涙雨
◇07:光る雨の記憶③
目を覚ますと、理衣子の姿は見当たらなかった。
壁にもたれかかっていたはずがいつのまにか床に寝そべっていた。薄いタオルケットがかけられている。身体のあちこちが痛い。制服が皺になってしまっていた。蝋燭は消えている。外はまだ薄暗いけれど、鳥のさえずりが近くで聞こえる。朝だ。
古びた和室の中、見覚えのない光景にしばらくぼんやりと座っていた。やがて意識が現実に追いついてくる。
理衣子はどこに居るのだろう?
不安に思ったとき、和室の入り口から声がした。
「起きた?」
理衣子は昨日のままの服装でそこに立っていた。私はほっとため息をつく。
彼女に促されるまま台所に行くと、洗面器に水が汲まれている。それで顔を洗ってから、台所のテーブルで理衣子と一緒に朝食を食べた。乾パンとか、缶詰とか、そういうものがある程度この家に保管されているらしい。考えてみれば昨日のお昼から何も食べていない。ひどくお腹が空いていた。
「こういうのを食べるのも久しぶり」
理衣子はそう言って笑う。まるでキャンプの朝みたい、と。私もつられて笑った。
やがて食べ終わってしまうと、お互いの間に沈黙が下りた。
理衣子は少し首をかしげて、テーブルを見つめていた。そして随分経ってから呟いた。
「帰ろう」
私たちは来たときと同じように電車に乗って帰った。昨日の雨が嘘のように空は晴れ渡っていて、朝日が眩しい。電車の座席で、理衣子は昨日と同じようにほとんど身じろぎせずに座っていた。まだ朝早い時間の電車は随分空いている。通勤の人の姿も余り見えない。そういえば今日は土曜日なのだ、と思い出す。
母親はどうしているのだろう。これから理衣子はどうするのだろう。たくさんの不安があっても、それを口には出来なかった。昨日までと同じ場所に帰る。それ以外に方法があるはずもない。それが何を意味するかわかっていても。
学校近くの駅で電車を降りる。改札を通ると、理衣子はまっすぐ学校の方へ歩いていく。私はすぐ後ろを黙ってついていった。
学校にはほとんど人の気配がなかった。正門も開いていない。裏門から入って玄関を通り、図書室に向かう。鍵は閉まっていた。まだ司書の先生が来ていないのだ。
理衣子は黙って鞄から鍵を取り出して、鍵を開けた。私が驚いて見ていると、こちらに向かって秘密めいた微笑を浮かべた。このくらいのこと簡単なのよ、という感じに。
薄暗い図書室には古い本の匂いが夏の湿気に膨らんで漂っていた。理衣子は電気を点けないまままっすぐ奥へ進んで、窓から外を眺めた。
窓辺には朝の太陽の光が眩しく漂っている。私は少し離れたところから理衣子を見ていた。
「あ、雨」
理衣子が呟いた。私はつられて窓の外を見る。
「天気雨」
理衣子がこちらを振り向いた。逆光のせいで表情が見えない。輪郭が淡く光り、長く黒い髪が光をたたえている。彼女の後ろで、眩しく晴れた空と、瞬くようにきらきら光る細かな無数の雨粒が見えた。
「知ってる? こういうの、涙雨とも呼ぶんだって」
理衣子が呟いた。私は声を出さずに頷く。
涙雨。
しばらく、きらきら光る雨粒を見つめていた。
「……父もね、叔父とほとんど同じ死に方をしたの」
唐突に理衣子が言った。それはとても静かな口調で、朝の空気にそっと馴染んだ。
「癌であっという間にいなくなってしまった。私はまだ小さかったから記憶はないけれど。そういうのって血統的な問題なのかしら? たとえば体質とか生活習慣とかそういうものだけじゃなくて、血の中に、そうならざるを得ないような別の要因が潜んでいたりするのかしら」
私は黙っていた。たぶんそれは質問じゃない。
「『細雪』の話を覚えてる?」
理衣子が呟いた。私は頷く。
「読み終わった?」
もう一度頷く。
雪子と妹の妙子。ひどく保守的な三女と、あまりにも奔放な四女。
「きっと、あの二人は二人で一人なのよ。私はそう思った」
理衣子が俯くと、長い髪が顔を隠す。顔の影はますます濃くなった。
「雪子が保守的になるほど妙子は奔放になるし、妙子が奔放になるほど雪子は保守的になる。家族ってそういうシステムなの。ほとんど無意識的にバランスを取るように出来ている。時にそれは人の命を奪うくらいの大きな力を持つ。そして父と叔父も、何かのバランスをとるために死んだ。―― そういう考えって荒唐無稽だと思う? 現実離れして被害妄想的だって。でも私にはそんな風に思えてならない。そこに巻き込まれている当事者の一人として」
なにか手応えを確かめるような、短い沈黙。
「確かに、私がしていることは人としてまともなことじゃない。間違った在り方だと思う。でも私という人間の成り立ちは、既にそう振舞うように作り上げられてしまったの」
逆光の中で理衣子の輪郭は少しの身じろぎもしなかった。バランス、と私は心の中で呟く。「理衣子は、なんのバランスをとっているの」
気がつくと口から言葉が滑り出ていた。それは随分頼りない声に聞こえた。
理衣子はその質問にゆっくり時間を置いてから答えた。
「きっと私は妙子で、あの女が雪子なのよ」
『あの女』。
その言葉の強さに驚く。母親のことなのだとすぐにわかった。そこには冷たく硬い、確かな憎しみの気配がこもっていた。理衣子がこれだけ話をするのも、強い感情を露にするのも、ほとんど初めてのことだった。態度にはいつも超然としていると言っていいくらいの余裕があったから。これだけのものを理衣子は今までどこかに抱え込んでいたのだ。
