Neetel Inside 文芸新都
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 空っぽの個室を見下ろしながら、私は自分の甘さを悔やんだ。
 時間遡行術なんて能力を手に入れたら誰だって試してみたくなるに決まっている。京子さんがそれをすぐに行うのは予想しなければならなかった。
 私はひとまず個室の仕切りから身体を下ろし、深呼吸を一つしてから思考を巡らせた。
 京子さんはどの時間へ跳んだのだろうか。
 過去か、未来か。それすらもわからない。
 何らかの目的を終えた京子さんが、どこの時間に帰るかも定かではない。
 もしも京子さんがこの時間のこの場所に帰ってくるつもりならば、姿を消した直後に再び姿を表してもおかしくない。それが起こっていない時点で、彼女がここへ戻る可能性は低いように思えた。
 このままここで待つ。
 今日の夜には自宅に戻るはずだから、自宅で待つ。
 追いかける。
 いくつかの選択肢を思いつくがどれが最善かを判断しかねて、私は俯いた。
 しかし、京子さんの死の原因を知るために選べる選択肢は最後の一つだけだった。跳んだ先で彼女が何を見るのか、知らなければならない。
 運の良いことに私も時間遡行の力を持っているのだから。
 問題はどこへ跳んだかだ。それさえわかれば追うことが出来る。
 私は京子さんとのこれまでの会話を頭の中で高速回転させる。その中に何らかのヒントがあったかもしれない。
 彼女が行きたがっていそうな時間、場所。その情報が無いかを検索する。
 彼女と話したのはたったの数回だ。大学構内で理学部棟へ向かう途中、理学部棟の林田助手の研究室の前、大学から駅までの道のり。
 行き当たったのはつい先程の記憶。大学から駅に向かう道のりの途中での会話だった。
『お父さんとは見合い結婚だったんですよ。3年前の5月の大安吉日。お父さんの仕事が忙しいから、大学のすぐ近くの料亭ででした。その時は確かに覚えていたのに、今はもうなんにも思い出せないんです』
『過去に戻れるなら、その時の私に聞いてみたいですね。お父さんに研究頑張ってもらわなくちゃ』
 この答えが正しいかどうかはわからない。しかし他にあては全くない。
 とにかく手当たり次第に行ってみるしかない。幸い私には無限の時間があるのだから。
 大安。それは日にちの吉凶を表す六曜の一つだ。他に先勝、友引、先負、仏滅、赤口がある。
 私は携帯電話をポケットから取り出した。私のいた時代では当たり前のそれも、おそらく10年前のこの時代ではオーバーテクノロジーのかたまりだろう。
 しかし今はそんな先進の技術など何も必要がない。私は携帯を操作し、カレンダーのアプリケーションを起動する。アイコンが画面全体に広がるようなモーションをして、縦横にシンプルに区切られた画面が現れた。
 それに目を落として私は落胆する。多くの携帯のカレンダーアプリがそうであるように、私のそれは六曜の表示に対応していなかった。
 どこかコンビニにでも行けば六曜の載っているカレンダーもあったかもしれない。しかし焦りに満たされた私はそんなことにも頭が回らず、呆然としてしまっていた。
 そんな時、画面の左上にある小さな設定ボタンが目に入った。確か、カレンダーの表示方法を切り替えられる機能がついていたはずだ。
 私はわらにもすがる思いでそのボタンに触れる。様々な表示方法の選択肢の中の、たったひとつに目が止まった。
 それは旧暦の表示機能だった。
 現在使われているグレゴリオ暦に重ねて、旧暦を表示することが出来るものだ。
 私は必死になって自分の記憶を手繰り寄せる。
 いわゆる六曜は先勝→友引→先負→仏滅→大安→赤口で一日ごとに切り替わる。大安は「旧暦の月と日を足した数がちょうど6の倍数になる日」という定義だ。
 すぐさま画面をスクロールし三年前の5月のページを表示した。そしてそこで、旧暦表示機能を使う。
 元々の新暦と、表示された旧暦を目で追う。そして5月22日日曜日という日付が私の目に止まった。この日は旧暦では4月20日になる。
4+20=24。紛れも無い6の倍数だ。
 それを認識した瞬間に私はその時間へと跳んだ。
 駅の中の女性用化粧室。その中に空っぽの個室は二つとなった。

 京子さんからすれば三年前、私からすれば十三年前の世界に、私は来ていた。現在は一年一昔などと言われているが、少なくとも私にとって十年前と十三年前に大した違いは感じられなかった。
 私は再び京子さんの言葉を思い起こす。彼女が本当に林田教授の見合い会場に向かおうとしているのなら、その目的地は大学の近くの料亭であるはずだ。
 大学の周囲には学生向けの低価格な飲食店こそ数多くあったが、見合いの会場となるようなある程度格式の高い料亭となると私はひとつしか知らなかった。
 その料亭の目の前に私はいた。古めかしい木造の看板には「やまもと」と書かれている。この看板は私のいた十三年後の未来でも健在である。
 いわゆる日本的な料亭だ。老舗だけに都内にしては敷地が広く、中庭には池やちょっとした広場もある。
 お見合いにつきものの、「若い二人だけで散歩にでも……」をやるにも好都合な場所なのだろう。
 もちろんお見合いなどしたことのない私の妄想に過ぎないが。
 私は物陰に身を隠し、周囲を見渡した。万一京子さんと鉢合わせなどしたら面倒な事になる。
 私としては彼女を追ってここまで来たのですべての事情は把握しているが、彼女はそうではない。
「過去に跳んだら元の時代で知り合いになった女と鉢合わせした」。そういう状況になる。
 その場合彼女がどのようなリアクションを取るかわからない。出会わないまま一方的に監視するほうが良いだろう。
 しばらく周囲の様子をうかがっていた私だったが、やがて一つの小さなシルエットが店の門のあたりに現れた。
 果たして偶然なのか、それとも必然なのか。
 間違いない。それは私の知っている京子さんだった。
 先ほどまでいた、この時代の三年後。そこで着ていた服と全く同じ普段着。これから見合いに赴くこの時代の京子さんではあり得なかった。
 門まで来ておきながら、彼女はどうしたら良いかわからなくなったらしい。キョロキョロと周囲を見回している。なんとも言えない愛らしさだった。
 少しの間そうしていた彼女だったが、意を決したように恐る恐る料亭へと足を踏み入れた。私も当然その後をつけていく。
 どうやらこのまま店内に入るのではなく、庭園の方に回るようだ。
 ししおどしの定期的な音が響く中、彼女は庭園の中程の植え込みに姿を隠した。
 私もまた、その植え込みが見渡せるようなスペースに身を隠す。
 拙い二人の侵入者。私と、京子さん。
 このあと私たちは、一体どんな場面に遭遇するのだろうか。
 息を殺しながら、私はそんなことを考えていた。

       

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