Neetel Inside 文芸新都
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 料亭にたどり着いてから十数分。私は下手くそな潜伏を続けていた。目線の先には同じように下手くそな潜伏をする京子さんがいる。5月らしい陽気で、太陽が高い。しかし先程まで真夏にいた私にしてみれば、非常に涼やかなように感じられた。
 そろそろお見合いは始まったのだろうか。料亭は静かなもので、建物の中に人がいるかどうかすら定かではなかった。
 京子さんは相変わらず建物の方を見つめている。真剣な面持ちで、動き出す気配はない。
 彼女は今何を考えているのだろうか。物静かな横顔からは何も読み取ることはできなかった。
 私は少しだけ身体から力を抜く。明らかに気持ちが弛緩してきてしまっているのがわかる。
 ここからの京子さんの行動の全てが明日の自殺につながっている。そう考えて、私は気持ちを引き締め直した。
 そんなことを考えるうちに、建物の方からにわかに物音がし始める。
 縁側の床が軋む音だ。
 規則的に伝わるそれから、ふたり以上の人間が歩いてくることがわかった。
 京子さんも顔を上げて、音のする方へと目をやっている。
 少しして、私と京子さんの目は歩んでくる二人の人影を捉えた。それが誰なのかはもうわかっていた。
 一人は林田教授、一人はこの時代の京子さんだ。便宜上、林田氏と京子さん(旧)と呼ぶことにする。
 私は二人の姿を見た瞬間に息を飲んでしまった。
 まず、目に入ったのは京子さんの華やかさだった。お見合いかくあるべし、と言いたくなるような艶やかな和服が、凹凸の少ない彼女の身体にぴったり合っている。短い髪はおとなしく整えられ、頭頂部に近い位置に緑色のかんざしをしている。目を凝らすと、その緑が葉桜の模様であることがわかった。
 林田氏は、なんと言っても若かった。私がいた時代よりも13歳若いので当たり前ではあるが、10年前の世界の林田助手よりも明らかにハツラツとしている。林田教授の年から逆算するに、林田氏の年は二十代後半のはずだ。しかし目の前の彼は、若さどころか幼さすら感じさせた。
 二人は付かず離れずの距離で横並びになって歩いてくる。どちらも緊張が隠せていない顔色で、口数は少なかった。
 京子さん(旧)は必死に何か喋ろうとしていたが、林田氏はそれに二言三言返すだけで口をつぐんでしまう。典型的な『女性と話すのが苦手な男』という感じだ。
 庭に潜んでいる私達にかなり近い位置まで来たところで、林田氏と京子さん(旧)は立ち止まる。そこまで来た時には、もう彼らの声も聞き取れた。
「き、きょうこ、さん。疲れませんか? 良ければ少しや、休んで行きましょう」
 林田氏の声はところどころ震えている。三年後にはすっかりバカップルになっているとは思えないぎこちなさだ。
「そ、そうですね。じゃあ少し座ってお話しましょうか」
 京子さん(旧)は濃度70%くらいの笑顔でそう返すと、縁側の床を手でかるく払って腰を下ろした。それに習い林田氏もそのとなりへ座る。二人は庭へと足を投げ出したような形で、隣り合って座っていた。
「和希さんは大学ではどんな研究をなさっているのでしたっけ……?」
 空いた間を埋めるように、京子さん(旧)は、おずおずと切り出した。ちなみに和希さんというのはもちろん林田氏の下の名前である。
「あ、はい。自分は時間遡行物理学というものを学んでおりまして、遡行、と言っても決して遡ることのみを対象にしているわけではなく、時間の流れというものをより定量的に理解することでその振る舞いを把握し、それを応用することを考える学問であるわけで、それを利用すれば未来に行く事ももちろん可能なはずですし、まだまだ未知の部分の多い学問ではありますが、近年面白い論文が発見されたこともありまして、これからますます発展の兆しを見せているところでして……」
 研究内容はなんですか、というのは、話下手な研究者に聞いてはいけない質問ナンバーワンである。とくとくと語り続ける林田氏に、京子さん(旧)は笑顔のまま額の汗だけを増やしていく。
「へ、へえ~。すごく意義深いことをやってらっしゃるんですね~」
