Neetel Inside 文芸新都
表紙

時をかける処女
それからのこと

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 私は自分の研究室の、自分のデスクの前にいた。椅子に浅く腰掛けて、目線は空中の一点をぼんやり見つめている。手足は力なく、だらんと垂れ下がっていた。
 要するに、私は完全な放心状態だった。
 過去に遡る術を身につけて10年前に時間跳躍をした。そこで体感時間で約10日分ほどの時間を過ごした。その後、こうしてここに戻ってきた。
 久しぶりの自分のデスクは体に馴染んで気持ちが落ち着いた。しかし、疲弊した心までは癒してくれなかった。
 結局のところ。私は過去に何をしに行ったのだろうか。
 元々は時間遡行術を何かに使ってみたい、その程度の気持だった。そんな時に林田教授の過去と、その悲しみを知った。彼の奥さんの死の真相を知りたいと思った。できるなら止めたいと思った。
 しかし私にできることは何一つとしてなかったのだ。何度か現れた空色オヤジに新しい能力をもらったりもしたが、結局それらはなんの役にも立たなかった。
 その後、空色オヤジは現れない。
 散々私を振り回しておいて、何をするわけでもなく放置するばかりだ。
 彼の行動の意図も分からないままだ。私に時間遡行術を教え、そして絶望を与えることは、彼にとって一体どのようなメリットがあったのだろうか。
 彼が私にしたことをもう一度考えてみる。京都の学会に突如として現れ、私の目の前で時間を止めてみせた。そうしてから、私に時間遡行術・初級とやらを教えてくれたのだ。
 彼が言うには、時間という概念には奥行き・幅・高さの三要素があるらしい。時間遡行術・初級ではそのうちの奥行きを掌握する。時間の前後を自由に行き来し、過去に戻ることや未来に進むことができる。これを学ぶために、何故か私は彼からリポビタンD風のドリンクを飲まされたのだ。
 次に彼が現れたのは、私は十年前に遡ったあとのことだ。時間を遡ったところで、京子さんが死ぬ未来は変えることができない。なぜなら私のいるこの時間軸では、京子さんは死んでいるからだ。私がそれを止めるために様々な努力をしたところで、その努力も織り込み済みで彼女は亡くなるということだ。それに気がついて悲嘆する私に、空色オヤジが教えてくれたのが時間遡行術・中級だった。
 時間遡行術・中級は時間の幅を捉える技術だった。それを習得するために、何故か私はオロナミンCドリンク風ドリンクを飲まされたのを覚えている。平行世界に跳び、様々な運命の分岐に触れることのできる能力。それが中級だった。しかしそれを持ってしても京子さんを死の運命から救うことはできなかった。
 最後に会ったのは、林田邸へと帰宅する京子さんを尾行していた時である。あれは地下鉄の中での事だった。空色オヤジによって彼と京子さん以外の時間が止められていた。なぜか意識はあった私の目の前で、彼は京子さんに時間遡行術を教えたのだ。何を話していたのかは聞き取れなかったが、リポビタンD風ドリンクとオロナミンCドリンク風ドリンクを手渡していたからおそらく間違いないだろう。
 私と空色オヤジの接触はこれで終わり。振り返ってみれば彼とはわずか三回しか会っていないことになる。登場時のインパクトが強いせいか、もっと何回も合っているような気がしてしまう。
 こうしてみると、基本的に彼は私に対して協力的だったと言える。それが最終的に良かったか悪かったかは別にしてだ。
 そんな彼に関して、やはり解せないことがひとつある。
 時間遡行術・上級の存在だ。
 初級、中級まではあっさり教えてくれた彼が、なぜかそれに関しては一切を教えてくれない。
 おそらくは時間の高さを司る技術であるのは間違いないのだとは思う。だがそれが具体的にどのようなものなのか、全く見当もつかない。
 かつて私は京子さんの死を、運命という道を完全に分断する亀裂のようなものだと思ったことがある。亀裂を回避するためには奥行き、幅といったような二次元的な考え方ではダメだ。思い切って飛び上がり、高さをもって飛び越える必要がある。
 それは文字通り、これまでとは次元の違う行為なのだろう。直感的ではあるが、京子さんを死の運命から救うにはそのような発想の転換が必要だ。
 今の段階において、私に残された道は2つある。
 一つ目は、空色オヤジの登場を待つことだ。
 そもそも私は京子さんの死の真相を知るため、『できることなら』救うために過去へ跳んだ。その意味では、私は目的を有る程度達成していることになる。
 よくやったさ、精一杯努力したさと自分を慰める。そうしておいて、空色オヤジが時間遡行術・上級を教えに来てくれるのを指をくわえて待つのだ。
 そもそも時間遡行術・上級などというものが存在するのか、それが役にたつのかも分からない以上、この選択肢は事実上すべてを諦めているようなものだ。
 そして、もう一つの選択肢は――。
 そこまで考えた時、私の肩に誰かが触れるのを感じた。私は体をビクッと痙攣させて、驚きながら振り返る。
 この部屋にいるのはいつだって二人だけだ。やはりそこには林田教授がいた。過去で散々目にした林田助手から、10年の年月を経た彼だ。
 私があまりにも素早く振り返ったため、私の肩を指でつついた林田教授も驚いた様子だった。目を見張った彼は、それでも平静を装って言った。
「声をかけたのに反応がなかったが……どうしたんだ。いつもにもましてぼんやりしているな。研究の方は進んでいるのか」
 今日も林田教授はいつもの調子である。先日のふたりきりの飲み会では林田教授の人間臭い一面を見ることが出来たが、基本的にこの人は鉄仮面の厳格な教育者なのだ。
 私は現在の研究の進捗具合を簡単に説明する。なにせ10数日の間日常生活から離れていたので、かなり心もとなかったがどうにかやり過ごした。
「なるほどな……他になにか伝達事項や質問はあるか」
「いえ、特には……」
 そこまで言った所で、私は林田教授に一つ質問をしてみたくなった。今後の私の方針を決める上で、非常に重要な問だ。
「少し変な質問かもしれないんですが、よろしいでしょうか」
「……よろしくはないが、まあいいだろう。なんだ」
「先生は待つのと行動するのならどちらがより良いと思いますか」
「随分抽象的だな」
 林田教授は少しの間黙って、何事か考えている様子だった。そうしてからおもむろに口を開く。
「行動する」
「……なぜですか」
「……俺は世の中の物事の成り行きというのは、初めから決まっていると俺は思っている。いわゆる、運命というやつだ」
「な、なんとなく先生らしくないお言葉ですね……」
 林田教授の口から、運命などという文学的な言葉が出たことに私は驚いた。京子さんのことを知ったあとでは、この言葉は余計に重く感じる。
「そうかもしれん。人知の及ばない決定思考、という意味での運命という言葉は、科学者としてあまり使うべきではない言葉だと思うしな」
「……物事が運命で決まっているのなら、行動しても意味が無いように思えてしまいますが」
「だが違う。少なくとも行動する、という決断は自分で出来るんだ」
 もう一度私を仰ぎ見て、教授は続ける。
「人生には諦めるという選択肢しかないことがたくさんある。例えば、過去に起きたことは変えられない。諦めるしかない」
「だからこそ、未来に関しては、最終的な結果が運命によって『失敗する』と決まっていたとしても、俺は行動して失敗したい。諦めて失敗するより、諦めずに失敗したいんだ。それに――」
 教授はそこで一旦言葉を切って、見たことのない表情を私に向けた。
「その方が、かっこいいだろ?」
 そう言って、教授はニヤッと笑った。

