Neetel Inside 文芸新都
表紙

時をかける処女
それからのこと

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 私は自分の研究室の、自分のデスクの前にいた。椅子に浅く腰掛けて、目線は空中の一点をぼんやり見つめている。手足は力なく、だらんと垂れ下がっていた。
 要するに、私は完全な放心状態だった。
 過去に遡る術を身につけて10年前に時間跳躍をした。そこで体感時間で約10日分ほどの時間を過ごした。その後、こうしてここに戻ってきた。
 久しぶりの自分のデスクは体に馴染んで気持ちが落ち着いた。しかし、疲弊した心までは癒してくれなかった。
 結局のところ。私は過去に何をしに行ったのだろうか。
 元々は時間遡行術を何かに使ってみたい、その程度の気持だった。そんな時に林田教授の過去と、その悲しみを知った。彼の奥さんの死の真相を知りたいと思った。できるなら止めたいと思った。
 しかし私にできることは何一つとしてなかったのだ。何度か現れた空色オヤジに新しい能力をもらったりもしたが、結局それらはなんの役にも立たなかった。
 その後、空色オヤジは現れない。
 散々私を振り回しておいて、何をするわけでもなく放置するばかりだ。
 彼の行動の意図も分からないままだ。私に時間遡行術を教え、そして絶望を与えることは、彼にとって一体どのようなメリットがあったのだろうか。
 彼が私にしたことをもう一度考えてみる。京都の学会に突如として現れ、私の目の前で時間を止めてみせた。そうしてから、私に時間遡行術・初級とやらを教えてくれたのだ。
 彼が言うには、時間という概念には奥行き・幅・高さの三要素があるらしい。時間遡行術・初級ではそのうちの奥行きを掌握する。時間の前後を自由に行き来し、過去に戻ることや未来に進むことができる。これを学ぶために、何故か私は彼からリポビタンD風のドリンクを飲まされたのだ。
 次に彼が現れたのは、私は十年前に遡ったあとのことだ。時間を遡ったところで、京子さんが死ぬ未来は変えることができない。なぜなら私のいるこの時間軸では、京子さんは死んでいるからだ。私がそれを止めるために様々な努力をしたところで、その努力も織り込み済みで彼女は亡くなるということだ。それに気がついて悲嘆する私に、空色オヤジが教えてくれたのが時間遡行術・中級だった。
 時間遡行術・中級は時間の幅を捉える技術だった。それを習得するために、何故か私はオロナミンCドリンク風ドリンクを飲まされたのを覚えている。平行世界に跳び、様々な運命の分岐に触れることのできる能力。それが中級だった。しかしそれを持ってしても京子さんを死の運命から救うことはできなかった。
 最後に会ったのは、林田邸へと帰宅する京子さんを尾行していた時である。あれは地下鉄の中での事だった。空色オヤジによって彼と京子さん以外の時間が止められていた。なぜか意識はあった私の目の前で、彼は京子さんに時間遡行術を教えたのだ。何を話していたのかは聞き取れなかったが、リポビタンD風ドリンクとオロナミンCドリンク風ドリンクを手渡していたからおそらく間違いないだろう。
 私と空色オヤジの接触はこれで終わり。振り返ってみれば彼とはわずか三回しか会っていないことになる。登場時のインパクトが強いせいか、もっと何回も合っているような気がしてしまう。
 こうしてみると、基本的に彼は私に対して協力的だったと言える。それが最終的に良かったか悪かったかは別にしてだ。
 そんな彼に関して、やはり解せないことがひとつある。
 時間遡行術・上級の存在だ。
 初級、中級まではあっさり教えてくれた彼が、なぜかそれに関しては一切を教えてくれない。
 おそらくは時間の高さを司る技術であるのは間違いないのだとは思う。だがそれが具体的にどのようなものなのか、全く見当もつかない。
 かつて私は京子さんの死を、運命という道を完全に分断する亀裂のようなものだと思ったことがある。亀裂を回避するためには奥行き、幅といったような二次元的な考え方ではダメだ。思い切って飛び上がり、高さをもって飛び越える必要がある。
 それは文字通り、これまでとは次元の違う行為なのだろう。直感的ではあるが、京子さんを死の運命から救うにはそのような発想の転換が必要だ。
 今の段階において、私に残された道は2つある。
 一つ目は、空色オヤジの登場を待つことだ。
 そもそも私は京子さんの死の真相を知るため、『できることなら』救うために過去へ跳んだ。その意味では、私は目的を有る程度達成していることになる。
 よくやったさ、精一杯努力したさと自分を慰める。そうしておいて、空色オヤジが時間遡行術・上級を教えに来てくれるのを指をくわえて待つのだ。
 そもそも時間遡行術・上級などというものが存在するのか、それが役にたつのかも分からない以上、この選択肢は事実上すべてを諦めているようなものだ。
 そして、もう一つの選択肢は――。
 そこまで考えた時、私の肩に誰かが触れるのを感じた。私は体をビクッと痙攣させて、驚きながら振り返る。
 この部屋にいるのはいつだって二人だけだ。やはりそこには林田教授がいた。過去で散々目にした林田助手から、10年の年月を経た彼だ。
 私があまりにも素早く振り返ったため、私の肩を指でつついた林田教授も驚いた様子だった。目を見張った彼は、それでも平静を装って言った。
「声をかけたのに反応がなかったが……どうしたんだ。いつもにもましてぼんやりしているな。研究の方は進んでいるのか」
 今日も林田教授はいつもの調子である。先日のふたりきりの飲み会では林田教授の人間臭い一面を見ることが出来たが、基本的にこの人は鉄仮面の厳格な教育者なのだ。
 私は現在の研究の進捗具合を簡単に説明する。なにせ10数日の間日常生活から離れていたので、かなり心もとなかったがどうにかやり過ごした。
「なるほどな……他になにか伝達事項や質問はあるか」
「いえ、特には……」
 そこまで言った所で、私は林田教授に一つ質問をしてみたくなった。今後の私の方針を決める上で、非常に重要な問だ。
「少し変な質問かもしれないんですが、よろしいでしょうか」
「……よろしくはないが、まあいいだろう。なんだ」
「先生は待つのと行動するのならどちらがより良いと思いますか」
「随分抽象的だな」
 林田教授は少しの間黙って、何事か考えている様子だった。そうしてからおもむろに口を開く。
「行動する」
「……なぜですか」
「……俺は世の中の物事の成り行きというのは、初めから決まっていると俺は思っている。いわゆる、運命というやつだ」
「な、なんとなく先生らしくないお言葉ですね……」
 林田教授の口から、運命などという文学的な言葉が出たことに私は驚いた。京子さんのことを知ったあとでは、この言葉は余計に重く感じる。
「そうかもしれん。人知の及ばない決定思考、という意味での運命という言葉は、科学者としてあまり使うべきではない言葉だと思うしな」
「……物事が運命で決まっているのなら、行動しても意味が無いように思えてしまいますが」
「だが違う。少なくとも行動する、という決断は自分で出来るんだ」
 もう一度私を仰ぎ見て、教授は続ける。
「人生には諦めるという選択肢しかないことがたくさんある。例えば、過去に起きたことは変えられない。諦めるしかない」
「だからこそ、未来に関しては、最終的な結果が運命によって『失敗する』と決まっていたとしても、俺は行動して失敗したい。諦めて失敗するより、諦めずに失敗したいんだ。それに――」
 教授はそこで一旦言葉を切って、見たことのない表情を私に向けた。
「その方が、かっこいいだろ?」
 そう言って、教授はニヤッと笑った。

