Neetel Inside 文芸新都
表紙

時をかける処女
京都

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 夏休みは少し前に終わり、かつ観光に適した気候となる秋が深まるよりも少しだけ前。
 そんな中途半端な9月。京都行きの新幹線の車内に人はまばらだった。
 その中でも輪をかけて人のいない自由席車両の一画に、私と林田教授は隣り合って腰掛けていた。
 結局昨晩まで研究室に泊まりこんで自分の発表を仕上げていた私は心地良い電車特有の揺れが作り出す眠気にあっさり敗北して、名古屋に到着しようかという今に至るまでずっと深い眠りに落ちてしまっていた。
 馬鹿面を晒して熟睡していた私とは対照的に、隣の席ではノートパソコンのキーボードを叩く音が止むことはなかった。なぜ寝ていたのにそんなことがわかるかといえば、教授がエンターキーを少し強めに叩くたびに私は体をビクっと痙攣させてしまっていたからだ。
 こういうちょっとした時間にも仕事を全力で進めなければならないほど、大学教授という仕事は忙しいらしい。その忙しさの度合いは世間の人が大学教授という仕事に対して抱いているイメージよりもはるかに大きいのではないかと思う。
 朝早くからの講義を担当し、夜は終電まで残って、時には泊り込みで研究に没頭する。誰に急かされるでもない、仕事へのモチベーションを純粋に自分の興味から引き出し続けなければならない生活は、さぞ精神的に苦労が多いだろうと思う。
 私のようなできの悪い学生を抱えてしまえばその苦労は何倍にもなるに違いない。心底申し訳ないと感じるが、必死に勉強してもこれなのでどうか勘弁願いたい。
 私はなんとなく視線を教授の方にやる。真剣な横顔と一緒に、襟元までまっさらに洗濯されたYシャツが眠気の抜けきらない私の眼に入った。自分の着ている毛玉の浮いた黒いロングTシャツの袖口とのコントラストが、一層私の情け無さを煽っている。
 少し沈んだ気分は私を再び眠りの世界へと誘いこみ、私はほいほいとその誘いに乗ってしまうのだった。

 私が断続的な眠気と戯れるのにもあきてきた頃、私たちの乗った車両はようやく京都駅に到着した。
 座席の上の棚においた荷物を取ろうとして、最終的に頭頂部で受け止めた私を見ても眉ひとつ動かさなかった教授に連れられ、私たちは駅前のロータリーでタクシーに乗り込んだ。
 学会の会場は京都駅から車で十数分の場所にある大学内の会館だった。こげ茶色をしたレンガ造りのいかめしいデザインの建物だ。
 入り口に設置された看板には「時間遡行学会」の文字が毛筆で堂々と書かれていた。十年前までならさぞかし狂気の宿った看板に見えたことだろう。十年一昔とはこのことである。
 学会に出向くのは初めてではなかったが、会場のドアをくぐる瞬間はやはり緊張する。たいてい入り口の近くでは、テレビでよく顔を拝見するようなお偉い教授たちが談笑しているからだ。
 ちなみに林田教授はこの分野においてそんなに権威があるわけではない。もとは理学部物理学科で准教授をしていたのだが、つい二年ほど前にめでたく工学部時間遡行学科での教授のポストに就くことになったばかりだ。
 そもそもまだ黎明期の分野ではあるのだが、例の論文が発表される前から研究を行っていた教授もそれなりにはいたわけで、そういった人達と比べると林田教授はまだ駆け出しといったカテゴライズをされてしまう。
 それでも私から見たら教授は研究者としても人間としても尊敬に値する人物だと思う。人を本で殴る部分を覗いてはだが。
 入り口に設けられたカウンターで林田教授が何らかの手続きをしている間、私はふたり分の荷物の番をしつつ壁に寄りかかってぼんやりしていた。
 案の定周囲は談笑する研究者でいっぱいで、彼らのまとった地味な色のスーツが私の視界を埋め尽くしていた。
 そんなはっきりしない彩りの視界の中に、一色だけぽつんと浮いた色が浮かんだ。
 黒、灰色、茶色、茶色、黒、灰色、灰色、そして空色。
 通常公の場に着てくるべき服には決して使われないはずの色彩だった。
 まるでうっそうと茂る深い森の中でわずかだけ空が見えているかのような、そんな場違いさと清々しさがそこにはあった。
 ぼーっと見回していただけだった私の目が、その色の違う部分だけをクローズアップする。
 果たしてそれは襟付きのコートであることがわかった。この時期に着てくるにしてはいかんせん暑すぎる気がするが、色合いを除けば比較的落ち着いた、丈の長いデザインのコートだった。
 そのコートのシルエットを捉えた私の目線は、次にその上にあるはずの顔に向かっていった。
 当然のことだ。当然のことではあるのだが、そこにあったのは人の顔だった。
 人間以外で服を着る動物など、派手なおばさんの飼っている小型犬しか私は知らない。
 その人物はどんなに間違っても周囲の雑談している研究者たちと同じ人種には見えなかった。
 深くシワが刻まれているのにもかかわらず、妙にハリのあるその肌からはその人物の年令を想像することは難しかった。
 コートと同じ色で揃えたハンチング帽子から溢れ出している量の多い頭髪には、いくらか白い色が混ざっている。それは口元に威厳を添えているヒゲも同様だった。
 多くの人間がそれぞれ自分の最近の研究成果を自慢気に語りあい、そしてさも驚いたように聞き合っているその空間にいて、その人物は誰とも話していなかった。
 ただそこにいて、私の方をじっと見ていた。
 その目は日本人らしい漆黒であり、輝きの少ないその目からはなんの感情も伝わってこない。
 普段ならばこんなふうに見つめられたらいぶかしがるのだろうが、ぼーっとしていたせいなのか、それとも他の理由なのかはわからないが、私はその人物をそんなに怖いとも気味が悪いとも思わなかった。
 教授、早くもどってこないかなあ。というようなことを考えていた。
 ぼんやりとした私の視線は空色に興味を失い、またふらふらと漂い出す。
 そしてまた視界が地味な色で埋めつくされる。
「ああ、やっぱりおじさんの着る服っていうのは地味だよねぇ……」
 そんなふうにつぶやいた私の目から、突然に火が吹き出た。
 なんのことはない。私の視界をその時埋めていたのは、手続きを終えて戻ってきた林田教授のスーツだった。ただそれだけのこと。
 たった今もらってきたばかりの書類を丸めて、上司に対して不届きなことを言った私の頭をひっぱたいたのだ。
 私が痛みに悶えながら、「行くぞ」と言った教授のあとを追った時には、周囲はどこを見渡しても完全に地味な色で埋め尽くされていた。
 