 教授はそれだけ言ってから、去っていった。
 堅物で厳格、という教授のイメージは、時間遡行も含めたここ数週間の体験で崩れ去りつつある。
彼は思っていた以上に人間的な人間だった。特に例の運命云々の言葉は、十年前の京子さんの死を乗り越えるためのものだったのだろう。
 私は十年前に行って、そして見た。彼が京子さんに対してどれだけ真摯だったかを。
 どれほど彼が彼女を必要としていたかを。
 そんな彼女を失ってしまった彼が、その後どのような状態になったか。それを想像するのは難しくない。
 それでも彼は今ここにいる。こうして私に言葉をかけてくれている。
 すべての悲しみを抱えながらも、気丈に。
 私は先程まで悩んでいた二つの選択肢をもう一度思い起こす。
 現状に満足し、前に進むことを諦め、このまま空色オヤジが時間遡行術・上級を教えに来るのを待つ。それが選択肢その一。
 そして選択肢その二は、前に進むこと。
 すなわち自分で時間遡行術・上級に値する理論を研究することだ。
 私は教授が言ったことを反芻する。
『だからこそ、未来に関しては、最終的な結果が運命によって『失敗する』と決まっていたとしても、俺は行動して失敗したい。諦めて失敗するより、諦めずに失敗したいんだ』
 思えば、漫画や小説やアニメなどに登場する時間遡行者たちも、諦めがとにかく悪かったような気がする。
 皆、過去の悲劇と最後まで戦った。それこそが、主人公の資格なのだろう。
 ならば私も、彼らにならおう。

 野比のび太によろしく。
 キョンによろしく。
 暁美ほむらによろしく。

 そして、林田一樹によろしく。

 私はもう少しだけあがいてみることにする。

       

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