Neetel Inside 文芸新都
表紙

涙雨
◆第二話「その四文字」

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 偶然というものは意外と面白いものだと思う。先日の集まりで気疲れした気持ちをどうにかしようと外に出てみたのだが、いつもの町並みの中で、僕は見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「椎森さん」
 彼女は僕の声を聞いて振り向くと、一度静かに会釈する。
「浅野君、こんにちは」
 彼女は丁寧で平坦な口調で僕にそう言うと口の端を少し吊りあげた。先日会ったときからそれほど表情の変わらない女性であることは分かっていたので、これは多分彼女なりの笑みなのだろうなと思いつつ、僕も笑みを返し、手を振りながら歩み寄る。
「この間はどうも」
「こちらこそ」
 まるでざわめく街中に溶けて消えてしまったかのように僕らの会話が途切れた。何か話さなくてはと必死に言葉を探すのだが、たった一度だけの知り合った人間に、それも偶然会った状況で何を話せというのだろうか。
「どこかへ行くところだったの?」
 そんな戸惑い(僕自身が勝手にそうなっていただけなのだろう)を彼女は切って捨てると、僕を不思議そうに見つめながら首を傾げた。
「なんとなくぶらぶらとしてるだけなんだ」
「そうなんだ。……じゃあ、よかったら、少しお話でもしませんか?」
 今度は落ちついたところで、と彼女は付け加える。数歩僕に歩み寄り、少しだけ見上げるような姿で。その動作が、視線が、人をよく覗きこむように見てくるあの人の姿をほんの少し連想させ、僕は思わず後退した。
「駄目ですか?」
「いや、特にすることもないし、僕は構わないよ」
 そう言うと彼女は嬉しそうに小さな微笑みを見せた。
 僕はやはりあの人に浸食されているのだということを実感した。それがとても後ろめたくて、それでいて安堵感を僕に抱かせる。

   ―第二話―

 扉を開けると、それほど客のいない、落ちついた空間が広がっていた。かかっている音楽は小さめで集中して聴かないと曲が分からなそうだ。店員は暇そうに店内を見回しているし、かろうじている客は客でのんびりとくつろいでいる。
 確かに、これだけ脱力した空気をもった店なら、十分に安らぐことができるのかもしれない。
 椎森は店を一度見まわしてから、ゆっくりとした歩きで隅にある席へと向かう。風貌や先日の性格からして確かに隅を好みそうな女性であるなと、イメージ通りな一連の動作に僕は多少笑みをこぼしそうになる。
「隅が好きなの?」
 椎森の向かいの席に腰をかけ、メニューを開きながら僕はそんなことを問いかける。大した疑問ではないのだけれども、これでどんな返事が返ってくるのか興味があった。
「……そうね。誰でも隅の方が落ち着くとは思うんだけど、」
 彼女はメニューに視線を落としつつ、言葉をたんたんと吐き出す。
「特にこの壁際の隅の席って、ちょうどいい分量の視界が手に入るの。それが好きなのかも」
 椎森はすらすらとそう言葉を吐きだすと、やってきた店員に紅茶とデザートを注文する。僕はその言葉を自分の中で消化しつつ、珈琲を頼んだ。そうして頭の中で消化しきれなかったワードを再び繰り返す。
「視界?」
「そう、他の物が目に入らないから、そういうリラックスできる場所だと、相手の素の部分を知ることができると思うの」