 教授はそれだけ言ってから、去っていった。
 堅物で厳格、という教授のイメージは、時間遡行も含めたここ数週間の体験で崩れ去りつつある。
彼は思っていた以上に人間的な人間だった。特に例の運命云々の言葉は、十年前の京子さんの死を乗り越えるためのものだったのだろう。
 私は十年前に行って、そして見た。彼が京子さんに対してどれだけ真摯だったかを。
 どれほど彼が彼女を必要としていたかを。
 そんな彼女を失ってしまった彼が、その後どのような状態になったか。それを想像するのは難しくない。
 それでも彼は今ここにいる。こうして私に言葉をかけてくれている。
 すべての悲しみを抱えながらも、気丈に。
 私は先程まで悩んでいた二つの選択肢をもう一度思い起こす。
 現状に満足し、前に進むことを諦め、このまま空色オヤジが時間遡行術・上級を教えに来るのを待つ。それが選択肢その一。
 そして選択肢その二は、前に進むこと。
 すなわち自分で時間遡行術・上級に値する理論を研究することだ。
 私は教授が言ったことを反芻する。
『だからこそ、未来に関しては、最終的な結果が運命によって『失敗する』と決まっていたとしても、俺は行動して失敗したい。諦めて失敗するより、諦めずに失敗したいんだ』
 思えば、漫画や小説やアニメなどに登場する時間遡行者たちも、諦めがとにかく悪かったような気がする。
 皆、過去の悲劇と最後まで戦った。それこそが、主人公の資格なのだろう。
 ならば私も、彼らにならおう。