     

 学会での仕事がひと通り終わった時には、もう日は暮れかけていた。窓から差し込む太陽の光は半熟卵の黄身のような色で、昼食を食べる暇のなかった私に月見うどんのおいしさをチラつかせて苦しめた。
 会場に足を踏み入れたのがだいたい午前10時過ぎ。そこからポスター発表やプレゼンの準備をして、笑顔と説明を振りまいて、プレゼンの緊張で倒れそうになって……。
 結局プレゼンでは舌を噛みちぎるのではないかというほどに噛みまくり、しどろもどろ、という言葉を発することもできないくらいにしどろもどろになってしまった。
 分かりやすく言うならあの声は、うん。そうだ。少し直接的なな表現で恐縮だが、その、喘ぎ声のようなトーンだった。
 公開悶絶ショーを絶賛開催中の私の目の前では、観客席の一番前に座った林田教授がゴミを見るような目で私を見つめていた。
 ……自分はまだお嫁に行く権利があるのか、というテーマで論文が書けそうだ。そんな理系女子らしいイタい考えが私の頭の中を巡っていた。
 ちなみに喘ぎ声のような、というのはあくまで想像である。
 そんな悪夢のような一日もようやく終わりを迎え、片付けを終えた私は女性用化粧室の鏡の前にいた。荷物と教授を待たせているのにもかかわらず、誰もいないその空間で私はぼんやりと鏡の中の自分を見つめていた。
 化粧室の中はなかなかに綺麗で、国立大学に充てられている財源の豊富さを感じさせる。鏡に写った私の顔の周りには、花柄の装飾が施されていた。
 その花柄とあまりにもかけ離れた私の顔面は、とても見られてものではなかった。
 この一週間ろくに寝ていないせいで下まぶたには真っ黒なクマが刻まれ、下手くそな化粧は汗でほとんど流れてしまっていた。その下では大学入学時に買ったしわしわのパンツスーツが哀愁を放っている。
 そんな這々の体をしていた私だったが、虚脱状態でありながらも大きな仕事を終えた開放感で心は躍っていた。むしろ踊っていたといってもいいかもしれない。
 にへら、という効果音が似合いそうなだらしない笑顔を浮かべてみると、ようやく家に帰れるのだという実感がじわじわと湧いてくるようだった。
 私はしばらくの間、そんなふうに変質者をやっていたが、教授を待たせていたことを思い出し我にかえった。急いで手を洗うべく、両手を蛇口にかざす。
 しかし、いつまでたっても冷たい水が私の両手を濡らすことはなかった。
 私は不思議に思って、「最近自動の蛇口が増えすぎて、思わず普通の蛇口に手をかざしちゃうことがあるんだよなー。文明に毒されてるなぁ私は」と逡巡し、手元に目をやった。
 私の予想ではそこには自動ではない蛇口があるはずだった。
 ところがそこにあったのは、TOTOのアルファベットと自動という漢字だけだった。
 私は手の角度を色々と変えてかざしてみるが、水が飛び出してくる気配は一向になかった。
 センサーが壊れてしまっているのだろうか。私はそう考えてとなりの洗面台に移動する。
 結果はビデオを再生するかのように、全く同じ。水が私の手に触れるのを嫌がっているような、後ろ向きな妄想が膨らんだ。
 そんな時になって、ようやく私はどうも化粧室の様子がおかしいと気がつく。
 最初の違和感は、私の鼻が感知した。
 匂いが全くしないのだ。
 当然ながら化粧室は化粧だけをするところではないから、通常どんなにきれいなところでも多少の異臭はするものだと思う。今私のいる化粧室も、ついさっきまでは独特の悪臭やそれと戦う洗剤の匂い、芳香剤の匂いなどがせめぎ合っていた。
 だが今改めて鼻をひく付かせてみても、私の鼻腔にはなんの香りも漂ってこなかった。
 まるで、この世から匂いという概念が無くなってしまったかのようだ。
 自分の鼻が効かなくなってしまったのかと私がとたんに焦り始めたとき、二つ目の違和感を私の耳が捉えた。
 なんと表現すればいのか、全くわからない音が私の耳に届いていた。
 そして、それ以外の音は全く届いていなかった。ウォッシュレットの定期的な稼動音も、水道の出すゴボゴボという音もなにもかもがだ。
 焦りが確実に私を取り巻いていく。この一週間の疲労で私の身体がどこかおかしくなってしまったのだろうか。
 体の表面にだけ血液が集まったかのような嫌な感覚がする。身体全体がキュッと締め付けられるようだ。
 そんな私の変調にもお構いなしで、例の音は着々と私に近づいていた。どこから聞こえてくるのかわからないその音に、私の焦りはだんだんと恐怖に変わっていく。
 周囲を見渡してみる。鏡から、壁、そして化粧室の出入口。
 そこまで身体を向けたとき、例の音はさらにボリュームを増した。どうやらその音源はこの方向にあるらしい。
 そしてふと、私は気がついてしまった。
 この音の正体に。
 これは、足音だ。
 なぜその音が足音だと気がつかなかったかといえば、現実世界では決して聞くことのないはずの足音だったからだ。テレビのスピーカーからのみ流れるはずだったからだ。
 きっとこう言えば分かってもらえるはずだ。

