Neetel Inside 文芸新都
表紙

涙雨
◇03:雨の音、嘘の音②

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 男はしばらくの間、何かを考え込むように黙っていた。
 汗をかいたペリエのグラスから滴が垂れ、グレーのパンツの膝に点々と黒い染みを作っていく。冷たくはないのだろうか、とぼんやり思いながら、私は相手の言葉の続きを待っていた。
 ホテルの部屋はとても静かだ。高層階だから地上の騒音も届かない。防音設備も行き届いている。そこに漂うのは人工的な沈黙だった。押し殺したような、不自然なくらいに少しの破綻もないのっぺりとした沈黙。それを乱さないように私は息をひそめる。男はほとんどなんの音も立てなかったが、それが逆に男の存在に重みをもたらしていた。不思議なことに。
 そして何の前置きもなく、おもむろに男が口を開いた。
「リコはいくつ? 大学生?」
「……二十歳。大学二年生」
「若いな。でも確かに、ちょうどそのくらいに見える。どこの大学に通ってる?」
 私は首を振る。それは答えられない、という返事の代わりに。
「じゃあ質問を変えよう。小さな頃から成績は良い方だった?」
 頷く。
「どのくらい?」
「大して努力をしなくても優等生って呼ばれるくらいには」
「勉強は好きだった?」
「あまり。知識を吸収したりそれを応用したりするのは好きだったけど、いい成績をとったり、いい学校に入ったりすることには興味を持てなかった」
「いいね。とても簡潔で明確な答えだ」
 男は目の端を歪めて笑った。かなり奇妙な笑い方に見えたけれど、男が少しでも表情を崩したのは初めてだった。
「君は随分育ちが良さそうに見える」
「服装のせいかも」
 私はいつも通り、すらりとしたワンピースを着ている。それから黒いエナメルの小さな靴、なめらかなシルクのニットカーディガン。ミフジさんがそれを用意してくれた。
「家は裕福な方だと思う?」
「中の上、あるいは上の下。お金に困った覚えはないから、裕福なんだと思う」
「両親のことは好き?」
 私は思わず黙ってしまう。
 言葉にならない感情の塊が胸の奥底からどろどろと湧き上がり、思考を圧倒する。息苦しさをしばらくやり過ごして、ようやくほっと息をつき、首を振った。
「答えられない」
「それでいい。答えなくても大丈夫だ」
 男はゆっくりと言った。
「僕も小さな頃から金銭に困ったことはなかった。そういう意味では普通よりずっと恵まれていたと思う。でも今の僕は、両親から何も受け取っていない。経済的な面だけではなく、本当に、何一つ。彼らは既に他人なんだ。そのことの意味が分かる?」
 私は頷く。その気持ちはよくわかる。彼らは血の繋がった他人に過ぎない。
「友達は多いほうだった?」
「全然居なかった、とほとんど居なかった、の中間くらい」
「特別な異性はいる?」
 そう尋ねる時、男の目が神経質に細められた。それが彼にとって重要な質問なのだとわかる。
「いないわ」
 何の迷いもなくそう答えたはずだった。
 けれど彼は更に目を閉じて、黙り込む。
「いるはずだ」、しばらくして彼は小さく呟いた。
「本当にいないの」
 私は少し動揺して答える。
 でもその瞬間、一人の男の子の姿が脳裏に閃いてしまう。その男の子が特別な異性というわけではないはずだ、と私は意識に言い聞かせる。彼は……そう、「客」の一人に過ぎなかったはずだ。
「うん、嘘をついているわけでもないみたいだ」
 男が目を開け、緊張を緩ませて言った。
「嘘をついている時の『音』じゃない」
「音?」
「人が嘘をつくときには、独特の音が空気に混じるんだ。ものすごく細く、低く、……なんというか、乱れた音。そして僕にはそれが聴き取れる。信じる?」
「そういうことがあってもおかしくないと思う」
「そうか」
 男はほっとしたように言った。私の言葉が本心からのものだとわかったのだろう。
「でも、嘘をつくのが『聴こえる』のってとても大変そう」
 私は何気なくそう言った。けれどそれを聞いた男は表情を固めてこちらを見た。予想外のものを見つけて緊張した野生の動物みたいに。その変化に、私は思わず息を呑む。
「どうしてそう思うの?」
 男が無表情のまま言った。
「……だって、そんな音、世界中に満ちているでしょう」
 この世界はいつだって、嘘だけが喧しく自分を主張して、嘘じゃないものはひっそりと沈黙している。
「それに、相手が嘘をついてるなんて、わからない方がいい時もあると思うの。それが大切な相手であればなおさら、知りたくないこともあるし、信じていたい嘘もある。だから」
 言い終えると、私の声は分厚い絨毯に吸い込まれるように消えて、部屋の中がしんとする。
「大切な人に嘘をつかれた経験がある」