「普段は見えない部分を見る事が出来る、ということ?」
 そう、と椎森は頷いた。あまり考えた事がなかったが、それが彼女なりの人に対する興味の持ち方なのだろう。
「人を見るのが好きなんだっけ?」
「多分」
「多分?」
「なんて言うのかしら。好きっていうか、むしろ関わることを避けないことで、意識的に他人に興味を持とうとしているのかもしれない。人間って、遠くから見れば皆大体同じように見えるのに、知り合ってみると人それぞれに欲しがっているものって全然違ったりするから、それを知ることが面白いの。単純に好奇心のようなものかも」
 ふぅん。僕はやってきた珈琲に口をつけてから、目を閉じた。
――似ている。
 心の中で浮かんだ言葉は、やはりその四文字だった。そして同時に、僕はその似ている思考の持ち主に興味を抱いているのか、それともその感覚によって今はいないあの人にしがみついているのか、どちらなのだろうと考える。
 暫くしてから椎森はフルーツの乗ったケーキを丁寧にフォークでつつき、そして自らの口に入るだけの大きさに切り分けて食べ、そして紅茶に手をつけている。
 目をつぶれば、そこにはあの人が頬杖をついて、笑いながら僕を見つめている光景が浮かんだ。多分、そうやってしがみつきたいのだ。未練はおろか、僕は何も進歩していないんだなと少しだけ、悔しくなった。
「大丈夫ですか?」
「え、ああ」
 流石に顔をしかめていた僕に疑問を覚えたのか、椎森は心配そうな目で僕を見ていた。
「大丈夫、少しだけ珈琲が苦くて」
 我ながらにとても下手な誤魔化し方だと思った。
「椎森さんは色々なことを考えてるな」
 別段苦くもない珈琲を再び啜った。
「別に、いつもそんなこと考えているわけではないけど」
 彼女は目を横に逸らしながら、そっと言った。
「私がしたいことの過程にそれらがあるだけ。何かを手探りしているわけでもないし、浮気をしているわけでもないのよ」
「過程か」
「そう、過程。私が私である為にしなくてはならないことを、ただ坦々とこなしているだけなのよ」
 やけにはきはきとした語調で彼女は言うとさくさくとケーキの残りを平らげ、紅茶をくいと飲み干した。
 しなくてはならないこと、という言葉が僕の中でなんとなくひっかかる。
 多分あの人とは違う部分があるとすればこの考えなのだろうと思った。今の会話からすると椎森は自らがしなければならないと感じる事を必死に消化している結果、自分がいると考えているようだった。少なくともそれらをこなすことが出来ているようであるのは良いのだが、果たして椎森がそれらを”行えなくなった”時、彼女はどうなってしまうのだろうか。
 あの人は多分、様々なことに触れることでしたいようにしている人間で、それが自分を構成していると考えていたような気がする。
 ただ僕がそう思っているだけであるから、実際には椎森の言葉の解釈も、あの人に対する理解の仕方も全く違っているのかもしれない(多分理解できていたとしたら、僕はまだあの人と共にいたかもしれないのだから)。けれども、少なくとも椎森は椎森であるという考えに至る事ができたのは、僕の中ではとても大きいことかもしれない。
「椎森さんはすごいよ」
「どうして?」
「自分を持ってるから」
 僕の呟いた言葉に椎森は少しだけきょとんとし、そして次に嬉しいのか悲しいのか分からないような表情と瞳で僕を見たのだった。