 それは、ドラえもんの足音だった。

 私がそう認識した瞬間、何もなかったはずの私の眼前に二人の人間が現れた。
 ひとりは、空色のコートを着ていた。
 ひとりは、ヨレヨレのパンツスーツを着ていた。

 それは、今朝会場の入口で見たあの人物と「わたし」だった。

     

「あ、すいません……おトイレ使われるんですか? あ、でもこのトイレ今洗面台が水出なくて……というかここ女子トイレですけど!」
 説明しながら訳がわからなくなって、取り乱した私は両手をぶんぶんと振り回す。
 そんな感情を振りまく私の様子とは打って変わって、目の前の二人からは人間的な様子は少しも感じられなかった。
 私たちはお前に用がある。二人の目が私にそう伝えていた。
 とてつもなく奇妙な空気が漂い続ける。生まれてからこれまででこんなにも派手なコートを着たおっさんと自分自身と三者面談をする機会なんて、さすがに一回もなかったわけだし。私としては初めての体験に声も出せない状態が続いていた。
 あははー、とか愛想笑いしながら化粧室をあとにしたい所だったが、目の前の二人は入り口にどっしりと陣取っており、とても通らせてくれそうにはなかった。
 通してはくれないにも関わらず、目の前の二人はそれでも何も語らなかった。空色のコートを着たおじさん、面倒なので空色オヤジと呼ぼう、その空色オヤジはどことなく微笑んでいるように見える表情を崩さずに、私の方を閉じているのか空いているのかわからない目で見つめていた。
 私は空色オヤジの隣にいる女性の方に目をやる。ところどころ飛び跳ねた髪、おしゃれかなと思って選んだらただのガリ勉の様になってしまった黒縁の眼鏡、洋服の青なんとかで買った二着39800円のパンツスーツ。どこからどう見ても今日の私の格好と隅から隅まで一致していた。
 彼女はまるで何かを言いたいのを必死で我慢しているかのような様子で、口元に折りたたんだ人差し指を添えて困惑しているような様子だった。なんとなく挙動不審に見える。私もテンパッているときはこんな風に見えているんだろうな……気をつけよう。自分のふりみて我がふり直せってやつだ。
 彼女に関しても、面倒なので何らかの呼び名がほしいところだ。私は少し悩んで、見た目一発で非リア女という呼び方に決定する。
 ……自分で自分にあだ名を付ける経験はもう一生したくないなと思う。
 結局のところ、その固まっていた空気を解凍したのはやはり空色オヤジだった。
「何がなにやら分かっていないと思うけど……、さすがに匂いを感じないことや音が聞こえないこととには気がついているよね?」
 想像よりも幼い喋り方に、私は少し面食らってしまった。空色オヤジはそんな私の様子を意にも介していないようで、そのかすれたダミ声で話し続ける。
「今この地球で動いているのは、君と僕と、それからもう一人の君だけだ。大気の構成分子が静止しちゃうとさすがに呼吸困難で死んじゃうだろうから、それだけは例外的に静止していなけどね」
 私は仮にも理系の学問を修めている者である。空色オヤジの意図はさーっぱり分からなかったが、言っている内容はわかる。そりゃあ大気分子が静止したら人間は死ぬだろうなぁ……あはは。だってそりゃあ息できないし……。
 あはは……。
 電波!電波電波!
 何を言っているんだこのオッサンは。動いているのは私たちだけ!? 大気分子を静止!? ちょっと設定甘くないかなぁ電波さん。もっともらしく出来ているけど、その話なら光子も停止しているはず! つまりは光がない! それなら私があんたたちの姿を見られるはずはない!
 頭の中とはいえ、同じ土俵に立って反論してしまっている時点で私も十分に電波なのかもしれない。
「ホンットに電波!」
 そんなことを必死に考えていたせいで、私は思考をそのまま口に出してしまっていたようだ。
 ……というのは勘違いだった。
「ホンットに電波ですよね……! でも、今の人類は光のことを全く把握出来ていないんだそうですよ。光子とか、波とか、光っていうのはそんなもんじゃないんだそうです。だから時間が止まっていても、光は無条件で動くことができるらしいですよ。私もついさっき説明を受けたばっかりなんですけど……」
 その勘違いの原因は、自分と全く同じ声の人間が目の前にいることだったらしい。私の脳内反論に対して、非リア女はきっちりと説明をつけてくれた。
 そうしてそこまで言って、彼女はまた口元に手を当てて黙りこくってしまった。
 もう言うべきことは終わった。そんな感じだった。
 しかしたった今聞いた非リア女の言葉の中にはまた聞きなれない言葉が出てきた。「時間を止める」って、こいつは一体何を言っているんだろうか。それでも時間遡行工学科の生徒か! そんなんだから林田教授にしょっちゅう頭をぶったたかれるんだよ。まったく……処女のくせに……。
 ……そんなことを考えるくらいには私は動転していたし、しかも目の前の女が自分であるという認識を受け入れ始めてしまっていた。
 二人の私がおそらく同じ程度にテンパッていると、空色オヤジのダミ声が発せられた。それは普通の声とは違う、滲むような響き方をしていた。
「そういうことなんだよ。時間があんまり無いから、彼女の説明で納得してほしいな。……本題に入ってもいい?」
 そう言うと空色オヤジは、いよいよ、というように帽子に手をかけて角度を少し整えた。何度か細かく調整するその様子からは、異常なまでの几帳面さが感じられた。
「時間が無いのはさっき言ったとおりなんだ。要点だけ言わせてもらうよ。僕たちは君に時間遡行能力をプレゼントしに来たんだ」
 例外的に動いているらしい大気分子は、その言葉をしっかり私の耳に伝えてくれた。

