Neetel Inside 文芸新都
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 何か短い夢を見ていた。
 目を覚ました時には、部屋はすっかり薄暗くなっていた。
 夕暮れの僅かな明かりの中で、あらゆるものの輪郭が曖昧に溶け込んでいる。意識がうまくまとまらない。身体も重く、手足がうまく動かない。しばらくの間瞬きを繰り返して天井を眺めていた。時間が緩慢に流れているのか、あるいは急速に過ぎ去っているのか、感覚が落ち着かない。脳の隙間にバターを塗りこまれたような不明瞭な感覚を抱えたまま、覚醒までの時間をやり過ごす。
 夢のことを考える。でもうまく思い出せない。心地よい夢だったのかそれとも悪夢だったのか、それさえもわからない。けれど夢の気配はしっかり残っている。意識の底にこびりついて剥がれないまま。それは拾い上げられるのを待っているのに、私はきっと二度と思い出せないのだ。
 そっとため息をつく。呼吸を繰り返しているうちに、ゆっくりと身体の痺れが薄らいでいき、少しずつ意識のもやが晴れていく。
 ふと脇を見ると、文庫本が伏せてあった。本を読んでいる途中に寝てしまったのだ。
 あの浅野君との会話から、私は部屋にこもって本ばかりを読んでいた。ほとんど学校にも行っていない。試験期間になり、最低限必要なだけは学校に向かっていたけれど、用が済めばまっすぐに家に帰る。このまま春休みになってしまえばいい。そうすれば、彼と顔を合わせないで済む。少なくともしばらくは。
 無意味な逃避。
 私はもう一度シーツに頬を埋める。
 手を伸ばして、伏せたままの文庫本をベッドサイドの本の山の上に重ねた。積み上げられた本の中に浅野君から借りたままになっている本が混ざっている。どれも薄い本で、男性作家と女性作家が半々。きっと考えて選んでくれたのだろう。でもこれも、もう返すあてがない。
 もう浅野君と会う必要はないし、きっと向こうだって会いたくないだろう。
 それでいい。私は理衣子に近づきたかった。だから浅野君に近づいた。理衣子らしい言葉や態度、そういうもので彼の気を引いた。それだけだ。理衣子と再会して、それが何の意味もなさなかった今となっては、もう必要ない。
――でもあの時、彼は言った。

「椎森さんはすごいよ」
「どうして?」
「自分を持ってるから」
 
 浅野君は私の中に、どんな「私」を見つけたというのだろう?
 私なんてどこにも居ない。彼が見ていたのは、「理衣子を装った私」に過ぎない。彼の目に都合のいい像を結ぶ私の姿に興味を示しているだけ。彼が本当に求めているのは理衣子だ。だから本物の理衣子が現われたのなら、私はもう必要ない。
 薄暗さの中に溶け込もうとするみたいに、目を閉じる。
 意識がするすると滑り落ちていく。私の内側からこぼれ出してしまう。穴が開いているのだ。塞ぐことのできない暗い穴。
 誰でもいいから、それをふさいでくれればいいのに。
 まるで真っ暗な森の中にいるみたいだ。全てが闇の中に溶け込んでいて、境界線をうまく見分けられない。光も音も闇に吸われてしまう。冷たい雨が降っている、でも雨音さえ聴こえない。何が正しく何が間違っているのか、聴き分けることが出来ない。
 きっと随分昔から、私はそこに居たのだ。そこで一人きりであることにも気がつかないまま。
「さびしい」
 気がつくと、そう呟いていた。それは薄暗がりの空間に少しだけ漂って、そして吸われて消えていく。泣く気はしなかった。それほど独善的にはなれない。
 私が「自分を持っている」なんて、そんなの彼の錯覚だ。
 きっと「椎森沙紀」なんてどこにも存在しない。ここにいるのは、理衣子の拙い模倣をしている影のような存在だ。あの日私が潜り抜けてきた鮮やかな記憶の残像として、うつろい彷徨っているだけの。
 
 目を閉じる。するといつでも残像がまぶたに浮かぶ。変わらない光景。光る雨。十五歳の私。そして、十五歳の理衣子。

       

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