Neetel Inside 文芸新都
表紙

涙雨
◆第六話「まどろむ権利」

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 案の定というか、やはり、それから椎森に会うことはなかった。キャンパスを探しまわってみるが、椎森らしき姿は見当たらず、彼女が出ているであろう授業を覗いても視認することは叶わなかった。
 借りっぱなしの小説を返すこともできそうにないし、なにより今更会ってなにができるというのだと思って、怖くなってすぐに探すことも辞めてしまった。
 それに、読み終えていないまま返す事もそれはそれで気持ちが悪い。
 いつも彼女を待っていたベンチに座ると僕は鞄から「細雪」を取り出して、読みかけていた箇所から再び読み始める。
 けれど、なんとなく数ページ読むうちに、なんだか息苦しさのような感覚を覚えていく。僕は呼吸の仕方を忘れてしまったのだろうか。それともここが水底であるから呼吸ができないのだろうか。そんな適当以外の何物でもない言葉を息苦しさに耐える自分自身に投げかけながら、それでも眼は文章を追い続ける。
 思い浮かぶのだ。理衣子の姿が。
 理衣子のよく読んでいた小説が「細雪」であることは知っていた。知っていたからこそ椎森の選択に僕は非常に驚いた。それさえも意図的であることが分かった今は、もう何も思えないわけであるが、今では逆にそれが彼女を思い出させる理由の一つとなっていた。
 以前まではじっくりと入り込めた文章という水底にもうまく入り込めない。いい加減耐え切れなくなってしまった僕は、本を閉じて乱暴に鞄へと放り込み、一度だけ大きく溜息を吐きだす。ごぽりと水泡が現れ、そして空へと浮きあがっていく。そんな幻想が見えて、僕は少し疲れすぎているのだと感じた。
「酷い話だよ」
 僕は騙されていた。まただ。また騙されていたのだ。
 椎森は僕を利用することで、川原理衣子という存在に近づこうとしていた。そうして僕が離れないように、理衣子を感じさせることで僕の気をひいていた。
 非常に巧いと思う。けれどもとても卑劣だとも思った。
「……帰ろう」
 授業のチャイムが鳴った事を確認し、僕はキャンパスから出てくる生徒を眺め、そして立ち上がった。乱暴に閉じられた鞄を背負うと、僕はするり、とその生徒達の群れへと溶け込んでいく。
 このまま融けて消えて、僕と言う意思がさっぱり消えてしまえばいいのにと願った。そうすれば、こうやって騙されることもなかったし、また同じ気分を味わう必要もなかった筈なのだから。
――重いのよ。
――貴方じゃない、理衣子よ。
 その二人の女性の言葉を再び思い浮かべながらイヤホンを耳に装着すると、オーデイオプレイヤーの再生ボタンを押した。流れ始めた曲は、僕をまるで慰めるかのように、見事なまでの寂しい曲調のものであった。
 単純でいて、力強いドラムの音と、ピアノが絡み合い、ボーカルが歌い始めることでその世界は切なさを孕み始め、それは次第に様々な楽器を用いることで大きな波としてじんわりと広がって行く。
 目の前にやってきた踏切を前に僕はウォークマンの音量を限界まで上げ、目を瞑ると、そのまま駆けだした。

   ―第六話―

 しかし、まあ……未練がましいものだ。
 この喫茶店にまた来てしまっている自分がとても、信じられなかった。ここになら椎森がいるかもしれないとでも思っているのだろうか。いや、そんなことはないことくらい分かっている。
 僕はただこの曖昧な気持ちを打ち放ちたくて、彷徨っているのだ。
 喫茶店の扉を開く。椎森がいるとはつゆほども思ってはいない。けれども、この未練と後悔と、もやのかかった感覚をはっきりさせるためには、ここは立ち寄らなくてはならない場所なのだろうとは思っていた。