   ―――――

 一時間ほど、だっただろうか。それにしてはやけに長くいたような感覚があるが、僕らは店を出るとまた喧騒に塗れた空間へと自らを放り出す。これだけ騒がしいのなら、このままずっとあの店にいても良かったかもしれないと思ったが、そんな長居をしたところで会話が尽きれば多分何とも言い難い空気を互いに放つ事になっていただろう。
「椎森さんは特に予定はなかったの?」
「え?」
 今更、とでもいうような視線を向けられ、僕は思わず笑ってしまった。
「予定があったら流石にお茶なんてしないね」
「私もただぼんやりと街を歩いてみようと思ってただけだから」
 そっか、と返し、僕はふうと息を吐きだした。
「特にすることもないなぁ」
「歩きましょうか」
「そうだね」
 互いに意見が一致したところで歩きだす。特にどこへ行こうというわけでもないが、それでも並んでのんびりと歩くだけでも暇は潰れる気がした。多分暇をつぶすという口上を掲げている自分もどこかにはいるだろう。けれども今はその自分に気付かないふりをしておいた。

 どれだけ歩いただろうか。いや、実際のところそれほど歩いていないのかもしれない。けれども周囲の景色は、人ごみの多い町並から少し寂しげな空気の流れ込む住宅地となった。
 その途中で見つけた公園に入ると、僕らはベンチに腰かける。
「大分歩いた気がする」
「それでも、二十分くらい」
 携帯の時計をこちらに見せる。覗き込むカタチで見てみると、確かにそれほど経っていないようだった。
 徒歩の間の会話は本当に他愛無くてくだらなくて、お茶を飲みながらした会話からはとてもかけ離れたもので、ああ彼女も普通の会話だってできるのだと、失礼ながら思ってしまった。何も毎日のようにあんな考えでいられる人はいない筈だ。
「それにしても、今日は本当にありがとう」
「え?」
 椎森の突然の言葉に、僕は目を丸くする。
「偶然会っただけだし、そんなに知り合ってから大して経ってないのにこんな付き合ってくれて……」
「別に気にすることはないよ。今日のおかげで色々と椎森さんがどんな人なのか知れたからね」
「あと、一つだけ嘘をついてたことも……」
「え?」
 椎森はじっとその小さな目で僕を見つめる。突然見つめられたことで多少動揺を覚えるが、それでもけして目を逸らさないように、次の言葉をじっと待つ。
「私は、君のこと、前に見たことあったの」
 その言葉が与えたのは、果たして驚きだけであっただろうか。
 僕は口をじいと締められたジッパーのように閉じ、暫く彼女を見つめる。
 彼女もけして目を逸らさず、僕を見ている。
「……どこで?」
 やっと出てきたのは、その三文字だけだった。
「学校で」
「学校?」
「そう、学校。多分貴方と私は同じ大学だと思うの」
 意外と世間は狭いものだと、僕は腕を組むと静かに息を吐きだし、そして少しだけほほが緩んだことを自分で確認した。
「正直、驚いた」
「私も」
「でも、これで色々と話せる機会が増えたわ」
「そうだね、それはいいことだ」
 果たしてそれは良い事なのだろうか。僕はそんなことを自らに問いかけ、そしてそれでいいのだと深く考えるべきか、単純に考えるべきか、曖昧なそれに静かに蓋をした。
 椎森はただ静かに前を見続けている。そんな彼女の姿を見てから、その視線の先を追うのだが、そこには誰もいない。彼女は果たして何を見つめているのだろうか、そして、何故彼女はこうも瞳を潤ませるのだろうか。いや、潤ませているわけではないのだろうけれども、何故だか僕には彼女の時折見せる横顔に悲哀の色が見えるように思えるのだ。
――無言。
 言葉というものが、いや、発声の為の器官がないのではないかというくらい、僕らは無言だった。
 椎森は何を考えているのだろうかとふと思うが、それはすぐにあの人の姿に変わり、そしてそれを振り切るようにどうでもいい事をひたすらに頭に詰め込んでいく。
 日はこれから暮れに向かう頃だろう。周囲は大分橙と滲むような灰色によって浸食され始めていた。遊具で遊んでいた子供達にそれぞれの迎えが来て、彼らは親の許へと向かうと、手を握り笑みをこぼす。
 そんな何気ない風景を、僕はぼんやりと見つめていた。
「……そろそろ」
 不意に吐き出された言葉が、とても新鮮に感じた。椎森は時間を確認してから立ち上がる。
「帰ろうか」
「うん、遅くなると色々言われるから」
「そっか」
 そうして僕らは帰路へと向かう。よく考えてみれば、何の生産性もない出来事だったかもしれない。色々と考える事はあったが、それに答えが出ているかと問われれば多分僕は何も言えなくなるだろう。
 カン、カン、カンと音が鳴りだす。
 気づけば僕は、あの人と、あの人の言う「客」であろう男が歩いていた踏切へと辿りついていた。あまりここは通りたくなかったのだが、椎森のいる手前そんな不可解なことを言うのもあれだろう。
 あの時、僕はすれ違うことすら恐れて逃げ出した。自分が別れた事実と、自分が客の一人であるような感覚と、あの人には沢山の客がいたという事実を認めたくなくて。
 きっと僕は、どこかで信じていたかったのだ。
 あの人は僕一人を愛してくれていたと。
「どうしたの?」
 椎森の言葉で意識を取り戻す。気づけば電車は通り過ぎ、遮断機は空へと立ち、道を塞ぐものはすべてなくなっていた。
「うん、なんでもないよ」
 今はいない。
 そう自分に言い聞かせて、僕はおそるおそる足を踏切に踏み出す。

   ―――――

「それじゃあ、また」
 僕はぎこちなく手を振る。
「また、今度はちゃんと遊びましょう」
 椎森もまた、ぎこちなく手を振る。
 そのくらいの距離なのだ、僕らは。
 この先進むかもしれないし、それっきりになるかもしれない。そんな分からない位置なのだと思う。椎森という存在を一日で全て知ることなどできるわけでもない。
 椎森は暫く僕へ手を振ってから、駅の改札の先へと姿を消した。僕はそれを見送ってから踵を返し、自宅へと歩き出す。
 人ごみに隙間が生まれ、そこにさす暮れかけの陽が薄らと影を落とし、青ざめていく町は少し哀愁を漂わせている。
 一日中僕はあの人の存在から全く離れる事ができなかった。一体僕はどうすればきっぱりとこの感情を断ち切れるのだろうか。
 椎森沙紀のことを気にかけている自分がいることだって分かっているのに。
「……本当に僕は、情けないや」
 呟くように出てきた言葉は、青に染まって消えた。


   つづく。

       

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Neetsha