 随分間があって、男が呟いた。ひどく掠れた声だった。
 不自然な沈黙のお陰で、その抑揚のない言葉が私に対する質問なのだと気がつく。
「……あるわ」
「その人は、君にとってどのくらい大切だった?」
「世界の全部だった。本当に、本当の意味で」
 そう呟くだけで、声が震えた。
「その言葉が耳に届いた瞬間から、嘘だってことは分かってた。でも信じたかった。信じていたかった。だから、決めたの。私だけの世界でそれを本当にするって」
「その人は『特別な異性』?」
「ううん」
 目の奥に、強烈な涙の衝動が沸き起こる。
「彼女のことは、どんな男の子とも比べられないもの」
 誤魔化しきれない涙の気配を隠そうと目を閉じる。すると瞬時に、まぶたの裏に「彼女」の姿が閃いた。
 思わず息を止める。
 忘れられない。どれだけたくさんの「客」と接しても、彼らの心の隙間に入り込んでも。私では「彼女」の隙間を埋めることが出来なかったという苦い記憶の感触が、心の底に重く澱んでいる。いつまでも。
「……なるほど」
 男が乾いた声で呟いた。私は目を開けて、現実に意識の焦点を引き戻す。なんとか涙は収まってくれた。
「確かに『特別な異性』ではないわけだ。でも君は、いわゆるレズビアンとも違うような気がする」
「たぶん。彼女以外の女の子に特別な気持ちを抱いたことはないから。きっと彼女だけが、本当に特別なの。性別とは関係なく」
「でもおそらく、『彼女』が男性だったなら君はそこまで惹かれなかった」
「……そうかもしれない」
「僕もそうだ。愛する相手が女性だったら、と思ったことはない。興味を引かれた相手がたまたま男性だった、とも思わない。彼が男性であることは、彼のアイデンティティと強く結びついている。それは絶対に切り離せないことなんだ」
 私は思わず男を見た。
 男は相変わらず表情を変えない。
「つまり、僕はゲイなんだ。軽蔑する?」
 私は小さく首を振った。
「それを言うなら、私は娼婦だもの」
「そうか」
 男はふっと頬を緩ませた。それはとても微かな変化だったけれど、人間らしく、自然な笑みに見えた。彼がそんな風に笑えるのだということが少し意外で、そして意外であることを切なく思った。
 おそらく普段は奥深くに押し込められて、光を当てられることもなく、完全に忘れられ錆付いてしまったそのささやかな機能。そうなってしまうまでに彼に起きたたくさんの望ましくない出来事。彼が聴き分けてきた、たくさんの嘘。
 それが私たちの心に穴を開ける。取り返しのつかないかたちで、二度と埋められない隙間を作り出す。僅かな穴だ。誰からも見過ごされてしまうくらい。
 けれどそれは確かに私たちの内側から何かを失わせていく。
「ねぇ、もしよければ、こっちに来てくれない?」
 私は小さな声で言った。
 男は黙ったまま少しだけ目を見開く。
「もちろん嫌なら構わないんだけど」
 彼はしばらく考えるように沈黙していた。しかしやがて立ち上がり、グラスを置いてベッドにやってきた。そして困った子どものような、何かを言い出しかねているような苦々しげな表情で私の前に立っていた。
 その所在無げな様子に、私は思わず微笑んでしまう。
「隣、座って」
 男は言われたとおり大人しく私の隣に座る。ベッドが軽く軋み、やわらかなマットレスが沈む。
「安心して。私からは何もしないから」
 私はその言葉が嘘ではないことを示すように、ひざの上で両手のひらを広げてみせる。
「でも、もしも嫌じゃなければ、私のことを抱きしめてほしいの。なんというか、女の子を抱きしめるのとは違って……人間として」
「人間として」と彼が呟くように繰り返す。
 私は頷く。
 彼は随分長い間動かなかった。迷い、戸惑い、怯えていた。でも最後には、そっと手を伸ばしぎこちなく私の肩をつかみ、抱き寄せた。
 当たり前のことなのだけれど、男の身体は温かかった。生きている人間に流れる血潮の温度があった。そのことに私は安心した。目を閉じて相手の胸に身体を預ける。じっとしている内に、どこかよそよそしく決まりの悪さが含まれていたその抱擁も少しずつ緊張が解け、ごく自然な息遣いを獲得していった。
「不思議な感覚だ」
 男が言った。
「不快?」
「いや、それはないよ。ただ、不慣れだから」
「誰かを抱きしめることが?」
「女の人を抱くことが」男はかすれた声で呟く。「いつもと違う柔らかさだから」
「人間には誰でも、こういうものが必要だと思うの。それが性的な意味を持っていなくても」
 私は彼の腕の中で囁く。彼がつばを飲み下す音が聞こえた。
「そんな風に考えたことはなかった」
 彼は静かに言う。
「女の人に対して、そんな風に考えたことはなかったんだ」
「昔からずっとそうだったの?」