「あら」
 喫茶店に足を踏み入れた瞬間、窓際の隅の席でこちらに手を振る女性がいた。僕はその女性の素性が分かっているし、その作り込まれた“吸い込まれるような”笑顔はなんだか今の僕にはとても悲しく見えた。
「理衣子」
「また会ったわね」
 そういえば以前あった時もここだった気がする。もしここで彼女と出会っていなければこんなことにはなっていなかったのかもしれない。いや、むしろそれは椎森を知ることができずに結局は偽りに身を沈めて行くだけの生活だったのかもしれないと考えると、この僕の“道”はあながち間違いではないのかもしれない。
 僕はあえて理衣子を放っておこうと思った。彼女と話しているうちに色々なことがぼろりと吐き出されてしまう気がするのだ。それは非常に怖いし、遠慮したい。僕にだって一人で籠っていたい気持ちがあるのだから。
 踵を返すと僕は扉へと向かう。別にここで無理に食事を取る必要はないのだ。
「逃亡かしら?」
 理衣子のその言葉は、僕の感情のどこかをずるりと削り取った。削り取られた感覚はやがて僕の中に小さな炎を生み、そして気がつけばその炎は僕を理衣子の机の前に立たせていた。
「見覚えのある出来事にまた出会ったよ」
「どういうことかしら?」
 あくまでもしらを切ろうとする理衣子に若干の怒りを覚える。
「結局椎森も君と同じだったよ」
「あら?」
 そうだったの、と微笑む理衣子を見て、僕は思わず机を叩いた。
「何がおかしい」
「そうね、結局君があの子を見れていなかった事がかしら」
 それは、とても真っすぐで、否定のしようもない正論だった。一体どこを見れば椎森を見れたことになるのか分からない。けれども、こうやって疎遠になる状況を避ける事も出来た筈なのだ。
「僕はどうせそういうやつだ」
「それで? 終わりかしら?」
 これ以上は言わないでくれ。多分、彼女に怒っているわけではなかった。率直で、それでいて何も返しようのない真実を言われていることがつらいのだ。
 理衣子に背を向け、天井を見上げる。
「もう終わったじゃないか」
「終わらせるのね、本当に?」
 本当に、というのはどういうことなのだろうか。理衣子は、未だに僕自身を実験対象として見ているような気がしてならない。いや、そういうわけではないのだろうけれども、そう感じてしまうのだ。
 終わらせる、か。と僕は溜息を吐き出すようにして言葉を放出する。
 もう修復ができるとはとても思えないのだ。彼女自身が僕の許から立ち去り、そして音信が不通となってしまっている時点で。
 椎森は罪悪感で僕の前に現れないのだろうか。それとも、ネタの切れた素材には飽きて、出てこなくなったのだろうか。
 僕に対して客以上の何かを抱いてはなかったのだろうか。何も見れていない僕の小さな願いは、大きな不安として今は心の中に存在していて、どっかりとそこに座り込むと悪意に満ちた笑みをこちらに向けている。
 僕は拳を握りしめた。
「終わらせたくない……けれど」
「けれど?」
「結局戻ることはできないから」
「そうね、元通りにすることはいつだって難しいわ」
 理衣子は美味しそうに紅茶に口をつける。椎森の飲み方がいかに理衣子を参考にしていたのかがよく分かる、そんな光景であった。
 僕はその場に寄りかかると頭を抱えながら目をつぶった。
「前に進めていたと思ってたんだ……」
「それが幻想だってことが分かったから、今ここにいるんでしょう?」
 その言葉は、僕の何かを破壊した。
 思い切り彼女の座席の机を蹴り倒し、手に取っていたティーカップを払い落した。単なる八当たりだということは分かっていた。けれども、この怒りの矛先をどこに向けていいのか、僕には皆目見当もつかなかったのだ。
「じゃあどうすればよかったんだ!」
 自分に問いかけるように叫ぶ。どうすれば椎森を分かってやることができたのだろうか。それがひたすらに僕の思考を働かせていた。
 僕は踵を返すと、突き飛ばすように扉を開いて外へ出る。この感情をどこにもっていけばいいのだろうか。溜めこんできた気持ちも、描き続けてきた想いも崩されて、僕はどこへ向かえばいいのだと、歯を食いしばり拳を握りしめ、ただひたすらに走り続ける。

 息が切れる。胸が苦しくて、喉が痛い。呼吸も辛い。
 そんな状況になってやっと僕の足は止まった。落ちついて周囲を見ると、僕は人ごみの中心にいて、まるで人の流れを遮るかのように立っていた。
 ふと握りしめていた拳を開いて覗き込むと、そこには少量の血が滲んでいた。じくりと痛みが僕の中に溶けていく。
 人ごみの中で、僕はなんとなく流れて行く人々を観察する。ここの人達は果たして流れに逆らうという考えはあるのだろうか。僕自身の悩みを分かち合える人はどれだけいるのだろうか。
 馬鹿かと、まるで自分が特別になった気にでもなっているのかと、僕は自嘲気味に適当に微笑んだ。
 人ごみを眺めることに飽きてきて、僕は元来た道を振り返る。
 理衣子が立っていた。
 慌てる様子もなく、ただ静かにそこに立って、憐れむような眼だけを向けていた。
 僕はそれから逃れるように、傍の路地へと入る。人前でこれ以上壊れた僕を晒したくはなかった。一体どうして僕は逃げているのか、一体僕は何故壊れかけているのか、それさえ分からなくなっている姿は、僕自身憐れなのだろうと思った。
「貴方は、誰を見ていたの?」
 理衣子の言葉で、僕の言葉の全てが消え去った。
 何も言えなかった。言えるほどの立派な思考は、僕の中にはどうやらないようであった。
「涙」
 不意に、理衣子に言われた言葉で僕は目を拭う。
「涙」
 いつの間に僕は涙を流していたのだろうか。
 もう全てが分からなくなっているのだ。混乱して、後悔して、何も言えなくて、先も見えなくて、そんな不安の全てが僕の中で次々と爆発していく。
 だから、ただ泣いた。ひたすらに泣けば何かが変わるかもしれないと思って泣いた。

 暫く泣き続けて、いよいよ泣きつかれたといった頃に、理衣子は僕の身体に手を回し、あの時から何一つ変わっていないさらりとした髪を僕の頬に充てる。
 理衣子は僕を抱きしめていた。変わらない彼女特有のやわらかな香りが僕の鼻腔をくすぐり、安堵感を抱かせる。身体は弛緩していき、やがて彼女に身を預けるように眼を瞑る。

 客たちが彼女を必要にする理由を、僕はちゃんと知っている。
 僕も“客”の一人となっていたのだから。

「もう一度、私の“客”になる?」
「……」
「まどろみ続ける選択も、貴方にはあるってことよ」
 
 その言葉は僕を揺らがせる。僕は、静かに目を閉じた。

 視界に浮かぶ椎森の姿を感じながら、方向の定まらない感情に疲れ切った僕は、今だけは、と気づけば理衣子に身体を預けていた。

       

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