     

 時間遡行。少なくとも時間遡行工学者の端くれである私としては、それは物理的、工学的に引き起こされるべき現象である。
 その意味で空色オヤジの「時間遡行能力」という言い方は私にそれなりの違和感を与えた。
 ……というよりも、むしろその発言自体が荒唐無稽ではあるのだが。
「……聞こえた? 君に時間遡行能力を授けるって言ったんだ。まあほんとにただ言っただけで伝えただけだから、これに対して君に何らかの判断を求めているわけじゃ無いことを理解してほしいな。ということで、あげるから。どう使うかは好きにしてよ」
「な、何言ってるんですか! あ、あげるって……なんで、どうして、どうやって! だ、大体、そんなこと出来るわけ無いじゃないですか!」
 私はジェットコースターのような急展開に全くついて行けていなかった。
 たった今私に何らかの判断を求めているわけじゃないと伝えられたばかりだというのに、私の口からはひたすら彼の真意を探る言葉だけが飛び出していた。
 私にまくし立てられて、空色オヤジは初めて比較的強い感情らしいものをその顔に浮かべた。
 めんどくささ。その感情を一番適切に表現すればこうなるだろう。
 空色オヤジはその感情を特に消そうともせず、そのままのやる気のない様子で私の質問に答え始めた。
「やっぱり多少の説明はしないとダメか……。それに関してもできるだけ簡潔に言わせてくれ。君がこの後この能力を受け取るから、今僕のとなりには『君』がいるんだ。言っていることはわかるよね?」
 私は目の前にいるオヤジの隣で所在なさげにしている非リア女の方に目を向ける。
 さっきからの話し通り、この女性が本当に私自身だとしたら、ドッキリでないとしたら、それは今ここにいる私ではない別の世界から来た私だということになる。
 別の世界というだけで別の時間から来ているとは限らないのだが、仮にも時間遡行を学ぶものとして異世界よりは異時間軸の存在を信じたい。
 そう考えると、私はどうあれこのおっさんの申し出を受け入れるしか無いということになる。そうしなければ、今この場に二人の私が存在するわけがない、するべきではない。そういう理論になる。
 私はそう思い至って、完全に黙りこくってしまった。
 どんなに論理的な裏付けがあろうとも、信じるものは自分で決めるというのが人間の美徳の一つであると私は勝手に思っている。
 どうしようもないこの状況に対しては、沈黙を守る他なかった。
 そんな私の沈黙を、空色オヤジは別の意味に受け取ったようである。
「うん。わかってくれたみたいだね。物分りが良くて助かるよ。じゃあ後のことは全部こっちの『君』に聞いてくれ。気心が知れた相手の方が話しやすいだろう?」
 この世で一番気心が知れているのは間違いない。そんなに年さえ違わなければだが。さすがに幼稚園児の時の私と、当時ハマっていた魔法少女の話題で盛り上がれるとは思えないし。
 私がそんなことを考えながらおかしくなりそうな頭を抱えていると、目の前にいた非リア女が私の方に歩み寄ってきた。
 私はそちらに目をやって、それからふと視線を元の空色オヤジの方に戻した。
 その時にはもう、そこにあったのは化粧室の入り口だけだった。
 私がその事実に戦慄する間もなく、非リア女は先程より少し砕けた調子で話しかけてくる。
「行っちゃったみたいだね。私の時もそうだった。これからは、過去の私と今の私、あなたにしてみれば『今の私と未来の私』になるのかな? とにかくこの二人だけで話をさせてもらうから」
 非リア女はそこで少し間を置いた。まるで私からの質問を待ち受けるように、じっと私の方を見ていた。
 私は我慢できなくなって、頭の中を飛び交っていた様々な疑問を溢れさせる。
「もう……わけがわからない……。これ夢じゃないの? さっきのオッサンは一体なんなの? あんたは私なの? もしも私なら、一体いつの私だって言うのよ……」
 次々に打ち出される私の質問の散弾を、非リア女はやはり黙って受け止めていた。
 私が弾切れになってから一拍おいて、ようやく彼女は口を開く。
「うん。わけがわからないのは当然だと思うよ。もちろんその質問には答えられる範囲で応えたいんだけど……その前に、」
 そう言うと非リア女は改めて私の瞳をじっと覗き込んだ。グッと近づいてきた彼女に瞳には私の姿が映る。きっと私の瞳には彼女の姿が映っているのだろう。
 そんな回りくどい鏡合わせに私が心の中で苦笑したが、ふと目の前の非リア女の顔に僅かな感情の色が混じっていることに気がついた。
 眉間によった皺。固く引き締められた上まぶた、真一文字に閉じられた口。
 な、なんか怒ってる……?
 彼女の表情には明らかな怒りの色が浮かび始めていた。
 私には非リア女を怒らせるような心当たりはなかったので、ただただ面食らって彼女を見つめ返していると、ようやく彼女は口を開いた。
「さっき、私があんたに話してたときさぁ……」
 絡むような口調で彼女は続ける。
「『処女のくせに……』とか思っただろ! へんだ! あんただって処女のくせに!」
 非リア女は私に人差し指を突きつけて言い放った。
 ああそうだもっともな話だ。
 今の私が考えたことは、未来の私も知っている。
 彼女が非リアなら、私も非リア。
 私は自分の器の小ささを目の前の女から感じて少し悲しくなったが、そのバカバカしさのせいか、先程まで感じていた気が狂いそうな思考の嵐は過ぎ去ってしまっていた。