 そう言った京子さん(旧)はもはや目が死んでいた。この二人が結婚するとは、未来から来た私達しか予想できないだろう。
 京子さん(旧)の言葉を真に受けたのか、林田氏は照れて頭をかいている。間違いない。この奥手である意味天然な感じは、私の知っている林田教授その人と同じだ。
 ちらりと京子さん(新)の方を見ると、彼女もじっと目を見はって二人の方を見つめている。こころなしか口元が緩んでいるようにも見えた。
「……ところで和希さんとは、今回どういったご縁でお会いできたんでしょう。世話人の方からは、実はあまり詳しくお聞きしていないもので……」
 京子さん(旧)が露骨に話題を切り替える。さすがにこれ以上研究の話を聞くのは辛かったのだろうか。
 ちなみに世話人というのは見合いを取り持つ人のことだ。いわゆる見合い写真を持って、双方に了解を取りに行く人のイメージで概ね正しい。
「世話人の方が私の父と懇意なもので、そのつてのようです。なかなか身を固めない僕に父が業を煮やしまして……」
 林田氏はバツが悪そうに鼻の頭をかく。一人称が安定しないのも、緊張のせいだろうか。
「あら、そうなんですか。それなら私と似たようなものですね。私は世話人の方の姪と仲良くさせてもらっていますから、そのつながりです。でも息子の結婚相手を心配してくださるなんて、いいお父様ですね」
「そうですね……父には感謝しています。男手一つで、僕をここまで育ててくれましたから……。こんなことまで迷惑かけちゃいけませんね」
 少し不自然に笑う林田氏は声のトーンを落として続ける。
「多分心配なんだと思うんですよ。父自身が、母に逃げられてしまってるから……。息子の僕が幸せに結婚することが、人生の目標の一つだと言ってました」
「そうなんですか……。じゃあ和希さんはたくさん幸せにならなきゃいけませんね」
「そうですね……! でも、もちろん親父のために『幸せにならないと!』って気負っているわけではないですよ。むしろ、幸せな家庭を持ちたいっていうのは僕自身の気持ちですね。自分と家族が幸せでいられる場所っていうのを作りたいんです」
 そこまで言って、林田氏は我に返ったように顔を赤くした。
「な、なんかすみません。しめっぽい話とか、夢みたいな話ばかりしてしまって……。そ、そういえば京子さんは、看護婦をされているんですよね。お仕事、お忙しそうですね」
 今度は林田氏が話題を替える番だ。京子さん(旧)は空気を変えるように、少し大げさなくらいの笑顔で話し出す。
「忙しいは忙しいですね! でも、毎日がとっても楽しいですよ。やっぱり病院に来る人っていうのは、なんらかの苦しみを抱えている場合が多いんです。そういう人達が、できるだけストレスなく病院にいられるように。自宅にいるような、安心できる居場所を与えられるようにしたいなぁって……」
「なるほど……。居場所、ですか」
 そこまで聞いたところで、私はふと京子さん(新)の方に目をやった。そして、その表情に驚愕した。
 彼女はぼたぼたと涙を流していた。
 まるで幼児がそうするように頬を真っ赤にして、鼻水を垂らしている。嗚咽を漏れさせまいと口元を手で覆っている。
 私は何がなんだかわからなかった。
 『その時は確かに覚えていたのに、思い出せないんですよ』
 以前彼女が言っていたセリフだ。林田教授と結婚することを決めた、その理由。それを思い出すべく彼女はここにいるはずだ。
 まだお見合いをしている二人は、他愛もないことしか語っていないように思えた。彼女の琴線に、いったい何が触れたのだろうか。
 当人たちしかわからないことがある、と言ってしまえばそれまでではある。なにしろ京子さん(新)だって、立派な当人なのだから。
 動揺する私をよそに、泣きはらした京子さん(新)は姿を消した。
 その消え方に、私はさらに焦る。時間跳躍だ。
 縁側では未だにお見合いの二人が語らっている。なんの余韻も引きずらずに、京子さん(新)は去ってしまった。
 わけがわからないまま、私はひとまず三年後の世界に跳ぶのだった。

       

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