Neetel Inside 文芸新都
表紙

涙雨
◆第八話「遮断機」

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 あの電話が果たして、どれだけの効果をもっているかは分からない。
 けれど少なくともあの時、僕と彼女の小さな世界は確かに繋がっていたし、多分今までのどんな時よりも僕らの距離は縮まっていた。結局のところこれまでは近づいているように見えて、何一つとして距離は縮まってはいなかった。視覚的な距離と、内面的な距離は全くといっていいほどちぐはぐだった。
「行くのかしら?」
「そうだね」
 たった一言を交わし、僕らは互いに眼を見る。やはり、どんな時でも彼女の瞳はひどく澄んでいて、全てを見透かしているように見えてしまう。いや、彼女にだってきっと穴はあるのだし、見せたくない弱みもあるのだと思う。
 けれども、きっとそれを埋めるのは僕ではない。
「浅野君」
 店を出ようと扉を開けた時、理衣子は僕に声をかける。振り向くと、理衣子はこちらをじっと見つめ、それから口を開こうとして、やめた。その一連の行動が一体何を示していたのかは分らないが、それからの理衣子はいつもの彼女であったし、それ以上を聞くべきではないと、そんな風に思えた。
 理衣子は手を振る。いつものように微笑みを浮かべながら、僕に向けて。
「ばいばい」
 その言葉は、一体どういった意味合いをもっていたのだろうか。理衣子にしてはとても幼い言葉で、単純であった。
 戻れる気もしていた。
 けれども、僕は扉を閉めた。
 多分、もう理衣子に会うことはないのだろう。ぼんやりとだが、そう感じていた。僕が例え会いたくなったとしても、きっと彼女は現れようとしない。理衣子にとっても、僕にとっても、これは通過点でしかない。通過した道を再び戻ることは、きっと彼女が納得しない。

   ―第八話―

 携帯のアラームの音で目が覚める。まだ意識がぼんやりとしているが、暫くすれば醒めてくるだろう。
 起き上がると同時に、何かが手に当たる。
 細雪だった。ああそういえば昨日寝る前に読んでいたのか。ぱらぱらとページをめくっていきながら僕は記憶を辿る。大抵物語は一度読めば頭に入るものだ。だが、それだけでは多分読み解くことのできないことだってある。もっと読もう。読んで、この作品をどうして彼女らが好きなのかを知るべきだ。椎森だって理衣子を意識しつつも、なにかしらの思い入れはある筈だ。
 一つ一つ、普通ならば見逃してしまいそうなものを拾うべきだ。
 細雪を枕元に置いてベッドから出る。何を食べようか。折角だから待ち合わせの場で何か食べて、そのまま居続けるのもいいかもしれない。ああついでに幾つか本を買いあさって読んでいるのも良いだろう。
 僕の中で考えがある程度まとまったので、洗面所に向かうと目いっぱいに蛇口を捻った。ごぼりと吐き出すように蛇口からは水があふれ出す。僕はそれを掬い取ると、顔を洗う。水はとても冷たくて、未だ夢心地の僕を現実へと引き戻していく。
 排水溝に流れていく水を眺めながら、一体今まで僕はどれだけを流そうとしてきたのだろうかと考えてみて、それからなんとなく蛇口から流れ出る水を両手で掬ってみせた。水は、指と両手の間をすり抜けて流れ落ちていく。
――全てを掬い取れるほどこの手はうまくできていない。
 僕はもう一度だけ、顔を洗った。

 感覚が冴えたところでジーンズとシャツに着替え、その上にジャケットを羽織った。
 現実なのだ、ここは。僕が理衣子に出会ったことも、客として扱われていたことも、椎森が理衣子を意識して近づいてきたことも、そうしてまた僕は同じ客として扱われていたことも。
――椎森に興味を抱いたことも。
 これが果たして好意という感情であるのかは分からない。一度辿りついた答えは、錯覚と言っても良かったのかもしれない。椎森もまた、僕の後ろにぼんやりと見えていた理衣子の影を追いかけ続けていただけであった。
 僕らは何一つとして、言葉を交わしたことはなかったのではないだろうか。
「さて、出るかな」
 外の様子を見てみるが、若干雨が降りそうな天候だ。濁った灰色をした雲が敷き詰められ、いつもの青々とした空は見えない。念のため傘は持っていくべきだろうか。
 一本、折りたたみの小さな傘を鞄に入れ、そこに本と財布を放り込んで肩に提げる。靴に足をつっこんで家を出ると、外は少しだけ肌寒かった。マフラーでも捲いていくべきだっただろうかと思いながらも、まあいいかと鍵をかけた。