 野比のび太によろしく。
 キョンによろしく。
 暁美ほむらによろしく。

 そして、林田一樹によろしく。

 私はもう少しだけあがいてみることにする。

     

 私がそんな風に決意を新たにした、ちょうどその時。
 私の携帯電話が鳴りだした。
 どうやらメールが届いたらしい。
 水を指すなあ、と思いつつも私は画面に目をやる。
 届いていたメールの内容は次のようなものだった。
 


タイトル:
鳳凰院凶真によろしく

本文:
今のあなたに二つだけヒントを。

1. あなたには無限の時間がある

2. 上級を手に入れたら、fusianasanするべし

以上。検討を祈る(^_-)b-☆



     

 メールの意図がつかめず、私は面食らっていた。そもそもこのメールの送り主は一体誰だというのか。
 送信元を見ればいい。そうだ。たしかに送信元を見れば、誰が送ってきたのかある程度わかるはずなのだ。
 しかし今回の場合、送信元を見ても首を傾げることになるだけだ。
なぜなら、そこには私の名前が表示されていたからだ。
以前にもこんなメールを受け取ったことがある。どんな仕組みなのかは知らないが、ある日届いた迷惑メールの送信元がなぜか私自身になっていたことがあったのだ。わけの分からなさも手伝って、迷惑メールが普段にも増して恐ろしかったのを覚えている。
しかし、だ。そんな経験があったからと言って、今回のこれも迷惑メールだと思うほど、私は間抜けではない。
おそらくだが、このメールは未来の私から送られたものなのではなかろうか。
散々時間遡行術を使った私が、そんな推論をするのは不思議なことではないだろう。これまでの時間遡行術を使っても、私はメールを過去に飛ばすことなど出来はしない。だが、未来の私までそれが出来ないと断定することは出来ない。
とりあえず、このメールは未来の私からのメッセージだとしてしまおう。言われてみればメールの最後に付いている顔文字は、私が調子に乗った時に良くするウィンクによく似ているように思えなくもない。親指も立てているし。
問題はやはり内容だ。よくある時間素行モノで考えるならば、このメールは未来の私からの現在の私へのアドバイス、いや忠告であると言える。
ヒントとは書いてあるが、その重要性はもっと高いと考えられる。そうでなければ、過去の自分にわざわざメッセージを送る必要など無いからだ。
ヒントの一つ目、「あなたには無限の時間がある」。二つ目、「上級を手に入れたらfusianasannするべし」。
一つ目は正直よくわからないので後回しだ。二つ目の方、それには今の私でも分かる言葉がある。
まず、「上級」。これは時間遡行術・上級のことでいいだろう。このメールが未来から来たとすれば、なおさらその可能性は高まる。
そして、「fusianasan」。この言葉も知っている。……ホントは知っていたくなどないのだけど。多くの人はきっと知っているだろう。単純に言えば、これはとあるWebサイトで自分のIPアドレスを表示するコマンドのようなものだ。
とすると、二つ目のヒントの意味は「時間遡行術・上級を習得したら、自分のIPアドレスを確認しろ」ということだろうか。上級がどんなものなのかいまいちわからないが、上級を使った状態でIPアドレスを確認すると何かが起こるということかもしれない。
超自然的なイベントに慣れつつある自分が嫌になる。しかし嫌になっていても前には進めないので、メールの内容をより深く考察してみることにする。
 「あなたには無限の時間がある」……この言葉の意味を、あらためて考えなければならない。
「学生はいいよな~無限の時間があってさ」大学院に進学した私に、就職した友人はこんなことを言ったことがある。
正直なところ大学院生は学生と言ってもそんなに暇ではない。でもまあ社会人よりは暇である。なんとなく釈然としないものを感じながらも、曖昧な笑顔でごまかしたのを覚えている。
