いつもように吐き気がするほど乱雑な空間を通りぬけ、気がつけば私は地下鉄のトイレの個室にいた。
 私が元々いた時代の10年前。林田氏と京子さんが見合いをした3年後。
 すなわち京子さんが亡くなる時代。20XX年8月25日だ。
 時間跳躍して姿を消した京子さんに追いかけるべく、とりあえず私はこの時代に戻ってきた。
 まさに、とりあえず、である。彼女がついさっきまでいた三年前の世界から、どこの時代に跳んだのかということは全くわからないからだ。
 なんとなく、元いた時代に帰ってきているような気がしてこの時代に戻ってきただけだ。なんの理論も確証もない。
 しかしいずれにしても、この日の夜に京子さんは自宅で林田教授と口論をするはずだ。
 彼女が別の時代に跳んだとしても、最終的に今晩の口論を目撃することはできる。私はそう思い直して個室の扉に手をかけた。あまり新しくない個室の扉はきしんだ音を立ててゆっくりと開く。
 確か出口は右だったような気がする。
 個室から出た私はうつむいて右へと身体を回す。その時だった。
 ごつん、と鈍い音がして、私の目の前に火花が走る。
 何が起こったのかわからないまま、私は一瞬つむってしまった目を開いた。
 そこには額を抑えてうずくまる京子さんがいた。ただでさえ小さい彼女がうずくまっているものだから、私が彼女を見下ろすような形になる。
 私はようやく状況を理解し始める。おそらく、私と彼女はほぼ同じタイミングで隣同士の個室から出てきたのだろう。
 私は左の個室から。彼女は右の個室から。
 そして私は右に出口があると思って右へ。彼女は左に出口があると思って左へ。それぞれ身体を向けた時の事故だったということだろう。
 結局のところ出口は私の視線の先にあるので、出口の位置の認識が正しかったのは私の方ということになる。
「きょ、京子さんっ!」
 私はじんじんと痛む額を片手で押さえながらそう言った。京子さんの方もようやく状況が飲み込めてきたようで、私を上目遣いで見上げた。
「あ、あなたは先程の……! え、えーとその、すいませんぶつかってしまって……!」
 京子さんは見たままに随分と動転しているようだった。
 初めて時間遡行術なんていうSFを実践したばかりなのだから、ある意味で自然といえば自然かもしれない。
「いえいえ、こちらこそ……! ぐ、偶然ですね、あはははは……」
 私は適当にごまかしてそそくさとその場をさろうとする。なぜなら―
「あ、あれ。というかさっき反対の方向の電車に乗りませんでしたっけ私達」
 京子さんは再び心底不思議そうに私を見上げる。そうだ。そこを突っ込まれたくなかったから、できるだけ早くこの場を後にしたかったのだ。
「え、あ、あはは。実はあの後こっちの方に用があったのを思い出しまして……すいませんお騒がせしました!」
 最後のセリフを後ろに残して、私は脱兎のごとくかけ出した。
「ま、待ってください!」
 私の背中に京子さんの言葉が突き刺さる。
 私はピタリと歩みを止め、振り返らずにその場にたたずんだ。
「な、なんでしょうか……?」
 私は首だけで振り返り、中途半端な笑顔でそれだけ聞いた。
 京子さんはうずくまったまま、私の目をきっと見据えて口を開く。
「わたしっ! さっき言いましたよね。『今はもうなんにも思い出せない』って!」
 空間に京子さんの声が響く。たまたまそこに居合わせた見ず知らずの人達も何事かと遠巻きに京子さんの方を見ていた。

『結婚を決めた時には「私にとってもこれが最善」って思えていたような気がするんですけどね』
『3年前の5月の大安吉日。お父さんの仕事が忙しいから、大学のすぐ近くの料亭ででした。その時は確かに覚えていたのに、今はもうなんにも思い出せないんです』
『過去に戻れるなら、その時の私に聞いてみたいですね』

 彼女が言っているのは、きっとこの一連の言葉のことだろう。周囲の反応を気にもとめない様子で、京子さんは続ける。
「思い出せましたからっ……! 何があったかは言えないけど、信じてもらえないと思うけど、確かに思い出せましたからっ!」
 ついさっき過去の世界で流したのと同じ涙を、彼女は流していた。
 うつむく彼女に、私は狼狽して駆け寄った。肩に手をおいて、小さな子をあやすかのようにじっと彼女を見つめる。
 そのかいあってか、彼女は少しだけ落ち着きを取り戻した様子で私を見上げた。目尻にはまだ少し涙が残っている。そんなことはお構いなしに、彼女は打って変わって静かな口調で話し始めた。
「私は、お父さんの……林田和希の居場所になってあげたかったんです」
「これまでたくさん悲しみや苦労を経験してきたお父さんとだからこそ、きっと明るくて楽しい家庭が作れるって、そう思ったんです」
 彼女は一言一言を噛み締めるように紡いでいく。
「どうして忘れちゃってたんだろう……」
 おそらく、過去から戻ってきたことで感情が高ぶってしまっているのだろう。少し話しただけの私に、感情の塊をがんがんとぶつけてくる。
 私は彼女が落ち着くまで、彼女の肩に手を置いて、じっとその場で彼女を見つめ続けた。