「本当は沙紀の知らないうちにこっそりいなくなりたかった。でもどうしてもできなかったの」理衣子が静かに呟いた。
「もう二度と戻ってくることはないってわかっていたから」
その言葉の決定的な響きに、全身から文字通り血の気が引いた。
手が震える。背筋がすっと冷えて、めまいがした。足元がふらつくのをなんとか踏みとどまる。
「どうして?」
気がつくと、そう呟いていた。
あまりに唐突にやってきた終わりを、受け入れきれない。認めたくない。
「行かないで。ここにいて。私を選んで。私はもう理衣子がいないとどうしていいのかわからない。理衣子に傍にいてほしい。一緒にいたい。もっとたくさん話をしたい」
せめて、自分もそうなんだって、言ってほしい。
「選択肢は、ないの」
落ち着いた理衣子の声。
それが揺るがないことはわかっているのに。
「……私はどこにも居られない気がする」
理衣子が静かにそう言った。
「どこにも居場所なんかない。逃げようがない。誰と触れ合っても、ただ通り抜けていくだけみたいに思える。みんな客のようなものなの。誰かがやって来て、ほんの少しのあいだ居場所を共有する。留まり続けることはできない。それは必ず終わってしまう」
――客。
「私も、客の一人?」
反射的に訊いた。理衣子は首を傾げる。少し微笑んだかもしれない。表情は見えないけれど、そんな気配がした。
「わからない」
それはきっと正しい言葉だった。私が望んでいるものではなかったとしても。
「一緒ならどこかに行けるかもしれないと思った。それは嘘じゃないの。昨日、一緒に来てくれて嬉しかった。本当に」
理衣子は窓辺を離れる。逆光のつくる影から抜け出してきた彼女は、もういつもの落ち着いた様子を取り戻していた。そして小さな鍵をすぐ傍の机に置く。図書室の合鍵。
私は何も言えなかった。こんなに圧倒的な感情をどう扱えばいいのか知らない。
私たちはお互いに俯いたまま、ずっと長い間黙っていた。
ずっと遠くで、誰かが誰かを呼ぶ声がした。微かなざわめき。人の気配が濃くなっていく。運動部の生徒が朝練を始めたのかもしれない。静かな透明さを保っていた夏の朝の太陽が、少しずつ色味を帯びていく。これから気温も上がり始めるだろう。時間は滞りなく進み、一日が容赦なく始まっていく。
「――ねえ、賭けをしない?」
やがて、彼女が言った。そして小さく首を傾げるように、私を覗き込む。どこか愉快そうな瞳で。
その時、私はもう知っていた。それがどんなに無謀な賭けだったとしても、私は無条件に受け入れるのだろう。たとえ何の見返りがないかたちだけのものに過ぎなくても、それがほんの僅かでも理衣子との繋がりを意味するものならば、きっと。
そして理衣子は私の世界から姿を消した。
夏休み明けの学校に理衣子はいなかった。彼女の言葉通り、真田先生の姿もなかった。「急ではあるが、止むを得ない家庭の都合で」学校を移ったのだと説明があった。生徒の間で真田先生に関しては随分色々な噂が流れたけれど、理衣子との関係を疑う人はいないみたいだった。
むしろ、理衣子の転校に関してはほとんど話題に上らなかった。奇妙に思えるほどあっけなく理衣子は忘れられていった。かなり目立つ存在であったにも関わらず。
理衣子がいなくなってから一週間、私はほとんど何も食べなかった。食欲そのものが完全に消失してしまったのだ。ぽっかりと抜け落ちたみたいに。食べ物を無理に口に入れてみても異物感があるだけで、気持ち悪くて吐き出しさえした。
夜が来て機械的に横になっても、すんなりと眠りがやって来ることはなかった。真っ暗な部屋の中で私は何時間でも目を空けたまま天井を見つめていた。それでも朝が来ればちゃんと起きて、日常をなんの滞りもなく過ごしていた。やがて学校も始まった。
私はそれまでよりもずっと本を読んで過ごすようになった。そして人との間に更に距離を置くようになった。孤立するという程でもなく、それでもある一定以上に人と親しくならないように。
違う。親しくなろうとしたって、できなかった。
私はもう知っていたから。誰かとどうしようもなく深く繋がる喜びのことを。特別な繋がり方をする特別な相手。他のどんなものも、それに比べればつまらなく色あせたものにしか見えない。
容赦なく切断された魂の先っぽが、いつも風に揺られて頼りなくさまよっている。そこは激しく飢え渇き、繋がる先を虚しく求め続けていた。私はどうしようもなく孤独だった。以前よりもずっと深く孤独になった。時々、夜中に目を覚まして泣いた。自分がたった一人きりであることに耐え切れなくて。こんなにも孤独であることに気がつきたくはなかった。でもそれは理衣子との時間の代償のようなもので、だとすれば決して避けようのないことだったのだ。
深い孤独と隣りあわせでしか存在しないものごとがこの世界にはある。そしてそんなに圧倒的なものが、誰の人生にも訪れるとは限らない。だから私は幸せなのだと思った。それを手にしていたのがたったひと夏の間だったとしても。
孤独はあまりに甘美で、酩酊しそうなほど香り高く、陶酔的に私を支配した。そこに閉じこもっていれば私はいつでも理衣子を鮮やかに思い出すことが出来た。街の人波の中で、私はよくそこに「引きずり込まれた」。私の手を握る理衣子の、小さく華奢であたたかい手を思い出した。私たちは二人でその波を彷徨っていた。いつでも。いつまでも。
私がミフジさんに出会うのは、それから数年後。十九歳の時のことだ。