     

 私たちはその後もしばらくその場でじゃれ合うことになった。なにせお互い相手のことをよく知りすぎているので罵り合う言葉がいかんせん的確すぎる。
 その詳細については割愛させてもらおう。言うなれば自分の脳内会議の内容を暴露するようなものなのであまり人様に聞かれたい話でもない。
 どこからどう見ても垢抜けない二人のキャッキャウフフという世にもおぞましい光景に自分たちでもやばいように思えてきて、私たちはようやく平静にかえった。お互いに肩で息をしながら見つめ合う二人の地味女だったが、先に話を進めたのは向こうの私だった。
「……さて、そろそろ本題に入ろうか……。はぁ。とりあえず、私に聞きたいこといっぱいあるはずだよね? 一つ一つ答えるから言ってみなさい」
 目の前の私はそう言った後で、なにかを思い出したような様子を見せて言葉を続けた。
「ただし! できるだけ手短に! 時間の止まっているここで過ごせば過ごすほど私たちは刻一刻と結婚適齢期を逃していくのだから……」
 そんなふうに改めて私の方を睨んで付け加える。
 研究が今のところ一番楽しいくせに、結婚願望だけは妙に強い。
 ここまでで散々感じたことだったが、目の前のこの女は確かに私なのだ。
 さて、それはさておき私は何を尋ねるべきだろうか。私は熟考すべく右手を自分の頬にあてて首を傾げる。私の考え込むときのクセの一つだ。
「……とりあえず、あなたが未来の私なのは認めるとして、どのくらい未来の私なの?」
 私はまず一番気になっていた質問をぶつけてみる。目の前の私は私が何を尋ねるのか分かっているはずなので、特になんのリアクションもせずに口を動かし始めた。
「大体二時間半くらいは私の方が年食っていることになるね。格好を見ればそんなに先の未来から来たわけじゃないのはわかるでしょ」
 言われてみれば彼女が着ている服は今私が着ているしょうもないパンツスーツと全く同じものだった。私がこのスーツをいつまで捨てずに取っておくかはわからないが、どんなに多く見積もっても目の前の私と現在の私にはこのスーツの寿命程度の年齢差しか無いことになる。
 それにしても二時間半って、さすがに近すぎないか。ロマンのないヤツだ。
 私はせいぜい昼寝しておきた程度の未来から来た未来人に対してさらに質問を続ける。
「あの派手な色のコートを着たオッサンはなんなの?」
「たった二時間半で素性がわかるようなオッサンに見える? 私もわかってるのはあいつが時間をある程度操る能力を持っているってことだけだよ。……真顔でこんなことを言うのは恥ずかしくてしょうがないけども」
 そう言って目の前の私は肩をすくめた。
 そうなのだ。あのオッサンは……言うのも非常に馬鹿馬鹿しいことではあるが、時間を止められるらしいのだ。
 そんな技術は少なくとも私が今日一日出席した最新の情報が行き交う時間遡行学会においても誰も口にしていなかった。
 普通に考えればあのオッサンも未来人ということになるのだろうか。
 考えても埒があかないので、私は次の質問に移ることにする。
「……さっきの大気分子の話とかはともかく、電灯が消えていないのには違和感があるんだけど? 散々あんたと話した後でなんだけど、時間が止まってるとかホントなのコレ」
 他にも色々と聞くべきことがあるだろうに、理系的な興味が上回った私の口から次に出た質問はそんなモノだった。さっき目の前の私が言った光の説明がどうも府に落ちなかったのだ。
「さっきも言ったけど、電灯が消えていないのは時間が止まった瞬間にその電灯が光を放っていたから、なんだって。私たちは光が波や光子という名前の粒だと思っていて、それが届くことで光が届くと思ってる。だけど本当は光はただそこにある。そういう話らしいよ」
 その説明を受けてもなおしっくりこない私が黙りこくって首をひねっていると、見かねて彼女はさらに追い打ちをかけてきた。
「行ってみれば時間が止まっているときの光は、合わせ鏡の間に封じ込められているようなもの。時間と共に動くとかじゃない。ただそこにあって、私たちの目はそこに光があるって認識してる。……支離滅裂だと思うし、あんたは納得しないよね。だって私もさっき納得できなかったし」
 諦めるように小さなため息を付いた未来の私は、一度言葉を切って腕を組んだ。
「そうか……わたしにしてはずいぶんスラスラ説明するなぁと思ってたけど、あんたもさらに未来の自分から聞いてたんだね」
「そうなるね。言ってみればこの止まった時間は、未来永劫私が私にするチュートリアル会場になるってわけだよ」
 そのチュートリアル会場という言葉に、私はふと思い立って自分の左手に巻かれた腕時計に目を落とす。アナログのその文字盤はキラリと輝いていたが、その長針も短針も、そして秒針も追いかけっこをすることはなかった。
 私は左手を下ろして口を開く。
「時計は動いていないけど、あんたと出会って大体30分くらいたったかな? つまり、私はあと2時間で過去に戻ることになる」
 私の思っていることが正しいのならば、おそらくこういうことだ。
「それまでの2時間、このチュートリアル会場であんたは私に何を教えてくれるの?」
 質問はしているものの、私はもう確信していた。私が二時間後までに学ばなければならないもの。というよりも、学んでいないとおかしいもの。
 目の前の私はニンマリした笑顔を作って、一言つぶやいた。
「時間遡行術・初級」
 語尾に音符でも付いているかのように、その言葉は音のしない空間にポワンと浮かんだ。

