Neetel Inside 文芸新都
表紙

涙雨
◆第三話「せめて雨が降らないうちに」

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「おはよう」
 その言葉は、多分通常の場合ならば日常的な言葉として捉えられる筈だ。いや、本来挨拶の一つとしてしか機能しない筈だ。
「おはよう」
 けれども何故、僕らが使用するとこれだけ新鮮に感じられるのだろうか。
 僕はずり下がるリュックを再び肩にかけ直すと、目の前で微かに微笑む彼女の姿をぼんやりと見つめる。彼女、椎森はやはりいつも通りの姿である。
 時折彼女が見せる憂いを帯びた表情や、何かを探すような寂しげな視線が、僕を惑わせるのだ。
「なんだか不思議な感じ」
「何が?」
「階段を上がるみたいに近くなっていくから」
 椎森のその言葉を僕は心の中で反芻しながら、この言葉の持つ意味合いを暫く考え続ける。果たして彼女はその言葉を、意識的に言ったのだろうか。
「授業は?」
「午前中で終わりなの。あなたは?」
 僕もだよと答え、隣へと視線を向ける。
 ほんの少しだけ空いた距離が明確に、僕と椎森の関係を説明していた。少し頑張って手を伸ばさなければ届かない距離。二、三歩歩み寄らなければならない状態。
 多分これは無意識に作り出している距離なのだ。これ以上の空間に入り込めば、互いに何かを感じ取ってしまい、結果として今の均衡が崩れてしまう。そんな限界の距離感。
「昼なんだけど、一緒に食べない?」
 多分、出会ってから初めてではないだろうか。僕から声をかけるという行為は。
 椎森は多少色を滲ませていた顔をすっと白に戻すと、小さな微笑みを作り、そして頷くと手を振って校舎へと消えて行った。
 僕はそんな彼女の後姿を見送ってから、すぐ傍のベンチへと腰かけ、背中をぐらりと預けて宙を仰ぐ。
 実際のところ、今日は夕方まで授業が入っている。一日休むくらいたいしたことはないし、そこまで真面目に授業に出ている模範的な生徒でもないので休んだとしても誰も文句は言わないだろう。
 とんとんとしたテンポで進んでいく椎森との友好関係。果たしてその友好関係を、僕らの距離感をどこまで望んでいるのか。そこだけが何故だかすっぽりと抜け落ちているような気がしてならないのだ。僕は僕なりに彼女をどうしたいのか考えなければならない。そうでもしなければ何も分からないで終わってしまう気がするのだ。
 そして僕自身の中で生まれつつある感覚とも向き合わなければならないと思うのだ。あの人の事を考える自分と、椎森に興味を……いや、はっきりと言ってしまえば好意を持ちつつある自分。この二つの感覚をどうするべきなのかをはっきりとするべきなのだ。
 未練という言葉はどこまでも僕を縛り付け、そして時折進もうとする僕を蝕むだろう。僕は今きっと“鍵”を持たされた状態であるのに、けしてその鎖をはずそうとせずにぼんやりと眺めている状態なのだ。
「未練、か……」
 ゆるりと僕の真上を浮かぶ鈍い色をした雲を眺めてみる。あの雲は果たして何も考えずにただそこを通り過ぎているだけなのだろうかとくだらないことを考え、そして目をつぶってそんな馬鹿みたいな疑問を打ち消した。

