Neetel Inside 文芸新都
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 学会での仕事がひと通り終わった時には、もう日は暮れかけていた。窓から差し込む太陽の光は半熟卵の黄身のような色で、昼食を食べる暇のなかった私に月見うどんのおいしさをチラつかせて苦しめた。
 会場に足を踏み入れたのがだいたい午前10時過ぎ。そこからポスター発表やプレゼンの準備をして、笑顔と説明を振りまいて、プレゼンの緊張で倒れそうになって……。
 結局プレゼンでは舌を噛みちぎるのではないかというほどに噛みまくり、しどろもどろ、という言葉を発することもできないくらいにしどろもどろになってしまった。
 分かりやすく言うならあの声は、うん。そうだ。少し直接的なな表現で恐縮だが、その、喘ぎ声のようなトーンだった。
 公開悶絶ショーを絶賛開催中の私の目の前では、観客席の一番前に座った林田教授がゴミを見るような目で私を見つめていた。
 ……自分はまだお嫁に行く権利があるのか、というテーマで論文が書けそうだ。そんな理系女子らしいイタい考えが私の頭の中を巡っていた。
 ちなみに喘ぎ声のような、というのはあくまで想像である。
 そんな悪夢のような一日もようやく終わりを迎え、片付けを終えた私は女性用化粧室の鏡の前にいた。荷物と教授を待たせているのにもかかわらず、誰もいないその空間で私はぼんやりと鏡の中の自分を見つめていた。
 化粧室の中はなかなかに綺麗で、国立大学に充てられている財源の豊富さを感じさせる。鏡に写った私の顔の周りには、花柄の装飾が施されていた。
 その花柄とあまりにもかけ離れた私の顔面は、とても見られてものではなかった。
 この一週間ろくに寝ていないせいで下まぶたには真っ黒なクマが刻まれ、下手くそな化粧は汗でほとんど流れてしまっていた。その下では大学入学時に買ったしわしわのパンツスーツが哀愁を放っている。
 そんな這々の体をしていた私だったが、虚脱状態でありながらも大きな仕事を終えた開放感で心は躍っていた。むしろ踊っていたといってもいいかもしれない。
 にへら、という効果音が似合いそうなだらしない笑顔を浮かべてみると、ようやく家に帰れるのだという実感がじわじわと湧いてくるようだった。
 私はしばらくの間、そんなふうに変質者をやっていたが、教授を待たせていたことを思い出し我にかえった。急いで手を洗うべく、両手を蛇口にかざす。
 しかし、いつまでたっても冷たい水が私の両手を濡らすことはなかった。
 私は不思議に思って、「最近自動の蛇口が増えすぎて、思わず普通の蛇口に手をかざしちゃうことがあるんだよなー。文明に毒されてるなぁ私は」と逡巡し、手元に目をやった。
 私の予想ではそこには自動ではない蛇口があるはずだった。
 ところがそこにあったのは、TOTOのアルファベットと自動という漢字だけだった。
 私は手の角度を色々と変えてかざしてみるが、水が飛び出してくる気配は一向になかった。
 センサーが壊れてしまっているのだろうか。私はそう考えてとなりの洗面台に移動する。
 結果はビデオを再生するかのように、全く同じ。水が私の手に触れるのを嫌がっているような、後ろ向きな妄想が膨らんだ。
 そんな時になって、ようやく私はどうも化粧室の様子がおかしいと気がつく。
 最初の違和感は、私の鼻が感知した。
 匂いが全くしないのだ。
 当然ながら化粧室は化粧だけをするところではないから、通常どんなにきれいなところでも多少の異臭はするものだと思う。今私のいる化粧室も、ついさっきまでは独特の悪臭やそれと戦う洗剤の匂い、芳香剤の匂いなどがせめぎ合っていた。
 だが今改めて鼻をひく付かせてみても、私の鼻腔にはなんの香りも漂ってこなかった。
 まるで、この世から匂いという概念が無くなってしまったかのようだ。
 自分の鼻が効かなくなってしまったのかと私がとたんに焦り始めたとき、二つ目の違和感を私の耳が捉えた。
 なんと表現すればいのか、全くわからない音が私の耳に届いていた。
 そして、それ以外の音は全く届いていなかった。ウォッシュレットの定期的な稼動音も、水道の出すゴボゴボという音もなにもかもがだ。
 焦りが確実に私を取り巻いていく。この一週間の疲労で私の身体がどこかおかしくなってしまったのだろうか。
 体の表面にだけ血液が集まったかのような嫌な感覚がする。身体全体がキュッと締め付けられるようだ。
 そんな私の変調にもお構いなしで、例の音は着々と私に近づいていた。どこから聞こえてくるのかわからないその音に、私の焦りはだんだんと恐怖に変わっていく。
 周囲を見渡してみる。鏡から、壁、そして化粧室の出入口。
 そこまで身体を向けたとき、例の音はさらにボリュームを増した。どうやらその音源はこの方向にあるらしい。
 そしてふと、私は気がついてしまった。
 この音の正体に。
 これは、足音だ。
 なぜその音が足音だと気がつかなかったかといえば、現実世界では決して聞くことのないはずの足音だったからだ。テレビのスピーカーからのみ流れるはずだったからだ。
 きっとこう言えば分かってもらえるはずだ。

 それは、ドラえもんの足音だった。

 私がそう認識した瞬間、何もなかったはずの私の眼前に二人の人間が現れた。
 ひとりは、空色のコートを着ていた。
 ひとりは、ヨレヨレのパンツスーツを着ていた。

 それは、今朝会場の入口で見たあの人物と「わたし」だった。

       

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