「無限」というものはあくまで概念であり、自然界にはそうそう存在しない。一応科学者の端くれである私はそう考えている。では私にある無限の時間とは何なのだろうか。
『あなたには無限の時間がある』
普通の人には無限の時間なんてものは無い。しかし、私だけにはそれがある。この文章から読み取れることはそれだ。
では普通の人にはなくて、私にだけあるもの。それを考えればいい。
出てくる答えは一つだ。
 時間遡行術。それしか思い当たるものはない。
 時間遡行。無限の時間。その二つのつながりはいったいなんだろうか。メールから推測するに、そのことはおそらく時間遡行術・上級を習得するために必要なことなのだろう。
 確かに無限に時間があれば、いつかはすべての真理を知り尽くすまでの研究が可能であろう。無限の時間は起こる確率が0パーセントではないすべての事象を顕現する。
 私は以前にレポートの提出に追われて時間遡行術を使ったときのことを思い出す。あの時はレポート提出の一日前に戻って、過去の自分に出会わないようにネカフェに泊まってレポートを仕上げたのだ。
 それと同じように、例えば今日一日を何回も繰り返したとする。それで私は無限の時間を得たといえるのだろうか。
 生物である私には寿命というものがある。例えば今日一日を何度も繰り返したとして、50年の月日を過ごしたとしたら。確かに研究は進むだろうが私は70数歳になってしまう。
 時間遡行を使えない、一般人よりも早く研究を進めたい、ということならそれでかまわないかもしれない。だが私にとってほかの人との比較は比較的どうでもいいのだ。
 問題は私が寿命を迎えるまでに、時間遡行術・上級を習得できるかどうか、ということである。期限のあるレポート提出とはわけが違うのだ。
 そこまで考えたところで、私はふとあることに気がつく。
 そして、もしかしたらこれが『無限の時間』の答えなのではないかと思ってしまった。
 それは非常に危険というか、試したが最後、いったいどうなるかわからないものだった。
 その仮説を試すためには、いくつかの条件が必要だった。
 私は椅子の背もたれに寄りかかっていた体を起こして、ネットで検索を始めた。
 検索ワードは次の二つ。
 「数百人 会議室」

 私は発表台に立って、その会議室を見渡した。
 最高収容人数300名超。都心にあるにもかかわらず数万円で数時間借りることができた。決して安い額ではないが、これから行うことのためには仕方の無い出費である。
 広々としているように思えるが、果たしてこの広さで十分なのかすらわからない。それくらい予想がつかない。
 私は大量に箱買してきたレッドブルのダンボールに目をやる。約1000本。これに関しても相当に大きな出費ではあったが、私の人生のためにどうしても必要だった。
 私は緊張していた。自分の仮説が果たして成り立つのか、正直なところ自信が無かった。
 しかしこれを行わずして、時間遡行術・上級に私が至ることは無いように思えた。それほどに今の私には解決策が無いのだ。
 私はそれを開始する。これを始めるには、ただ一つ心に思えばいい。
 『ここで数時間、時間遡行術・上級について考え、その後考え始める前の時間に時間遡行する』

 その瞬間会議室が熱気に包まれた。
 想像よりもずっと多い。約500人くらいの人間が一瞬にしてその場に現れていた。
 そして、その500人。
 それはすべて『私』である。
 その中の一人が壇上に上がり、淡々と宣言した。
 「以上をもって、時間遡行術・上級の理論の完成を宣言します!」
 会場は無数のやる気の無い拍手の音に包まれた。もちろん拍手をしているのも全員『私』である。
 会場にいる500人のうち、三分の一くらいは寝ている『私』である。彼女たちは突然の拍手の音にも動じずに寝続けている。拍手をしているのは残りの三分の二だ。
 この唐突なわけのわからない状況を、私は冷静に見つめていた。
 と同時に、私の仮説はとりあえず正しかったことに安堵した。

