Neetel Inside 文芸新都
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時をかける処女
京都

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 夏休みは少し前に終わり、かつ観光に適した気候となる秋が深まるよりも少しだけ前。
 そんな中途半端な9月。京都行きの新幹線の車内に人はまばらだった。
 その中でも輪をかけて人のいない自由席車両の一画に、私と林田教授は隣り合って腰掛けていた。
 結局昨晩まで研究室に泊まりこんで自分の発表を仕上げていた私は心地良い電車特有の揺れが作り出す眠気にあっさり敗北して、名古屋に到着しようかという今に至るまでずっと深い眠りに落ちてしまっていた。
 馬鹿面を晒して熟睡していた私とは対照的に、隣の席ではノートパソコンのキーボードを叩く音が止むことはなかった。なぜ寝ていたのにそんなことがわかるかといえば、教授がエンターキーを少し強めに叩くたびに私は体をビクっと痙攣させてしまっていたからだ。
 こういうちょっとした時間にも仕事を全力で進めなければならないほど、大学教授という仕事は忙しいらしい。その忙しさの度合いは世間の人が大学教授という仕事に対して抱いているイメージよりもはるかに大きいのではないかと思う。
 朝早くからの講義を担当し、夜は終電まで残って、時には泊り込みで研究に没頭する。誰に急かされるでもない、仕事へのモチベーションを純粋に自分の興味から引き出し続けなければならない生活は、さぞ精神的に苦労が多いだろうと思う。
 私のようなできの悪い学生を抱えてしまえばその苦労は何倍にもなるに違いない。心底申し訳ないと感じるが、必死に勉強してもこれなのでどうか勘弁願いたい。
 私はなんとなく視線を教授の方にやる。真剣な横顔と一緒に、襟元までまっさらに洗濯されたYシャツが眠気の抜けきらない私の眼に入った。自分の着ている毛玉の浮いた黒いロングTシャツの袖口とのコントラストが、一層私の情け無さを煽っている。
 少し沈んだ気分は私を再び眠りの世界へと誘いこみ、私はほいほいとその誘いに乗ってしまうのだった。

 私が断続的な眠気と戯れるのにもあきてきた頃、私たちの乗った車両はようやく京都駅に到着した。
 座席の上の棚においた荷物を取ろうとして、最終的に頭頂部で受け止めた私を見ても眉ひとつ動かさなかった教授に連れられ、私たちは駅前のロータリーでタクシーに乗り込んだ。
 学会の会場は京都駅から車で十数分の場所にある大学内の会館だった。こげ茶色をしたレンガ造りのいかめしいデザインの建物だ。
 入り口に設置された看板には「時間遡行学会」の文字が毛筆で堂々と書かれていた。十年前までならさぞかし狂気の宿った看板に見えたことだろう。十年一昔とはこのことである。
 学会に出向くのは初めてではなかったが、会場のドアをくぐる瞬間はやはり緊張する。たいてい入り口の近くでは、テレビでよく顔を拝見するようなお偉い教授たちが談笑しているからだ。
 ちなみに林田教授はこの分野においてそんなに権威があるわけではない。もとは理学部物理学科で准教授をしていたのだが、つい二年ほど前にめでたく工学部時間遡行学科での教授のポストに就くことになったばかりだ。
 そもそもまだ黎明期の分野ではあるのだが、例の論文が発表される前から研究を行っていた教授もそれなりにはいたわけで、そういった人達と比べると林田教授はまだ駆け出しといったカテゴライズをされてしまう。
 それでも私から見たら教授は研究者としても人間としても尊敬に値する人物だと思う。人を本で殴る部分を覗いてはだが。
 入り口に設けられたカウンターで林田教授が何らかの手続きをしている間、私はふたり分の荷物の番をしつつ壁に寄りかかってぼんやりしていた。
 案の定周囲は談笑する研究者でいっぱいで、彼らのまとった地味な色のスーツが私の視界を埋め尽くしていた。
 そんなはっきりしない彩りの視界の中に、一色だけぽつんと浮いた色が浮かんだ。
 黒、灰色、茶色、茶色、黒、灰色、灰色、そして空色。
 通常公の場に着てくるべき服には決して使われないはずの色彩だった。
 まるでうっそうと茂る深い森の中でわずかだけ空が見えているかのような、そんな場違いさと清々しさがそこにはあった。
 ぼーっと見回していただけだった私の目が、その色の違う部分だけをクローズアップする。
 果たしてそれは襟付きのコートであることがわかった。この時期に着てくるにしてはいかんせん暑すぎる気がするが、色合いを除けば比較的落ち着いた、丈の長いデザインのコートだった。
 そのコートのシルエットを捉えた私の目線は、次にその上にあるはずの顔に向かっていった。
 当然のことだ。当然のことではあるのだが、そこにあったのは人の顔だった。
 人間以外で服を着る動物など、派手なおばさんの飼っている小型犬しか私は知らない。
 その人物はどんなに間違っても周囲の雑談している研究者たちと同じ人種には見えなかった。
 深くシワが刻まれているのにもかかわらず、妙にハリのあるその肌からはその人物の年令を想像することは難しかった。
 コートと同じ色で揃えたハンチング帽子から溢れ出している量の多い頭髪には、いくらか白い色が混ざっている。それは口元に威厳を添えているヒゲも同様だった。
 多くの人間がそれぞれ自分の最近の研究成果を自慢気に語りあい、そしてさも驚いたように聞き合っているその空間にいて、その人物は誰とも話していなかった。
 ただそこにいて、私の方をじっと見ていた。
 その目は日本人らしい漆黒であり、輝きの少ないその目からはなんの感情も伝わってこない。
 普段ならばこんなふうに見つめられたらいぶかしがるのだろうが、ぼーっとしていたせいなのか、それとも他の理由なのかはわからないが、私はその人物をそんなに怖いとも気味が悪いとも思わなかった。
 教授、早くもどってこないかなあ。というようなことを考えていた。
 ぼんやりとした私の視線は空色に興味を失い、またふらふらと漂い出す。
 そしてまた視界が地味な色で埋めつくされる。
「ああ、やっぱりおじさんの着る服っていうのは地味だよねぇ……」
 そんなふうにつぶやいた私の目から、突然に火が吹き出た。
 なんのことはない。私の視界をその時埋めていたのは、手続きを終えて戻ってきた林田教授のスーツだった。ただそれだけのこと。
 たった今もらってきたばかりの書類を丸めて、上司に対して不届きなことを言った私の頭をひっぱたいたのだ。
 私が痛みに悶えながら、「行くぞ」と言った教授のあとを追った時には、周囲はどこを見渡しても完全に地味な色で埋め尽くされていた。
 

       

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