     

 さて、とりあえず現状を把握させてもらおう。
 未来から来た(笑)という私は、さっき私に時間遡行術の初級を教えてくれるとのたまった訳だ。
 そして彼女はこう言った。
「じゃあお手本てことで私がやるからちょっと見ててね☆」
どんなに彼女と私が同一人物に見えようとも、私はこの時までどこか実感していなかったのだろう。
 彼女が未来から時間を遡って来たということを。
 空色オヤジはただの空色の服を着たオッサンで、目の前にいるのは私のそっくりさん。止まった時計は偶然の故障。水のでない蛇口は水道工事。
 今日起きた現象は、そんな風に大掛かりなドッキリを仮定すればどうにでもなってしまうものだった。
 たった今この女が時間遡行を「実演」して見せるまでは。
 時間遡行の実演なんて一体どうすればできるというのか。当然の疑問だと思う。私も事実そう感じた。
 仮にこの女が目の前から消失したとしても、突然に目の前から消えるくらい引田天功だって出来る。消えた先が別の時間だなんて証明はできないはずだ。
 ……そう思っていた時期が私にもありました……。
 結論から言わせて欲しい。
 今この狭い女子トイレの洗面台の前には、三人の人間がいる。
 私と、私と、それから私。そう三人とも私だ。小鳥も鈴も無い。みんな同じでみんな悪い。
 順を追って話そう。まだこの部屋に二人しか私がいなかった時、未来から来た私は何やら目を閉じて体の力を抜いた。
 何が起こるのかと私が身構えていると、未来の私はそのまま何もしなかった。ように見えた。
 気がつけば、私が三人になっていた。……なんか順を追って話しても訳がわからないかもしれない。
 ひとり増えた私、ややこしいので私(3)と呼ぼう、私(3)は、その場に立ったまま私(2)を見つめていた。目を閉じたままの私(2)は、ひとり増えたことに気がついているのかいないのか、相変わらず固く目を閉じて何かを念じているように見える。
 目の前の状態に頭がおかしくなりそうになりながらも、私もまた何も言えずに立ち尽くしてしまっていた。
 やがて新しく登場した方である私(3)は、右手をパーの形にして肩の高さまであげた。
 その右手の指が親指から順番に折られていく。
 5。4。3。2。1。0。
 彼女の唇がそう言っていた。
 小指が折られた瞬間、もともといた方の私(2)は引田天功さながらに一瞬にして消え失せてしまった。
 あとに残ったのは、私と、私(3)だけだった。
「こんな感じだね。今ここにいた私は約一分前に向かって旅立ってしまいました、ということ。わかるよね?」
 彼女はそう言って閉じていた右手の親指を立てると、ひどいドヤ顔をした。これは、たまに教授に叩かれるのもわからなくはない。そう思えるような顔だった。ウィンクするな! 別に可愛くないぞ!
 戦時下さながらの大混乱を起こしている自分の脳味噌をようやく平定して、私は呆れたような声を出す。
「ああ……わかるよ。わかりますよ。あんたはこの一分間を二回過ごして、ここにいるわけだね」
「その通り!」
 だからウィンクするな! 可愛くないって!
 私が内心半狂乱になっていると、未来の私は胸の下で腕を組んで語り始めた。
「コレをあんたにできるようになってもらう。ていうかできるようにはなるんだけど。私ができるんだから。でもだからって手ぇ抜かないでね」
「………」
 私は絶句する。
 お手上げだ。もうこんなもの、まともな神経では説明がつかない。
 私は突きつけられたこの現状が、なぜか逆にふつふつと楽しくなってきてた。
 今眼の前で繰り広げられたような引田天功もびっくりの大魔術を、私が使えるようになる? あとたった2時間足らずで?
 それはやるしかないじゃないか! 現実離れし過ぎていて、逆に夢なんじゃないかとも思い始めたけど。
 夢の中でも時間遡行するなんて、時間遡行工学者の鑑だね私は。
 そんな半ばヤケクソの私は、目の前で相変わらず腕組をして無駄にサイズだけはある胸を強調している私に言い放つ。
「……やるよ! 教えて。時間遡行術・初級」
 あまりにも電波な自分のセリフに鳥肌が立ちながらも、思わず笑顔になってウィンクしてしまった私がそこにいた。