 私の立てた仮説とは次のようなものであった。
 例のレポート提出の時間遡行の時に、もしも私が過去の私に出会っていたら?という場合で考えてみよう。
 おそらく私は過去の私と話し合うだろう。
 『今回のレポートはこんな風に難しい。もしかしたらこんな風に解けばいいんじゃないかな』
 話し合いの時間が大体一時間くらいだったとしよう。その二人で出した解答を、もう一度過去に戻って話し合いを始める前の私たちに伝えたとしたらどうだろうか。
 今度はすでに一時間を使って考え出した解答を、すでに持っている状態から話し合いをスタートすることができる。その時間には三人の私がいることになり、おそらく話し合いの内容はさらに成熟したものになるだろう。
 これをずっと繰り返していくとどうなるのか。私は考えた。
 最終的に解答が出て、もう時間遡行をしないで良い。そうなったときの人数が八人だったとしよう。その1時間には最初から八人の私がいて、すでに八周した一時間の結論がいきなり出ることになる。
 その後は最後の時間跳躍を終えた『私』だけが残る。レポートの解答を記憶として得て、だ。
 しかしこの仮説にはいくつか問題があった。
 まず、1人、2人、3人……といったころの未成熟な議論の時間は、いったいどこに行ってしまうのか、ということだ。
 完全に消滅して、無かったことになるのか。それとも矛盾として残り続けるのか。
 その部分は、実際に試してみるまでわからなかった。
 次の問題としては、議論が終わるまでの人数がはっきりしないことである。
 もしも私の頭があまりにもお粗末だった場合、その時間に数千人の私が現れてしまうこともありえる。まあそうなる前に私は時間遡行をやめるだろうが。
 結局のところ最終的な人数×1時間という量の時間を、私はその一時間ですごさなくてはいけない。途中眠くなることもあるだろうが、当然ながら寝た分だけ結論が出るのは遅くなる。私の若さを無駄にしないためにも、レッドブルは絶対に必要だった。
 最終的な時間軸ではすでに議論は終結しているのでレッドブルは一本も飲まれることは無いだろうが、そこにいたるまでの消失した時間軸ではきっと役に立ったことだろう。そうでなければ私の財布が報われない。 

 こうして私は時間遡行術・上級の理論を完成させることができた。約500人の『私』のいる会議室はけだるい雰囲気に包まれていた。おそらく白熱したのであろう議論の時間は新しい時間軸に塗り替えられ、ここにいるのはこれから最大500回の時間跳躍を控えている『私』達である。その中でも一番多い跳躍回数を控えている、今の私こそが間違いなくこの中で一番不幸だとは思うけど。
 この地獄から出て行けるのは、議論の終了を宣言した『私』だけである。
 さあ、永遠にも思えるであろう数時間を始めよう。

     

