対面の女が出待ちをしていた、という状況だ。普通ならば警戒の一つもしてしかるべきであろう。
自分の目的に集中するあまり、そんなことにも気が付かなかった。
ところが、京子さんは私を見つけるやいなや手を振りながら近づいてきてくれた。
私の傷の手当をしてくれたことからも分かる通り、この人も夫と同じでお人好しなのだろう。
「あら、またお会いしましたね。御用は済んだんですか?」
夏の太陽に負けない笑顔で、彼女はそう言った。
「え、ええ……。これから駅に向かうつもりです。あんまり暑ので、木陰で一休みしてまして……」
「そうなんですか。私もこれから駅に向かいますけど、よければ一緒に行きませんか」
「は、はい! ぜひご一緒させて下さい」
最寄り駅へ向けて、私達二人は構内を歩いて行く。黄色くなった銀杏の葉がわずかに散っている。たしか銀杏はこの大学を象徴する植物だったなと、ふと思い出す。
「夏ももうちょっとで終わりですね。早く涼しくなってくれるといいんですけど」
そう言う京子さんの額には玉の汗が浮かんでいる。午後二時を間近に控えた時間帯の暑さは、やはりこたえる。
「そうですね。普段室内にいることが多いもので、たまに外にでると日光が厳しいです」
「そうか。学生さんだから、ずっと勉強しているんですね。そういえば、この時期は夏休みじゃないんですか?」
「学部の学生なら夏休みはすごく長いんですけど……私は院生なので、今年はほとんどもらえませんでした……」
肩を落として私は言う。ちなみに夏休みがもらえなかったのは、もちろん10年後の夏のことだ。
「あら、そうなんですか。大変ですね……!」
他愛もない話をしながら、私たちは正門を出た。最寄りの駅までは歩いて5分といったところだ。
私は少し焦っていた。せっかく話をすることが出来たのだから、自殺の動機につながるような、京子さんの内心などを聞いておきたかった。
私はどう切り出したものか悩み、黙りこんでしまう。会話が途切れ、居づらい空気が流れた。
それを見かねたのか、京子さんが口を開く。
「そういえば、さっきの話なんですけど」
「はいっ。えーと何の話でしたっけ……」
「なんで生きてるのかって、おっしゃいましたよね」
「あ、あはは。すいません変なことを聞いてしまって……忘れて下さい」
私がそう取り繕うと、京子さんはわずかに目を伏せた。
「いえ、いいんです。すこし考えてみたんですけど、やっぱり私もわからなくなってしまって。最近はお父さんのお世話に追われて、自分自身のことなんて考える暇もなかったですから」
「そういえばさっきもそんな風におっしゃってましたね。でも、結婚されて、旦那さんの世話を焼くというのもそれはそれで幸せなものとも思えますけど……」
「ふふっ。そうかもしれないですね。今が楽しくないわけじゃないんです。でもそれは『お父さんの生活のため』ってなってしまっているように思えるんです。『私がいないとちゃんとした生活を送れないから』っていう感じで。義務感て言うんでしょうか」
京子さんはそこで一旦言葉を切ると、空を仰ぐように首を上げて続けた。
「結婚を決めた時には『私にとってもこれが最善』って思えていたような気がするんですけどね」
京子さんは顔により一層の影を落としながら言った。
「お父さんとは見合い結婚だったんですよ。3年前の5月の大安吉日。お父さんの仕事が忙しいから、大学のすぐ近くの料亭ででした。その時は確かに覚えていたのに、今はもうなんにも思い出せないんです」
そこで京子さんは言葉を切る。そうして、次の一言を放った。
「過去に戻れるなら、その時の私に聞いてみたいですね。お父さんに研究頑張ってもらわなくちゃ」
おどけたようにそう言う京子さんは、どこか儚げに見えた。
夫を愛する心情。いい年をして学生で独り身の私は、それを理解するには経験が足りなすぎた。
私は返す言葉もなく、黙ってしまう。
その間も私たちは、静かに駅を向かって歩み続けるのだった。
地下鉄のホームで、私たちは向い合っていた。
京子さんと私が乗る電車は、反対の方向だった。そういうことにしておいた。
私は京子さんと林田助手以外に用は無いので同じ方向を装っても良かったのだが、さすがにこれ以上一緒にいるのはためらわれた。
あくまで私たちは今日知り合ったばかりの、他人なのだから。
轟音を鳴らして電車がホームに滑りこんでくる。流れる風に吹き飛ばされそうなほど華奢な京子さんが、肩を押さえながら言う。
「それじゃ、私はここで。怪我したところ、大事にしてくださいね」
「え、えぇっ! もちろんです!」
私は肘を隠すように押さえながら答えた。擦り剥いたはずの私の肘は、その時にはほとんど治ってしまっていた。あれからずいぶん長い時間旅をしたのだ。
電車のドアが閉まる。ガラスの向こうで、京子さんはまだ手を振っていた。