「ずっとそうだった。女性はいつでも異物だった。自分とは違う身体と、違う感覚を持ったわけのわからない生き物。それはとても不自然に感じられた。正直、グロテスクなものにさえ思える。女性と仲良くなったこともあったけれど、近づけば近づくほど、その違和感はどんどん膨れ上がる。でもそれは誰にも理解されない。周りからすれば、異物なのは僕の方なんだ。それを理解できない僕がおかしいんだ」
 それまでずっと冷静だった男の口調が、走りがちに乱れる。
「女性と初めてセックスしようとしたとき、僕は嘔吐してしまったんだ。どうしても我慢できなかった。もちろん相手を酷く傷つけた。多分、取り返しのつかないくらいに。最低なやり取りがあって、最低の結末を迎えた。期待に応えたいとは思っていたんだ。でも出来なかった」
 私の肩を抱く男の手は小さく震えていた。
「あなたの内側の何かが、それを拒絶した」
 私は囁く。男は短く頷いた。
「初めて男性と寝た時に、はっきり理解できた。自分に必要だったのはこういうものだったんだと。何もかも違和感がなかった。世間的にはマイノリティだというのはわかってる。でも僕の一番奥深くでは、それはとても自然なかたちに思えた」
「そこで初めてあなたの魂が受け取られたのね」
「そうだ」
 男は震えた息を短く吐き出す。
「ずっとさまよっていたものが、初めて居場所を見つけたんだ」
 泣き出しそうなくらいに切迫した声を、それでも抑えて、彼は言った。
 私は腕の中で頷く。そしてその胸元に頬を寄せた。薄く平らな胸の中央は僅かにくぼんでいた。
「胸がくぼんでる」
「生まれつきなんだ。僕にはそれが一種の啓示に思える」
「啓示?」
「呪いだとか、しるしだとか、そういうもの。削り取られ、決して塞ぐことのできないもの。それが身体に刻み付けられているように感じるんだ」
「ふうん。でも、私はこのくぼみ、好き」
 私は手のひらでそのくぼみを探る。
「私がおさまるべき空白みたいに思えるもの」
 彼の中にある、私のかたちをした空白。そこに身を寄せて、その空白の一部になってしまおうとする。静かに意識が溶けていく。呼吸をすることさえ放棄したくなるような、甘い感覚。
「リコ。ごく普通に生まれたかったって思うことはある?」
 男が質問する。
「ごく普通?」
「この世の中にいるたくさんの人たちのように、ごく一般的なかたちに」
「娼婦でも、ゲイでもなく」
「そう」
 私は少しの間、それについて考えてみる。
「わからない。そんな風になれたらよかったとも思う。でも、私が私でなければ、彼女には出会えなかったかもしれない。そんなの、想像できない」
「そうだね」男が穏やかな声で答える。
「わかるよ」
「本当に?」
「わかると思う。それはもう切り離せないことで、避けようのないことなんだ」
「そう」
 目を背けることも、逃げ出すことも出来ない。どこに行こうと、視線の先にいつもそれはある。いつでも影のように付き添っている。永遠のループ。 
 そこで私たちはお互いに言葉を放棄する。
 やがて、彼はごく微かな低い音で鼻歌を歌いだす。とても静かに、穏やかに。それは部屋にたちこめた重い沈黙をやわらかく乱す。くぼんた胸に振動が伝わってくる。私はそれに耳を澄ませながら目を閉じた。
――「雨の歌」だ。
「嘘のない世界はない」
 私は小さく呟いた。
「雨の音だけを聴いていられればいいのに」
 彼は微かに頷いた。
 私たちはそうやって随分長い間、薄暗い部屋の中でお互いに寄り添いあっていた。冷たい雨の降る夜に、幼い兄と妹が、何か恐ろしい記憶をわかちあうことで癒そうとして、そっと頬を寄せ合っているみたいに。



 帰りの地下鉄で、私はいつも混乱してしまう。現実の空気が余りにも濃く、人が余りにもたくさん溢れているから。喧騒が私を圧倒する。雨音のような優しさと謙虚さを持たない、ほとんど無目的で無神経なざわめき。濃厚で猥雑な人間特有の気配。それは膜一枚向こう側にある別世界のように思えた。自分の属すべき世界とはまるで異質の場所。
 それでも私には、自分のいる「膜のこちら側」こそが夢の世界に過ぎないのだと、ちゃんとわかっていた。ごく一般的な人々の暮らす向こう側の現実、ほんの一瞬しか成り立たない儚い成り立ちをしたこちら側の世界。仮初めに受け渡しされる魂。
 その事実に、あまりの孤独に、私は傷ついて目を閉じる。
 ふと、男が口にした「特別な異性」という言葉を思い出した。私はなぜあの時彼のことを思い浮かべたりしたのだろう?
「浅野君」
 私は小さく呟いてみる。
「もしあなたが特別だというなら、私の姿を見つけてみせて」
 夢うつつで囁いたその声は、あっという間に人々の喧騒に紛れ、かき消えた。


       

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Neetsha