   ―――――

 喫茶店に到着すると窓際の席に座る。隅に座ろうかという考えもあったのだが、それは違うとなんとなく思ったのだ。いつも通りではいけないとどこか意識しているのだろう。落ちつく場所では、結局殻に籠ってしまって動きがないかもしれないから。
 多分、同じままでいることが一番怖くなっていて、だから何か少しでも“違う”というワードを手にとろうともがいている。
 椎森がいつやってくるかは分からない。時間の指定なんてしてない。ただ僕が一方的に待ち続けているようなものなのだから。
 注文したパスタとコーヒーが目の前に置かれる。そういえば朝食をここで採るのは初めてだ。僕は鞄から先程書店で買って来た幾つかの本を積むと、ひとまずはパスタに手をつけ、食べ終わってから一番上に積まれた本を読み始める。
 ふと窓の外を見てみると、雨が降り始めていた。といっても小粒のものであるから、帰宅するとしてもそれほど心配することはなさそうだ。これが激しさを増すと少し厄介ではあるが。まあ帰宅といってもいつになるのか分からないのだし、今心配することでもないだろう。
 僕は再び文面に目を落とし、ただ黙々と積まれた本を読みふける。
 だが、それほど物語に深入りしきれない自分がいた。
 多分、それとなく緊張はしているのだと思う。椎森は来てくれると信じているが、その後の会話に関しては何も考えてはいない。一言でも違えば終わるかもしれないのに。それでも用意してくることは、多分違うと思ったのだ。僕は椎森の言葉に真っ直ぐに答える。椎森の言葉を受け止める。
 それだけが重要だと思ったのだ。

 数冊の本をやっつけ、積まれていた本もあと二冊となってしまった。随分と長い時間をここで過ごしているが、椎森の姿は未だない。外は本降りになっているようだし、窓についた水滴と音からもそれは大分酷いものだと分かる。
 周囲を見回してみるが客は僕以外になく、店員も欠伸を一つ二つと数えているくらいだ。こんな雨の日ならば意外とこの店を訪ねてくる人がいるような気もするのだが、どうやらそれはこの店では通用しないらしい。造りも少し落ちついているし、かかっている音楽も店主の趣向を全面に出しているようであるが穏やかでとても心地よい。穴場というものはどんな時でも穴場なのだなとなんとなく思った。
「どうぞ」
 不意に、僕の机にコーヒーのおかわりと、パンケーキが一つ置かれる。注文をした覚えはないのだけれども、と僕は店員を見るが、店員はその疑問の視線に対して笑顔を返した。
「食べてください」
 彼はそう言うと再びにっこりと笑みを浮かべた。することがなさすぎて退屈であったのだろうか。にしてもサービスにしては大分大きなものを焼いたものだと僕はパンケーキをまじまじと見つめる。
「人待ち、ですかね?」
 店員の問いに、僕は頷く。
「良かった。読書家かなとも思ったんです。けれどもやけに外を見ているので、つい気になってしまって」
「確かに、ここは落ちついていて、読書の為だけというのも良いかもしれないですね」
 僕の言葉に店員はでしょう、と得意げに微笑む。
「僕もそう思ってここでバイトしているんです。とにかく落ちつくし、居心地が良い。なのにお客が沢山入ってくることがない。不思議な空間ですよここは」
「それで、暇になるとお客に声をかけてみる」
 冗談半分で言ったのだが、どうやらその通りのようで店員は悪戯に笑った。
「意外と一度来た人は何度も来るんですよ。だから、それなりに来店客の顔は覚えてるんです。たまに会話したり、時には向こうから声をかけてくる人もいるくらいですから」
 ああでも、と店員は遠くを見つめ、首を傾げながら呟いた。
「壁がある人がたまにいるんですよ。なんというか閉じこもっているような……。一人で落ちついていたい方もいると思うので僕もすぐに引いてるのですが」
 それほどイメージが合致するわけではないが、なんとなく言ってみたくて、僕口を開く。
「それは、例えば隅に座っていたりとか?」
 ああ、よく分かりましたね。店員はそう言うと腕を組んだ。
「一人でよく読書してるんですよ。今日の貴方みたいに。声をかけたりすると少し不機嫌そうな顔になるんですけど、本に目を落としてる時はとても穏やかな表情なんですよね」
 からん、と音がした。
 僕と店員が扉へと目を向け、そして店員は驚いた顔を、僕は安堵の表情を浮かべた。
「やあ」
 やってきた“客”に対して、僕はそう声をかける。
 椎森は、水滴を落とす傘を片手に、足元を濡らした姿のままじっと僕を見つめていた。彼女を見ることができて安心したからなのか、椎森のことを落ちついて観察できている自分がいた。
 椎森の表情に、余裕というものは全くと言っていいほど存在していなかった。