やがてその顔は平行にスライドしていき、私の視界から消えていく。
轟音の余韻を感じながら、私は一つ息をつく。
人気の少ないホームの端へと移動した。そうしてから目を閉じて精神を集中させる。
数分前へ、私は跳ぶ。
目を開いた時、私は地下鉄の改札にいた。改札のすぐ向こうには、数分前の私と京子さんがいる。
二人に見つからないように顔をそむけ、急いで切符を買い直した私はそっと二人の後を追った。
プラットフォームにて、私は二人が電車を待っている場所の、車両一つ分だけ離れた位置にいた。
電車がやってきて、京子さんが乗り込む。それと同じ電車の隣の車両に、私も乗り込む。
車内はそれほど混み合ってはいなかった。車両のつなぎ目付近に陣取った私は、ガラス越しに隣の車両の京子さんを見つめていた。
このまま後をつけて、林田助手と京子さんの住む自宅まで行ってみよう。そう思っていた。
教授の話が正しければ、二人は今晩喧嘩をするはずだ。その内容が明日の死に大きく関わっていると思われる。
私は未来の教授に聞いた喧嘩のあらましを思い出していた。
『「どうした、何があった」と俺は聞いた。それに対して妻はこう言ったんだ。
「なんのために生きているのか、分からなくなった」とな』
こんなセリフから、喧嘩が始まったはずだ。
私はずっと感じながらも、目をそむけていた事実をようやく直視した。
この京子さんのセリフは、私が引き出したものなのではないだろうか。
京子さんと一緒に林田助手のところへ向かう途中で、私の口から思わず出たセリフ。それを偶然にも京子さんに聞かれてしまった。
その結果が、さっきまでの会話だ。明らかに京子さんは気に病んでいる様子だった。
私の視界がぐにゃりと歪んでいく。
『なんで生きているのかわからない』
このセリフは、京子さん→教授→私の順で伝えられたと思っていた。
だがしかし、違ったのだ。京子さんの前にもう一つ矢印が入る。
私→京子さん→教授→私→……。
高校の数学で習う、無限数列。これはそれに似ている。
ループをつなげてしまったのは、疑いようもなくこの私だ。
まだそうと決まったわけではないが、自殺の動機に私の行動が大きく関わっている可能性がある。
貧血にも似た視界の歪みを感じて、私は寄りかかっていた壁に体重をかける。
京子さんの姿を片目で見つめながら、ため息をつこうとして肺をいっぱいに広げる。
しかし、すぐに私の喉から出ていくはずのため息が、なかなか出ていかなった。
身体が明らかな異変を感じている。
電車内にも関わらずあまりも周囲が静かだった。全てが静止したかのように、何もかもが音を立てなかった。
私はこの異変を知っている。これまで二度ほどあった。
時間が止まっていた。あの男がまた来たのだ。
あの男、空色オヤジが現れるのを私は今か今かと待った。そうしながら、私は今までとは一点違った部分があることに気がついた。
身体が動かせない。
これまでは周囲のものの動きが完全に止まろうとも、私自身の身体は難なく動かすことが出来た。
しかし、今回は動かない。ため息がなかなか出ていかないのもそれが理由だった。
私がこれまでに無い状況に戸惑っていると、どこからともなく声が響いた。
「やあ。また会ったね」
目線は京子さんの方を向いて固定されてしまっているので見ることはできなかったが、そのダミ声は明らかに空色オヤジだった。
車両の中ほどに現れたらしいそいつは、ゆっくりと私の方へ近づいてくる。
私の視界にようやく入ったところで、彼はこちらを一瞥した。
「今回用があるのは君じゃないんだ。やはり時間遡行術を使える者は、時間を止めても意識までは失わないみたいだね」
私は空色オヤジ言っている言葉の意味がわからなかった。
意識を失わない? どういうことだ?
用があるのは私じゃない? じゃあ誰に?
そこまで考えたところで、私は自分の視界の端で何かが動くのを感じた。
童顔で、小柄で、まるで少女のような風貌。
先ほどまで盗み見ていた、京子さんだった。
彼女も異変に気がついたらしく、周囲の様子を不安そうに見回している。席に座ったまま動かない乗客に、声をかけようとすらしているように見える。
おかしい。おかしい。おかしい。
空色オヤジもさっき言っていた。『時間を止めた』と。であれば、当然京子さんも動きを止めていないとおかしい。
私の動揺をよそに、空色オヤジは車両のつなぎ目のドアに手をかける。
「ちゃんとこのドアは動くようにしてあるんだ。用があるものの時間まで止めちゃったら意味が無いからね」
ドアが、それ特有の音を立てて開く。空色オヤジは隣の車両へと足を踏み入れていく。
いま空色オヤジが言ったセリフをそのままの意味で取るならば、今回彼が用があるのはドアと、そして--。
ドアがそれ特有の音を立てて、私の目の前で閉まった。