   ―第三話―

 昼までの間、僕はただひたすらにイヤホンとウォークマンを片手にベンチで過ごした。暇つぶしにと適当な小説を数冊鞄に放り込んできたものの、活字を読んでいると逆に頭の中がぐちゃりぐちゃりとかき混ぜられていく気分になったので止めてしまった。
 ウォークマンからは適当な洋アーティストの演奏が流れ、なるべく激しい曲調のものを選んだことが功を奏したのか、眠りに陥るという可能性を綺麗に摘み取ってくれていた。
 一分、十分、一時間と時刻が進むにつれ、目の前の光景は色を変えて行く。授業を終えてやっと自由になれたと背を伸ばす男性、集団で談笑する女性達、ぼんやりと空を見上げながら校門へと向かう人、指と指を絡めるカタチで手を繋ぐ男女。それは全て一つの画で、いつのまにか僕はその画を眺めている存在となっていた。
 彼女は、椎森はこんな光景をいつもあの喫茶店で見て楽しんでいたのだろうか。こうやっていることで、自分の切り取れる裁量の画を手にして、そして様々なものに興味を持とうとしていたのだろうか。
 そんなことを考えると、何故だか僕はとても面白さを感じた。ほんの少しだけ椎森という存在を“そこ”に確認できた気がした。きっと気がしただけで、実際は何も彼女のことを分かってはいないのだろうけれど……。
「お待たせ、ずっとここにいたの?」
「いや、授業が少し早く終わったからここでのんびりしてたんだ」
 単純かつどうでもいいところで僕は嘘をついた。そして、じっと椎森を見つめる。彼女は少しだけ疑問を抱く表情を浮かべ、そして僕から目を逸らすと肩にかかる鞄を一度背負い直した。
 君を見ていると、とても面白い。
 そう言おうとしたのだが、何故だかその言葉は喉元で止まり、そしてごくりとそれは奈落へと消えて行った。椎森の視線を想像しているだけで、不思議と僕にはない思考を感じることができるような気がしたのだ。
「お昼なんだけれど、食堂はやめてもらっていい?」
「どうして?」
「あの人で埋め尽くされた空間が、苦手なのよ。食事くらい気を抜ける場所にしたいの」
 そう。僕は二言を呟き、そしてベンチから腰を上げると一度だけ背伸びをした。
「じゃあどこか外で食べようか」
 多分チャンスだと、幸運だと思っている僕がいたことはこの際否定しないでおこうと思う。
「この間と同じ店でいい?」
「もちろん」
 僕らは二人並ぶと、やはり一定の空間を空けて歩きだした。
「でも、その前に少し付き合ってもらいたいところがあるの」
 彼女はそう言うと、少しだけ見上げるカタチで僕を見た。その瞳は、とても冷静に、僕を映している。僕は何度か瞬きをする。その瞳に僕を映したまま、彼女は笑う。
「もし迷惑じゃなければ、というとこだけど」
 断る理由はなかったし、僕は一度だけ頷いた。


 歩いている間の会話はほぼ皆無だった。流石に何度か出会い、若干顔見知りとなり始めると意外と話題を提供しなくなる。何か会話しなくてはという思いが消えたのは良かったかもしれない。
 あの感覚はとてもじゃないが、気持ちに余裕が生まれない。いや、今現在だって余裕があるかと言われれば大してないわけではあるが。
「今日は、時間大丈夫?」
 僕が問いかけると彼女は視線を逸らした。
「うん、あまり遅くまではいられないけど」
 そっか、とぶっきらぼうな返事を返し、僕は隣の小柄な彼女を眺める。
 こんなに小さくて華奢な女性であるのに凛としているように見える。と同時に、どこか寂しさを含んでいるようにも見えた。
 多分それは僕の完全な考えで、実際のところ僕以外の人物の前では大分雰囲気が違うのかもしれない。なんにせよ、肩の力が入りきっているような重苦しい空気を纏っている彼女のその重石を外すことはできないのだろうかと時折思うのだ。
 何故、彼女はこんなに余裕がなさそうに見えるのだろうか、と。
 そんなことを考えているうちに、彼女の目的地に到着していた。
「本屋?」
「うん、欲しい本があるの」
「こんなところに本屋があったんだ」
 いつも立ち寄る本屋がすぐ傍にあるだけに、ここには気づきさえしなかった。大きくて目立つものがあると、こんなにも足元は見えなくなるものなのか、と僕は思わずはぁ、と感嘆の息を吐きだした。
「小さいお店だけど、静かで落ち着いてるし、品揃えも私好みだから」
 彼女はそう言うと微笑みながら本屋を眺める。その表情は多分いつもなら色がないように見えていた気がするが、今は確かに彼女が笑っていると感じられた。
 椎森は店内へと歩いていく。僕もそれに着いていく。
 ずらりと並ぶ本の壁に少し重さを感じた。だが彼女は軽い足取りで文庫本の並ぶ棚へとふらりと歩いていく。
「椎森さんは読書が好きなの?」
 今日で何度目の問いかけだろうか、そんなことを頭の隅で思いつつも、僕は彼女にそう問いかける。
「活字なら何でも好きだけど、小説は結構読む方だと思う。浅野君は?」
 僕は、どうだろうか。
「小説を読むのは好きだよ」
「そうなんだ、じゃあ今度、何かお勧めを貸してくれる?」
 そう言って椎森は振り返り、僕を見た。僕はもちろん、と笑みを返す。多分彼女が読んでいる数量に比べれば僕の読書なんてちっぽけなものだろう。僕が薦めたものを果たして彼女が読んでいない確率はどのくらいなのだろうか。いや、考えないでおこう。
 暫くの間、僕らは小説の棚をぼんやりと眺め、そして時折会話を交えた。彼女とは意外と趣味の範囲が似ているようで、僕が欲しい返答がさらりと返ってくる事が多いため、テンポの良い会話となる。
「あ……、あった」
 椎森はそう言うと棚から一冊の本を抜きだした。それが今日彼女がここへ来た目的なのだろう。僕はその本を横から覗き込む。
 そして、少しだけ胸が締め付けられる感覚を覚えた。
「つきあってくれてありがとう。浅野君も何か探す?」
「いや、僕は大丈夫だよ」
 そう言って笑みを浮かべ、そして本棚を眺めるようにして、彼女から視線を逸らした。
 彼女が手に取った小説が、また僕をじっと見つめているように、いや、僕を縛り付けるようにしてこちらを見ていたように感じたからだ。
 あの人の好きだった小説、谷崎潤一郎の「細雪」が……。