 結局のところ、私はその会議室での1時間を522回繰り返すこととなった。実に21日と18時間である。
 3分の1は寝ていたとは言え、肉体的・精神的な疲労は大きかった。どんどん疲弊していく521人の自分に囲まれた生活。こんな体験をしたのは人類でも初めてだろうと思う。
 時間遡行術・上級理論の完成を高らかに宣言して、その会議室から出た時、私の頭にあったのは自宅でお風呂に入ることだけだった。疲れたなんてもんじゃない。時間遡行術・下級も上級も何も無い、とにかく体を洗ってベッドで寝たい。そう思った。
 欲望の赴くままに、私は自宅の風呂で体を洗ってベッドで寝た。心ゆくまで寝た。目が覚めた時には2日あまりが経過していて本当に驚いた。
 ワンルームのベッドに下着姿で寝転んで、私は見知った天井を見上げていた。これからするべきことを考えていた。
 未来の私から届いたメール。そこには「時間遡行術・上級を手に入れたら、fusianasanすること」と記されていた。
 私は時間遡行術・上級を手に入れた。まだ頭の中にあるだけだから、厳密には頭に入れたというのが正しいかもしれないが。いずれにせよ未来の私のアドバイスに従うなら、私はfusianasanすべきだということになる。
 しかし、それより先にやることがあると私は感じた。時間遡行術・上級も含めた一連の理論を論文にまとめるのだ。頭に入れたこの理論を紙に書き出して、文字通り手に入れるのだ。
 そうしなければ頭から抜け出てしまいそうだったし、何故だか漠然とした使命感があった。私はこの論文を書かなくてはならない。そう感じた。
 パソコンの電源を入れて、ワープロソフトを立ち上げる。自宅で論文を書くなんて卒業論文以来だ。
 私は冷蔵庫からレッドブルを取り出して机の上に置く。汗をかいた缶が、しずくを机に落とす。やはり根を詰めて作業するときはこうでなくてはいけない。
 私はレッドブルを一口飲み下し、弾みをつけてキーボードを叩き始める。
 まずはタイトルだ…そうだな。
 私はこれしか無いというタイトルを打ち込んでいく。
「時間遡行に関する基礎研究とその論理」



 人が夢を見るのは、記憶を整理するためだ。
 その意味では、私が書いているこの論文は夢のようなものだ。頭の中の断片的な理論を、パソコンに打ち込むことによって整理している。
 しかし書き進めば進むほど違和感は強まった。私はこの論文を知っている。どこかで読んだことがあるとか、そういったレベルではない。
 私の所属する学科の学生で、この内容を知らない者は退学するべきだと思う。それほどに見慣れた論理だった。
 自分をごまかしきれなくなり、私はついに認める。
 これは、この論文は、時間遡行学の基礎となった、あの論文と全く同じ内容だ。
 どうやっても違う内容にはならない。イントロから結言まで全て同じだ。違うものにしようと思えば思うほど同じになる。
 私は論文を一通り書き終えて、読み返す。
 細かい表現の違いはあるが、やはり内容はほぼ同じだ。これをこのまま公開したら、ただの盗作・剽窃になってしまう。
 というか、タイトルがほぼ同じだということに気がついても良さそうなものだった。先ほどから同じ同じと言っているあの論文「時間遡行に関する基礎研究とその理論」と私の論文「時間遡行に関する基礎研究とその論理」。
 タイトルの違い、わかりますか?



 あの論文「時間遡行に関する基礎研究とその理論」について説明が必要だろう。
 「時間遡行に関する基礎研究とその理論」――タイトルが長ったらしい上に、私の書いた論文と紛らわしいので、時間遡行論文(旧)とさせてもらおう――時間遡行論文(旧)は、元々はインターネット上の有名掲示版にアップロードされたものだった。確か、その掲示版の物理板だったように思う。
 なぜかIPアドレスを公開して投稿されたその論文は、内容が荒唐無稽な上に、アップロードされた場所が場所だったので、多くの人は見向きもしなかった。
 ただインターネット上の人々の多様性はすごかった。たまたま物理版の住人だった若き物理学会のホープの目に、時間遡行論文(旧)が止まったのだ。
 そのホープは論文の正当性と有用性の一部を証明した。そこからは、いわゆる「祭り」だった。
 高校の物理部員から物理学会の大御所まで、猫も杓子もその論文に夢中になった。そこには人類の未来と、そして過去が詰まっていた。
 IPアドレスを解析して、出元を特定しようとした連中もいた。結局地球上どこにも存在しないIPアドレスだと判明しただけだったが、その神秘性で祭りは更に加熱した。
 しかし、それでも証明は遅々として進まなかった。先に証明された一部分の、その他の部分はあまりにも難解だった。例えるなら錬金術士が存在していた中世で、一般相対性理論の論文が発表されたようなものである。価値が一部分でも認められたことが奇跡だった。
 結果として、この論文に魅了された多くの物理学者たちは、この論文の読解を目的とした一つの学問体型へと収斂していった。
 それが時間遡行学の成り立ちだ。
 せいぜいここ20年の話だから驚きである。
 こうして生まれた時間遡行学は次第にその裾野を広げ、今ではたいていの大学の理学部や工学部に研究科が存在している。
 正直まだ基礎研究の段階の学問である。せいぜい理学部の研究分野だと思えるが、工学的な将来性は十分にあるという判断なのだろう。
 ドラえもん的に言えば、タイムマシンやタイムテレビのようなひみつ道具。この学問がそれらの開発の第一歩になるということだ。
 時間遡行論文(旧)の発表から現在に至る経緯はこんなところである。
 以上のように、世俗的な興味は「この論文の作者は誰か?」である。しかし私にとっては、その興味は少し違っていた。
 「この論文の作者は私なのか?」今や、その一点に尽きる。