     

「時間遡行の基本は、体中隅々の細胞まで神経を行き渡らせることなんだって。要は気持ちというか気合というか、小手先の技術よりも感覚だってことね」
「き、気合……? なんかもっとこう、身体に機械を埋め込むとか機械的なアプローチじゃないの? 一応私たちは時間遡行『工学者』じゃないか……」
 早速時間遡行術初級の講義を始めた彼女の言葉に、私は多少肩透かしをくってしまった。理系人間としてはこういうことはやはりオーバーテクノロジーで達成して欲しいと思ってしまうのだが。
 体育会系時間遡行を提案する彼女はそのまま説明を続けていく。
「今私たちがいる三次元の世界っていうのは、言うなれば幅、奥行き、高さの三つの方向があるよね。時間もそれと同じ。もちろん私たちは例の論文を読んでそれを知っている」
 時間は空間と同じように三つの次元で構成されている。これが先の論文「時間遡行に関する基礎研究とその理論」の骨子となる概念である。その記述は大変に煩雑で、発表されてから数年の間はその理論の趣旨を理解することがなによりの研究対象とされるような論文だった。
 かく言う私も、一時間遡行学に携わるものとして当然その論文には目を通したことがある。……通したことは、ある。林田教授に命じられてゼミの課題となっていたのだ。
 その内容は、本当にサッパリわからなかった。たしかに日本語で書かれているはずのその文章は、その意味を全く私に伝えようとはしてくれなかったのだ。まるで音楽プレーヤーで画像ファイルを開こうとしているかのように。
 結局私はゼミ当日、2時間まるまる私を無言で見つめ続ける林田教授と沈黙のお見合いをするはめになったのだった。
「あの論文、作者不詳ってところがたち悪いよね! 質問のメールすら出来やしない……。なんでもすぐに情報が手に入る世界で育った私たちには荷が重いよね」
 目の前の私は両手のひらを天井に向けて、ため息をつきながらそう言った。自分の考えていることが概ね相手に分かってしまうという状況はなかなかに気持ちが悪い。
 作者不詳の得体のしれない論文がなぜ新学問の発生にまでつながるほどセンセーショナルに取り上げられることになったかは、またお伝えする機会もあるだろう。
「さて、それじゃあそろそろ実践にうつってみようか」
「もう実践か。まだほとんど何も教えてもらってないと思うんだけど……まずは何をすればいいの? 」
「なんていうか意識を変えるんだ」
「……意識を変える?」
 彼女の言葉はカルト宗教の教祖様のお言葉くらい嘘臭く感じられた。
 そんな考えが態度にも出てしまっていたのだろう。未来の私は声を説得するような調子にして言葉を続けた。
「そう。意識を変える。まずは時間の奥行きを自分の細胞に刻みこむようなイメージを持てばいいらしいよ。その感覚が理解出来れば、私たちが今三次元空間を自由に歩き回ってるみたいに、時間を行ったり来たりできるようになるってわけさ」
 話的には分かるが、意識だけでどうにかなるものとは思えなかった。私は赤ん坊の時に「三次元空間を歩きまわりたい!」と考えてあんよの仕方を覚えたわけではなかったのだから。
「でもまぁほんとに意識を変えるだけでひょいひょいタイムトラベルできるなら、ドラえもんはいらないよね」
 目の前の私はそう言うと自分のスーツのポケットに手を突っ込んで、なにかを探し始めた。
 ややあって、彼女がそこから取り出したのは一本の栄養ドリンクの瓶だった。
 私がこの一週間散々お世話になった、鷲のマークが付いているヤツだ。飲むと絶海の孤島で危機に陥ってもファイト一発どうにでもなりそうな、そんな栄養ドリンクだ。
「コレを飲んで。意識を変えやすくするお薬だから!」
「……その表現はあんまりよくないと思うんだけど。ようは時間遡行用の体質改善薬みたいなもん?」
「そういうこと。さっきの空色オヤジにもらったんだ。大丈夫! 私も飲んだけど、ただのリポDだから!」
 せっかく人が鷲のマークとか誤魔化したのに、仕方ない女である。
 どうやら飲まないと話が進まないようだ。知らない人から食べ物をもらっちゃいけません! って母にはよく言われてたけど、目の前のこの人はよく知っている人だから多分大丈夫だろう。
 私は瓶を受け取ると、勢い良く蓋をあけて一気に喉の奥に流し込む。
 うん。ただのリポDだ。味はね。
 特に体調にも変化は見られないようだった。私は少し安心する。
「はい、いい飲みっぷり。じゃあ、いい加減に始めようか。……そう固くならずにやってよ。舞空術を練習するビーデルさんみたいなもんだよ」
 例えがあまりにも自分の趣味にあっているので、私はなんとなく納得してしまう。
 考えなし。疑いしらず。楽観的。全国の詐欺師は私を顧客に据えれば食いっぱぐれはないだろう。
 そんな私の「はじめてのじかんんそこう」が始まろうとしていた。
 私は高鳴る心臓の鼓動に揺れている胸の下で手を組んで眼を閉じる。キリスト教に詳しくない人から見れば祈りを捧げるシスターのように見えなくもないかもしれない。
「自分の細胞が点滅するような感覚を持って。少し前と、少し後を行き来して点滅しているような感覚を持って。そうしたらその点滅の感覚を広げていくような感覚を持って。あんまり過去に行くと面倒だから、一分前くらいにいくつもりで」
 未来の私のアドバイスが続く。通常他人のアドバイスはあくまで他人の感覚に基づくので、鵜呑みにしすぎないよう注意が必要だが、このアドバイスはほかの誰でもない自分自身の感覚である。
 私は鵜飼いの鵜よりも深くその言語を飲み込んで、一心に一分前、一分前と心のなかでつぶやいた。
 全身の細胞が、それを形作る原子単位で細かく振動しているような感覚がどんどんと強まってくる。自分という存在のフレームがブレていくようで、とてつもなく心もとない。
 一分前、一分前、一分前……!
 必死でそう念じていた私の背後に、急に人の気配が『発生』した。
 そして、その正体不明の気配は震える声でこう言ったのだった。
「……ホントにできた……! な、な、なにコレ……。あ、一分前の私! そのままの感覚を持ち続ければ、一分後には行けるよ!」
 それは一分後の私だった。