   ―――――

 この店のランチセットは値段の割に量もあってよかった。満足感を抱きながら珈琲に口をつけて一息つき、背もたれに背を預ける。
「お腹空いていたの?」
「意外とね」
 サンドイッチの最後の一切れを口に放り込むと彼女はゆっくりと咀嚼し、そして飲みこみ、紅茶をくいと飲む。
 店内は僕と彼女のみで、まるで貸切みたいだった。一人でもお客がいたなら椎森の考えている事を参考に、僕なりに観察をしてみようと思っていただけに少し残念だった。
「それにしても今日は人がいない」
「いないようならいないようで、ゆったりとできるからいいわ」
「そっか」
「こうやって静かに紅茶を飲むのも楽しい」
 椎森は紅茶を飲み干すとカップを置いてにこりと笑った。微笑みを返しながら僕もまた珈琲を飲む。
「さっきの本」
「うん?」
「『細雪』って面白いのかな。読んだことがないから」
 椎森は紅茶を一口だけ飲むと、本を取り出し、それを愛おしげに見つめる。
「四回読んだけど、面白いと思う」
「そんなに?」
「好きな本は繰り返し読むの。この間読み返そうと思ったら、どこかに置き忘れてきたみたいで、見当たらなくて」
「そんなに面白い?」
「どうかな。昭和時代の、裕福な家の四姉妹の話なの。淡々と日々の生活がつづられていって、ところどころで事件が起きて……もしかしたら、人によっては全然面白くない本なのかもしれない。でも、私は好き」
「どういうところが好きなんだろう」
「なんだろう。すごくなめらかにお話は進んでいくし、激しい調子はないんだけど、ふとした時に、人の心の底のどうしようもない部分が現われてくる感じがする。日常から染み出してくる、普段は隠されているもの……というか。そういうのが、好きなのかも」
「この間も、誰かの普段は見えない部分を見るのが好き、って言ってたね」
「そうね。確かに言ったわ」
 椎森は少しだけ目を細めた。ああ、何度も触れるべきではないかもしれないのかな、と自覚はしつつも、気づけば次の言葉を僕は吐きだしていた。
「それにしても、人に興味を持つとして、それに関わろうとはしないの?」
 僕は気になった言葉を形にしてみた。彼女は目を少し細める。
「……浅野君から見て、私は、人と関わってないように見える?」
 椎森の言葉に僕は思わずしまったと感じ、そして両手と首を振りながら否定の意を示す。
「ああ、ごめん。そういうわけじゃないんだけど」
 僕は少しだけ考えた後、遠慮がちに呟く。
「でもなんとなく、一歩引いているような感じに見えていたから」


 扉の開く音がした。誰が入ってきたのだろうかと扉へと視線を移す。
 そして、暫くその客人から僕は視線を離せなくなってしまった。
「……あら、久しぶり」
 彼女はそうやっていつもの微笑みを浮かべると僕に向けて手を振る、そしてゆっくりとこちらへと歩いてくる。
 多分彼女の中にあの時の事に対する罪悪感はない。罪悪感を感じる筈がないのだ。所詮僕は“客”の一人であったのだから。
 そしてなによりも悔しいのが、再び彼女と合いまみえる事ができたこの状況をどこかで喜んでいる自分がいることだった。
「いつぶりかしら。まさか偶然出会うとは思わなかったわ」
 そういうと、彼女、川原理衣子は上品な笑みと共に、僕の隣に座った。
 以前と同じく、通り雨のように、彼女は僕の前に現れたのだ。

       

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Neetsha