Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      

 吸い込んだ息を吐くことすらできない状況であるにもかかわらず、私の意識はとてもはっきりしていた。
 連結部のドアの向こうでは空色オヤジが京子さんに話しかけている。何故だか声は聞こえなかったが、様子は見ることができた。おそらく初めて私と出会った時のような説明を彼女にもしているのだろう。
 当然彼女も不審の色は隠せない様子だったが、周囲の状況を見れば結局は空色オヤジを信じざるを得ない。だんだんと警戒を解いて彼の話に耳を傾けていく様子がわかる。
 空色オヤジの目的は何なのだろう。私は疑問に思ったが、これまでの彼の行動を思い返せば候補は一つしか無かった。
 彼が私の前に現れるのはどんな時だったか。
 一回目、京都で私に時間遡行術・初級を教えてくれた。
 二回目、大学の構内で私に時間遡行術・中級を教えてくれた。
 彼が現れるのは、現代人に時間遡行術を教える時であるのは明白だ。その意味ではこの次の彼の行動も私にはわかりきったものだった。
 空色オヤジはしばらく京子さんとなにごとか話した後、懐から二本の瓶を取り出した。
 忘れもしない。私も京都と大学の構内で飲んだ、あの二本の瓶だ。リポビタンDとオロナミンCドリンク。
 『意識を変えやすくするお薬』京都で、未来から来た私にそう言われた。
 あれを取り出したということは、やはり彼の目的は一つだ。
 京子さんに時間遡行術を教えるつもりなのだ。
 一時は私が自ら命を絶とうとまで考えた、その原因となった技術を彼女に授けるつもりなのだ。
 身体を動かせない私は、声にならない声を上げる。しかし当然それに気がつく様子もなく、京子さんは恐る恐るその二本の瓶を手にとった。
 そして、少しためらうような素振りを見せた後に、二本とも一息で飲み干した。
 その後の展開は、何もかも私が体験したものと同じだった。
 京子さんのもとに一分後の未来の京子さんが訪れ、時間遡行術を教える。その練習によって、彼女も程なくして時間遡行術をマスターしたようだった。
 様子を見ることしかできない私には、彼女がそれを何に使おうとしているのかを知ることはできない。しかし、あの技術の習得が必ずしも良い方向に働かないことは私自身が体験したとおりだ。
 目的を果たしたであろう空色オヤジは、私の時と同じようにふらりと姿を消した。
 姿を消す瞬間空色オヤジは私の方に身体を向け、にんまりと笑った。
 
 空色オヤジが姿を消すやいなや、止まっていた時間が動き始めた。私は体感時間で数十分前に吸い込んだ息をようやく吐くことができた。
 苦しさにむせ返り、その場でひどく咳き込んでしまう。
 周囲の客からすれば、私が突然に咳き込み始めたように見えたのだろう。好奇や訝しみの視線があちこちから私に向けられる。
 ふと、咳き込む私の身体が進行方向に揺らいだ。電車が駅に止まるのだ。どうやら空色オヤジが現れたのは電車が停車を始める直前だったらしい。
 意識が朦朧としている私は必死で手すりにつかまり体勢を維持する。電車が完全に停止するまでの間が、嫌に長く感じられた。
 その時、私ははっと首を上げて、目線を隣の車両にやる。
 京子さんが、いない。
 ひどく焦りながら周囲を見回すと、今まさにドアから足を踏み出そうとしている小さなシルエットが間に入った。
 どうやらこの駅が目的地だったようだ。
 私は頭を振って意識をはっきりさせると、猛然と立ち上がりドアへと向かった。途中何人かの乗客にぶつかり迷惑そうな顔を向けられたが、そんなことに構っている暇はなかった。
 閉じる寸前のドアからなんとか滑り出し、ホームに降り立つ。焦りながら周囲を見渡すと、階段を登っていく京子さんの姿が見えた。
 降車した客自体はそこまで多くなかったが、ホームの狭さのせいで彼女を追うのは楽ではなかった。
 人ごみを掻き分けるようにして、前へと進む。
 階段を登り切ると、今度は女子トイレへと入っていく京子さんの姿が見えた。
 私はそれを見て、少しだけ気が緩む。
 少なくともこれで、京子さんが用を足して出てくるまでは余裕ができるからだ。
 私は女子トイレの出入口が見える場所の壁によりかかり、荒れた息を整える。
 頭に浮かんでくるのは、空色オヤジのことだった。
 これまでもずっとそうではあったが、彼の目的というものがまるでわからない。
 そもそも私に時間遡行術を教えた動機すらわからない。これまでなぜ私はそれについて熟考しなかったのだろうか。
 なぜ私に? そして、なぜ京子さんに?
 考えたところで、当然答えは出なかった。
 私は改めて女子トイレの方を見つめる。……京子さんはまだ出てきていないようだ。
 私は自分の腕時計に目をやる。京子さんがトイレに入ってから、すでに15分が経過しようとしていた。
 ……遅過ぎないだろうか。
 私の心に疑心が生まれ、そしてそれはじわじわと広がっていく。
 それが一定の値を超えた時、私ははじけ飛ぶように女子トイレの入り口へと向かった。
 女子トイレの中に入り、様子を伺う。少なくとも洗面台には京子さんはいなかった。
 個室のドアは4つあり、そのうち1つだけが閉まっている。当然、その中に京子さんがいるはずだ。
 私は閉まっている個室の隣の個室に入る。そして一瞬ためらってから、便器を足場に隣の個室を覗きこんだ。
「……!」
 個室はもぬけの殻だった。その状況を目の当たりにすれば、頭の働きが鈍い私でもわかる。
 彼女は、どこか別の時間に飛んだのだ。つい先程空色オヤジによって授けられた技術で。
 額からたれた汗のしずくが、閉ざされた個室にぽたりと落ちた。

       

表紙
Tweet

Neetsha