   ―――――

 傘を置いて、椎森は向かいに座る。ただ無言のまま彼女は僕を見つめている。途中で彼女が注文した紅茶が置かれると、店員は店の奥へと行ってしまった。
「久しぶり。学校でも全然会わなかったけれど、ちゃんと来ていたのかい?」
 返答はない。さりげない話題を振ることから始めようと話題を探すが、どれも彼女が答えそうな内容ではない気がしていた。多分、彼女は僕と談笑する為に来ているのではないのだろう。勿論僕だってそうだが、気負い方が互いにまるで違うのだ。
 音が無い。
 見ているようで、見ていない。目をこちらに向けているのだが、視線は逸らしているようだった。
 どれだけの言葉をかけても、きっと彼女は反応しないだろう。
「正直、顔が見えた時、ほっとしたんだ」
 けれども、話し続けるしかない。それしか、今はないと思った。
「僕は多分、君が来ないという可能性も考えていたんだ。何も解決しないまま、全てが有耶無耶になって終わることを、ね」
 ここで椎森が来なかったとしても、そのまま僕らは平行線を歩いて終わったのかもしれない。それでも十分に終わり方としては綺麗ではあったのかもしれない。
「僕は、嫌だったんだ。全て終わりにするにしても、できることなら互いに引け目を感じるような別れ方はしたくない」
「引け目?」
 そこでやっと、椎森は口を開いた。僕の言葉を遮る様にしてそう言うと、彼女は窓の外を見つめたまま呟く。
「少なくとも、浅野君が私にそんなものを感じる必要なんかないと思うわ。それに、もうこれは終わっていることなんだと思ってた」
 僕は黙る。椎森は構わず紅茶を一口飲むと、小さく息を吐きだした。
「あなたも私も理衣子を追いかけていただけだった。だから元々重なるはずのなかった線が、また元に戻っただけなのよ」
「確かに、そうかもしれない。けれども僕は、交わったのならば、その交わりに対して責任を持ちたいんだよ」
「それが何になるの?」
 椎森の口調が少し荒くなる。
「ただの自己満足だよ」
 そこで、椎森はやっとこちらを向いた。
「僕は君をちゃんと知りたい。例えその結果がどうなろうとも」
 彼女が本当に理衣子だけを見続けていたのか、僕に対する興味はなかったのか、そして、彼女は今までどんな気持ちで過ごして、どんな考えで娼婦となっていたのか、その全てを知りたかった。
「今まで、僕がどれだけ君を見ることができていたのかを思い出してみた」
 コーヒーを手に取り口に運ぶ。苦味によってはっきりとしていく感覚が、微かな香りを感じとらせた。
 僕は浮かんだ思考を手にとった。
「椎森と知り合っていく中で、感じていたものがあったんだ。……君から感じるのは、いつも必死さだったり、寂しさだったり、そんな感情が多かった」
 浮かんだ言葉を淡々と吐き出していく。何の脚色も、味付けもされていない言葉というのはこれほどに淡泊で、透き通っているものなのか。そしてきっとこんな透明で何物にも支配されることなく吐き出される言葉は、何度も経験できることではないだろうと思った。
 その一瞬を切り取った言葉は、その一瞬を映し出した瞬間に消えてしまう。
「私のどこが、寂しそうなの」
 椎森の目が細くなった。それから彼女が口にした反論は、とても単純なものであった。
「そう感じたからって、何になるというの?」
 ティーカップを煽ると僕はコーヒーを飲み干し、そうしてから椎森を見た。
「なにもならない。ただそれだけなんだ」
「それだけ?」
 椎森の視線は未だに、僕を見てはいなかった。僕は構わずに続ける。
「そんな印象だな、という程度で僕は終わっているんだ。それだけのことしか感じることができていないんだよ」
 そうだった。いつだって僕はただそっと見ているだけで終わるのだ。目の前の映し出された映像をただ見ているだけ。椎森に対してだって、そうやって一人で勝手に感想を述べて、あとはそのままだった。いや、そのままにしておかないで手を加えることが怖かったのだと思う。
「それは勝手な印象に過ぎないのかもしれない。要するに今の僕は、あらすじだけを読んで、わかった気になってるだけなんだ」
 たった数行の外見を見たとして、その人を知ることはできない。僕は所詮理衣子という言葉の入ったラベルを見て、それからあらすじを見てその本を手にとったようなものだ。タイトルはおろか中身すら開いていない。
 そんなことで、僕はそれを“読んだ”と満足していた。

