Neetel Inside 文芸新都
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 私は眠い目をこすりながら、相変わらず林田邸の庭に潜んでいた。空も白み始めている。真夏の朝方らしい、少し涼しい空気が私の顔を撫でた。
 林田助手と京子さんの喧嘩、というよりも話し合いは、結局夜通し行われた。未来の林田教授に聞いていた通りである。
 結局のところ、京子さんの自殺につながるようなやり取りというのは全く無かった。最初から最後まで、険悪な雰囲気になるようなことはなかった。京子さんが林田助手と添い遂げようと決めたその時の気持ちを、二人で確認し合っただけだ。
 そんな話し合いもそろそろ終わろうとしていた。二人は疲れきったような、それでいて満足したような、そんな表情で見つめ合っていた。
「結局、夜通し話しちゃいましたね」
「そうだな……だが、お前の気持ちが聞けて良かった。たまにはこういう機会も必要なのかもしれん」
 林田助手は少し照れくさそうに、頬を赤らめている。
「もしもこれからまた悩むことがあれば、こうやって話しあおう。喧嘩する度に仲直りしよう。そうすればきっとうまくいくだろう」
 未来の林田教授からは、とてもこんなセリフを吐いている姿は想像できない。
 だが、人には多くの一面があるということなのだろう。
 家族の前では愛情深い一面も見せる。そんな林田助手を、私はとても素晴らしいと思った。
「そうですね……。また喧嘩すると思うと、ちょっと不安ですけど」
 京子さんは少しの不安と少しの安心を含んだような、複雑な笑みを浮かべた。それを感じ取った林田助手も、困ったような表情を浮かべる。
「ま、まあそうは言うが、二人一緒なら――」
「でも、未来のことはわからないですからね! 不安は不安ですけど、二人一緒に頑張れば、きっと大丈夫でしょう」
 京子さんは林田助手の言葉を遮ってそう言った。セリフを取られてしまった林田助手は一瞬きまり悪そうにしていたが、すぐに笑顔になって応えた。
「……そうだな。頑張っていこう」
「はいっ!」
 最後は二人とも笑顔で見つめ合う。
 なんの問題も、なんの障害も無い。お互いを信頼した笑顔が、夏の朝日に照らされていた。

 私は京子さんの自殺の動機についてもう一度考えていた。未来の林田教授の口ぶりでは、この口論こそがその動機であったはずだ。
 しかし、二人の話し合いはこうして円満に解決してしまった。
 私が彼女たちに出会ったことで、何らかの修正が効いたのだろうか。
 いや、違う。一瞬浮かんだ楽天的な考えを、私は自分自身ですぐに否定する。
 私とのそのような接触は織り込み済みで、彼女は死を選ぶはずなのだ。私は彼女が死ぬ未来からこの時代へとやって来た。その事実が変わることはないはずである。
 今の段階の彼女はとても自殺をするようには見えない。つまり今日の午後までに、彼女を死に走らせる何かが起こるはずなのだ。
 その時の私には、その理由は皆目検討もつかなかった。
 しかしそれはその後すぐにわかることで、この時の私が十分に考えを巡らせたならたどり着きうる答だった。
 『でも、未来のことはわからないですからね!』
 彼女は一体どんな気持ちでその言葉を口にしたのか。それさえもっと考えていたならば。

 その後、林田助手はシャワーを浴びてから着替えを済ませると、再び大学へと向かったようだった。一睡もしていなかろうが、仕事を休むという選択肢はないのだろう。そういえば未来の林田教授も仕事を休んでいるのを見たことがない。
 京子さんはそんな林田助手を玄関まで見送ってから、台所へと向かったようだった。包丁がまな板を叩く音や、ガスの火をつける音が聞こえる。
 きっと林田助手の弁当を作っているのだろう。
 少しして、京子さんは居間へ姿を現した。どうやら弁当づくりは終わった様子である。エプロンを外して、丁寧にたたみ始める。
 時刻は午前九時くらいだろうか。人心地ついた京子さんは、眠たそうな顔で居間のちゃぶ台の脇に座っている。
 弁当を届けに行くまでには少し時間があるはずだ。その時間を使って、少し寝たほうがよさそうに見える。あんな様子で外に出たら、自殺する前に交通事故にでもあってしまいそうだ。
 私の余計なおせっかいをよそに、京子さんは座りながらぼんやりしている。
 いや、一瞬前まではしていた。
 その時、京子さんは何かいい考えを思いついたような、しかしその考えの後ろめたさに戸惑うような、そんな複雑な表情を浮かべていた。
 例えるならば、テスト中にカンニングの方法を思いついた小学生が、それを実行するかどうか迷っているような、そんな表情だった。
 しばらくそんな様子で考え込んでいた彼女だったが、不意に決心したようにコクリと頷いた。
 そして、次の瞬間。
 彼女の姿はその場から消えていた。