     

255 ××××××××××××.co.ft 20××/11/12(水) 19:37:48.72 ID:adihsayah
てすと

 その日、私は初めて某掲示板に書き込みをした。ちなみに板は「教師萌え」板である。何か問題が生じた時のためにできるだけ過疎な板に書き込んだだけで、他意はない。
 もちろん例のメールの指示に従った。時間遡行術・上級を使い、さらにfusianasanをした上で書き込んだのだ。
 時間遡行術・上級は、初級中級とは明らかに異なる概念である。
 未来や過去への前方後方的な移動を伴う初級。平行世界への右方左方的な移動を伴う中級。それに対して上級は、人間が体感できるような移動を伴わない。
 今この時間点で、垂直に跳ね上がる。自分のいる時間の平面を、高いところから見通すことができる。
 平たく言えば、過去に起こったこと起こるかもしれなかったこと、未来に起きること、起きるかもしれないことを、網羅的に知ることができる。
 そして未来に断絶する崖があれば、そこを飛び越えることができる。この点については、まだ試したわけではないが、理論的にはそれが可能だ。
 そのような時間遡行術・上級を行った状態(長いので今後は上級モードとしよう)で、私は某掲示板に書き込みをした。
 上級モード特有の高揚感と、この時間点での存在感が希薄となったような見た目(鏡で確認したら髪と目の色が少し薄くなっていた)で、私は「fusianasan」と入力した。
 一体私は何をやってるんだという気持ちもあったが、どうにか書き込みボタンを押す。
 上記の「てすと」云々は表示された書き込みである。
 気になったのは名前欄に表示された最後の部分だ。私は日本から書き込みをしたので、普通であれば「.jp」となるはずである。
 試しに上級モードを解除して書き込んでみたら、やはり名前欄には「.jp」が表示された。
「.jp」が日本を示すなら、「.ft」は何を示すのだろうか。
 理系の私が思いつくのは、Fourier Transmission、フーリエ変換くらいだ。
 現代っ子の私は、すぐにブラウザを立ち上げて「ドメイン 国 一覧」と入力した。正しくはドメインではなく国名コードと言うらしい。
 表示された国名コード一覧を眺め見て、私は「.ft」を探した。
 しかし、見つからない。そもそも存在しない国名コードであることがわかった。
 私はイスの背もたれにもたれかかり、体を楽にした。
「上級モードでfusianasanをしてみた」→「IPアドレスがこの世に存在しないものになった」←結論
 過去や未来を行ったり来たりしている私である。いまさらこの不思議な現象を、あり得ないと切り捨てることはしない。
 要は、こういうものなのだ。上級モードでインターネットを行うと、存在しないホストからのアクセスが可能になる。
 それだけの話だ。
 理屈も意味もわからないが、納得するしかない。
 そしてもう一つ納得しなければならないことがある。
 
 「時間遡行に関する基礎研究とその理論」。あの論文を書いたのは、私なのだ。

 内容もさることながら、上級モードであれば存在しないホストから書き込めるということもわかった。ここまでわかって、それでもあの論文は私が書いたはずが無いと思うほど、私は能天気ではない。
 パソコンの電源を落として、私は立ち上がる。そろそろ行くとしよう。私がどうして時間遡行術・上級を身に着けたのか。それを思い返す。
 全ての決着を着けに行こう。
 彼女を救い出そう。

 最後の、時をかけて。

       

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Neetsha