     

 新幹線の車輪と線路が生み出す周期的な揺れが、座席と背骨を通じて私の頭を刺激していた。
 京都発、東京行きのそれの車内で、私は行きとは打って変わってすっかり覚醒した意識のもと、その日あった極めて非日常な出来事に思いを巡らせていた。
 水のでない蛇口。ドラえもんの足音。空色オヤジ。もう一人の自分。……時間遡行術初級。
 思い返せば思い返すほど、それは手の中からサラサラとこぼれ落ちる砂のように現実感を失っていく。もう一人の私も空色オヤジももうここにはいない。
 あの時始めて時間遡行に成功してからのコトは、特に語るまでもない予定調和の出来事ばかりだった。……空色の服を着たオッサンが虚空から突然滲み出すように現れるという現象を予定調和と表現するのは非常に乱暴ではあるが。
 あれから少しの間、私は未来の私による時間遡行のレクチャーを受けていた。もっとも最初の一分間の時間跳躍に成功さえしてしまえば、それは自転車に乗れるようになった後で徐々に乗る距離を増やすのようなものであり、反復作業の繰り返しでそんなに面白みのあるものではなかった。
 結局その2時間で、私は約10数時間分の練習をしたと思う。一番長い時間遡行でも一時間だったが、繰り返しているうちにそのくらいの時間は経過してしまったのだ。
 もうどんな長さの時間でも跳ぶことができる。私がそう確信した瞬間の事だった。先ほど言ったように、なにもない空間から空色オヤジがまさにわいて出たのだ。
 それがどのような原理によるものなのか、などということは、その時の私にはもうどうでもいいことのように感じられた。長時間の練習に疲れていたこともあるし、時間を何度も遡って、増えたり減ったりしている私が空色オヤジを変だということはできないと感じたこともあるかもしれない。
 突如現れた空色オヤジは手品を披露する瞬間の奇術師がやるように指をぱちんと鳴らした。
 その瞬間、私の鼻や耳がしばらくの休暇から大急ぎで復帰したように感じられた。
 化粧室の匂いが漂ってくることをこんなに嬉しく感じられたことはそれまでの人生では一度もないし、これからもないだろう。
「じゃあ行こうか」
 空色オヤジは口の端をくいっと持ち上げるような、爽やかさにかける微笑をたたえながら言った。
 彼の意図するところがわからなかった私がぽかんとしていると、彼は目を細めて説明を付け加えてくれた。
「わかってると思うけど、君はこれから2時間半前に戻って過去の君に時間遡行術のレクチャーをしに行かなきゃいけないんだ。理由はもちろん一つ。君が君よりも未来の君にそうされたからさ」
 もうこんな分かりにくい言い回しでもわかるようになってしまった自分に驚きを感じつつも、私はコクリと頷く。
「そうだね……未来の私がこんなに丁寧に練習をさせてくれたわけだから、私もそれを私よりも過去の自分にしてあげなきゃいけなんだね」
 そう言って私の練習に付き合ってくれた未来から来た私の方をすがめみると、彼女は歯を見せてにっこり笑ってくれた。
 私はこんな顔もできるんだな、と少し自分を見なおしてしまった。これは私が数十時間後に見せる笑顔なのだし。
 そこからは今度こそ本当に予定調和。
 私は未来の私にされたことをそのまま過去の私にしてあげた。
 出会いから、状況の説明。時間遡行術初級。ウィンク。
 すべてが終わって通常の時間に帰ってきたときには、私は完全に疲弊してしまっていた。無理も無いと思っていただきたい。ろくに寝ていない一週間の後に、24時間相当のほぼ不眠の時間を過ごしたのだから。
 そんな長時間の体験にも関わらず、結局のところ私は、空色オヤジの真意を聞くことができなかった。
 彼はなぜ私にこんな力を授けに来たのか。
 その最大の謎に対する答えを得ることはできなかった。
 私は一体この力で何をすればいいのだろうか。
 そこまで考えたところで、現実離れした体験のインパクトに完全にノックダウンしていた私の眠気がようやく意識を取り戻し、代わりに私の意識を奪っていった。
 新幹線の振動が、今は揺りかごのように感じられた。

       

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Neetsha