 一瞬の間、現状を把握しきれない私の脳が停止してしまう。
 そうしたあとで、私はすぐに悟った。
 彼女は、跳んだのだ。
 過去か、未来か、それはわからないが。
 事態を理解した私に、これでもかというほどの焦りが押し寄せる。
 一体どこに! いや、いつの時代に! 今すぐに追いかけるべきだと思いながらも、どの時代に追いかけていいか全くわからなかった。
 どうすればいい、どうすればいい、どうすればいい。
 働き始めた私の脳の回転は遅い。
 しかしそんな私の焦燥感は、次の瞬間にすっかりなくなってしまう。
 京子さんが再び居間へと姿を現したのだ。
 時間旅行を終えて、自分が出発した時刻へと帰ってきたのだろう。彼女が姿を消していたのは、時間にすればわずか数秒の間だったに違いない。
 私は一瞬安堵したが、その後すぐに事の重大さに気がついた。
 私は京子さんに目をやる。
 そこには、先程までの笑顔は無かった。夫と意見をぶつけあって、すっかり不満を吐き出して、そうして再び仲直りをした、その笑顔は無かった。
 あるのはただひたすらの、絶望だった。
 よく見てみれば、着ている服もつい一瞬前までと比べて随分乱れている。
 少しだけコケた頬からは、かなりの長期間、時間旅行をしていたことが推し量れた。
 私は確信する。彼女を自殺に追い込む何かが、このひと刹那の時間旅行にあったのだ。
 そこで一体何があったのか。それを知るためには、彼女がどの時代へと跳んだのか知る必要がある。
 私は必死で考えを巡らせる。いつだ、いつだ、いつだ、いつだ、いつだ。
 かつてない焦りが私を襲う。彼女の自殺、その肝心かなめの動機が、時間跳躍にあるなんてことは考え付きもしなかった。私は自分自身の足りない頭を呪った。
 感情と思考の嵐が私の頭の中で荒れ狂う。手の付けられない規模のそれは、同じ所を堂々巡りで少しも前には進まなかった。
 しかしその嵐は、一瞬にして消え去った。うなだれる京子さんの表情をもう一度見た、その瞬間に。
 見覚えがある。
 あの絶望の表情は、どこかで見たことがある。私はそう思った。
 いや、その表現も適切ではない。表情と言うよりも、にじみ出ている感情。もう本当に、本当に手の尽くしようのないことに直面した時の、そんな絶望の感情に覚えがあるのだ。
 それを思い出した時、私の中ですべての糸がつながった。
 
 あれは、私だ。

 私はこれまでの旅路を振り返る。
 京子さんの死の運命を変えるべく、この時代にやってきた。
 その運命が変えられないことを知った。
 空色オヤジの力添えで、いくつかの平行世界を旅した。
 それでも逃れ得ぬ、死に直面した……!

 その時の深い絶望が再び私を焼いた。京子さんから感じた絶望は、まさにそれだったのだ。
 そんな絶望を感じた私は、その後にどんな行動をとったのか。
 屋上。フェンス。地面。浮遊感。涙。
 なんのことはない。京子さんの死の動機は、私が身をもって体験したことだったのだ。
 私は彼女の言葉を思い出す。
『でも、未来のことはわからないですからね!』
 彼女は気づいてしまったのだろう。自分ならばそれがわかるということに。
 そして、未来へと旅立ったのだ。
 未来の自分が果たして幸せなのか。林田助手とは上手くやっていけているのか。
 それをほんの少しだけ知りたいと、そう思ってしまった彼女をどうして責められようか。
 しかし、私は知っている。彼女は未来へと跳ぶことはできない。
 なぜなら彼女は、今日この日に死ぬ運命にあるからだ。彼女には今日より先の未来はない。
 彼女はきっと、何かの間違いだと思っただろう。何度も時間跳躍を試しただろう。もしかしたら、空色オヤジから並行世界の存在すらも教えられたかもしれない。この私がそうだったように。
 それでも逃れ得ぬ死の運命に、彼女は今うちひしがれているのだ。
 
 私は全てを理解した。何よりも、私には何もできないということを理解した。
 この後死を迎えるだけの彼女を見ていたくはなかった。
 私はその場から逃げるように時をかけた。
 こぼれ落ちた涙だけを、その場に残して。

       

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