 窓に打ちつけられた雨の音が響く。言葉を交わさずにいると、本当に時が止まったのではないかと感じられた。ただ透明なままで吐き出された言葉は果たして彼女には届いているのだろうか。
 けれども僕は、もう引くことだけはしたくなかった。
「だから、今度こそ僕は見ようと思うんだよ」
 とても単純で、とても大切な言葉を口にする。
「僕の手じゃ収まりきらないのかもしれない。けれども、僕は、できることならしっかりと読み込んで、そして欲を言えばそれらを受け入れたい」
 椎森は目を閉じた。目を閉じている間、時間がまるで凍ってしまったかのように感じ、これ以上動くことはないのではないかとさえ思った。
 僕は彼女からの返答を待つ。今は待たなければいけない。椎森の言葉を、ちゃんと僕自身が受け止めるべきだと。
 椎森は目を開くと、言った。
「あなたに、それが受け入れられるとは思えない」
 それに対して僕はけして動じず、ただ椎森の瞳を見る。椎森の目はけして嘘を言っていない。ただ、どこかその目が僕の方を向いていないような気がした。
「私がしていたことをわかってる? 『娼婦』としての私が何をしていたかなんて、知りたいと思う? 知ってしまって、それが受け入れがたいものだったのならどうするの? 私はそんな覚悟をあなたに求めてない。それはあなたに理解できるものじゃないから。『娼婦』のことも、理衣子とのことも」
 椎森の言葉が止まった。僕は息を深く吐いて、呼吸を整えると、頭の中に散らばる言葉を慎重に、冷静に組み立てる。
「僕に理解できるかどうかは、椎森が決めることじゃない」
 じっと椎森を見つめ続ける。僕はこの目を離してはいけない。離せば、きっと彼女はまた迷ってしまう。そんな予感がしていた。
「もしも本当に僕に理解できないと思っていたなら、椎森はここに来なかったと思う」
「どうしてそう思うの?」
 椎森の強い口調が、微かに自身が動揺していることを感じさせた。きっと彼女は揺れている。彼女に投げかけた言葉は、単に揚げ足をとっているようなものだった。けれども、ふつふつと沸き上がる感情はそんな単純な言葉でさえも僕に吐き出させた。
「僕がどうでもいいなら、無視してしまえば済んだことじゃないか。終わったことだと思っていたなら尚更。どうして椎森はここに来たんだ?」
 椎森はじっと僕を見つめている。初めて彼女が表にした鋭い眼差しを見て、何故だか少しだけ心が和らいだ。
「僕だって理衣子のことを引きずっていたのは認める。でも、椎森はずっとそうやっていくつもりなのか? 理衣子を追い続けて、誰とも関わらずに生きていく。本当にそんなことを続けていけるのか?」
 その言葉は、なんだか今までで最も重たくて、熱のこもった言葉に聞こえた。僕は口を閉じて、じっと椎森を見つめる。
「何も知らないくせに」
「何も知らないよ」
 椎森はゆらりとこちらを見る。
「だから、知ろうとしてるんだ」
 それは多分、とても単純で、とてもちっぽけな言葉だった。けれども、彼女にかける言葉に何かを飾るのは違うと思った。
「椎森沙紀を、知りたいんだよ」
 この言葉が、直ぐに届くとは思ってはいない。
 彼女がどれだけ理衣子という存在に自分の居場所を見いだしているのかは分からない。けれども、僕は僕なりに出した答えを椎森に伝えなくてはならない。
 何も知らないからこそ、分かったフリだった今までから抜けだしたいと思っている事を。
 ふと窓ごしに外を眺めてみると、大分雨は小ぶりになっていた。しんしん、と囁くように落ちていき、地面にできた水たまりに波紋を作っては消え、波紋を作っては消え、を繰り返していく。
「勝手よ」
 椎森はじいと僕を睨みつけながら、そう言い放つ。
「私の全てを知るなんて、できるわけないわよ。結局のところ皆そうできてるの。どんなに解った気でいても、そこには居続けられないのよ。そこは一時的な居場所にしかならないの」
 その言葉を聞いて、僕はふとした疑問を覚える。目を細めている椎森の言葉に、何故こうも違和感を感じるのだろう。
「椎森は、どう考えているのさ」
 椎森は目を丸くしている。僕は改めて尋ねる。
「僕は理衣子じゃなくて、椎森に聞いてるんだ」
 椎森は唇をかみしめ俯く。手を強く握り締め、ただひたすらにそこに座り続けていた。僕はじっと椎森を見つめ、彼女の言葉を待ち続ける。
 けれども、椎森は一言も言葉を口にせずに席を立った。それから一度だけ僕を見た後、扉を乱暴に開けると外へと飛び出していってしまった。まるで全てを投げ出すような、そんな出て行き方であった。
 僕は適当な金額を机に置くと荷物を手にする。雨の中彼女を追いかけるとしても僕まで焦っては行けない気がしていた。少しだけ速足で店内を出ようとする。
 ふと視線を横にやった時、店員と目が合った。彼は不安そうに僕を見ていたが、僕は小さく笑みを浮かべると一度だけ会釈し、乱暴に投げ出された扉から出た。
 雨は少しだけ勢いを弱めていて、衣服をしっとりと濡らす程度のものとなっていた。多分あと少しすれば止むだろう。先を奔る彼女の姿を見つめた。
 そうしてから、しっかりと地面を蹴って走り出す。
 この道の先には踏切がある。あの時、僕が背を向けた踏切が。
 もう彼女の後姿を見失うつもりはない。
 人ごみの先に彼女の姿は、あった。僕は声をあげて椎森の名を呼ぶ。だが彼女が止まる様子はない。いや、聞こえていないのかもしれない。
 僕は更に強く地面を蹴り、じっとりと濡れて貼りつく衣服を気にもせず、ただ走り続ける。次第に距離は縮まって行く。僕は手を伸ばす。
「椎森!」
 道の先に踏み切りが見えた。警報の音が鳴り響く。遮断機が降りて行く。彼女は遮断機を潜り抜けるとそこでやっと立ち止まると振り返り、僕を見つめた。
 そこにいた椎森は、どんな時よりも感情を露わにしていた。ただそこに立っていて、ただ僕を見ているだけなのに、その行為がどんな時よりも真っすぐでいるように感じられた。
 僕はもう一度叫んだ。
 その時僕が何を叫んだのかは思い出せない。その言葉は、僕と椎森と分断するように走った電車の音によってかき消され、そして切り取られてしまった。けれども、言葉が聞こえていなくても、いいと思った。
 僕が言いたかった言葉は、音でなくても彼女に届いた気がするのだ。
 この踏切が開いた時、もしかしたら彼女はいないのかもしれない。僕の言葉を受けても、椎森が僕を見ることはないのかもしれない。そんな不安がないわけではない。
 けれども、この踏切が開くのを待とうと思った。今までの流され続けていた僕ではなく、僕自身の足で動けているというこの感覚を消し去りたくはなかった。
 雨は僕を容赦なく濡らし、髪はすっかり濡れ顔に張り付いている。衣服も水を吸って重くなってまるで鎧でも身につけているような気分だ。
 そんな中で、僕は目を瞑って宙を仰ぐ。

――全てが流れてしまいそうな雨だった。

 流してなるものか。
 自然と出た想いを、ぎゅっと噛みしめた。


 警報器の音が止まる。
 雨が弱まり、地を打つ音が溶けてなくなっていく。

 依然として雨は降り続けているはずなのに、そこはとても静かで、落ちついていた。

 遮断機が、上がった。

       

表紙

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Neetsha